2018年04月03日

ビアヘロ 042〜43(前) ひとつあがりのカフェテラス 21〜22号のご紹介(連携ブログから)

ビアヘロ 04243(前) ひとつあがりのカフェテラス 2122号のご紹介(連携ブログから)

20180205

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


21.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)@

22.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)A

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ひぼろぎ逍遥、同(跡宮)には多くのブログがリンクされています。今回は無題.pngこのアイコンでワープできる ひとつあがりのカフェテラス をご紹介します。

 太宰府地名研究会には全国レベルで多くの研究者がリンクされていますが、このブログは大分県にお住いのK氏によるものです。

 完璧な文章ですし、知見の広さと言いヒアリングの旨さと言い改めて感心します。

今回の論考も非常に難解なテーマを良く纏めておられ頭が下がります。

 私自身も奈良県の大和大国魂神社には二〜三度と足を運んでいますが、とうとう書きだす気にならず放置していた難物だけに有難い限りです。

 さて、百嶋神社考古学に立つものとして奈良県に於いては最も重要な神社という認識を持っていますが、九州王朝論を意識される方々でも恐らくこの神社の重要性についてはほとんど理解されていないものと思います。


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この神社には九州王朝東遷に関わる大きな謎が閉じ込められているはずなのです。

22.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)A


大和神社の宮司職は代々、椎根津彦の末裔が務めてきたとのことです。

そしてそれは、明治の初めまで続いていたようです。

椎根津彦の末裔と言えば、在野の神社考古学研究家である百嶋由一郎氏は、講演会の中で、このように話されています。


「出石(いずし)神社(兵庫県豊岡市出石町)の宮司は、市磯長尾市(いちしのながおち=真砂(まさご)=増御子(ますみこ))の子孫の長尾さんで、(祭神である)スサノオ(=天日槍(アメノヒボコ))をずうっとお護りし、1800年間、祀っていらっしゃる。」


市磯長尾市といえば、大和神社の由緒にも登場しています。ウイキペディアでは、


無題.png『日本書紀』に伝わる古代日本の人物であり、倭直(倭氏)の遠祖である。

倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。

『古事記』に記載はない。

さらに、

『日本書紀』崇神天皇787日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。

そこで崇神天皇7118日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという(垂仁天皇253月条の「一云」でも同様)。

また同書垂仁天皇33月条では、「一云」として、三輪君祖の大友主とともに新羅から渡来した新羅皇子の天日槍を尋問するため、播磨に行くよう天皇から命じられたとある


なるほど、ここに市磯長尾市天日槍(=スサノヲ)が登場しています。

「市磯」の名称については、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)のようです。

その後、市磯長尾市の子孫がそのまま播磨に留まり、天日槍を奉斉した出石神社の宮司となられたようですね。

さらに百嶋氏は、


九州王朝神霊(神武、天照)東遷の大事業は椎根津彦を中心とした一団によって敢行されました。

神武は九州と奈良に、天照は九州と伊勢に安住の地を得られました。

その最後までご奉仕されたのは、椎根津彦の子、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)でした。


とも述べられています。

考えを進めていくと、「日本大國魂大神」とは、単に神武懿徳孝霊孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である「正統皇統」のことではなく、もちろんのこと椎根津彦でもなく、「神武天皇」の神霊、そのものではないかとの思いが一層、強くなってきました。

そして、椎根津彦親子が、それら東遷(西暦228年頃)に大きく貢献したということなのでしょう。

それから、百嶋系図では、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)は椎根津彦ウサツ姫垂仁の妹)との子供とされています。

別の資料には「名目、垂仁の子」とも記されていました。

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摂社 増御子(ますみこ)神社

祭神:市磯長尾市,猿田彦神,天鈿女命(あめのうずめ)


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摂社 高龗(たかおかみ)神社

    

祭神:高龗神は百嶋系図では神沼河耳(大歳神の父)とされています。

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末社 朝日神社 祭神:朝日豊明姫神 百嶋氏は、宮地嶽神社の祭神である(藤 高麿)勝村大明神は朝日豊盛ノ命(あさひとよさかり)ではないかと考えておられるようでした。

朝日豊盛ノ命とこの朝日神社との関連が気になるところです。
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地元の方達のお話では、鳥居近くまで海岸線が迫っていたいう。


