2018年05月21日

457(前) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

457(前) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当然にも森友学園と加計学園の関わるお話です。

通常、国会の審議など、与野党を含めたグルによるお笑い番組=猿芝居=八百長=やらせ…としか考えていないのですが、今回の「閉会中審査」に関しては、正面切って正統性の主張がぶつかりあう議論が効けるかも知れないと思えた(初めて国会審議といったもののそれこそ劇場性に綻びが見えた)事から、蓮舫氏から青山繁春氏など…、車を止めてまで全てラジオで聴かせて頂きました。

勿論、このくだらない見せかけだけの民主主義制度など何の価値も見出していないため、今後の選挙に於いても、これまで同様投票に行くつもりは毛頭ありません(選挙で投票に行くほど政治意識は低くないつもりですので)。


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私自身も完全には勤め上げられなかった某藩の下級藩士であった事から、役人の生態にはそれなりに精通しているつもりです。

このため、見上げる様な高級官僚の在り様に一抹の、しかし、深刻な対立とひずみが生じている事は良く分かりますし、背後に何らかの政治的変動が起こっている事も想像が付きます。

しかし、そのような薄汚い政治の話など一切関心はありませんし、そのような話をするのは今回の目的ではありません。

当方は神社研究者です。従ってその観点から見ているとある種の面白い現象が見えることから、この側面だけに光を当てて調べて見ようと思ったものです。

まず、お二人の素性から考えて見ましょう。森友学園の籠池 泰典氏と加計学園の加計 晃太郎理事長です。

@森友学園の籠池 泰典 前理事長

「籠池泰典」

195327日 香川県高松市にて生誕。実家は海運業だった。

19634月 籠池海運の倒産に伴い一家で兵庫県尼崎市へ転居。

19773月 関西大学商学部を卒業。4月 奈良県に新卒で採用[5]

1979年 森友学園創立者の娘と結婚。…以下省略        ウィキペディア(20170716 10:43


sp113-2  まず、「籠池」という姓自体が非常に珍しいものである事は始めから気付いていました。

 しかし、まさか全国で13件もの希少な姓氏とは思いもしませんでした。

 勿論、少ない姓というものはそれなりに意味のある重要な氏族である場合が多い事から、ご本人の類まれなキャラクター(まず、吉本興業でも直ちにトップスターになれるという事は政治家としても素晴らしいタレント性を持った方でしょう)にも拘らず、それなりに謂れのある氏素性であることが分かってきたのです。

 特に香川、兵庫(淡路島南部限定)に中心がある事から、それだけでもある種のイメージが湧いてきます。讃岐、阿波から熊野に掛けては忌部=豊玉彦=ヤタガラスの領域ですね。


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高松と言えば田村神社ですが、大幡主と山幸=ニギハヤヒ、孝霊、孝元、開化の流れのエリアなのです。


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香川県高松市にある神社。709年創祀。祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天隠山命(あめのかぐやまのみこと)、天五田根命(あめのいたねのみこと))讃岐国一之宮。「定水(さだみず)大明神 」「一宮大明神」とも呼ばれる。                            (コトバンク)


祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)

五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) 別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。

猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)

天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) 別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。

天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。

田村大神について、中世の書物では猿田彦大神[2]や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。        (ウィキペディア)


さて「籠池」ですが、「籠」とは何でしょうか?まず、天橋立の籠(コノ)神社が頭に浮かびます。

 この「籠」については、佛教大学の 黄 當時教授からポリネシア系言語のカウヌイ、タウヌイという大型の外洋性カヌーの置換えとの説が提出されています。

 「コノ」は「カヌー」の置換えで、「カウ」がポリネシア語の船で「ヌイ」が大きいという意味の後置修飾語という話です。

 詳しくは太宰府地名研究会のHPから以下を検索して下さい。


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その意味で、籠池氏のご先祖が海運業をされていた事、伊勢から東海に広がる、籠神社の宝物、物部の海部の「海部文書」があること、伊勢神宮にも繋がる一族にも思えてくるのです。

伊勢も大幡主とヤタガラスのエリアです。


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また、籠池の籠は「籠目紋」の「籠」である可能性も見て取れるのです。

 ユダヤの神紋とも重なり、大幡主系の伊勢神宮、大江山皇大神宮、籠神社、上賀茂神社、下賀茂神社…

といった伊勢の物部氏との関係を意識せざるを得ないのです。


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籠(かご)の目=ユダヤの六芒星の内側が籠目紋とも言えますが、六芒星そのものでもあるのです。

また、僅かですが籠池さんの顔つきにポリネシアンの影が見え、その背景(南方系海洋民)が見えてきた気もしませんか?


