2018年04月09日

444 国東半島は九州王朝の紀氏の国 A “大分県国東市岐部の岐部神社”

444 国東半島は九州王朝の紀氏の国 A “大分県国東市岐部の岐部神社”

20170628

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊美の別宮社と岐部の岐部神社の間にケベス祭りで有名な岩倉社がありますが、これについては、


ひぼろぎ逍遥(跡宮)奥の院紹介特別掲載001 岩倉社 ケベス祭りのケベスとは何か? @

ひぼろぎ逍遥(跡宮)奥の院紹介特別掲載002 岩倉社 ケベス祭りのケベスとは何か? A


を書いていますので省略しますが、このケベス祭が岐部の衆もしくは岐部の「主」もしくは岐部の「し」のどちらかの意味であろうと思っています。

 さらに、その岐部(木部)とは紀氏の意味であり、古い表記では「姫」(中国音ジー)氏に相当する呉の太白の後裔の意味も併せ持つものと考えられるのです。

 また、西隣には櫛来、東隣りには来浦(クノウラ)という谷があり、これも紀氏の置換え地名と考えられそうです。

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岐部神社 カーナビ検索 大分県国東市国見町岐部1883

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参拝殿の屋根が十字型であることは金山彦系の神社に多く認められる様式です


祭神はご覧の通りです。

あくまでも“一般的には”ですが、「大将軍」には大国主命を表す場合もありますが、金山彦を意味するものであろうと考えています。

しかし、御祭神には金山彦も大国主も出て来ません。

ただし、境内社には秋葉社(迦具土命)、上姫社(金山彦)があり、いずれも金山彦を祀るものです。

ここでは、筆頭の神として経津主命(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)が祀られています。

とりあえず紀氏が奉斎する神としてはおかしくはないでしょう。

櫛稲田姫も金山彦とお妃の埴安姫との間に産れたプリンセスですし、金山彦系の匂いは濃厚です。

しかし、武甕槌命や皇産霊命が紀氏とまでは言えないでしょうから、祭神が入れ替えられている事が見て取れます。

 注目すべきは若宮社であり、これは元々紀氏が奉斎してきた高良神社+若宮社の名残であろうと思います。

 奇妙なのは鴨社が事代主とされていることですが、国東ではあまり格式の高くない事代主が幅を利かせている傾向が見て取れます。

 事実、隣の来浦には一等地に事代主神社が置かれていますし、国東の傾向と言えば言えそうです。

まず、保食命は伊勢の外宮様、経津主命は山幸=ニギハヤヒ=猿田彦、武甕槌命は草部吉見ですね、九州王朝を支えた神々の揃い踏みです。

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同社由緒


ここでネット情報を拾うとなかなかの識者がおられました。


豊後国国東郡岐部郷の史跡(その3) 岐部神社 大分県国東市国見町大字岐部

平成26年4月23日、撮影。 岐部神社 両宮鳥居。

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鳥居の額に「両宮」とある。両宮というのは、天大将軍と牛頭天王である。寛永8(1631)年の棟札が、岐部神社に現存する棟札では最古のもので、その寛永8年の棟札には、「天大将軍三社大明神」とあり、貞享2(1685)年の棟札には、「三所大明神」とある。三社(三所)というのは、保食命(うけもちのみこと)と経津主命・武甕槌命との三柱である。当初の岐部社は、保食命を祀る大将軍社であったものに、経津主命・武甕槌命の武神二神を合祀して、天大将軍三社あるいは三所大明神と称するようになったと推測されている。この天大将軍三社(あるいは三所大明神)に、牛頭天王を合わせて両宮という。
宝永三(1706)年以降、「両宮」という呼称が見えるようになるという。したがって、これ以前に牛頭天王が合祀されたと思われる。現在の岐部社の祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・保食命・素戔嗚尊・経津主命・武甕槌命・表筒男命・中筒男命・底筒男命の十柱である。天御中主命以下の天祖三神の合祀時期は不明で、表筒男命以下の住吉三神は小岐部住吉鼻にあったものを明治十二年に合祀した(神社明細帳)

無題.pngによる


 大分県には「大分県神社誌」といったものがなくこちらも苦労しているのですが、「明治の神社明細帳」だけが頼りです。

 非常に参考になる話で有難い限りです。

「両宮というのは、天大将軍と牛頭天王である」は参考になりますが、前述の櫛稲田姫は牛頭天皇=スサノウのお妃なのですから、金山彦+スサノウの祭祀形態が底流に存在する事は間違いないようです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)研究目的で必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

境内に置かれた灯篭です無題.pngこれが紀氏のシンボルです


これは岐部神社の灯篭ですが、格式の高い古い三つ葉葵です。これよりも古い立葵の神紋をご覧頂きましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:44| Comment(0) | 日記

2018年04月12日

445(後) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

445(後) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

2017071520100409)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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資料 「青」地名