地元の方達の話では、ずっと昔、早吸日女神社境内入り口に建つ鳥居から港方向の地域は海だったいうことです。鳥居近くまで、波が打ち寄せていたのでしょう。

そして、この地区には「黒砂(いさご)」、「真砂(まさご)」という字名が今も残されています。

由緒ある地名や古くから伝わる伝承を大切にし、しっかりと後世に残していただいていることに感謝です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:51| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 042〜43(後) ひとつあがりのカフェテラス 21〜22号のご紹介(連携ブログから)

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20180205

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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この鳥居近くの和菓子店。九州王朝と関係の深い木瓜紋(もっこうもん)に惹かれます。

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特に、餅入りの方がお気に入りです。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は 古川清久氏のブログひぼろぎ逍遥をご覧ください。】

21.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)@


このところ、佐賀関の椎根津彦神社詣でを繰り返しております。

理由は、夏に訪れた奈良の大和神社(おおやまとじんじゃ)で、神職の方から聞いた言葉が耳に残っていたからでした。それは、大和神社に鎮座する日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とは「椎根津彦」のこと、というものでした。

以来、佐賀関神山に鎮座する当社を幾度となく訪れ、そのことについて考えを巡らせているのでした。

もちろん、社殿や境内を幾ら見渡しても、ヒントの欠片も落ちておりませんが‥。

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ここ椎根津彦神社は、佐賀関の半島地頸部に早吸日女神社と山一つを隔て、背中を合わせるように鎮座されています。

社格は旧縣社なのですが、参拝者もあまり多くないためか、どことなくひっそりと静かに佇んでいる、といった印象です。

漁港近くに車を駐め、海岸沿いの国道と平行して山際を縫うように走る細い路地をしばらく進んでいくと、民家に挟まれた、うっかりすると見過ごしてしまいそうな参道入り口に辿り着きます。

少しばかり参道を登り、見上げると、これまでの神社とは少し違った感じの社殿が山を背にして鎮座されています。

海上からの強い風雨に負けないよう、コンクリートで丈夫に造られた拝殿です。        

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拝殿↓

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拝殿−本殿↓

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祭神は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。

そして、武位起命(たけいこのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、祥持姫命(さかもつひめのみこと)、稚草根命(わかかやねのみこと)が合祀されています。

椎根津彦命について、ウイキペディアでは


神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。

その後、神武天皇に献策し、兄磯城( えしき )を挟み撃ちにより破る。

速吸門については諸説ある。

『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。

『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。

岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。


と記載されています。

県内で椎根津彦命を祀っている社は、当社近くの早吸日女神社の境内社として鎮座している木本社(きもとしゃ,こもとしゃ)、それから由布市湯布院町の大杵社(おおごしゃ)などで、いずれも神武天皇の東征神話と由緒が関連づけられています。

百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。

中津市の薦神社(こもじんじゃ)に「一つ巴紋」が飾られていますが、この神紋が(贈)崇神天皇の足跡の証とされています。

薦神社の神門↓

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そして、(贈)崇神天皇と椎根津彦は兄弟であり、共に母は鴨玉依姫(神直日)とされています。

さらに、百嶋系図では、鴨玉依姫は早吸日女(ブログbP8「早吸日女神社B」を参照)と同一神とのことでしたので、早吸日女神社近くに息子神である椎根津彦命が祀られていることは当然と言えば、当然なのでしょう。

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百嶋系図でも「倭彦」の文字が確認できますね。

では、大和神社とはどういった繋がりがあるのでしょうか。

椎根津彦について佐賀関町史(昭和45年発行)には、


 速吸の門を通過の際、天皇は国神(くにつかみ)椎根津彦(珍彦(うずひこ))に遭われこれを水先案内とされたが椎根津彦は行く先々で戦功を立て、後に倭直部(やまとのあたひら)の先祖となった。

もとより『記紀』の神武伝承は神話であって、史的事実と違うが『記紀』を科学としての歴史の立場で読めばその中に建国期における佐賀関の価値も見出せると思う。

 ただ速吸の門の椎根津彦のくだりが、『記紀』の夫々の記述にいささかの相違点があるので、次に原文のかきくだしをのせて対比して見よう。


『古事記』の記述

 「故(かれ)其の国より上り幸()でます時に、亀の甲()に乗りて釣ししつつ来る人、速吸門に遇いき。ここに喚びよせて「汝は誰ぞ」と問はしければ「僕()は国の神名は宇豆毘古(うづひこ)」とまをしき。

 また「汝は海道(うみつぢ)を知れりや」と問はしければ「能く知れり」まをしき。

 また「従(おとも)に仕へまつらむや」と問はしければ、「仕えまつらむ」とまをしき。

 かれすなはち槁機(さお)を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち槁根津日子(さをねつひこ)といふ名を賜ひき。

