2018年04月22日

448 熊本市に大国主を主神として祀る神社がある “川東大巳貴神社”

448 熊本市に大国主を主神として祀る神社がある “川東大巳貴神社”

20170722

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 熊本市の北、鹿児島本線が北へと延びる谷筋にJR西里駅があります。

このルートは北から熊本に入るほぼ唯一の通路でした。大きく言えば、このルート方向に西南戦争の激戦地となった田原(バル)坂もあるのです。

 さて、この西里付近には硯川とか和泉といった地区があり、この和泉の川東に大国主命を祀る神社があるのです。

 最近気づいたのですが、この外にも鐙田杵築神社(熊本市北区植木町)があり、主神として大国主命を

祀っているようです。ただ、こちらは多分未踏の神社と思いますので(強く意識しないで踏んでいる神社が多い為)、ここでは、一応、保留します。


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鐙田杵築神社 カーナビ検索 熊本市北区植木町鐙田525


 では川東大巳貴神社の話に入りましょう。

十年ほど前から気付いてその後も何回か足を運んだ神社ですが、未だに道を間違えてしまいます。

 しかも、近年、祭祀が失われたのではないかといった感もあります。

 それは、あれほど居並んでいた灯篭が僅かに減り(熊本地震のためでしょうか)境内の隅に纏められていますし、参道も進入路にはロープが張られています。

どこかに合祀される準備中と言った印象を持つのですが定かではありません。

将来的にはこのように祀る人がいなくなる神社が続出する事になるでしょう。

その準備と言えば分かり易いのかも知れません。

以前、この境内で車中泊を試みたこともあったのですが、新月の夜でもあり、不気味極まりない雰囲気に圧倒され、とうとう逃げ出して平地に降りて一夜を過ごした記憶があります。


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川東神社 カーナビ検索 熊本市北区和泉町川東(現地は非常に分かり難いので在住者にお尋ねを)


 では、場所をご確認ください。

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何の変哲もないどこにでもある神社と思われるかも知れませんが、重要なのは肥後の中心地の熊本への進(侵)入路のような場所に二千数百坪もの境内地を持つ神社が存在し、その神社が、何故、大巳貴でなければならないかを考えて欲しいからです。

もしも肥後の熊本に大国主命が祀られているかを説明できる方がおられたらご教授願いたいものです。

故)百嶋由一郎氏はトルコ系匈奴である大山祗が、白族である大幡主の妹埴安姫との間にもうけたのが大国主命であると言われていました。

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そして、邪馬台国の南に展開していたとされる狗奴国こそこの大山祗の一族であり、それが融合し展開した一国が現出雲であると言われていたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この越智族をトルコ系匈奴の一派(王昭君の一族)と考えておられたようですが、狗奴国の勝利的北上の結果、埴安姫の兄に当たる博多の櫛田神社の大幡主系の一展開地であった現出雲は、この大国主系の国譲りの結果生じた移動地の一つであり、それをテーマ・パーク化したのが「古事記」だったとお考えだったようです。

 つまり、大国主命の本願地は熊本以南の鹿児島、宮崎、熊本南半部…であったと考えておられたのです。

 こう考えないと、何故、日向の一の宮である宮崎県の都濃神社が大国主命を主神としているのか?

 西都原古墳群で有名な宮崎県西都市に、何故、大山祗命の墓と言われる古墳が存在するのか?

 鹿児島県の阿多半島の吹上浜に何故、大汝牟遅神社(大汝牟遅神社)があるのかが分からないのです。

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の問題については外にも幾つもの例があり説明したいことがあるのですが、ここまでとしておきます。


 研究目的で百嶋由一郎氏が残された資料を必要とされる方は09062983254でご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年04月28日

449 平家物語にも登場する関山の神社 “熊本県南関町の大津山神社”

449 平家物語にも登場する関山の神社 “熊本県南関町の大津山神社”

20170722

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は南関ICに近い大津山阿蘇神社を取り上げます。

何の意味もない海の日を絡めた三連休の最終日でしたが、参拝客には一人も遭いませんでした。

 以前来た時には結構な参拝客が犇めいていたのですが、これが現在の神社を取り巻く現実なのです。

 向かいの南関いきいき村には買い物客の車が駐めるところがないほど犇めき合っているのですが…。

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さて、筑後と肥後との境に南関町という文字通りの関の町があります。

この一帯には、北の関、関東…といった地名がぞろぞろあるのです。

そもそも肥後の北に、何故、南関町があるのかが以前からの関心事でしたが、テーマが異なるためここでは触れません。

「和名抄」には郷名として玉名郡大水郷とあります。大水は「おおむつ」と読むようですが、現在の南関町に大津山という山がありこれと関係があるとされています。

「おおむつ」が大津山とは奇妙?とお考えになるでしょうが、ネット上には「大津山の比定」(筆者不明)というPDFファイルで読める論文が出されています。取り敢えず納得しましたので紹介します。


「おおむつ」は実際には「おおうつ」に近い発音だったということができる。したがって大水は「平家物語」にいう大津山 (大津) に同じものと考えられる。実際この「大水」という地名、 表記はその後の時代にもしばしば登場する。それも大津山という表現と交互する… 肥後琵琶南関の山鹿良之と書かれています。


まず、水は「みず」mizuではなく「みづ」miduなのです。「おおみづ」oomiduが、ou□□dumiは脱落し、二番目のou(実際は逆)に転化したのでしょうか。九州では「おおか」は「ううか」ですね。


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大津山阿蘇神社 カーナビ検索 熊本県玉名郡南関町大字関東958 0968-53-0625