最後に、青島、青木、青井、青山、青江…といった青(アオ)という音の付く地名について正統派の論考をとりあげます。地名研究の世界では既に確立した概念であり、先行する立派な論稿も数多く出されていることから、今回は自説を抑えながら、広く多くの説を紹介することで地名の新たな側面を切り出したいと思います。

私がこのアオという地名をはじめて意識したのは三十年も前のことでした。長崎の市街地から南にニ、三十分も走ると香焼町に入ります。戦前、戦中は川南造船が陸軍相手に上陸用舟艇やら軍用船を造っていたのですが(香焼では陸軍の輸送用潜水艦“○ゆ”も造っていたと聞きましたが詳細はこれからです)、現在では持ち主が替わり(戦後の川南の造船疑獄事件も一因)三菱重工の巨大な造船所に変貌しています。今でこそ造船所の建設などによって半島状になっていますが、もちろん、古くは島だったのでしょう。

さて、この半島の東岸に安保(あぼ、あほ)と呼ばれる地区があります。「安保条約」の「安保」ですから、その時は単に驚いただけでしたが、今になって考えれば、阿保、阿翁、粟生、青、藍、檍…などと表記される特殊な海岸地名を発見した瞬間だったのです。

長崎県ですが、中五島の青方は良く魚釣りに行っていたところでした。近場では、これまた釣りのフランチャイズだった伊万里湾の青島、鷹島の阿翁(アオ)の浦、阿翁崎があります。久留米から見れば、筑後川左岸の久留米市城島町に青木がありますが、ここは元々青木という地があり、目の前に出来た青木島までも地続きになっています。 

福岡市内にも青木があります。西区今宿の生の松原と長垂の海水浴場との間の明治の旧青木村があり、古くは湿地帯であった福岡空港(板付空港)の真中辺りから東の丘陵地にかけても青木という地を確認できます。熊本県では玉名市の東、伊倉台地の縁に青野が、菊地川右岸の横穴墓地帯に青木があります。このように、いずれも大河川か海(かつてそうであったところも含めて)や沼に面するところに分布しているのです。

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一方、頭に浮かんでくる有名な地名としては、宮崎県の観光地の青島、人吉の青井阿蘇神社の青井地区、耶馬溪の青の洞門、遠くは、東京の青山御苑(この墓地については実は偶然なのですが)、富士の裾野の青木ヶ原、山口県の青海島…といったものがあります。

この一群の地名が何を意味しているのかを考えるのが本稿ですが、若々しい、青々とした木々や草々が生茂る土地ということで良ければそれで良いのですが、古来、その背後には驚くような事実が横たわっているのです。まずは、ネット上にある青地名をいくつか紹介致しましょう。


姫路の地名色模様


インター・ネット上に「姫路の地名色模様」“姫路の小字地名の由来”というサイトがあります。落ち着いた内容で非常に気に入っているのですが、これに「青」“あお”という好文が書かれています。書かれたのは、20050816日となっています。私も姫路に降りた時にはいずれ足を向けてみたいと考えています。

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海岸線に近い的形隧道をくぐり抜けた電車は辺りの木々をゆすり、茶褐色に色あせた葉が空に煽られて一瞬ざわつく、風の静まる間もなく下り電車がトンネルに吸い込まれていった。
 的形と八家地区の境域となる下坂山の東に、小字で言うなれば「青」の西南隅を占めていた下坂池の大半が埋めたてられ、公園になったのは昭和四十年代後半のこと、山の南斜面に緩やかに広がる畑地が、その好立地条件ゆえに住宅地へと変貌した。
 日本地名研究所の谷川健一所長は、青という地名について、青年だとか青春に代表される未熟さの代名詞ばかりでなく、青ざめた死の色でもあると述べている。沖縄の地理学者、仲松弥秀氏は、沖縄では奥武(おー)と呼ばれる地先の七つの島が、いずれももと古い葬所となっていたと推定する。この「おー」は青から由来するものであるとの論に「青の会」を主宰する谷川氏も賛同、「もし本土の海岸や河川の流域に青を冠した地名があって、一つには埋葬地と関係があり、二つには海人族とつながりがあるならば、それはなにがしか民族移動の痕跡をたしかめる手がかりともなろう」と記している。
 的形の小嶋地区にある「青」について、自治会長、前畑孝雄氏は、昭和三三年姫路市に合併するまで「青」は地区の焼き場だった、火葬以前はセンドという三昧場で、土葬の古くなった墓穴にズッポリと長靴の足をとられた、と往時の記憶をたぐりよせる。
 町内の福泊は行基が定めたという摂播五泊の一つで、もとの名を韓泊といったが、韓の訓みが空に通ずるのを嫌い福泊になったとのいきさつがある。的形は瀬戸内海でも有数の古代製塩の伝承地で、海の突端の岬に「行基ガ鼻」という地名が残っている。行基は、百済からの渡来一族で、すぐれた築堤の技術をもって塩田を切り開き、塩作りを広め、人びとのために尽くしたことから行基菩薩と呼ばれた。