@加計学園の加計 晃太郎理事長

「加計 晃太郎」

加計 晃太郎(加計 孝太郎、かけ こうたろう、1950年または1951年生まれ)は、日本の学校法人経営者。学校法人加計学園理事長・総長、広島加計学園長、フィンドレー大学理事、日本私立大学協会理事、岡山県国際交流協会理事、岡山県郷土文化財団理事。岡山県日中教育交流協議会参与。特定非営利活動法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会顧問、岡山北ゴルフ倶楽部理事。

広島県出身。立教大学文学部卒業。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に語学留学。父は加計学園グループ創始者加計勉。語学留学中にアメリカで安倍晋三と知り合い、以来、交友がある。

ウィキペディア20170716 15:04


sp113-8  中々気品のある風格ある方ですが、私にはこの方の素性が直ぐに分かります。

 まず、元首相の岸信介の孫で 安倍晋三とは従兄弟で親戚関係である事は知られています。しかし、当方にはもっと違った側面が見えているのです。

皆さんは「白川伯王家」というものをご存じでしょうか?

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”をお読み頂きたいのですが、要は、明治維新まで天皇家の宮廷祭祀を司っていた白川伯王家(ヤタガラス系裏天皇)の流れを汲む人々の一部(恐らく主流)が加計(カケ)姓を名乗っているのです。

 その前に加計姓の分布を例によって姓名分布&ランキングからご覧いただきましょう。


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こちらも56件(あくまでも姓名分布&ランキング調べによるものですが)と、こちらもそれなりに有力な氏族、家系である事が分かるのです。

そこで、中国自動車道に「加計スマートIC」があることを思い出して下さい(広島県山県郡安芸太田町加計)。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:49| Comment(0) | 日記

457(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

457(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この安芸太田町加計に長尾神社という目立たない神社があるのですが、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”では、このように書いています。


いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。

また、「紀氏の荘園・姓(国別 )」によれば、


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より


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この加計の一帯に厳島神社の宮司家の一族が入っている事は確実なのです。

では、この加計という地名はどこを起源としているのでしょうか?

これについても、ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 でこのように書いています。

それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点でも気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々は、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者、若しくは縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで(古代遠賀湾の最奥部)、本来、地名の根幹は「鹿毛(カケ)」=「加計」にあります。

しかも、この地にある飯塚市鹿毛馬の厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)によって、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。


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この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。市杵島姫はこの地で産まれたか?幼少期をすごされたからこそ佐用姫とも呼ばれたのです。


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詳細はこれらを読んで頂くとして、広島県の出身とされる加計学園の加計 晃太郎氏が、この白川伯王の一族の後裔のお一人であり、この一帯で有名な「加計隅屋鉄山」の経営者の一族の後裔の人物である可能性も非常に高いように思うのです。


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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”にはこのように書いていました。


百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。


以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のために、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視する ウィキペディア(20150417 2030を紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。


王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。



白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173
博多の櫛田神社の祭神とは何か?で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ一点、明治期になり神祇官の指示によって白王姓を名乗るのはまかりならん(天皇家に対して不敬である)として「白王」姓を「白土」姓に変更され、この宮司家は白+(土+、)を名乗っているのです。

ここまで見てくると、加計姓を名乗った人々とは、朝倉日田の大災害で多くの人々が犠牲になっている最中に、自らの世界遺産登録を喜ぶ今の宗像大社や安芸宮島の厳島神社などよりも遥かに高格式の飯塚市鹿毛馬(カケノマ)の厳島神社に起源を持つ白族(博多の櫛田神社の大幡主の一族)であり、下賀茂、上加茂にも通じる豊玉彦、ヤタガラスの後裔、つまり裏天皇家の一族の様に見えるのです。

では、安倍晋三と仲良しのお友達だった方々との関係が、何故、ガタガタし始めたのでしょうか?

