2018年05月25日

ビアヘロ048 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

ビアヘロ048 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

20171225

太宰府地名研究会 古川 清久


 さて、前blogAは受け入れられない方は多いでしょうが、ここからお話しする内容は九州で起こった話であって多少は信じて頂けるかも知れません。

 そもそも橘一族とは県犬養三千代(=アガタのイヌカイのミチヨ) 天智天皇4年(665年)の女官三千代以降のものとされていますが、ここで取り扱う意味としては、県犬養三千代以前、天御中主以降の大幡主系とも熊野系とも忌部とも呼ばれる人々の総称として使う場合もありますので、その点、多少は逸脱して使うことをお許し願いたいと思います。

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いずれにせよ石清水八幡とか賀茂神社の氏子の方々とか、橘姓、立花姓、白土姓、加計姓、宮原姓、別役姓…を始め、橘の家紋を使う家系の方々には興味深い話にはなるでしょう。

 勿論、現在でも橘性の方はおられますが、藤原氏と何度も激突した橘一族の本流は徐々に名を変え、何とか生き延びようとした様に感じていました。

ただ、身贔屓と思われそうで気が引けるのですが、特に重要な橘一族の正統の直系とは「奈良麻呂の変」に於いて藤原氏と激突した橘氏の本流(全体の半分程度の印象ですが)であり、叛乱、クーデター(あくまで藤原による論理)で放逐された橘一族こそ本流に思えるのです。

その本流中の本流の一派が鎌倉期に佐賀県の武雄市橘町(明治の橘村の後継)に居を移した(実は故地に戻ってきた)の橘 公業(タチバナノキンナリ)の流れであり、それ故に今も杵島山の西側(九州王朝論者の間では良く知られた有名なおつぼやま神籠石の正面に奈良麻呂の変の立太子道祖王の墓が置かれているのです)。

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杵島山西麓に置かれた伝道祖王墓


詳しくは「ひぼろぎ逍遥」掲載の「杵島」以下のバック・ナンバーをお読み下さい。

和泉式部が何故辺鄙な肥前の国の杵島山の東西の麓から中央の橘 道貞(最初の夫)に嫁げたか、橘の諸兄を祀る潮見神社が存在するのか、何故、杵島山東麓に百済の王族が亡命してきたとの伝承が残り、和泉式部の生誕地伝承があるのかもお分かりになると思います。


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恐らく堤雄神は底筒男命(底筒男命=開化天皇=高良玉垂命)、丹生神は豊玉姫(ヤタガラスの娘=大幡主の孫)、稲佐神が不明ですが本来は大幡主ではないかと考えます。それは出雲の因佐神社が地元では、速玉(はやたま)さんと呼ばれている事でも分かります。ただし国譲りの結果、鹿島大神=武甕槌が覆い被さっているのかも知れません。「稲」は「因」の置換えで忌部、市杵島姫の本来「瀛」ツ島姫(イン)なのです。速玉さんは熊野速玉大社の大幡主(博多の櫛田神社の主神)ですね。

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橘奈良麻呂の乱

事件前史[編集]橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749(天平21/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

755(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。同年52日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された757(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。

陰謀の計画と発覚[編集]仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月287月22)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月27月26)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月37月27)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王安宿王黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

ウィキペディア(20171225 0846による

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佐賀県の通称杵島山


 村興し町興し宜しく、和泉(好字令以前の人ですから本来は泉姓なのですが…)式部と言い道祖王と言い全国に幾つかの伝承地がある事は十分に承知しています。このためその話に刃向うつもりはありません。

 と言うよりも、それらの伝承地は当方のフィールド・ワークでもある程度は確認してはいるのです。

しかし、この肥前の火ノ君の領域の橘氏に関わる伝承には、八代の妙見宮と一衣帯水の文化圏と人の繋がりを感じるとともに、この杵島山周辺から有明海最奥部一帯に広がる濃厚な妙見(北辰)信仰、大幡主の子である龍王(=豊玉彦=ヤタガラス)龍神信仰を見る時、不知火海〜有明海を大幡主系の支配領域と認識する事は十分に可能なのではないかと思うのです。