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たった一文字だけの「青」地名に、こんなに深い歴史の蔭が投影されていようとは、だから地名は面白い。もう一本、ネット上からご紹介しましょう。

「目からウロコの地名由来」です。ここにも「青」の地名という好論があります。


目からウロコの地名由来 “「青」の地名”


無題.png『人間(じんかん・にんげん)至るところ青山(せいざん)あり』の「青山」とは「骨を埋めるところ・死に場所」という意味だ。つまり、「人間にはどこでも生きてゆける場所があり、生まれ故郷ばかりが生活の場ではない。人はどこにでも死に場所はあり、広く世に出て活躍すべきである」という金言なのだ。このように「青」はブルーの色を表すほかに、死者の埋葬地にも付けられる地名でもある。大阪府藤井寺市青山は「古市古墳群」のど真ん中にある「青山古墳」の南にある集落で、新興住宅地となっている。まさに死者の埋葬地の「青」地名である。ちなみに、東京都港区にある「青山霊園」の「青山」とは、美濃国郡上藩主の青山家の下屋敷に由来するもので、霊園はその屋敷跡に造営されたものだ。偶然ではあるが、「青山」はまさに墓地にふさわしい地名であった。福島県会津坂下町の青津には、亀ヶ森古墳と鎮守森古墳があり、隣接して青木もあり、墓地の意味の「青」だ。谷川健一は沖縄にある「奥武(おう)」に注目し、「奥武」は「青(あお・おう)」であり、死者の埋葬地に由来する地名であるとした。沖縄県には奥武島が南城市、久米島、座間味村、名護市にあり、那覇市の奥武山公園、北中城村の奥武岬等がある。本土には「奥武」は無いが、「あお」地名の「青」「粟生」「阿保」「阿尾」等がある。果たしてこれらは埋葬地と関係があるのだろうか。ところで「青」の地名が日本海側に集中していることは早くから注目されてきた。谷川氏は、「青」地名は埋葬場所との関連とともに、古代海人族の居住地でもあることを示唆し、日本海側に集中しているのは、彼らが対馬海流に乗って移動した結果だという。西から目をこらして拾ってみた。朝鮮海峡に臨む長崎県対馬市青海、壱岐市の青島、松浦市の青島、山口県下関市粟野、長門市青海島の青海、萩市青長谷、萩市青海、島根県浜田市青浦、浜田市の青川、江津市青山、江津市青波、出雲市青野、松江市の青島と青木島、米子市粟島と粟島神社、隠岐の島町の青島崎、海士町青谷、鳥取県琴浦町粟子、鳥取市青谷、鳥取市の青島、京都府伊根町の青島、舞鶴市青井等は死者を葬った場所と関係があると思う。さらに東へ行くと、福井県高浜町には青葉山、青戸入り江があり、青という集落もある。そこには「JR青郷(あおのごう)駅」があり、いずれも海人と死者に関わる地名だとされる。福井県小浜湾に浮かぶ蒼島はかつて青島と表記していた。若狭湾に突き出た小浜市の大島半島ももしかして青島(おうしま)だったかもしれない。まさか「あおはま」が「小浜(おばま)市」、「あおい」が「おおい町」に転訛したとは・・・思えないこともない。小浜市には青井という地名もある。さらに東へ、石川県金沢市粟崎、羽咋市粟生(あお)、穴水町青島、七尾市青島、富山県魚津市青島、入善町青木と青島、新潟県糸魚川市青海、柏崎市青海川、新潟市青山とつづく。「大」が「青」である良い例として、新潟県糸魚川市青海の大沢地区には、「青澤(おうさわ)神社」がある。また、奈良県の「大和青垣国定公園」の「青垣」は、古くは奈良盆地を大きく囲うようにしてある山々を総じて称したもので、やはり大垣の意味合いをもっていたと思う。「青」は「粟」にも変化している。石川県金沢市粟崎はもと青崎といい、砂丘堤にある羽咋市粟生ももと青と表記した。能美市粟生町や富山県氷見市阿尾は果たして埋葬地と関係があるのだろうか。日本海岸以外の「アオ」地名を追ってみる。兵庫県小野市粟生は、加古川と万願寺川の合流点にあり、「合う」を意味する「アオ」ではないのか。同じように、菊池寛の小説「恩讐の彼方」の舞台となった「青の洞門」は、大分県中津市本耶馬溪町の「青」という地区にあるがゆえにその名がついた。「青」は山国川と跡田川の合流点にあり、やはり川が会う場所に付けられた地名だと思う。徳島県吉野川市粟島は吉野川の中洲にあり、かつては埋葬地であったという。熊本県人吉市中青井、香川県詫間町粟島、新潟県粟島の由来は良く分からない。近鉄大阪線の長い「青山トンネル」で有名な三重県伊賀市青山町は、旧阿保(あお)村他3か町合併時の瑞祥地名というが、町名を青山に決定する際には、その中心的集落の「阿保」を意識したと思われる。この「阿保」は「アワ」に通ずるものであり、大阪府松原市阿保と同じように低湿地の意味だと思う。宮崎県の名勝「青島」は青島神社の神域だが、和歌山県日高町阿尾と同じく、水葬の地と関係があるかもしれない。岐阜県大垣市の西部に「青墓町」と「青野町」がある。付近には古墳があるが、大墓、大野が訛ったものと思う。東京都葛飾区青戸は駅名を「青砥駅」と表記するが、地域の人は「おおと」と発音し「大戸・大渡」として中川の渡し場だったことが分かる。江東区の青海(あおみ)や目黒区の青葉台は、長崎市青山や千葉県千葉市青葉町、宮城県仙台市青葉山のように、周囲の景観からして明らかに瑞祥地名だ。伊豆諸島の青ヶ島は青い海そのものだろう。富士山麓の青木ヶ原は昔、ソウズカと呼びこの青はお墓のことだという。


