2018年04月15日

446 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

446 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当然にも森友学園と加計学園のお二人の意味です。

通常、国会審議など、与野党を含めたグルによるお笑い番組=猿芝居=八百長=やらせ…としか考えていないのですが、今回の「閉会中審査」に関しては、表向きは正面切った正統性の主張がぶつかりあっているように見えた(初めて国会審議といったもののそれこそ劇場性の綻びが見えた=権力構造内部に混乱が見えたため)事から、蓮舫氏から青山繁春氏…まで、全てラジオで聴かせて頂きました。

勿論、アメリカ同様と言うよりも、アメリカ・エスタブリッシュメントの意向に沿ったマスコミによる世論操作やでっち上げ支持率報道それに不正選挙に基づくこのくだらない見せ掛けだけの偽装民主主義制度などには何の価値も見出していないため、今後とも投票に行くつもりは毛頭ありません(選挙で投票に行くほど政治意識は低くないつもりですので)が、分析の作業だけは怠る訳には行きません。

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私自身も完全には勤め上げられなかったものの、一応は某藩の下級藩士でしたから、役人の生態にはある程度通じているつもりです。ただ、見上げる様な高級官僚の在り様に、一抹のしかし深刻な対立、歪みが生じている事は良く分かりますし、背後に何らかの政治的変動が起こっている事も十分想像できます。

しかし、そのような生々しい政治の話をするのが今回の目的ではありません。

ただ、我々は神社研究者ですので、その観点から見ていると、ある種の面白い現象が見えることから、この側面に光を当てて調べて見ようと考えたものです。

まず、お二人から考えて見ましょう。森友学園の籠池 泰典氏と加計学園の加計 晃太郎理事長です。


@  森友学園の籠池 泰典 前理事長

「籠池泰典」

195327日 香川県高松市にて生誕。実家は海運業だった。

19634月 籠池海運の倒産に伴い一家で兵庫県尼崎市へ転居。

19773月 関西大学商学部を卒業。4月 奈良県に新卒で採用。

1979年 森友学園創立者の娘と結婚。…以下省略

ウィキペディア20170716 10:43


 無題.pngまず、「籠池」という姓自体が非常に珍しいものである事は始めから気付いていました。

 しかし、まさか、全国で13件ものレアものとは思いもしませんでした。

 勿論、少ない姓というものはそれなりに意味のある重要な氏族である場合が多い事から、ご本人の類まれなキャラクター(まず、Y興業なら直ぐにトップスターになれる素晴らしいタレント性を持った方です)にも拘らず、それなりに謂れのある氏素性であることは一目です。

 特に香川、兵庫(淡路島南部限定)に中心がある事から、それだけでもある種のイメージが湧いてきます。讃岐、阿波から熊野に掛けては忌部=豊玉彦=ヤタガラスの領域ですね。

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高松と言えば田村神社ですが、大幡主と山幸=ニギハヤヒ、孝霊、孝元、開化の流れのエリアなのです。

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香川県高松市にある神社。709年創祀。祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天隠山命(あめのかぐやまのみこと)、天五田根命(あめのいたねのみこと))讃岐国一之宮。「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」とも呼ばれる。                            (コトバンク)


祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)

五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) 別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。

猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)

天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) 別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。

天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。

田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。        (ウィキペディア)


さて「籠池」ですが、「籠」とは何でしょうか? まず、天橋立の籠(コノ)神社が頭に浮かびます。

 この「籠」については、佛教大学の 黄 當時教授からポリネシア系言語のカウヌイ、タウヌイという大型の外洋性カヌーの置換えとの説が提出されています。

 「コノ」は「カヌー」の置換えで、「カウ」がポリネシア語の船で「ヌイ」が大きいという意味の後置修飾語という話です。詳しくは太宰府地名研究会のHPから以下を検索して下さい。

