2018年04月06日

443 国東半島は九州王朝の紀氏の国 @ “国東市伊美の別宮社”

443 国東半島は九州王朝の紀氏の国 @ “国東市伊美の別宮社”

20170627

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 故)百嶋由一郎氏からは“国東に行きなさい…あそこには九州王朝が残っています”といった趣旨の話を聴かされていました。

 メッセジはそれだけで、何のことだか全く分からなかったのですが、何度も足を運ぶたびに徐々に分かってきました。まずは、その象徴的な神社が姫島の正面に位置する伊美の別宮社となるでしょう。

 そもそも姫島の「姫」は「姫氏」(紀氏)=倭人は呉の太伯王の裔の「姫」であり、彼らの領域だからこそ糸島、国東、宿毛沖などに姫島があるのです。

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同社参道


まず、伊美の別宮社とは忌部(豊玉彦=ヤタガラス)の地にある石清水八幡宮(ここにも高良が置かれている事は「徒然草」で皆さんも良くご存じでしょう)の別宮社という意味であると考えられます。

ただ、忌部の「忌み嫌う」の表記は後世の藤原氏による貶めなのか、結果なのか不明です。

 この荘厳な別宮社の最大の特徴は、表向き宇佐とは別系統の石清水八幡宮を祀るという偽装を行いながら、その陰で、自らの本来の祭神である高良神社と若宮神社(仁徳)を祀っているところにあるのです。

 この高良と若宮を祀ると言う祭祀形態は全国でも確認できますが(つい最近でも、ひぼろぎ逍遥 433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”を書きましたので確認を…)、国東半島では特に著しく、全域の神社に高良+若宮、または、高良や若宮の単独祭祀も各所に存在しています。

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同社参拝殿+回廊


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九州王朝論者の多くは別清麻呂の故事にある近畿大和朝廷と宇佐八幡宮との只ならぬ関係にたじろいでか?あたかも宇佐神宮から国東半島一帯に関する評価を避けている様に見えます。

 宇佐については、触れず語らず、九州王朝の喉笛に突き刺さった棘の様に考えておられるようです。

 それは、神社研究を放棄していた事のつけであり、宇佐八幡宮も元は九州王朝の神宮だったのであり、高良大社は神宮以上の高格式社だったのです。

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高良社


 全国の九州王朝論者でも糸島沖の姫島と国東沖の姫島との関係に注目し、実際に伊美の地に足を踏み入れた方はあるのかもしれませんが、恐らくこの別宮社の神殿脇に高良神社と若宮神社が鎮座している事にさえ気づく人は限られていると思います。第一、別宮社の由緒にさえ書いていないのですから。

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同社参拝殿 


 では、九州王朝の本拠地であった久留米の高良大社の影響が永く残っていた事を示す証拠が残されていますのでお知らせしておきます。

 それは、この別宮社が県社に昇格した記念碑が現在も参道の左手に残されているのですが、このようなものを好んで確認される方などほぼ皆無であろうことは言うまでもありません。

しかし、その県社昇格記念碑の揮毫をしたのが誰かを知れば自ずと理解できるのではないでしょうか。

 当時、県社に列せられることは地域の誉この上なく、その栄えある記念碑の揮毫を宇佐神宮や大分市の二つの一の宮に行くのではなく、高良大社の宮司に依頼したという事実が如実に物語っているのです。

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神社の木々をむやみと打つ別けには行かないため読みにくいのですが当時の高良大社の宮司の揮毫が…


この縣社昇格記念碑を見ると、揮毫した人物は当時の高良大社の矢田宮司だったのです。

当時も氏子総代以下五人ぐらいが揃って紋付き袴に二泊三日ぐらいの行程で列車で久留米に向かい揮毫して頂いたと思いますが、それほどの情念が高良大社に注がれていた事は、今は仕方がなく八幡宮を頂いているものの、自らが祀る本当の神は高良以外にはありえない…との思いがあったからこそ九州の反対側にまで向かったと思えるのです。

つまり、国東半島の八幡宮の本当の祭神は高良の神なのです。

ただ、彼らの思いとは別に、高良大社とは749年(「高良玉垂宮神秘書」)に九州の宗廟を宇佐に奪われてしまって以降は、近畿大和朝廷の息の掛かった神官、禰宜が送り込まれ、逆に九州王朝系氏族を抑え込む役割を担わされ続けたのでした。

ともあれ、石清水八幡宮とは九州王朝の中枢部を荷った紀氏(橘一族…)の僧侶によって創られたものなのです。

国東半島の調査は今後も続けますが、紀氏、橘一族、高良大社、九州王朝が国東の謎を解く鍵になりそうです。


徒然草(上)

52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、

 仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*


 吉田兼好先生のおかげで良く分かるのですが、徒然草でも非常に有名な話です。

石清水八幡宮も元々高良神社のある地に建てられていた事が非常に良く分かります。

 つまり、伊美の別宮社も元々高良神社があった場所に勧請された神社だったのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記