それにしてもソウズカノババは知られていますね。


岩手県九戸郡山形村における葬墓制等の民俗調査 ... - 成城大学リポジトリ

https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common...id...

小松清 著

半は、誰のためのものだか分からないとか、ソウズカノババまたは無. 縁のためのものとかいわれる。 摩物 死者が生前に愛用した靴とか下駄とか草履などのりっばな履物一足を、. 埋葬後に埋葬した所に立てた塔婆に下げる。これをうずめはしない。愛用の履.

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

445(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

445(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

2017071520100409)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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写真「長生きも芸のうち日記」http://barakan1.exblog.jp/3284047/より画像借用したもの


民俗学者の谷川健一といえば、『青銅の神の足跡』『白鳥伝説』などで著名であるこというまでもありません。古代史を探求する人々のなかにも、少なからずこの傍流の探求者の影響が底深く浸透していることについては否定することができないでしょう。

ただ、吐き気を催すような『東日流外三郡誌』偽書問題の空騒ぎでは、歳の功からか?学者諸氏の先頭に名を連ね祀り上げられたことでも知られています。はたしてそれが、誠実な学者の姿勢を示したものだったものか、ただの御用学者どもが尻尾を振った揃い踏みに加わったものに過ぎなかったのだったかは将来に待つこととし、ここでは、氏の業績として良く知られた地名の研究から話を始めることにしましょう。

氏は沖縄など南西諸島に数多く分布する奥武(オウ)島や青の音の付く地名の研究から、本土の「青」地名は古代まで遡る葬地ではなかったかとしたのです。

※奥武島は南城市、久米島、座間味村、名護市など


谷川健一の「青」論


 詳しくは氏の著作その他に当たられるとして、ここではその一端を引用します。


  …沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また、海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。…


…たとえば鳥取市の西にあたる湖山池(こやま)の南岸には、青島が浮かんでいる。そこは縄文、弥生、古墳期にわたる遺物を出土している小島である。この湖山池には江戸時代に水が汚されるという理由から、火葬の灰を流すことを禁じた法令が出たといわれている。つまり、青島がかつては水葬の地であったことを暗示させる風習が江戸時代までつづいていた。湖山池より更に西の東郷池の浅津(あそうず)ではかつて墓のない村が八百戸もあり、火葬したのちに遺骨の一部を残して他の遺骨や灰を東郷池に捨てたという。田中新次郎はこれを水葬の名残と見ている。…


『日本の地名』(岩波新書)から“沖縄の青の島”


…対馬の西海岸にある青海(おうみ)という集落では、埋め墓は波打ち際にあり、詣り墓、供養する石塔は、すぐそばのお寺にある。したがって、死体そのものは波にさらわれていくのに任せるのである。…

近著『民俗学の愉楽』(現代書館)から“青の島とようどれ”

 谷川はどうせさもしい安本某から唆されただけだったでしょうが哀れな話です。


船王後墓誌と安保(アボ)


船王後(船氏王後)墓誌は江戸時代に柏原市松岳山古墳の墳丘上部から出土した約30cmの銅製の板で表と裏に一六二の文字が刻まれていますが、錆によって完全な判読は難しいとされています。ただ、裏の方は保存程度が良く、ある程度は読めるようです。

 この船氏は河内国丹比郡を本拠とする渡来系氏族といわれ、その王後は舒明天皇から冠位第三等の位を授けられたとされています。

 一応、現存する最古の墓誌であり、山城国の小野毛人の墓誌とともに注目されていることはいうまでもありません。

これに関して、東京古田会ニュースNO.13120103月)に古田武彦氏による「近世出土の金石文(銘板)と日本歴史の骨格」という論文が掲載されました。ただ、この趣旨は今回私が述べようとするものとは別のものになりますので、一般的な未読の方も考えて概略を紹介しておきます。