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杵島山は古代には島だったでしょう。その南の端、八代の妙見に向かった岬状地は今でも龍王崎と呼ばれており、その先端には海童神社が鎮座しています(龍宮海童ですね)。

そして、この境内には対馬の墓制を思わせる「龍王崎古墳群」(群集墓)が存在しているのです。

横穴式石室と思われるものもありますが、小さな石を使った小さな石室だけの物もあり、積み石型の墳墓はやはり大陸から朝鮮半島を経由して国内に広がっていますが、後には広く全国に広がり東西日本でも多くの石積みの古墳が見られます。この群集墓は古墳に発展する古墳時代の方墳や円墳、前方後円墳などの原型のように見えます。

この手の土の代わりに石を多用し岬に葬る古墳は対馬でも幾つか見たことがあります。

この点、大幡主=塩土老翁の子であるヤタガラスこそ対馬の海神神社or和多都美神社の主神=龍王と考える者としては、長崎県でも橘姓が集中する対馬には興味がひかれるのです。

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このヤタガラス=龍王(神仏混交風には八大龍王)説については、イヅノメ神=豊玉姫(通説とは異なる鴨玉依姫のこと)の解析が役に立つと思います。ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を参考にして下さい。

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最後に、佐賀県南部の海岸線(干拓があまりにも延びていますが、古代の海岸線周辺も含めて)には多くの海神神社、海童神社、龍王神社があります。

普通の道路マップでも確認できますので、改めて「龍王」とか「八大龍王」とか「八龍神社」が何であるかをお考え頂きたいと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:37| Comment(0) | 日記

2018年05月27日

459 二田物部のルーツは対馬の仁位だったのではないか?

459 二田物部のルーツは対馬の仁位だったのではないか?

20170729

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、物部氏の中核部隊と言われる二田物部(「先代旧事本紀」天神本紀筆頭)を追い求めて来ました。


天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。 芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。 横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。 浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。 足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。 田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。 久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。 大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。 羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。 布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)

讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

現代語訳 『先代旧事本紀』による


この二田物部については、その表記について二田、新多、新田、仁田、仁多、仁比田…と多くのバリエーションがあることはこれまで何度も申し上げて来ました。

南から熊本市植木町の田底(清正)二田(二田神社あり)、福岡県八女市星野村仁田原、仁田坂、久留米市田主丸町二田(月読神社あり)、福岡県鞍手郡小竹町新多(陸上自衛隊飯塚駐屯地あり)、宮崎県児湯郡新富町大字新田(航空自衛隊新田原ニュウタバル基地あり)、島根県仁多郡奥出雲町(物部の中心地の上に横田物部の横田町あり)、新潟県柏崎市西山町二田(二田物部神社あり)、秋田県潟上市天王字上江川二田(二田神社あり)、そして、重要な展開地と考えている北関東があるのです。

新潟県から北関東に入るには、主に二つのルートがあります。

まず、新潟県の「新潟」という地名それ自体も「新」を「ニュウ」「ネオ」…と読みたくなる気質を反映していると思うのですが、@その新潟の上越市から千曲川沿いに信越自動車道で東に移動すると、長野、小諸、佐久から群馬県の下仁田に入ります。

もう一つがA式内社二田物部神社がある新潟県柏崎市西山町二田辺りから長岡、小千谷、湯沢、水上、沼田、前橋、高橋へと入ると太田市と新田郡(藪塚本町、新田町、尾島町、)に入ります。

筑豊から石見、出雲を経由し越の国に展開した物部氏は、さらに日本海側に秋田に向かった一派もあったようですが、かなりの勢力が脊梁山脈を越え、群馬、栃木に進出した事はまず間違いないように思います。ここで、基礎的な作業として群馬、栃木の「二田」類似地名の拾い出し作業を行う事にします。


群馬県

無題.png@  群馬県利根郡みなかみ町小仁田

A  新田郡(にったぐん)は、群馬県(上野国)にあった郡。

その一例が新田町です

B  群馬県旧新田町 群馬県南東部新田郡にあった町。新田町は2005327日に閉町し、2005328日に太田市、尾島町、藪塚本町との合併で太田市となった。太田市内の旧新田町地域では、旧地名の前に「新田」が付いている。

