2018年05月07日

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

20170728

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


イヅノメの神を祀る教団の拾い出しをしてみたいと思います。

まずは、出口王仁三郎の大本教が頭に浮かびます。直接的には伊都能売神としては祀ってはいないのですが、…大本教の出口王仁三郎は、本当のミカエルとは「伊都能売(イヅノメ)神のミカエル(省みる)」と述べているようです。伊都能売神はいろいろ論議されていますが、神道に登場する神直日、大直日の子の働きのことともされています。この神直日、大直日は豊玉姫の子の鴨玉依姫、大山咋神なのです。


大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在するただ一柱のみご存在になる根本の真の神のことで、古事記ではこの神のことを天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大本では大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)というご神名で尊称しています。

主神は、天地万物を司るために、幾百もの神々を生み出され、それぞれに役目を仰せ付けられ、世界を守り開かれています。…


大本では、主神をはじめその正しい神々を総称して、大天主太神(おおもとすめおおみかみ)としておまつりしています。
なお、大本では主神とともに主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。


世界万物を造りたる神はただ独神(ひとりがみ)、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)とたたえ奉る。天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の神様をつづめて天帝という。また真神という。
(出口王仁三郎)

大本


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1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。

ウィキペディア(20170728 15:56による

他にも 愛善苑、大本信徒連合会…などが


次は、岡田茂吉の世界救世教になるでしょうか。


世界救世教(せかいきゅうせいきょう)とは、大本の幹部だった岡田茂吉が1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団。世界救世教本体に世界救世教いづのめ教団東方之光主之光(すのひかり)教団3教派が包括される形で運営されている。現在の教主は四代目の岡田陽一。国内公称信者数は、2016年(平成28年)版の『宗教年鑑』によると、609,722人。

ウィキペディア(20170728 15:18による

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崇教真光


前身は1901(明治34)に岡田光玉(本名・岡田良一)が設立した「宗教法人 世界真光文明教団」である。1974年(昭和49年)623日に岡田光玉が死去。その葬儀の席上、光玉の遺言に従い幹部のひとり関口榮が二代教え主に就任したことが発表され、その旨が真光誌に記載された[1]。 しかし岡田恵珠は「死去の10日前、光玉からの教え主継承の儀は終えている」と反論し、7月に代表役員の登記を済ませた。 これに対し関口榮は、代表役員の地位を明らかにするために提訴し、昭和52年には「関口榮が代表役員である」という最高裁判決(通称、'真光裁判)を得て、正式に教団の2代教え主に就任した。これによって岡田恵珠は文明教団から分派独立し、1978年(昭和53年)に崇教真光を設立した。崇教真光は正当な霊統を継承しており、唯一の正統であると主張していることもあり、光玉時代の信者の多くを吸収している。「崇教」とは、医学、科学、経済学などを含む、過去の宗教を超えた人類教であるとしている。

2009年からは、岡田恵珠の弟子であり、その後養子となった岡田晃弥(岡田光央)が三代教え主(現・総裁)として教団を先導している。

教団は、国内に約1000ヵ所 海外に約300ヵ所の拠点があり、世界75ヶ国に約100万人の信者がいるとしている。

ウィキペディア(20170728 15:18による


とにかく大本教系の教団の分派活動は凄まじくとても門外漢には理解しがたいことから、以後は、


非常に分かりやすい資料がある事から無題.pngを参考にさせて頂きました。


18新宗教と埋没神(上) −甦る伊都能売神−


明治三十二年に稲荷講社の一分会からスタートし、幾多の変遷のあと巨大教団に変貌していく大本教は、国家による二度にわたる大弾圧の混乱のなかで多くのひと達に影響を与え、数多くの分派教団を世に出した。私が師事した先々代宮司は、霊相道の宇佐美景堂師と交流があり、伝授された数霊学などを教わったものだが、この宇佐美師が大本に深く関わっていたことを知ったのは、だいぶ後になってからである。このように身近な者が繋がるように、大本の人脈は多岐に亘る。以前この欄で紹介したが神政龍神会を興した海軍大佐・矢野祐太郎、神道天行居の友清歓眞、心霊科学研究会の浅野和三郎、至恩郷・岡本天明を始め、大教団となった生長の家・谷口雅春、同じく世界救世教の創始者・岡田茂吉三五(あなない)教・中野与之助、璽宇・峰村教平等々、その活動を引き継いだ後継者達は現在も教勢を拡大させている。