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 その意味で、籠池氏のご先祖が海運業をされていた事、籠神社の宝物、物部の海部の「海部文書」があること、伊勢神宮にも繋がる一族にも思えてくるのです。伊勢も大幡主とヤタガラスのエリアです。

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また、籠池の籠は「籠目紋」の籠である可能性も見て取れます。

 ユダヤの神紋とも重なり、大幡主系の伊勢神宮、大江山皇大神宮、籠神社、上賀茂神社、下賀茂神社…

といったものを無視せざるを得ないのです。

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籠(かご)の目=ユダヤの六芒星の内側が籠目紋とも言えますが、六芒星そのものでもあるのです。

少し、籠池さんの顔つきにポリネシアンの影が見え、その背景(南方系海洋民)が見えてきた気もしませんか?次は加計氏の話です。


@  加計学園の加計 晃太郎理事長

「加計 晃太郎」

加計 晃太郎(加計 孝太郎、かけ こうたろう、1950年または1951年生まれ)は、日本の学校法人経営者。学校法人加計学園理事長・総長、広島加計学園長、フィンドレー大学理事、日本私立大学協会理事、岡山県国際交流協会理事、岡山県郷土文化財団理事。岡山県日中教育交流協議会参与。特定非営利活動法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会顧問、岡山北ゴルフ倶楽部理事。

広島県出身。立教大学文学部卒業。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に語学留学。父は加計学園グループ創始者加計勉。語学留学中にアメリカで安倍晋三と知り合い、以来、交友がある。


ウィキペディア20170716 15:04


 無題.png中々気品ある風格ある方ですが、私にはこの方の素性がある程度分かります。

 皆さんは「白川伯王家」というものが存在している(いた)事をご存じでしょうか?

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”…をお読み頂きたいのですが、要は、明治維新まで天皇家の宮廷祭祀を司っていた消された白川伯王家(ヤタガラス系裏天皇)の本流ではないとしても、その流れを汲む人々の一部が加計(カケ)姓を名乗っているのです。

 その前に加計姓の分布を、例によって姓名分布&ランキングからご覧いただきましょう。

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こちらも56件(あくまでも姓名分布&ランキング調べによるものですが)と、こちらもそれなりに有力な氏族である事が分かる家系のようです。

そこで、遠方の方は仕方がありませんが、中国自動車道に「加計スマートIC」があることを思い出して下さい(広島県山県郡安芸太田町加計)。

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この安芸太田町加計に長尾神社があるのですが、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”では、このように書いています。


いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より

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この加計の一帯に厳島神社の社家の一族が入っている事は確実です。

では、この加計という地名はどこを起源としているのでしょうか?

これについても、ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 でこのように書いていました。

それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点で気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々とは、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者、若しくは縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで(古代遠賀湾の最奥部)、本来、地名の根幹は「鹿毛(カケ)」=「加計」にあります。

しかも、この地にある飯塚市鹿毛馬の厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)によって、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。

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この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。市杵島姫はこの地で産まれたか?幼少期をすごされたからこそ佐用姫とも呼ばれたのです。

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厳島神社 カーナビ検索 飯塚市鹿毛馬字宮下1083


 詳細はこれらを読んで頂くとして、広島県の出身とされる加計学園の加計 晃太郎が、この白川伯王の一族の後裔のお一人である可能性が高く、この一帯で有名な「加計隅屋鉄山」の経営者の一族ともつながりのある人物である可能性は非常に高いように思うのです。


さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”にはこのように書いていました。


百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

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今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。

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白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。


王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か?で説明していますので詳しい説明は省きます。


 ただ一点、明治期になり神祇官の指示によって白王姓を名乗るのはまかりならん(天皇家に対して不敬である)として「白王」姓を「白土」姓に変更され、この宮司家は白+(土+、)を名乗っているのです。

ここまで見てくると、加計姓を名乗った人々とは、朝倉日田の大災害で多くの人々が犠牲になっている最中に、自らの世界遺産登録を喜ぶ今の宗像大社や安芸宮島の厳島神社などよりも遥かに高格式の、飯塚市鹿毛馬(カケノマ)の厳島神社に起源を持つ白族(博多の櫛田神社の大幡主の一族)であり、下賀茂、上加茂にも通じる豊玉彦、ヤタガラスの後裔つまり裏天皇家の一族の様に見えるのです。

では、安倍晋三と仲良しのお友達だった方々との関係が、何故、ガタガタし始めたのでしょうか?