C  全体としてみれば、現太田市の太田町が新田郡の中心地だったようです。

遡って、冒頭にあげた石見〜出雲の太田と仁多郡の対応を見る時、この上州群馬の太田市と新田郡との対応は、それだけで同族の移動を感じさせるものです。


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現在、旧新田町は太田市に編入されています 


なお、木枯らし紋次郎上州新田郡は実在したのですが「三日月村」は架空です


栃木県

@  栃木県上都賀郡仁田元村                                 

仁田元村(にたもとむら)は、栃木県上都賀郡にあった村。足尾鉱毒事件によって松木村などとともに廃村になった。正式な廃村時期は不明。現在は「日光市足尾町仁田元渓谷」となっている。アクセスは徒歩のみ。

A  宇都宮市立新田小学校 栃木県宇都宮市針ケ谷1丁目1821

B  さくら市立熟田(ニイタ)小学校 栃木県さくら市狹間田1702 

埼玉県

@  仁田山峠 埼玉県飯能市原市場82


足利氏と新田氏

南北朝の初期、互いに争った足利氏と新田氏は先祖を同じにする同族同士でした。

源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重(11141202)は足利庄を出て上野国新田庄(群馬県新田郡)で新田氏を称し、二男義康(11271157)が足利氏を継いだのです。

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ティータイムは歴史話で(資料徹底検証にもとづかない無責任歴史講座)による

関東武士団の新田氏、足利氏が新田地名と関係があるとすると、この二田、仁多、仁井田、新田に蟠踞した関東武士が何故、武士(モノノフ)=物部(モノノベ)と呼ばれたかも見えてきたのではないでしょうか。

 つまり、恐らく筑豊から避退した物部氏が新潟に移動し、さらに山を越え北関東に展開し、関東武士団を形成した可能性を否定できないのではないでしょうか?

 藤原氏はその事を十分に知っていたからこそ、「物部氏」の後裔の武士団を「モノノフ」と呼んだものと思われるのです。家康も新田義貞の後裔ともされていますね。


徳川発祥の地・群馬県太田市の『新田荘』を巡る

新田荘遺跡

「新田荘(にったのしょう)」は、平安時代末期の12世紀中頃に成立した新田氏の荘園です。
源義国の子新田義重は、旧新田郡南西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下におき、その後さらに37郷を開発し、旧新田郡のほぼ全域と旧太田市の南西部を荘園化したのです。

鎌倉討幕で有名な新田義貞は、義重から8代目に当たります。
現在、国指定史跡となっているのは、この「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成されています。
 今回は、その内の「徳川発祥の地」を巡っています。

その系譜の概略です。

新田義重から始まった新田氏の一族は、新田荘の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗り、子を山名(高崎市)、里見(高崎市)にも配して勢力を広げています。なお、義重の子で長楽寺を開いた徳川(得川)義季(世良田義季)は、後に、江戸幕府を開いた家康が、その子孫であるとして徳川氏を名乗ったため、始祖として崇められたのです。

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さて、ここからが今回の話です。

百嶋神社考古学によってこのニギハヤヒに象徴される新多(二田)物部の正体が山幸彦=猿田彦であると知っているものとして、一体誰の子なのかをずっと気にしていました。それについてのある程度の目鼻を着け付けたのが ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社でした。

この小稿で“「釣針を失った山幸彦に“龍王に逢いに行くように」と勧め、果たして龍王の娘である豊玉姫と結ばれる事になった“と言うのが神話でしたが、このアドバイスをした塩土(筒)老翁こそ博多の櫛田神社の大幡主であり、その子が豊玉彦だったとすれば話が非常に良く繋がるのです。

“お母さんがだれであるのか?山幸彦は誰であるか、ご素性は一切分かりません。“と言われたのは、故)百嶋由一郎氏でした。ただ、この話には含みがあり、分かっていて話されていなかっただけである事がだんだんと分かってきました。切っ掛けは、百嶋神代系譜「阿蘇ご一家」の山幸彦の部分へのメモ書きでした。ただ、百嶋神社考古学の研究者の内部でもこの部分は見解の差があり私説に留まっています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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山幸彦について、贈)安寧天皇(玉手看)の子と書かれているのです。


安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5 - 安寧天皇38126日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33715 - 安寧天皇38126日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

ウィキペディア(20160723 13:30による


 確かにご存じだった訳です。

 では、贈)安寧天皇(玉手看)の子とされる山幸彦=猿田彦のお父さんとは誰の事なのでしょうか?