 更に、これらの教団からの分派した教団も数多い。独自の神想観と、住吉大神を宇宙浄化の神・護国の神霊とする生長の家からは、ピースポール「世界人類が平和でありますように」で知られる白光真宏会が独立した。浄霊手かざし系の総本山とも謂うべき世界救世教になると実に数が多い。分派教団から更に分派した教団まで数えると、その数は四十とも五十教団とも云われており、それらの信徒数の全てを合わせると五百万人を超えると云う。救世教からの主な分派教団としては既に中堅教団となった晴明教、救世主教、救世真教、救いの光教団を始め、世界浄霊会、みろく神教、大夲光之道、慈永堂などのほか、現在伸長中の天聖真美会、“幸せと健康について”を街頭で語りかけ、教勢を伸張させた神慈秀明会、救世神教とその分派・光明みろく会、真光系元祖の世界真光文明教団、更にそこから分派して大教団の地位を築いた崇教真光・神幽現救世真光文明教団・ス光光波世界神団など、枚挙にいとまがない。

 教祖研究での繋がりや、教団関係者が古神道講座を受講することで依頼されて幾つかの教団の職員教育、教義・布教のコンサルタント的な役割、顧問役といったことを引き受けているが、この世界救世教とは、研究会設立以前から関わりを持たせて頂いている。救世教は、内部紛争の一時期があり既に終息しているが、現在は、内部に三教団が併立している。それは、いづのめ教団、東方之光、主之光教団の三教団。余談になるが、私はこのいづのめ教団の祭典部に月に三回ほど伺っている。そこで大学で習った祭事の行事作法、神典や神社神道の知識などと、救世教の神観や神示に就いての情報交換なども行なっている。

 いづのめ教団の“いづのめ”の由来に就いては、『古事記』のただ一ヵ所に登場する伊豆能賣という神に辿り着く。

 このいづのめは、大本の出口王仁三郎の伊豆能売観を経て世界救世教教祖・岡田茂吉の霊示に依り、新たな神相観と働きを持つ伊豆能売が現出する。その霊的ビジョンに依れば日本古来の神々が印度に渡航して化身仏となる。その最高位におられたのが伊豆能売神であり、この伊豆能売神とは、実は観世音菩薩であると云う。岡田茂吉は自分の考察として本地垂迹を、本地とは本元の国日本であり、垂迹とは教えを垂れることとする。“すなわち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教えを垂れるとともに、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという蜜意である。”つまり、従来の本地垂迹説をまったく逆の視点で、日本の神の本地が印度の仏であったと云う捉え方をしている。

 その頃、日本は伊豆能売神皇が統治していた。だが、素盞鳴尊を中心とする神々が朝鮮から渡来し、その地位を狙い圧迫して来た。これに応諾しないための威圧や迫害が生命の危機にも及び、日本を逃れ、中国を通って伊豆能売神は印度に落ち延びる。


一応、伊豆能売神を奉斎する教団の概略が把握できたのではないかと思います。

ただ、多くの信仰をお持ちの方を含めて、伊豆能売神が一体誰なのかは全くお分かりになっておられないようです。しかし、百嶋神社考古学には凄い力があるもので、我々のような浅学の者にもその正体が見えて来るのです。そして、直接的に伊豆能売神にも遭遇する事が出来たのです。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の6本のblogをお読み下さい。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


再掲載


436 伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

20170622


伊豆能売を探す作業を始めましたが、太宰府地名研究会でも熱心なフィールド・ワーカーであり、奇妙な祭祀、奇妙な祭神に関するスペシャリストである中島氏が、遠賀川河口の伊豆神社がそれではないかと言った事からこの作業が始まりました。

既に、遠賀川右岸の3社について概略のリポートを書きましたが、今回は左岸の伊豆神社の話です。

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伊豆能売

『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「神」「命」などの神号はつけられていない。

…幕末以降の神道系新宗教の中には、伊豆能売が古代には信仰されていたが後に信仰されなくなった「埋没神」であるとして、新たに信仰の対象にしようとするものもある。…

ウィキペディア(20170622 1103による


現実に伊豆能売神を過去祀っていた可能性がある神社が数社存在し、今でも祀る神社が残されていたのです。

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主神は伊豆能賣です 大社神社、笠松神社、坪内神社は不明ですが後は良く見かける神様です