 「平家物語」は磨墨(スルスミ)に乗る梶原景季と、池月に乗る佐々木高綱による宇治川の先陣争いぐらいしか読んでないのですが、この大津山の関が「平家物語」に登場するのです。


927年完成の『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条によれば、この地域に宿駅が置かれたとされている。 平家物語の中に、南関町の関所が書かれた一節がある。「肥後国、菊池の武将である菊池二郎高直は、平安時代末期、絶大な権力を握った平氏に仕えたが、源氏との戦いに敗れ、安徳天皇、平宗盛と共に九州の大宰府に逃げのびた。その後、菊池二郎高直は大宰府から『大津山の関あけてまいらせん。』と言って、自領である肥後国菊池へ戻ったきり帰ってこなかった。」と書かれている。

平家物語巻八 - 菊池二郎高直は都より平家の御供に候けるが、「大津山の関あけて参らせん」とて、肥後国にうちこえて、己が城に引つこもり、召せども召せども参らず。

つまり高直は「肥後国に入る場所にある大津山の関は、警戒が厳重で簡単に通れない関所なので、自分が先に行ってあとから逃げて来る人たちが関所を通れるようにしておきます。」と言って、自分だけさっさと領地の菊池に逃げ戻ったということである。

ウィキペディアより

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この神社は阿蘇神社と生目八幡の二枚看板のようです。これはこの地域の神社を数多く見てくれば経験的に分かるのですが、生目は後ですので、阿蘇系が覆い被さる前、元々祀られていたのは、菅原神社、古刀比羅(金刀比羅)、八劔神社(スサノウ)なのだろうと思います(「熊本県神社誌」)。

 さて、敵国筑後に対して備えた大津山神社のアウト・ラインが把握できる準備ができましたので、まずは、生目八幡と阿蘇神社との関係から考えて見ましょう。

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まず、元はそうではなかったとしても、阿蘇系神社に、何故、宮崎市の生目八幡がある事が分からないと思われるかもしれませんが、実は関係があるのです。

百嶋由一郎神代系譜によれば、そもそも生目八幡(崇神の子垂仁)は、阿蘇高森の草部吉見と高木大神の次女のタクハタチジヒメとの間に生まれた氏族なのです。

この事が分かれば、阿蘇系と言ってもこの草部吉見系と健磐龍系との強固なスクラムが組まれている事が分かるのです。

それは、この地が肥後の最大の要衝であり、古来、ここさえ制圧しておけば容易には抜けない重要な拠点だったからなのです。

だからこそ、「平家物語」にも登場しているのです。

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「熊本県神社誌」113

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:07| Comment(0) | 日記

2018年04月30日

450 中国地方の製鉄神とは誰なのか?“島根県川本町のたたら神社の例から”

450 中国地方の製鉄神とは誰なのか?“島根県川本町のたたら神社の例から”

20170722

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当方が何故神社調査に拘っているかと言えば、現状の利権構造から生まれた考古学などからは古代が全く探れない事から、別の方法として神社を手段にしようとしているものです。

このため、人畜無害の民俗学の対象である土俗的民間信仰や製鉄業者や造林業者などが寄進したような、言わば、民立神社(このような言葉はないでしょうが)にはこの間全く光を当てて来ませんでした。

 それは、お伽話風に神社を理解される可能性があるからであって、民族と民族、混血したとしても異なる氏族と氏族の衝突、融合という政治的対立が神社にも反映されている事を理解して頂きたかったからでした。

 しかし、たまには息抜きも必要である事から取り上げてみたいと思います。


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現場は江の川沿いの県道31号線とJR三江線が交差する場所で、数百メートルも走れば川本町の中心部に入る町の入口のような場所です

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JR三江線川本踏切(これは素晴らしい写真でしたので思わず無断借用)「一億人の最寄り駅」より

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ただの道路端のお地蔵さんといった風情ですが、ここは江の川に沿った古代からの幹線街道であり、旅をする人々からも行路の安全を願うお賽銭がたいそう入れられた時代があったものと思います。

 さて本題の祭神です。たたら神社の祭神とは如何なる神でしょうか?

 直ぐに頭に浮かぶのは金山彦(加具土命、軻遇突智)なのですが、どうもこの系統は中国の瀬戸内側、四国から熊野そして関東方面に入っているようで、山陰ではあまり目にしません。勿論、金山彦系の三宝荒神が相当にあるのですが、まだ全貌が掴めません。

 この手の製鉄、造林関係の信仰の対象は、山陰では等しく大山祗である事が多いような印象を持っています。

 その大山祗がたたら製鉄の神とされているのは、「山の神」とされていたからでしょうが、そもそも、鉱山も「山」と呼ばれることが何に起因しているかが分からないのです。

 ところで、百嶋神社考古学では、山の神とは大山祗、田の神を大幡主(ヤタガラスの父神)と九州に居た具体性のある人物と考えています。

 その事をお伝えしてこの話をおしまいにしておきます。

 今回は、小さな民間の神社の話でしたが、ある種心の休まる神社でした。

本当は宮本常一風に旅を楽しみたいのですが、九州王朝論の戦闘集団には心休まるところがありません。

古代史の世界は利権まみれの嘘つきばかりで、一部、真面目な人間がいたとしても畿内説論者のようなとんましかいないため死ぬまで気が抜けないのです。

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同社由緒

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 今回は心惹かれる風景に引き摺られてあまり意味のない事を書いてしまいました。

 有力神社氏族に支えられた神社ばかりでなく道祖神的な神社にも魅かれた一瞬でした。


 研究目的で百嶋由一郎氏が残された資料を必要とされる方は09062983254までご連絡
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:47| Comment(0) | 日記