 そうです、玉手看とは竜宮城で玉手箱を見た人物である浦島太郎の事なのです。

 しかるに、この野島神社の由緒には冒頭に浦島太郎を祀る神社とし、実質二神しかない祭神の筆頭に塩筒大神を掲げ、もう御一方として猿田彦大神=白髪大明神を掲げておられるのです。

 猿田彦が浦島太郎とは思えないため、塩筒大神(塩土老翁)が浦嶋太郎に当たるはずなのです。

 詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社 をお読み頂ければ分かって来るのですが、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒが同一神であり、どうやら大幡主の子であったとすると、豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である豊秋ツ姫(高木大神の娘=豊の国東の安岐で産まれたのでは…)の間に産まれた豊玉姫が祀られる対馬の和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位)こそ、龍王(実はヤタガラスこと豊玉彦)と豊玉姫(タゴリミホ)が居た場所(龍宮)であり、そこにやって来た後のニギハヤヒこと山幸彦(実は大幡主=塩土老翁=浦島太郎の子)が豊玉姫と恋仲になったのです。


山幸彦は塩土老翁が言ったとおり井戸の脇の桂の木に登ります。すると海神の娘豊玉毘賣の従者が水を汲みにやってきます。井戸にかがみ込んで水を汲もうとしたその瞬間,水面に影がよぎります。はっと思って振り返り仰ぎ見るとそこには「麗しき壮夫(おとこ)ありき」…

…豊玉姫はここで初めて外に出ます。山幸彦と出会った豊玉姫は「すなはち見惑でて、目合して」父の海神に「吾が門に麗しき人あり」と報告するのです。


 関心を持っているのは、その豊玉姫が居たと思われる和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位55)の鎮座地が「仁位」であることです。

 何故、ニギハヤヒと呼ばれたかも含め、彼等ニギハヤヒ、新多物部が「仁井田」(ニイタ)とか「新田」(ニッタ)などと呼ばれている起源がこの対馬の豊玉町の「仁位」にあるのではないかと考えられるのです。


和多都美神社


和多都美神社(わたづみじんじゃ)は、長崎県対馬市にある神社。式内社論社、旧社格は村社


主祭神彦

火々出見尊 豊玉姫命


神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、この和多都美神社が鎮まる地を「夫姫(おとひめ)」と名付けたという。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神が祀られている。

『延喜式』の「神名帳」 に對馬嶋上縣郡「和多都美神社 名神大」とある。

貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜る。

『三代実録』によれば永徳元年(1381年)に従一位を叙せられ、名社大社の一つ に数えられた。

豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。

大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもある。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもある。

また、本殿の裏手の海宮山の原生林の中を少しく歩くと、磐座がみえてくる。この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。ただ、豊玉姫命は”仁位の高山”に葬られたと社家には伝承されているので、この磐座は恐らく古い斎場の跡であったものが、戦後の混乱期に社家がいったん途絶した為、「豊玉姫の墳墓」と言われるようになったと考えられる。豊玉姫命を仁位の高山に葬った事については『楽郊紀聞』に和多都美宮司(わたづみのみやじ)が語ったものが記録されている。

ウィキペディア(20170731 00:16

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仁井浅茅湾和多都美神社海上参道

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年05月31日

460 姫島の比売語曽神社初見 “大分県姫島村比売語曽神社”

460 姫島の比売語曽神社初見 “大分県姫島村比売語曽神社”

20170731

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 姫島上陸は二度目ですが、前回は黒曜石を見る(路頭から離れた海岸でも拾える)事が目的であったため比売語曽神社までは行っていませんでした。