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これが神殿ですが、今回に関しては是非とも見せて頂きたいと思います


 中島氏の随行を得て訪問した当日、実は、参拝殿で氏子の皆さんがお食事会をされていました。

 氏子総会の打上か?とも思ったのですが、そうではなく水利組合か何かの恒例行事だったようです。

 宴会中でもあったのですが、失礼にも関わらずお邪魔して参拝殿内を見せて頂きました。

中島氏は至って熱心でしかも積極的でさかんに質問されていました。

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重要な事ではないと思いますが、参拝殿には奇妙な絵が掛けられていました。

 大倭天津日嗣國とでもかいてあるのでしょうか?

 図像学は総合的な知識が必要なのですが、力が足りず対応不能です。

 どうも東征に東遷に関わる絵の様でもあり、天照からの日嗣の話の様でもあり、これだけの情報では判別できません。見るべき人が見ればお分かりになるモチーフのようです。

 お分かりの方は09062983254までお教え下さい。

 改めてイズノメ系教団の方々へ、直接的な祭祀の発見もさることながら、実は、この神が誰であり、どこからやって来たのかも分かってきました。実は、これまで周辺の神社を見てきたことから豊玉姫である事が分かる上に、その起源も対馬の木坂であろうとの推定も見えてきたのですが、この話は次に回します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)高木大神の娘豊秋ツ姫と豊玉彦の娘が豊の国のイヅノメ神なのです


研究目的で故)百嶋由一郎氏の音声CD(3040h)、手書き資料スキャニングデータ、神代系譜DVDを必要とされる方は、直接、09062983254までご連絡下さい。


「古事記」の95パーセントは嘘ですとは故)百嶋由一郎氏の遺言です。通説の古代史をそのまま真に受ける古代史研究者の皆さんもそろそろ漫画の様な古代史の世界から離脱されてはいかがでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:00| Comment(0) | 日記

2018年05月12日

ビアヘロ 046 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

ビアヘロ 046 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。


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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバーが集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びつきようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそ橘一族であり「火の君」の後裔だったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 お読みにもなれると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を折半しただけのものであり、当然、糸島半島の志摩に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


466

杵 島 A 2/2

465

杵 島 @ 1/2

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熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした(琳聖太子が後の周防の大内氏のルーツとされるのですが)。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。

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兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と、氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応すると判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

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下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることをお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事を思わせるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 17:14| Comment(0) | 日記

2018年05月13日

454 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ A

454 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ A

20170728

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで、架空とか「埋没神」とされてきた伊豆能賣を探しだしその周辺の探索まで行ってきました。

 普通は、発見しただけで満足しても良さそうですが、まだ、伊豆能賣を豊玉彦の娘の豊玉姫だとした理由には納得されていない方は多いと思います。

 まず、崇教真光の嘉穂道場の祭壇に大国主命が主神に沿うように祀られていた事が切っ掛けでした。

同教団の祭神は御親元主真光大御神と伊都能売大国魂大国主之大神(イヅノメオオクニタマオオクニヌシノオオカミ)=伊都能売様とも呼ばれています(これは恐らく夫婦神ですね)。

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大国主命周辺の女性を探すのが近道なのです 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 大国主のお妃ならば、同じく宗像三女神のお一人の市杵島姫でも良さそうですし、大国主の母神や娘の可能性もあるでしょう。従ってこれだけでは決め手を欠いていると言わざるを得ないでしょう。そこで思い出したのが二番目のblogでした。

454 伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イズノメの神が少し分かってきました

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伊豆神社の参拝殿には「厳神社」と…これは対馬の厳原の

ルーツである木坂の裏山伊豆山の伊豆の意味なのです


 伊豆の文字の置換えである対馬の厳原を思い出した時に謎が解けました(当然厳島の「厳」も瀛も)。

 先年亡くなられたと思いますが、対馬の郷土史家と言うより民俗学者の永留久恵氏の名著であり大著の「海神と天神」の第三部 民俗編 第四章 「イヅ山とホリ山」(255267p)が頭に浮かんできました。

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伊豆能賣の伊豆とは対馬の厳原でその原型が木坂の海神神社の社地の居津山(伊豆山)、居ツ原(イヅバル)である事を永留先生は書き留めていてくれたのでした。