 こは倭の国の造(みやつこ)等が祖なり。」


『日本書紀』の記述

 「天皇自ら諸皇子を帥ゐて、舟師(みふねいくさ)東を征ちたまふ。

 速吸之門に至ります。

 時に一人漁人(あま)有り、艇(をぶね)に乗りてまゐる。

 天皇招(めし)せて、因りて問ひて曰わく、汝(いまし)は誰ぞ。

 対へて曰く、臣(やっこ)は是れ国神(くにつかみ)なり、名を珍彦(うづひこ)と曰ふ。

 曲浦(うらわ)に釣魚(つり)す。

 天つ神の子(みこ)(いで)ますとうけたまはり、故()即ち迎へ奉る。

 又問ひて曰く、汝能く我が為に導(みちびき)つかまつらむや。

 対へて曰く導つかまつらむ。

 天皇勅して漁人に椎槁(しいさを)の末を授(さしわた)して執らしめて、皇舟(みふね)にひきいれ、以て海導者(みちびき)となし、乃ち特に名を賜ひて椎根津彦と為したまふ。

 此れ即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖(とほつおや)なり。」


 さらに『日本書紀』では神武天皇が国見丘の八十梟帥(やそたける)を征伐の際、椎根津彦は天皇の命を受けて敵地に潜入し、天香山の土をもって帰って献上して戦勝の占に役立ち、また兄磯城彦を帰順させた際にも椎根津彦は天皇に奇策を献じて、皇軍を有利に導いたことなど、椎根津彦の活躍が大きくとりあげられている。

(中略)

 その他、『姓氏録大和神別(815年、万多親王編)』には「大倭宿禰の祖で神知津彦と号す」とあって書紀と同様の説話がのせてあり、『姓氏録右京神別』には「青海の祖」とあり、『姓氏録摂津神別』には「大和連はその11代孫御物足尼の後、物忌置はその9世孫矢代宿禰の後」と出ている。


と、記載されています。

さらに、「神武天皇の御東征と椎根津彦(昭和15年 大分県北海部郡教育会発行)」には、


 倭國造(大倭國造)の本據は、和名抄にある大和國山邊郡大和(おほやまと)郷、即ち今の奈良縣山邊郡朝和村の地方である。

 椎根津彦の裔は、大和直(大倭直)と青海首となった。

 大倭直の宗家は、のち連姓となったが、天武天皇の十四年六月二十日忌寸姓を賜はり、次で聖武天皇の天平九年十一月廿二日、更に宿禰姓となった。

 また青海首は、崇神天皇の御代、越後の久比岐(くびき)國造となり、後の頸城郡を本據とした。

 いま新潟縣南蒲原郡加茂町大字加茂に、椎根津彦を祭神とする縣社青海神社の鎮座するは、かゝる由緒からである。


と、記されています。

一方、椎根津彦の活躍ぶりについて、百嶋氏は講演会で、このように話されています(「肥後翁のblog」から転載)。


丹後の宮津湾と阿蘇海(あそかい)の真ん中を仕切って通っているのが天の橋立です。

この天の橋立に引き切られたほうに阿蘇海に面した端っこにコノ神社があります。

同じ場所ですが、大江山いくのの道の遠ければ、まだ文も見ず天の橋立、この大江山には、皇大神宮ならぬ皇大神社があります。

これは皆さんほとんどご存じないと思いますが、九州王朝神霊東遷、九州王朝、背振山におられた九州王朝の神霊を、偉い方々が、担いで東に遷られる。

そして、どこに落ち着かれたかといいますと、その出発地はイズミ、九州王朝の本家本元はイズミ、これは背振山の最も佐賀市に近い割と平地、そこは高良山との関係が大変深いところです。

ほとんどの方がユダヤ系統の方です。はっきり、そこのお宮さん、ユダヤのお宮さんにお参りなさると、このお宮を守った人達は、丸、丸、丸を苗字として名乗っていらっしゃいます。その代表が玉屋の社長田中丸さんです。

そこの兄弟神社が、琵琶湖の比叡山の下に、厳島神社と同じ鳥居をもったお宮さんがあります。

猿田彦を祀ってあります。

この比叡山の下のお宮さんと、佐賀のいずみは兄弟です。

そして、ここ、佐賀のいずみから九州王朝は出発されまして、どのようなコースをお辿りになたかは判りませんが、船を利用されたことは判ります。

書いてあるから判ります。

どこに書いてあるかといえば、一番はっきりしているのは、京都の鞍馬寺の下のお宮さん、水の神様としてとても有名なお宮さん、とにかく鴨川の途中で何とか川に分かれた何とか川の終点です。