 今回、フェリーを降りると直ぐにお迎えを頂いており、ご挨拶もそこそこに直ちに比売語曽神社に向かいました。

ひぼろぎ逍遥 451 姫島の女神とは何か? “大分県 伊美沖の比売語曹(ヒメコソ)社”下調べ版

20170724

に、於いては、このように書いていました。以下、画像は新たに撮影したものを使用しています。


古代史、神代史に踏み入った者のハシクレとしては、姫島と言えば実に強烈なイメージが湧いてきます。

宗像三女神、神武僭称贈)崇神天皇(ツヌガノアラシト)、スサノウ(アメノヒボコ)、アカルヒメ(実は大幡主の娘でヤタガラスの姉)ですが…、古代の解明にはこれら神代史を飾る人物を多少は交通整理をしなければが全く理解できないほどの偽装、混乱、錯覚、誇張が相互に絡んでいるようなのです。


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まず、ご覧の通り比売語曹(ヒメコソ)社には都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)が名を出しています(同社由緒)。しかし、それをそのまま真に受けると何も分からなくなってしまうのです。


アラシトはスサノウではないはずですが…無題.png

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まず、姫島と言えば、「阿加流比売」の話が頭を過ります。

半島から逃げてきたお姫様の話なのですが、この方と、追っかけてこられた(途中までとも…)新羅の王子様の話があり、しかも、混乱が生じているようなのです。


比売語曽社は姫島の名前の由来となった比売語曽神を祀る神社であり、旧村社・国史見在社。創建年代は不詳。毎年43日に春の大祭が開かれる。

ひめこそは姫社とも表記し、姫を祀った神社という意味の古語である。

祭神の比売語曽神について、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国(おほからのくに。現在の韓国南部にあったと考えられている。)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。このうち、姫島の比売語曽社が当社であり、摂津の比売語曽社は大阪府東成区の比売許曽神社であるとされる(ただし、後者については異説あり)。

また、比売語曽神については他に、新羅王の子天之日矛の妻、新羅王波沙寝錦の妃、大己貴命の女である下照姫命、辛国息長大姫大目命、真野の長者の娘の玉依姫(般若姫)などの諸説がある。また、宇佐神宮の祭神のうちの比売大神を比売語曽神とする説もある。

広島県呉市の亀山神社は、白鳳8年(679年)に姫島の神が遷座したものとされ、古くは日売島神社(ひめしまじんじゃ)等と呼ばれた。

ウィキペディア(20170724 20:19)による


旧村社

式外社 比売語曽社 日本書紀 垂仁天皇

御祭神

比売語曽神

比売語曽神 に関して以下の説がある。

@ 都怒我阿羅斯等が追って来た、白玉から生まれた女神

A 新羅の王子・天之日矛の妻

B 新羅王・波沙寝錦の妃

C 大己貴の娘、下照姫命

D 辛国息長大姫大目命

E 真野の長者の娘、玉依姫=般若姫

敬愛する「玄松子」による


無題.png 百嶋神社考古学としては(といっても直接の解説は受けてはいませんが)、玄松子氏がまとめておられる説の A 新羅の王子・天之日矛の妻 が妥当であろうと考えています。

勿論、都怒我阿羅斯等は豊の国にいましたし、真野の長者にしても豊前大野の話です。大己貴も出雲に移動する前は北部九州で活動していたのです。

いずれにせよ、半島からの神々の来訪をそのままに伝える場所だけに、列島の神々がどのようなものかを直接意識させる現場なのです。

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神武僭称贈)崇神天皇こと都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)が、阿加流比売神を追いかけたはずがないことは百嶋最終神代系譜では明らかなのですが、「記」「紀」はどんな話でも創るのです。

そもそも、ツヌガノアラシトとは敦賀にいた半島のアラカヤ(古代新羅)の人(シト=関東は「ヒ」と「シ」の発音が区別されませんね)という意味なのです。

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百嶋由一郎極秘系譜(部分)


兵庫県の但馬に出石がありますが、この地に鎮座の出石神社に朝鮮半島の新羅の王子が祀られています。

アカル姫(実は博多の櫛田神社の大幡主の娘でヤタガラスの姉=神話では、コノハナノサクヤは残されニニギから返されたイワナガヒメ)と結婚したのですが、アカル姫は喧嘩別れで実家に帰ってしまいます。