 その第二は、「船王後墓誌」である。大阪府柏原市の古墳から出土し、現在三井高遂氏の所蔵となっている。

 「惟船氏故 王後首者是船氏中祖 (中略) 即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の長文である。その中には三人の天皇と、当人船王後との関連が語られている。

 辛丑(641)十二月三日が「庚寅」。夫の死。戊辰年(668)が妻の死。干支との関係から、「時限」が特定できる。ところが、関連する天皇名は

 @(おさだ)宮 A等由羅(とゆら)宮 B阿須迦(あすか)宮の三天皇であるが、従来当てられてきた三天皇(敏達・推古・舒明)とは、ピッタリ"対応"はしていない。たとえば、阿須迦天皇は推古でなく、舒明に当てざるをえない、等である。

 その上、致命的なのは三天皇間の用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明・天智(585671)等の天皇名がすべて「無視」されている点である。この銘版は「天皇名と当人との対応」が主眼である点から見れば、不可解である。

 さらに、当の船王後が「大仁」にして「品第三」という顕官であるのに、日本書紀に一切その名が出てこないのである。

 以上、2例とも「同時代史料」としての銘版は(金石文)と、日本書紀・続日本紀が一致しないこと、この事実は何を物語るか。他でもない。日本書紀・続日本紀の側の「造作性」と「虚構性」をしめす。この帰結以外にはない。 


2009103日 近世出土の金石文(銘版)と日本歴史の骨格 古田武彦


同日 東北大学文学部で行われた日本思想史研究会10月例会で報告(『年報日本思想史』第9号に、収録予定。) 


 さて、古代史よりも地名や民俗学に関心を寄せる者として、また、地名研究の側面から古代史に近接しようとする者として、この古田論文に書かれていた原文にしばし釘付けとなりました。

驚いたのは、大変失礼ながら先生の論旨である「記」「紀」の矛盾などではありません(その点についてはただただ傾聴するのみです)。

私の関心事は、「即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の「安保」とは墓、墓所、葬地を意味しているのではないかという一点でした。六〇年安保の「安保」ですから、勢い、安らかに保ちとか解釈しそうですが、そのような意味ではないように思うのです。 

若輩者による我流の読みとしては、「即ち安保(アボ)をなす。万代への霊基は牢固(しっかりしていて)にして、永劫(未来永劫までの)の宝地なり」となるのですが、当然にも動詞は「為す」となり、同時につくるという意味を持ってもいます。

要するに、ここに書かれている「安保」とは文の流れからしても、墓、葬地、聖地の意味ではないかと考えたのです。

 では、安保(アボ)が本当に墓所と葬地と考えられるのでしょうか?

実は、実際に「安保」という表記の地名があるのです。一般的に、青地名は日本海側に特に多く、山口県長門市仙崎港沖の青海島、丹後半島は舟屋で有名な伊根の青島(アオシマ)、福井県小浜市の蒼島など数多く認められますが、「アボ」と読める地名を九州で数例を確認しているのです。ご紹介しましょう。


安 保(アボ) “天草上島と長崎市香焼に残る古代の葬地名”


奇妙な地名対応


長崎市香焼町の東海岸に安保(アボ)と梅ノ木という地名があります。

ところが、熊本県の天草上島の不知火海に面した旧栖本町、倉岳町の境界にも、阿房(アボ)、阿保(アボ)と梅ノ木という同様の地名群が存在するのです。

まず、表記は異なるもののアボと呼ばれる全く同じ地名が離れた場所にあり、同様に複数の関連地名が近接してある場合、ただの偶然として済ますことはできません。


長崎市香焼町 東海岸一帯の安保(アボ)、梅ノ木「長崎県広域・詳細道路地図」昭文社

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※ 昭文社の道路マップを使用していますが、著作権の問題があり、解像度を極限まで落としています。


天草上島の南海岸、旧栖本町、倉岳町境界の阿房(アボ)、阿保(アボ)、梅ノ木

同じく「熊本県広域・詳細道路地図」昭文社

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このあまりにも不思議な地名対応についてひとつの仮説を立てました。まず、…

1)阿房、阿保、安保と表記されるものの、等しくアボと呼ばれていることから、恐らく、谷川健一によって提唱された葬地としての青(アオ)地名の一つであり、古くは水葬がおこなわれていた土地、場所と考えられるのではないか。

2)近接する梅ノ木という地名は、この水葬が禁止され埋墓に切り替えられたものではないか。

3)梅ノ木地名は、青地名が単独で存在する場合は、水葬地が同一の場所で埋葬墓に切り替えられたとも考えられるが、近接して並存する場合は水葬地が埋葬の不適地であったため別の地を求めた可能性もあり、水葬と埋葬が並存した時期があったとも考えられる。