 では、冒頭の数ページをご紹介しておきましょう。


…「イヅとは、イツクことである。神を斎き鎮める意で、居著くことでもあり、祾威とも書く。またホリとは「葬り」に相違ない。保利の山中が古い葬地であったことから見て、この見解に疑いの余地はない。」…


 後は、本著をお読み頂ければ分かるのですが、要は、対馬の木坂の海神神社の裏にある居津山、居ツ原こそが対馬の厳原、安芸の宮島の厳島神社、当然にも伊豆大島、もしかしたら、出雲、出石(スサノウがアカルヒメを追った兵庫県出石)も…この延長上に移動した地名である可能性があるのです。

 百嶋神社考古学の立場から言えば、大国主命のお妃のお二人は宗像三女神の市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)であり、イヅノメに相応しいのは、豊玉姫であろうことは一目だったのです。

 それでは、木坂の海神神社の祭神を見ることにしましょう

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海神神社 カーナビ検索 長崎県対馬市峰町木坂247  0920-83-0137


祭神  豊玉姫命  配祀  彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合命


 伊豆能賣が市杵島姫ではなく対馬の海神神社の主祭神(父神の龍王=豊玉彦=ヤタガラスはいつも背後に隠れておられますが…とは百嶋先生のお言葉でしたが)の豊玉姫に対応する事は伊豆=(居津原、居津山)地名と遠賀川流域の伊豆神社の祭神配置によって明らかだと思います。

この対馬の海神神社もしくは和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位550920-58-1488)に対応するだろうことは見当がついていました。

それは、水巻町頃末の伊豆神社の祭神に彦火々出見命(実は山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、玉依姫命(実は鴨玉依姫)、塩土老翁(実は豊玉彦=ヤタガラスの父神)であることを見た時から、温めていた構想でした。釣針を失ったとして途方にくれている山幸彦に塩土老翁が龍宮に行き龍王(豊玉彦)に逢う事を薦め、後に龍王の娘である豊玉姫(後に山幸彦のお妃となる)と出会う事に神話ではなっているのです。

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その神話の舞台が、木坂の海神(対馬一宮)なのか、こちらの和多都美神社なのかは、まだ、分からずにいます。思えば「海神と天神」を手に随行者と共に三泊四日で両社を巡ったのは十五年も前の事でした。

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仁位の和多都美神社前の参道としての海の鳥居 社殿は手前にあります


御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神(多分この神が大幡主ですね)『對州神社誌』では 彦火火出見尊 鵜茅葺不合尊 とあります。『大小神社誌』 祭神二座 

 こちらででも対応しそうです。百嶋神代系譜を見て下さい。山幸と豊玉姫の間に産れたのがウガヤフキアエズなのです。いずれにせよ海幸山幸神話の重要な舞台はこの一帯なのです。以下、地図でご確認ください。また、対馬に行きたくなりました。あの頃よりは少しは神社が見える様になっていますので。

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峰町木坂の海神神社              旧豊玉町仁位の和多都美神社

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創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けで発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

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伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578


九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずで、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)だろうとした馬鹿学者がいましたが、その追従者どもが今も大手を振って跋扈しているのが実態なのです。

酷いのは、かつて九州王朝論者の組織として古田武彦よりももっと鋭い研究姿勢を持っていたとする九州○○史の会とかいった連中が、長年に亘り一切現場に入る事もなく過ごしてきた事から(対馬や挑戦への観光旅行はやっているようですが)か、今や研究姿勢も研究者も失い、学会通説に調教された畿内説論者の教育委員会や学芸員からの御高説を賜わり、有難がって拝聴していると言う無様な状態にあるのです。

大喜びしているのは佐原 真に調教された利権まみれの考古学協会であり、九州の重要な施設をコンクリートで覆い隠し続けている京都学派の連中であり、そのお手伝いをしているという酷い有様なのです。

これまでのblogにおいて伊豆能賣とは対馬の木坂の海神神社の主祭神である豊玉姫のことであり、この海神神社の後背地が伊豆山(居津山)居津原であることから豊玉姫の別名が伊豆能賣(イヅノメ)と呼ばれたのではないかとしました。