今年の二月に スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 で、以下のように書いていました。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。

そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

籠池氏と加計氏は共々日本会議のような安倍政権を支えたお友達なのでしょうが、そもそも系統の異なる勢力の方なのでしょう。

今回、籠池氏は切り捨てられ、加計氏はまだ関係を維持している(安倍を切り捨てることをためらっている)と思われます。

この温度差は、統一教会なども含め、安倍を支えた勢力内部に内紛、衝突が起こっており、既に内部分裂が起こっている可能性が考えられますが、奥の院の様子は伺い知る事はできません。

この延長上に現在もあるのですが、安倍の応援団として動いていたヤタガラス系の人々が、キッシンジャー(彼は伝統的親中勢力であることは明らかですね)が引き継いだとされるロックフェラー系ユダヤ・マフィアの指示で反中国を標榜する安倍を降ろす方向で動き始めたのかも知れません。

ここでは厳島神社の一族がどのような流れなのかを百嶋由一郎最終神代系譜で確認しておこうと思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この黄枠の三姫君こそ三女神=市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)、鴨玉依姫(タギツヒメ)なのです。

白川伯王〜大幡主〜ヤタガラスの後裔なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:51| Comment(0) | 日記

2018年05月25日

458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170512

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 宗像沖ノ島世界遺産登録に関して諮問勧告が行われた…といった話が流れたのは数日前の事でした。

普通なら、オリンピック誘致と同様、ちょうちん行列とまでは言わないまでもお祭り騒ぎになるはずなのですが、実質的には沖ノ島だけの認定の方向しか示されず、宗像大社〜宗像市を中心とする所謂肖り集りへの思惑は(当面)大きく外れた形になったのでした。

このため、マスコミもそれなりに落ち着いた(一部には落胆した…云々)報道をしていました。

まず概略を把握して頂く為に、ネット上の産経、読売を拾いましたが、全ての大手マスコミは全てある種の権力(必ずしも行政と同義ではない)の回し者であって、その広報誌、回覧板としか考えていませんので、この二つを選んだことにも特別な意味はありません。

しかし、この報道を知って喜んだのは私だけではありません。

そもそも、日本の価値ある歴史的遺跡、伝統、文化を、何故、ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural)のようなヨーロッパ不良貴族の成れの果ての様な方々に判定され、格付けまがいの事まで行われなければならないのか!

また、その何の権威もない連中に評価され、町興し村興し、地域振興の美名のもとに、浅ましくもさもしくも肖り集ろうとする見苦しさを公然とさらけ出している事に疑問を感じないのか!…と、この民族の精神もかなぐり捨てた恥知らずな構造には以前から非常に不快に感じていました。

結局は利用できる物は何でも利用し、税金を一部の方々だけが取り込もうとする構造が透けて見えるのでした。

東京オリンピックにしても、溜め込むに溜め込まれた膨大な富を大手ゼネコンなど特定の勢力だけが潤うような支出は、明らかな無駄遣いと言うより不正な流用でしかなく、本来は、貧困児童や貧困家庭の救済とか、もっともっと将来を見据えた重要な投資に回されるべきもののはずなのです。

行政とは特定の人々だけが潤うような無駄遣いは厳に慎むべきであり、「経世済民」をこそ考えるべきであるとは、行政の長や土建屋ケインズ主義者によってさえも声高に叫ばれていた常套句だったはずなのです。

仮にこのような構造の上に歴史遺産登録が行われたとしても、古代の真実を発掘する事にも、探究する事にも一切繋がらず、重要な遺跡さえも関連する公共事業などで破壊され、文化遺産そのものが捻じ曲げられ偽装されるのが目に見えるようだっただけに、半ば喜び、どうせなら完全に潰れて欲しかったと言うのが正直な感想でした。