4)アボは青(アオ)地名の変化形であり、粟、安保、安房、阿保、阿房、檍…と表記されている。

当然にも同じ言語文化や葬送儀礼を持った民族集団が移動したと考えられる。


アボと梅ノ木


もしも、この想定が正しければ、既に太宰府地名研究会で“高良岬の麓から”33.青木(アオキ)として書いた青地名の説明が必要になってきます。それは同稿を読まれるとしても、青と言えば、当然にも大家谷川健一を無視することはできません。谷川氏は「安保」(アボ)という表記のアオ地名を取り上げていないため、「阿房」、「阿保」を含めたアボ地名なるものは地名研究にも先例がないものであり、未知の分野に入り込んだことになります。

 また、アボと梅ノ木(恐らく埋ノ木)の組合せはあまりにも出来過ぎた話ですが、この例は外にもあるようです。もとより、単独での梅ノ木地名は多くの例があるのですが、宮崎県小林市と高原町の境界にも蛇行して流れる辻ノ堂川左岸の小林側に阿母ケ平鉱泉があり、右岸の高原側に梅ノ久保という地名があるのです。ここではこのような地名対応がほかにも存在していることだけをお知らせしておきます。


天草の阿保、阿房


アオではなく、アボと呼ばれる地があることは、江ノ島(現長崎県西海市)のアボ鼻や屋久島の阿房(ここには粟生という地名もあります)を始めとして知っていましたが、前述の天草の阿保も釣りで何度も訪れていたところから以前からなじみのある土地ではありました。

しかし、最近になって長崎市香焼の安保がアボと呼ばれていることを地元教育委員会に確認し、さらに、両方に梅ノ木があることに気づいて以降、一刻も早く現地を踏み確認したいという思いにかられていました。

二〇〇九年夏、ようやく機会を得て佐賀から有明海大迂回のコースで天草上島に向かいました。

阿保、阿房は直ぐに見つかります。まず、地図を見ると、旧栖本町側に阿保というバス停があり、阿房は旧倉岳町側にある地名のようです。

現地に着いて直ぐに傍らの家を訪ねて数人のご老人からお話をお聴きすると、

@    阿保は入江の西側通路沿いにあり栖本町の集落である

A    二十年ほど前までは入江東側の倉岳側にも数戸の家があった

B    阿保は漁業権のない集落で、船大工、漁具作り、鉱泉を沸かして訪れる漁師などから湯銭を取っていた

C    湾奥には農業を行う家が数戸ある

D    一人の老女から「嫁いだ頃、昔は刑場だったという話をお爺さんから聴いたことがある」という話を採集した。

と、いったことが確認できました。八十歳近いご老人からの話ですから、今のうちに採集しておかなければ、恐らく十年程度で散逸する話ですから非常に貴重です。

ここで重要と思うのは、恰好の入江のある集落であるにも関わらず、漁師は全くいない、つまり、漁業権をもたない集落であったという事です。

谷川健一の『日本の地名』にも、「地先の海の権利は地元の漁民がにぎっており、…」

(ソリコ船に乗ってやって来た人々)と、ある種の差別を受けた漁師集落の話が出てきますが、そのような人々であったからこそ、辺鄙な村境にしか住むことが許されなかったのであり、不要になった土地だったことが推察されたのです。そして、決め手は全くないものの、この地が、かつて、水葬が行われていた場所ではなかったかという想いが一層深まったのでした。

次に梅ノ木に向かいました。梅ノ木(埋ノ木)が水葬を禁止された後の埋葬地であるという推定はあまりにも安直でにわかには信じ難いものですが、なによりも現地を見るべきでしょう。

しかし、実際のところ驚きました。小高い小丘に濃厚な墓地があったのです。聴取りはこれからですが、確信は一層強いものになったことだけは申し上げて良いと思います。

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左が阿保の集落            潮が引いた阿保の入江

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※ 相賀は自信がありません。佐賀県には太良町に青木平という小字はあります。


香焼の安保


長崎市内の渋滞を避け直接野母崎(長崎半島)に入る道もないことはないのですが、当然にも悪路になります。

野母崎の東海岸はその地形の険しさから道路改修がままならないのですが、このような僻陬の地を好む者にとっては格好の民俗学的トレッキングとなるのです。

ともあれ、野母崎の付け根の香焼は、今も造船所がフル稼働といった様子でした。国際的な物流が大規模に崩壊したにも関わらず、かつての造船ラッシュ時に建造された船の買い替え需要などから、なおも新船建造の注文がかなりあり、手持ちの建造計画が残っているようです。

戦前、戦中は川南造船が陸軍相手に上陸用舟艇やら軍用船を造っていたのですが(香焼では陸軍の輸送用潜水艦“○ゆ”も造っていたと聞きます)、現在では持ち主が替わり、三菱重工の巨大な造船所に変貌しています。

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三式潜航輸送艇は、日本陸軍の潜水艦。通称のまるゆで知られる。「ゆ」は「輸送用」の頭文字。