してみると、伊豆の置換え地名である厳原、糸島、伊都、出雲、出石、伊東…もその展開地である可能性までが見えてきたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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豊玉姫の起源が、木坂の海神神社なのか豊玉町仁位の和多都美神社のどちらにあったかは、なお、不明ですが(龍宮、海幸山幸神話の舞台としては地元でも決着がついていない)、糸島市の志登神社(主神:豊玉姫)一帯、今回とりあげた三つの伊豆神社群(遠賀町の伊豆神社は伊豆能賣が主祭神)が展開する遠賀川河口…と、対馬の要衝浅茅湾〜一大率がいた伊都国〜言わずと知れた筑豊から瀬戸内海への要衝としての遠賀川河口と豊玉姫系氏族の展開が見えるのです。

ここで脇道に入らせて頂きます。

今のところ印象と言うか直感だけで考えているのですが、木坂の海神神社は外洋に面した場所であり、一方の豊玉町仁位の和多都美神社はそれこそ湖の様な穏やかな内湾の地です。

木坂の海神神社は旧國幣中社 對馬國一宮であり、祭神を見ると道主貴神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

木坂の海神神社  御祭神 豊玉姫命 配祀 彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合


豊玉町仁位の和多都美神社は式内社 名神大社 旧村社であり、祭神を見ると渡海大明神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

仁位の和多都美神社 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神 


海幸山幸神話では山幸は三年間でしたか豊玉姫と暮らし(凄し)戻って行くのですが、その場所とは波静かな豊玉町だったのではないかと考えています。

その理由は、その地が「仁位」と呼ばれているからですが、この説明に関しては、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦と二田物部の展開地に二田(久留米市、新潟県柏崎)新多(筑豊)、新田(北関東)、仁多(島根県奥出雲)との関係について多くを書いてきましたので内部検索を試みて下さい。

もう一つ、木崎の海神神社が豊玉姫の実家であり、新婚生活を送ったのが豊玉町仁位の和多都美神社ではないかと考えた理由に木坂の産屋の風習があります。

紙面の関係で一部しか掲載しませんが、「海神と天神」(永留久恵)白水社 民俗編264pには産屋の遺風として一文が書かれています。

「対馬に産屋の習俗があった事が確認できるのは木坂の里だけで、それは明治二十年ぐらいまで続いていたと言われる」

「そもそも産屋の習俗は海神神話の豊玉姫が御子ウガヤフキアエズを出産したときの所伝にあり、南方系海洋民の習俗といわれるもので、おそらく倭の水人と呼ばれた海人族の遺風に違いない。その習俗が豊玉姫と磯良を祀る木坂の里にあったことは示唆的である。」とされているのです。

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右は、百嶋由一郎最終神代系譜の一部ですが、山幸彦、ウガヤフキアエズ、安曇磯良の三代と整合している事がお分かり頂けるでしょう。

豊玉姫と山幸彦の夫婦は豊玉町仁位で新婚生活を送り、やはり出産には豊玉姫の父神の龍王が居る木坂に戻りそこの産屋でウガヤフキアエズを産んだのではないかと思うのです。

対馬には福岡空港から20分のフライトで到着します。

後はレンタカーを借り、木坂や仁位のワダツミ神社を訪ねれば良いのです。

伊豆能賣に関心をお持ちになる方は、現場をお示ししましたので、ご自分の目で確かめられ、列島の古代に起こった民族の伝承を確認されるべきであろうと思うものです。

故)百嶋由一郎は“「古事記」の95パーセントは嘘であり、「日本書紀」は、少しは本当を書いていると言い切りました。”これによれば、全ての神官、禰宜、古代史家、歴史学者、教育委員会、学芸員…は大嘘つきで、ほとんど漫画みたいな話をしておられる事になるのですが、それが現実なのです。

最後に、豊玉姫が別名伊豆能賣と呼ばれた理由と考えられる聖地としての伊豆山(居津山)をグーグル・アースで拡大していますのでご覧に入れましょう。

しかし、何故、埋没神として消されたかは不明です。

恐らく、阿蘇系(雲南省麗江から列島に亡命した黎族の後裔)の藤原氏が関わっているからであろうことは容易に想像が付きますが、これは今後の作業であり、また、ご紹介できる機会がくるかも知れません。

黄色い円が伊豆山です。

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海神神社の背後地が伊豆山(居津山)でありこの地に居たことから豊玉姫は伊豆能賣と呼ばれた

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記