今年の二月に スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 で、以下のように書いていました。


既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか(これは潰れましたね)、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。 

籠池氏と加計氏は等しく日本会議のような安倍政権を支えたお友達なのでしょうが、そもそも系統の異なる勢力の方なのでしょう。今回、籠池氏は切り捨てられ、加計氏はまだ関係を維持していると思われます。

この温度差は、統一教会なども含め、安倍を支えた勢力内部に内紛、衝突が起こっており、内部分裂が起こっている可能性も考えられますが、これ以上の奥の院の様子は伺い知る事はできません。

この延長上に現在もあるのですが、安倍の応援団として動いていたヤタガラス系の人々が、キッシンジャー(彼は伝統的親中勢力であることは明らかですね)が引き継いだとされるロックフェラー系ユダヤ・マフィアの指示で反中国を標榜する安倍を降ろす方向で動き始めたのかも知れません。

ここでは厳島神社の一族がどのような流れなのかを百嶋由一郎最終神代系譜で確認しておこうと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この黄枠の三姫君こそ三女神=市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)、鴨玉依姫(タギツヒメ)なのです。

白川伯王〜大幡主〜ヤタガラスの後裔なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年04月17日

ビアヘロ044 ひぼろぎ逍遥(跡宮)未公開分を含む全リスト

ビアヘロ044 ひぼろぎ逍遥(跡宮)未公開分を含む全リスト

20180205

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)はさくらブログで配信していますが、絶対量が多くなると古いものを探して読むことができなくなります。存在はしているもののネット上に埋もれている事になりますので、このリストれを活用し、ひぼろぎ逍遥(跡宮)と○○などのようにダブル検索を行いアクセスして下さい。

 今後公開する予定の未公開分とも併せお知らせしておきます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:40| Comment(0) | 日記

2018年04月18日

447 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

447 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

20170718

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会のエースに宮原誠一氏がおられます。

 氏は3040年に亘り筑前〜筑後の神社研究を続けてこられましたが、百嶋由一郎神社考古学に接してようやく謎が解けたと言われています。

 既に、無題.pngとしてblogを更新続けておられますが、まだ、スタートして間もないもののアクセスもかなり上がっているようです。

 このため、宣伝の意味を込めて、No-014 金山彦と竈荒神 を全文転載させて頂くことにしました。

 なお、「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」にもリンクしており、私の駄文よりもよほど立派ですので、是非お読み頂きたいと思って止みません。以下。


2017-07-16 15:30:00

テーマ:神社祭神 百嶋神社考古学

宮原誠一の神社見聞牒(014)
平成29(2017)0716

No.14 金山彦と竈荒神


私が少年の頃、田舎の台所は横に炊事場があり、その炊事場は土間であった。そこに、井戸水をくみ上げる手押しポンプと流し台と竈(かまど)あり、私の地方では「かまど」を「くど」といっていた。羽釜でまきを燃やし炊飯するのである。一番の難点は残り火の不始末から火事火災を起こすことが度々あった。当時の火事の第一原因は、この「かまど」の火の不始末であった。今はガスコンロ、IHヒーターと科学の近代化で、火災の原因は減り、てんぷら揚げの引火、タバコの不始末等が原因に上ってきた。
その台所・炊事場の柱に火炎を背に、右手に剣を持った「いかめしい大明王」の護符が貼ってあった。火災防止の神様であると祖母は云う。「竈荒神」様である。
父から、この竈荒神様の前で「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」と唱えると、荒神様が守ってくださると教えられた。今でも、この荒神祭文「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」が記憶に残っている。
この竈荒神様。不動明王みたいな形相に鬼のような厳しい表情をされているが、実はそうでなくて、やさしい神様である。