陸軍のご用達であった川南造船は戦後の造船疑惑の中で意図的に潰されたようですが(米国は米内、井上、山本といった親英米派の海軍系を許した?)、その後を引き継いだ三菱長崎の工場として、傍目からだけですが今もそれなりの活況を呈しているようです。

 目的地の安保は確かにアボと呼ばれていました。早々に集落を見て廻りました。今は住宅が建て込みそれなりの町でしたが、どうも歴史を感じさせないのです。

 バス乗り場にたむろしている年金生活者と思しき老人の中に割って入り、お話をお聴きすると、

1)    ここはかなり海側に埋立てが進んでおり、六、七十年前の海岸線は五〇〜一〇〇メートルは引っ込んだところにあった。

2)    戦前は数えるほどの家しかなかった。話を聴いた老人が小学生の頃も、元から住んでいた家は数軒しかなかった。現地は小山を背中にした幅の狭い浜辺でしかなく、農業はもとより、漁師の集落でもなかった。

3)    戦前は香焼炭鉱や川南造船所向けの物資の積み降ろし用の船着場だった。

4)    戦後はボタによって埋め立てられたところに炭鉱住宅などが建てられ、それなりの町ができたが、閉山後は跡地を買い取った開発会社が住宅地として分譲し家が建て込んだ。

5)    隣の尾ノ上は漁師の集落だったがここには漁師はいなかった。

6)    埋葬には梅ノ木鼻の付け根に埋めに行っていた。


無題.png以上ですが、重要なのは阿保との呼び名はあるものの、元々は人の住む集落ではなかったということです。周辺の集落の配置状況から推測すると、安保は香焼島(昔は独立した島だった)でももっとも辺境の場所であり、もしも水葬が行われていたとすればここしかないように思えたことです。

 最後に、梅ノ木の確認に行きました。かなり高い岬が北に伸びています。先端まではおいそれとは入れないようですが、その付け根辺りには想像通り墓が密集していました。

 墓はどこにでもあると言われればそれまでですが、少なくともそのような感覚を超える頻度のように私には思えるのです。そもそも、香焼島もなにやら葬地を思わせるのです。


上は香焼造船所

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長崎市香焼の安保             梅ノ木の墓地群


安保 清種


安保、阿保、阿房といったアボ地名について考えを巡らせていると、安保清種(アボキヨカズ)のことを思い出しました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」が再びクローズ・アップされていることもあり、今後、安保海軍大将の話も耳にすることも多少はあるでしょう。

戦前の濱口雄幸(ハマグチオサチ)内閣における海軍大臣であり、日本海海戦時の巡洋戦艦三笠(黄海海戦では矢作?)の砲術長としても知られる人物です。

ここで、515事件、統帥権干犯問題、海軍の艦隊派と条約派の対立についての話までするつもりはありませんが、阿川弘之の著書にも良く登場する人物であり、これまで考えて見れば気づかなかったことが逆に不思議になります。

取上げるのは当然にも「安保」という姓でありその背後にある地名です。ここから安保清種の周辺調査を始めることになりました。驚いたのは「安保」が私の地元の佐賀県の出身であったということでした。鹿児島かと思っていましたが、これには正直驚かされました。佐賀には安保という地名はおろか姓もありません。ただ、調べているうちに本名は沢野であり、林家の養子になっているようなのです。さらに、林は安保に改姓していると知り、納得もし、安心もした次第でした。

実父は海軍草創期の沢野種鉄であり佐賀中学から海軍兵学校18期生となる。規定局長の林清康少将(のち海軍中将)の長女との縁談が進み林家の養子となる。養父と実父から「清」「種」の字を貰い林清種に改名している。後に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。一九九〇年、養父の死去に伴い男爵となる。

一九二七年、海軍大将に就任し一九三〇年には濱口内閣で海軍大臣となる。その後、統帥権干犯問題から海軍でも英米派が後退し、徐々に条約派は力を失って行くことになるのですが、面白過ぎるのでこれ以上は深入りしないことにしましょう。

一九三四に予備役編入、三五年後備役に編入となり四〇年に退役。一九四八年に七十七で没。

 林清康中将の林家は広島県とのこと、安保村の出身であったかまでは調べられませんが、尾道市の沖合に浮かぶ向島、向島町に安保村があったことは分かっています。

特に、尾道が民俗学で良く取上げられる家舟の拠点であり、土地も漁業権も持たぬ海洋民と「アボ地名」との関係が一層強まったように思えます。恐らく、遠い昔(民俗学ではそのようにしか言えない)、揚子江流域から渡ってきた人々がもたらした言葉や地名にアボもあったように考えるのですが、ここから先は、無論、暴走となるでしょう。


アホとバカ


ここで、さらに面白い問題に気づきます。もはや、アオ、アボが古代の水葬の地であったことに疑いを持つことはできませんが、それとは別に、関西のアホと関東のバカという言葉もこの葬地と関係があるのではないかと考えていました。アホはアオ、アボが起源となっている。馬と鹿で説明されるバカも実はバカ(墓)が起源ではないかという仮説です。