その姫神の実家は博多だろうと考えますが、旧新羅から船出すれば通常但馬辺りに着きます。そこから山越えし九州に入るとなると勢い瀬戸内海、姫島へと向かう事になります。

多分、この時両者の間に産まれた市杵島姫も連れて来ていると思うのです。それは、出石神社の境内摂社に弁天社=市杵島姫があることでも分かるのですが、いずれにせよ、アメノヒボコも追いかけて列島にやってきます。神話では、別の女性と再婚していますが、姫島までは追いかけて来てはいないようです。現地、出石では出石氏の祖神とされています。以降はトレッキング後に書きましょう。

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無題.png現地を踏んでちょっと驚いきました。始めから違和感と言うより誤りどころか捏造だと考えていたツヌガノアラシト絡みの話です。

以前から存じ上げていた大帯八幡社の宮司が、この「日本書紀」そのままの「比売語曹社の由来」を作られたとは思えなかったからですが(宮司は通説は通説としても地元には固有の伝承や祭礼や祭神もあるのでそれは配慮されるべきと言われていましたので)、おかしいと思ってお尋ねしたところ、これを作ったのは村の教育委員会であり、神社にも宮司にも何の相談もなく書かれたとの事でした。

 公園の敷地は神社ではなく村だからだそうですが、普通は考えられない事で、比売語曹社も大帯八幡宮の宮司が扱われている以上、仮に法律上必要ないとしてもありえないと思ったところでした。

 既に、“兵庫県の但馬に出石がありますが、この地に鎮座の出石神社に朝鮮半島の新羅の王子が祀られています。アカル姫(実は博多の櫛田神社の大幡主の娘でヤタガラスの姉=神話では、コノハナノサクヤは残されニニギから返されたイワナガヒメ)と結婚したのですが、喧嘩別れで実家に帰ってしまいます。

その姫神の実家は博多だろうと考えますが、旧新羅から船出すれば通常但馬辺りに着きます。そこから山越えし九州に入るとなると勢い瀬戸内海、姫島へと向かう事になります。

多分この時両者の間に産まれた市杵島姫も連れて来ていると思うのです。それは、出石神社の境内摂社に弁天社があることでも分かるのですが、いずれにせよ、アメノヒボコも追いかけて列島にやってきます。

 さて、このような「記」「紀」に追従するどこにでもあるくだらない話はどうでも良いとして、すぐに境内を見せて頂きました。“

と、前述していますが、百嶋神社考古学ではイザナギと別れた後のイザナミ(実はクマノフスミ)と大幡主(博多の櫛田神社の主神)との間に産まれたのがアカルヒメであり、そのアカルヒメを追ったスサノウとの間に産まれたのが市杵島姫とするのです。してみると杵築の奈多宮の話が頭に浮かんで来ます。


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神殿(右) 神紋(笹)は平家方ではないと主張したなごりか


その話は地元の方のものと思われる小稿をご紹介する事にします。


ナダ宮というから「灘」があったのか、くらいな認識だった。奈多氏が治める土地をナダと称したもので、それどころではない。

「八幡宇佐宮御託宣集」に拠ると、宇佐神宮6年一度の御行幸の時。薦神社三角池の真薦で作った御験(みしるし。薦枕)を新しい御神体として納めるに際し、古い御験は当社に渡された。つまり宇佐の御神体は薦神社→上宮→御炊殿(みけどの。下宮)→奈多宮の順に下げ渡された訳で、処分を任された奈多宮は、これを或いは放流し、或いは庫に納めた。そんな事情で、大分県最古の宇佐神像(木像)は奈多宮にあるという。

小生も知らなかった奈多宮、古くは宇佐の別宮として機能していたらしい。しかも宮司が大友宗麟の舅で、当社は焼かれずに済んだ。しかし慶長豊後地震の津波に遭い悉く沈没し、失ったものも多い。

当社は海岸にあり、砂浜を向いて建っている。国道213号から東側の旧道に入ると、当社の北に駐車場がある。車を停め鳥居を潜り進むと、砂浜に出るので驚く。沖合の小島に鳥居が立つのは、最初は気がつかなかった。砂浜を伝って門前へ至る神社は初めて。