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天満神社 福岡県田主丸町亀王 境内社「秋葉神社」と祭神「金山彦・軻遇突智神」

ひところ、三宝荒神と云う名を良く耳にしたが、最近は余り聞かなくなった。
先の竈荒神様の護符も「不動明王みたい」なものではなくなり、一般神社の四角ものの護符に変わって穏やかになっている。
その三宝荒神であるが、神仏習合の仏教の「仏 宝 僧」の三宝を守護する神とされるが 根拠となる経典や教義は見当らない。仏教の菩薩 道教 陰陽道 修験 神道などの日本の宗教土壌のなかで複雑に融合しあい造りだされた神といえそうである。
中国で独自に編纂された経典『无障礙経』(むしょうげきょう)では、如来荒神(にょらいこうじん)、麁乱荒神(そらんこうじん)、忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三神と説いているが、根拠はない。

竈荒神様の荒神祭文に絡んで、物部氏の鎮魂法の呪詞を参考までに。


物部鎮魂法の一部
足の裏を合わせたあぐらを組み、両手の指を組んだまま、左振り、右、前、後、中と体を振る。「ひ」で一回、「ふ」で一回、・・・「と」まで10回、力を込めて振る。「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えながら、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と唱える。


福岡県大宰府北谷の寳満宮。昔は寳満宮竈門神社といった。
筑紫野市山家の山家宝満宮の北西の太宰府市内山に宝満宮竈門神社が鎮座する。大宰府政庁(都府楼跡)の鬼門に当る宝満山に大宰府鎮護のために祀られたと云う。
祭神は玉依姫、相殿 神功皇后(左)、応神天皇(右)となっている。
竈門荒神の竈と荒神が結びつくのであるが、その竈門についての由来記がある。


「竈門山」名の由来
「竈門山」という名の由来は、この山の九合目にある竈門岩によるという説と『筑前国続風土記』には、この山が、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているように見えるので竈門山というのだと書いてあります。これは太宰府天満宮方面から見る山の姿です。
多くの方に最も親しまれている「宝満山」の呼び名は、神仏習合によって、この山に鎮まります神が、「宝満大菩薩」とされたところから、山伏の活躍と共に「宝満山」の名称が広く浸透して今日に至っています。


宝満山の名は、山家宝満宮の祭神・宝満大菩薩が勧請され、山伏の活躍によって広められた、とある。また、竈門山の名は、竈門岩と太宰府天満宮方面から見る山の姿が竈に似ていることに因む、とある。竈荒神様の一人に鴨玉依姫が百嶋神社考古学では当てられている。


三宝荒神に戻って、三宝荒神は一人の神様を火神に、二人の神様を竈神に据えることが多い。各地の荒神社をみてみると、火神には、素盞鳴尊、彦火々出見命、金山彦が当てられることが多くあり、竈神には奥津彦神、奥津姫神(長髄彦姉弟、大山咋・玉依姫)、を当てるのがみられる。
荒神様の神徳は「水神」、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあり、「火災防止の神」、「招福の神」でもあり、幅広い霊力ある神様でもある。
竈荒神、三宝荒神共通に見られる神様が金山彦である。
別名「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様であるとも云う。有名なのは、「天叢雲の剣 あめのむらくものつるぎ」を作られた神様であるという。