そこに行きますと、佐田大神の末のお子様を守った小さな祠があって、この神様、シイネツ彦は神武天皇の、但し、この神武天皇は本当の神様ではなく、俗称神武、即ち、祟神天皇のカジトリとして大いに功績があったと書いてあります。

従って、お宮さんの名前はカジトリ社となっています。シイネツ彦、別のお名前をウズ彦、このウズ彦の銅像が先ほど言ったコノ神社にございます。

そして一方、大江山の方に、そっくりそのままのとてつもなく判りやすい伊勢皇大神宮が現存しています。

それは明らかに九州王朝神霊東遷の牙城のひとつです。

即ち、大江山の皇大神社には一々丁寧に伊勢皇大神宮の配置をはっきりと書いておられます。そこで、もらった資料には、どえらい記事が沢山あるのですが、どえらい記事の中にどえらい方がおられました。

ここにさっき、ミヅハノメノ神、竜神様と申し上げました。

もともとの春日大社のもともとの本当のご祭神はミヅハノメの神様、竜神さまと申し上げた。その方が、ちょこっと、イワノ姫としてもお名前を出されている。

イワノ姫は神代譜なんかで時々名前が出てきますが、ところが御素性が全くわかりません。

実は、ミヅハノメの神様を隠すために、偽の神代譜が、古事記・日本書紀によって出来たのです。

即ち、イワノ姫はミヅハノメの神なのです。

従って、そっち(偽の神代譜)にも配慮して、イワノ姫の名前も付けたしておられるというわけです。

このことを最もよく残しているお宮様が奥伊勢にあります。

影だけ残しています。

皇大神宮及び松阪の那の国の集落、両方から川を上ります。

伊勢皇大神宮のウジヤマダの五十鈴川から登ります。

片方(松坂)はクシダ川です。

両方ともそれが到達するところに奥伊勢があって、ここにミズヤ宮があります。

ミズヤ宮とは本当はここにあったのではない、奈良の春日大社、即ち、ミズヤ宮です。

春日大社と言い出したのはこのごろの事です。

古い時代の主ご祭神は竜神姫で、そのころ並んでいるご祭神名は何とか歴史に合う納得できる御神名が書かれていますが、戦後では、竜神姫は蹴落とされています。

春日の大神が主祭神になっています。

これは藤原がやったことです。

どの血統もいいこと悪いことをやっていますが、藤原も日本最大の悪をやっています。

とにかく、みんな悪いこともやり、いいこともやっています。

そう考えられれば罪がないです。

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つまり、椎根津彦は母親の鴨玉依姫らとともに九州王朝の神霊(天照と神武天皇)をお護りして東遷を(西暦228年)を実現されたようですね。

この時、椎根津彦は31歳と資料に記されています。


こうした功績が認められて、椎根津彦は倭彦となられたようですが、果たして、その後、日本大國魂大神として祀られたのでしょうか。

今ひとつ、はっきりしませんねぇ。

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百嶋系図ではその後、椎根津彦は(贈)垂仁天皇(=生目入彦=宇佐ツ彦)の妹を后とし、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の二人のお子様をもうけられています。

この姉弟については、「海女、黒砂 真砂の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇御自ら古宮の地に奉斎し建国の大請願をたてられたのが創祀である」と早吸日女神社の由緒にも登場しています。

椎根津彦は保久良神社(兵庫県神戸市東灘区)にも祀られており、おそらく、瀬戸内の西端から東端までの海路一帯を掌握していたのでしょう。

この椎根津彦神社は早吸日女神社の小野宮司が兼務されていますが、宮司の話では、当社地は椎根津彦生誕の場所ではないか、ということでした。百嶋系図では、椎根津彦命は鴨玉依姫(=早吸日女)の子供神であり、共に添うようにこの佐賀関に鎮座されていることなどから、そうかもしれないなぁ、と思いつつ、屋根に飾られている「上り亀」の神紋を今日も眺めるのでした。


丹羽基二著「神紋総覧(講談社)」に珍しい神紋として紹介されている

「上り亀」:椎根津彦が大亀に乗って現れたことに因んでいるという。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】