海から上がると真っ直ぐに社殿へ至る造りは、どう見ても海の神。前に和間浜の浮殿(和間神社)を宇佐の外宮と推定したが、当社こそが宇佐の外宮だったのかも知れない。

一条天皇より、初中後(過去、現在、未来)にわたり最上八幡であるとして「日本最上八幡初中後廟」十字の額を賜る。宇佐宮を差し置いて。藤原道長は「一宮海雲楼」「三韓降伏」額を、大江匡房(まさふさ)は「一楼台」額を奉納。平安時代には、朝廷が意識する程の大社だった訳だ。

宇佐に同じく、宗像三女神を比賣(ひめ)大神として第一座に、応神天皇を第二座に、神功皇后を第三座に祀る。但し日本書紀に拠ると、神代紀の一書に宗像三女神について「葦原中つ國の宇佐嶋に隆居せしむ」とあるのに対し、八幡宇佐宮御託宣集に「比賣大神は、先に國前郡奈多沖市杵島に示現される」というので、当社では沖に浮かぶ小島を市杵島(厳島)といい、市杵島姫が降臨した元宮とする。

安心院にも降臨説話があり、御許山を宇佐嶋とするので、比賣大神は海にも山にも降臨したことになる。

拝殿が左右に延びて敷地を塞ぎ、本殿へ回り込めない。着いた時間が遅かったからか、社務所に人がおらず、話は聞けなかった。                    行った時期:2017611


日本最上八幡初中後廟 - 八幡奈多宮の口コミ 三文詩人 による


 但馬の出石神社に朝鮮半島の新羅の王子(アメノヒボコ)が祀られています。アカル姫と結婚したのですが、喧嘩別れで実家に帰ってしまいます。その姫神の実家は博多だろうと考えますが、旧新羅から船出すれば通常但馬辺りに着きます。そこから山越えし九州に入るとなると勢い瀬戸内海、姫島へと向かう事になります。この時両者の間に産まれた市杵島姫も連れて来ていたと考えたのですが、それは奈多宮の話を知っていたからでした。

 さて、比売語曹社では小さな発見がありました。奥宮があったのです。

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宮司の話では海食洞らしく中には石造りの祠が泥に埋もれていたとの話でしたが、風穴の可能性や風穴起源の海食洞で泥とは、海食洞に砂が吹上られたのかも知れません。

 この海食洞の岩肌には鉄分が確認できたことから風穴ではないかと感じたのですが、当然ながら姫島全体が火山島であり、噴火口の上に姫島村があるのですからどのような事もありえそうなのです。

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この神社にはもう一つ面白いものがあります。拍子水温泉です。

 この温泉の事は承知していたのですが、まさか境内の一角と言うか隣接していたとは思いもよりませんでした。

 強烈な炭酸泉で、砂糖さえあれば直ぐにサイダーとかラムネになりそうなもので、ご覧の通りの自噴泉でこの温泉を利用した施設も造られていました。

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この自噴泉も火山群島起源の姫島を表したものであり、もし地続きであれば、凄い観光資源なのですが、個人的にはこのままそっとしておきたいと思うばかりです。

最後にツヌガノアラシトの話をせざるを得ません。

教育委員会が金科玉条の如く引用した「日本書紀」の意富加羅国の王子の都怒我阿羅斯等が阿加流比売神に求婚するとは世代(生きた時代)としても考えられないのです。

都怒我阿羅斯等とはツヌガのアラカラ(カヤ)からやって来た人という意味でしかなく、今も敦賀の気比神宮に祀られている本来の祭神(実は神武を僭称している贈る崇神天皇であり、阿蘇の草部吉見と市杵島姫=アカルヒメの子との間に産まれた大山咋咋の子なのです)であり、スサノウニ肖ろうとしたのか、スサノウを消そうとしたのか、どちらにしても後世の藤原によって偽装されたストーリーが大手を振ってまかり通っているのです。

その偽装は、藤原がその流れ(阿蘇氏でも草部吉見系の氏族)にあるからで、それにおどらされているのが学芸員と通説派の学者どもなのです。

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研究目的で百嶋由一郎神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。


※ ツヌガノアラシト(贈る崇神)は敦賀であって、宇佐の正面の姫島では宇佐八幡のスポンサー=贈る崇神の影響が強く、姫コソをスサノウとしたくなかったためツヌガノアラシトの業績としたかったのではないかと考えています。当然、但馬の出石に追ってきたアメノヒボコは出石と考えています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:29| Comment(0) | 日記