金山彦と櫛稲田姫(くしなだひめ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生講演「菅原道真の先祖神は何か」2012121
一番最初の九州王朝親衛隊金山彦はどこにおられたか、それは福岡県前原曽根の平原。天照大神の古墳のあるところ、曽根一族が九州王朝の初代親衛隊長金山彦です。金山彦が九州王朝の治政がある程度落ち着いたところで、金山彦の本来の仕事である貴重な鉱物資源を堀るために、場所を移して、ある程度住んでおられた場所が熊本県の山鹿です。
従って、山鹿で神武天皇のお后・吾平津姫をお生み申し上げ、今度は、金山彦の嫁さん(大市姫)が変わって、埴安姫のお子さんとして櫛稲田姫をお生みになった。櫛稲田姫の出身地は熊本の稲田ですが、櫛稲田の名前で有名なのは佐賀の神埼(櫛田神社)です。そのほかの櫛稲田はあとでとっつけたものです。


百嶋由一郎先生講演「玉名・山鹿・菊池の神々」201225
福岡市の隣の糸島市に曽根丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。ここに住んで居られた天照大神及び神武天皇のお姉弟を守っておられたのが金山彦九州王朝親衛隊長だったんです。この金鑚大神はある程度の年齢になってから、嫁さん(大市姫)をもらって、熊本県相良の土地で吾平津姫をお生みになりました。この土地では金山彦になっています。紋章はこれ"円天角地に十字剣"ですよ。そして今度はお后が変わりまして(埴安姫)、おなじ近くで櫛稲田姫をお生みになりました。

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百嶋神代系譜・大幡主・月読命・伊弉諾命・金山彦 神代系図(2)


出雲地方のヤマタノオロチ神話は有名で、ほぼ誰もが知っておられることと思う。
足名椎(あしなつち)夫妻とその娘・櫛稲田姫をヤマタノオロチ(八岐大蛇)から素戔嗚尊が救う物語で、退治したヤマタノオロチを切り裂いたら、アメノムラクモ(天叢雲)の剣が出てきたという話である。
実は、この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われている。
大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊である。オロチ問題が終わったことは二人の豪族間の争いが終結したことを意味する。


金山彦と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生久留米大学講演「九州王朝前夜」2011716
自分たちの一族である長髄彦が神武天皇に対して弓を引いた。それで、それをお詫びするために長髄彦の親父である素戔鳴は大変苦労されて、何とか天照大神にお詫びする方法を考え出された。それが、天叢雲(あめのむらくも)の剣の献上です。天叢雲の剣でピンとこられない方は、ヤマトタケルが後々お使いになった草薙の剣です。
その献上の使者として、お立ちになったのが少年、大山咋(天葺根命アメノフキネノミコト)。これは佐賀におけるお名前です。後々のお名前が比叡山の日吉大社、熊本にいる頃は国造神社です。


百嶋由一朗先生講演「神社研究会」2011528
素戔鳴尊が暴れられて、天照を困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、素戔鳴はそれを後悔して、天叢雲の剣を打って、それを天照に献上なさいました。その献上の使者となったのが佐田大神です。その時は、まだ若い青年でした。この功績で佐田大神となったのです。ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(福岡・熊本では大山咋の神といいます)の長男坊主(稲飯命)がこともあろうに熊襲(羽白熊鷲)とタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。


天叢雲の剣は、素戔鳴尊が天照大神にお詫びする方法で考え出された。それが、天叢雲の剣の献上で、金山彦が天叢雲剣を打って、献上の使者となったのが、若き大山咋・天葺根命であった。

「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について、高良玉垂宮神秘書第1条から。


高良玉垂宮神秘書第1条
天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入り給う。その川の川上より箸一対流れ下る、人が在ると思し召し、川を伝いに入り給う。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。スサノヲ尊、尋ね給う。いかなる人にてあるか?答えていわく。この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」あり。今年はわが姫に当たりて、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えるなり。スサノヲ尊聞こし召す。ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべしと仰せおれば、翁、答えて申す。御意にそうすべし。喜びいわく、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫と云うなり。
スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作りて、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置きたまう。
風水龍王、人形の形が酒に映りて、酒の下に人があると思いて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥したり。スサノヲ尊、これをご覧じてトツカの剣を抜きて、散々に切りたまう。八の尾をことごとく切り給う。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷のごとくになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失いたまう。(中略)
スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まりて、この宝剣を天照大神に贈呈され、喜びはかぎりなし。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りたまう。
(中略)
この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と申すなり。
その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。