もちろん、馬と鹿に別の逸話があることは存じていますが、何でも疑ってみるのが古川定石です。ただ、これも思考の暴走に過ぎず、葬地を意味する言葉と偶然の一致に過ぎないのかもしれません。

それは、馬鹿(バカ)が古く、阿房(アホ)が新しい言葉であり、その分布から方言周圏論(同心円の外側に古い言葉などが残る)で説明できるからです。これは、ほぼ十五年前に出版された松本修による『全国アホバカ分布』(大田出版)に書かれていることですが、東のバカ、西のアホではなくアホの外側にバカが分布しているからです。

 この至ってまじめな民俗学的考察には、阿房という言葉が平安末期に中国の南部から入ってきた可能性があることが触れられており、アボという言葉が比較的新しいものであることが書かれているのです。 

もちろん、このすばらしいまでの先行図書を概ね受け入れているのですが、まだ、僅かな可能性を残しておきたいと思うものです。

 いつの時代においても、運悪く政治的騒乱に敗残した人々は、命までは奪われなかったものの全ての財産を奪われ土地を追われます。自ずと普通の人が嫌う危険地や墓地など条件の悪い場所に住み着くことになるのですが、そのような敗残者(楯突くからこうなるのだ)を嘲る言葉としてアホとバカが生まれたのではないかという意味です。五〇〇ページ近い『全国アホバカ分布』にはかなり正確な分布図が作成されていますが、もしかしたら、ある時代の敗残者(従って政変)が反映されているのかも知れないのです。


秦の始皇帝の王宮は阿房村にあった


もしかしたら阿房宮や始皇帝陵と関係があるのではないかという話ですが、さらに一層、推論が過ぎるでしょう。ただ、大陸の征服者が先住者の聖地、陵墓を破壊し自らの王城や墓所とする例があることを知っています。とすると、多くの古文献が「倭は呉の大伯の後」(周の大伯)を伝えるのですから、倭人が周の末裔と言えなくもなく、同一民族ではないとしても、阿房村の周辺に住んでいた先住民族の言語が倭人に継承されていたのではないかと考えたのですが、暴走に過ぎません。

一般的に、「民俗学の手法では応仁の乱前後までしか遡れない…」といったことが言われます。今回の確認は一例に過ぎないものの、大きく遡行するものであり、改めて地名の遺存性に驚きを感じるものです。

一応ここでは、安保という言葉や地名がこの時代(七世紀)まで遡り、同時に一定の示標とできるということを確認したにとどまるでしょう。


青谷上寺地遺跡と巨大墓地


鳥取市に考古学界で、近年、脚光をあびる青谷上寺地遺跡があります。山陰本線青谷駅のそばの資料館に行くと、脳の化石とか、我々の眼からは隼人楯としか言いようのない逆S字型渦巻き紋の残る板とか面白いものが身近に見学できるのですが、二〇〇九年夏、内倉武久氏(『太宰府は日本の首都だった』など)ほかと共に現地を踏みました。

資料館で二時間余り詳細に展示物を見たのですが、元々、青谷を青地名の一つとして来ている私は、周辺調査に入りたくてしかたがありませんでした。当然にも水葬の痕跡を何か探れないか?でしかありません。当然にも、民俗学者の宮本常一がそうしたように、背後地の小丘に登り、まず、町全体を見渡すことから始めましたが、遺跡から直ぐの浄土宗と法華宗でしたか、二寺の裏手の小丘に登ると、息を呑むばかりの、巨大墓地を見出したのです。まず、最低でも一辺三五〇メートル(一○万平米以上)はあろうかというもの凄さなのです。感情の高まりから多少割り引いて頂いたとしても、中学校のグランド3個分と言えば理解してもらえるでしょう。

古代において巨大な潟湖(セキコ)であったはずの青谷は、その時代、日本海側の重要な港湾集落(都市)であったはずで、多くの海洋民が乗り入れ、半ば住み着き、根城としていたことが想像できます。

そして、この巨大墓地が往古の海の民の水葬の歴史の上にあることは、まず、間違いないのではないかと思うものです。

次の画像は資料館に展示されていた航空写真を手持ちのいい加減なデジタルカメラで撮ったものであり、ハレーションもあって判りにくいかもしれませんが、小丘の中央が全て墓地なのです。学校のグランドと比較していただけることでしょう。

最後になりましたが、出雲大社で有名な出雲半島北岸にある小さな浦々の集落には、どこにもほど遠くない無人島がありますが、驚くことにその多くを青木島と呼んでいることもお知らせして本稿を閉じたいと思います。十数代まえまで、彼らはその毎日見る沖合いの小島に自分たちの身寄りの死体を置き続け、先祖への祈りを重ねてきたことでしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:12| Comment(0) | 日記