まあ、そこまでは望むらくもなく、まずは、不幸中の幸いといったところと言うのが実感でした。

今後もこのような外国の勢力への拝跪、依存の構造は続くでしょうが、日本人としての誇りも文化も伝統も一切をかなぐり捨てた危機的で愚かな流れには抗議せざるを得ないのです。




sp100-2 【産経新聞号外】宗像・沖ノ島 世界遺産へ


 政府に5日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に、福岡県の古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を登録するようユネスコの諮問機関、イコモスが勧告した。ただし、沖ノ島以外の4つの資産は除外された。7月2〜12日にポーランドのクラクフで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通し。登録されると、日本国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像・沖ノ島と関連遺産群は4〜9世紀の大陸との交流にまつわる古代遺跡。九州と朝鮮半島の間の玄界灘にあり航海安全と交流成就を祈る国家的祭祀(さいし)が行われた沖ノ島(宗像大社沖津宮(おきつみや)と本土の宗像大社、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんぱる)・奴山(ぬやま)古墳群など8件の国指定史跡で構成する。

 島そのものが神体とされる沖ノ島は入島制限の禁忌が守られており、古代の祭祀跡がほぼ手つかずで残る。昭和29〜46年に実施された調査で、金製指輪や銅鏡、シルクロードを経てもたらさ
れたとみられるカットグラス碗(わん)の破片など祭祀で供えられた奉献品約8万点が出土。全てが国宝に指定され、「海の正倉院」と呼ばれるようになった。 
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2017512日(金)


「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外




sp100-3 文化庁は5日、世界文化遺産への登録を目指す古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が登録を求める勧告をしたと発表した。構成資産の半分の4件を除くことが条件。7月の世界遺産委員会で登録が正式に決まる見通し。登録されれば国内では5年連続、21件目の世界遺産となる。       (2016年9月、福岡県宗像市の沖ノ島)

福岡県宗像市の沖ノ島=共同原生林の中にある宗像大社沖津宮(上)

宗像・沖ノ島と関連遺産群は4〜9世紀に航海の安全を祈る古代祭祀(さいし)が行われた九州北部の沖ノ島(宗像大社沖津宮)や大島(同宮遥拝所、同大社中津宮)、九州本土の同大社辺
sp100-4 津宮、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など宗像、福津両市の8件の国指定遺跡で登録を目指していた。

 諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、このうち大島と九州本土の4件を除く沖ノ島付近の4件について世界遺産への登録を勧告した。

 沖ノ島には国家的な祭祀の遺跡が残り、指輪や鏡など大陸との交流を示す奉納品が出土。約8万点が国宝に指定されている。島全体が神体とされ、今も一般の立ち入りを制限している。


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と、ここまでは見苦しいばかりの町興し、村興し、世界遺産登録…肖り運動の文化破壊、民族の誇りの放棄への危惧の話でしたが、ここからは各論としての宗像沖ノ島問題に踏み込むことになります。

 この宗像、沖ノ島世界遺産登録への運動を推進したのは言うまでもなく宗像市と宗像大社でした。

 それは、宗像市のHPをご覧になればお分かりになるでしょう(後段に一部を掲載)。

それも大風呂敷を広げ、福津市や古賀市などもダシに使い無理やり巻き込みながら、おらが町の振興のためとばかりになりふり構わず突き進んだのでした。まさに、宗像主導でついでにお零れを回すので協力しろと言わんばかりの印象を受けたのは当方ばかりではなかったでしょう。

このため、宮地嶽神社の巨大円墳の被葬者も宗像徳善君とかその縁続きの人物であり、宮地嶽神社も宗像の君の配下の一族なのだ!などと言ったとんでもない大嘘が垂れ流される始末だったのです(○ダニとその一部エピゴーネン)。

そもそも、現在、沖ノ島がみあれ祭として宗像族、宗像大社が中心となり行なわれているとしても、これが沖ノ島の深層としての古代祭祀まで遡るという証拠は一切ないのであって、事実、初期段階から沖ノ島の発掘調査を行ってきた小田富士雄氏は近年その見解を修正しているのです。

まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。

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このことは、長らく元九大(実は奈良教育大)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。



世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂 と石川内命婦の娘。大伴稲公 の姉で、大伴旅人 の異母妹。大伴家持 の叔母で姑でもある。『万葉集 』には、長歌 短歌 合わせて84首が収録され、額田王 以後最大の女性歌人である。


13歳頃に穂積皇子 に嫁ぐが霊亀元年(715 )に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇 )と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂 の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老 末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂 の妻となり、坂上大嬢 坂上二嬢 を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府 で妻を亡くした大伴旅人 のもとに赴き、大伴家持 大伴書持 を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏 の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:23| Comment(0) | 日記