記紀の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)説話の原典であろう。オロチを騙していかに毒酒を飲ませるかがよく表現されている。考えてみれば、オロチも単純で、酒甕に映った人形姫を、その酒下にいる姫と思って酒を飲み干すのであるから。
「剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくにあるにより、叢雲の剣と申すなり。」
叢雲とは気象学的に積雲もしくは積乱雲に近い雲といわれる。おそらく、たたら製鉄の折、溶鉱炉から立ち込める炎と煙がその様に見えたのであろう。

素戔鳴尊は天照大神へのお詫びに宝剣を献上するため、金山彦に叢雲の剣の製作を頼んだ。
金山彦はその製作にあたり、砂鉄と炭を原料に「たたら溶鉱炉」を造り、溶けた砂鉄から玉はがねを取り出した。そして、力の限り鋼を打ち宝剣をつくり上げた。その時の形相が今の不動明王の姿に似ていたのであろう。金山彦の後ろに映る溶鉱炉から立ち込める炎は後背の炎に、剣を打つ鍛冶の姿は顔を赤くした鬼の姿に見えたのであろう。
そこで、金山彦のイメージが三宝荒神の不動明王と重なった。背後に炎を背負い、右手に剣を持った不動明王の姿になった。金山彦の姫君・吾平津姫(あいらつひめ)は後の神武天皇・大白太子の后である。その金山彦の姿がいかめしい不動明王の姿とは、イメージが合わない。
そして、金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様となり、溶鉱炉の炎を制御し、火災防止の神様に祀り上げられた。

金山彦は火災防止の神様と祀られている秋葉神社の祭神である。別名、「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
昔、村中で大火があると、村神社の境内に火災防止・再発防止のために秋葉神社が境内社として建立された。大火が村中に及ぶと村神社の秋葉神社となることもあった。その例が、福岡県田主丸町片の瀬新町の秋葉神社である。本来の町中には須佐能袁(すさのお)神社が町を守るため鎮座されている。

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秋葉神社  福岡県田主丸町片の瀬新町


福岡県田主丸町片の瀬 宝暦7年(1757) 本町新町全焼。

明治44年6月本町で14戸を焼失する。

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福岡県田主丸町片の瀬本町の鎮守・須佐能袁(すさのお)神社

以上転載


 息をも飲む素晴らしい分析です。自身も「高良玉垂宮神秘書」の解析作業に入らなければならないと考えていたところですが、遠方の神社調査への思いが強く放置してきました。

宮原研究はそれを埋めて余りある物を持っています。是非とも多くの読者がお読みになる事を希望します。

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「高良玉垂宮神秘書」    百嶋由一郎三宝荒神系譜


 これまで、「出雲神話の舞台は九州である」という事をお伝えしてきました。一例ですが、


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大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”


では、菊池川を肥後の肥の川と見立て、金山彦、埴安姫(アシナヅチ、テナヅチ)の間にクシナダヒメが産まれている事から、スサノウのヤマタノオロチ退治の舞台は熊本県の山鹿市であろうと考えていましたが、宮原研究では北部九州でも他の地域をお考えになっていたようです。

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これについては直接お書きになっていませんが、福岡市の油山の麓には樋井川が流れ桧原(ヒバル)と柏原(カシワラ)が存在しているのです。

百嶋先生もご指摘の通り、桧原には天照(姉)が柏原には神武がいた…と言われていました。

勿論、「古事記」のインチキ神話では、天照と神武が姉弟などとは書かれていませんが…、百嶋神代系譜では腹違いの姉弟なのです。

 出雲が藤原により造られたテーマ・パークでしか無い事が幾分かはお分かりになったでしょうか。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記