 年齢から考えて、このひとつあがりの「カフェテラス」は「ひぼろぎ逍遥」よりも息長く継続して書き続けられると思います。

 新規に書くことを止めてもそのまま継続させる事は可能ですが、その時点での最新情報に基づいて神社が解読できるかこそが神社研究の生命線なのです。(古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:00| Comment(0) | 日記

2018年04月06日

443 国東半島は九州王朝の紀氏の国 @ “国東市伊美の別宮社”

443 国東半島は九州王朝の紀氏の国 @ “国東市伊美の別宮社”

20170627

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 故)百嶋由一郎氏からは“国東に行きなさい…あそこには九州王朝が残っています”といった趣旨の話を聴かされていました。

 メッセジはそれだけで、何のことだか全く分からなかったのですが、何度も足を運ぶたびに徐々に分かってきました。まずは、その象徴的な神社が姫島の正面に位置する伊美の別宮社となるでしょう。

 そもそも姫島の「姫」は「姫氏」(紀氏)=倭人は呉の太伯王の裔の「姫」であり、彼らの領域だからこそ糸島、国東、宿毛沖などに姫島があるのです。

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同社参道


まず、伊美の別宮社とは忌部(豊玉彦=ヤタガラス)の地にある石清水八幡宮(ここにも高良が置かれている事は「徒然草」で皆さんも良くご存じでしょう)の別宮社という意味であると考えられます。

ただ、忌部の「忌み嫌う」の表記は後世の藤原氏による貶めなのか、結果なのか不明です。

 この荘厳な別宮社の最大の特徴は、表向き宇佐とは別系統の石清水八幡宮を祀るという偽装を行いながら、その陰で、自らの本来の祭神である高良神社と若宮神社(仁徳)を祀っているところにあるのです。

 この高良と若宮を祀ると言う祭祀形態は全国でも確認できますが(つい最近でも、ひぼろぎ逍遥 433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”を書きましたので確認を…)、国東半島では特に著しく、全域の神社に高良+若宮、または、高良や若宮の単独祭祀も各所に存在しています。

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同社参拝殿+回廊


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九州王朝論者の多くは別清麻呂の故事にある近畿大和朝廷と宇佐八幡宮との只ならぬ関係にたじろいでか?あたかも宇佐神宮から国東半島一帯に関する評価を避けている様に見えます。

 宇佐については、触れず語らず、九州王朝の喉笛に突き刺さった棘の様に考えておられるようです。

 それは、神社研究を放棄していた事のつけであり、宇佐八幡宮も元は九州王朝の神宮だったのであり、高良大社は神宮以上の高格式社だったのです。

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高良社


 全国の九州王朝論者でも糸島沖の姫島と国東沖の姫島との関係に注目し、実際に伊美の地に足を踏み入れた方はあるのかもしれませんが、恐らくこの別宮社の神殿脇に高良神社と若宮神社が鎮座している事にさえ気づく人は限られていると思います。第一、別宮社の由緒にさえ書いていないのですから。

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同社参拝殿 


 では、九州王朝の本拠地であった久留米の高良大社の影響が永く残っていた事を示す証拠が残されていますのでお知らせしておきます。

 それは、この別宮社が県社に昇格した記念碑が現在も参道の左手に残されているのですが、このようなものを好んで確認される方などほぼ皆無であろうことは言うまでもありません。

しかし、その県社昇格記念碑の揮毫をしたのが誰かを知れば自ずと理解できるのではないでしょうか。

 当時、県社に列せられることは地域の誉この上なく、その栄えある記念碑の揮毫を宇佐神宮や大分市の二つの一の宮に行くのではなく、高良大社の宮司に依頼したという事実が如実に物語っているのです。

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神社の木々をむやみと打つ別けには行かないため読みにくいのですが当時の高良大社の宮司の揮毫が…


この縣社昇格記念碑を見ると、揮毫した人物は当時の高良大社の矢田宮司だったのです。

当時も氏子総代以下五人ぐらいが揃って紋付き袴に二泊三日ぐらいの行程で列車で久留米に向かい揮毫して頂いたと思いますが、それほどの情念が高良大社に注がれていた事は、今は仕方がなく八幡宮を頂いているものの、自らが祀る本当の神は高良以外にはありえない…との思いがあったからこそ九州の反対側にまで向かったと思えるのです。

つまり、国東半島の八幡宮の本当の祭神は高良の神なのです。

ただ、彼らの思いとは別に、高良大社とは749年(「高良玉垂宮神秘書」)に九州の宗廟を宇佐に奪われてしまって以降は、近畿大和朝廷の息の掛かった神官、禰宜が送り込まれ、逆に九州王朝系氏族を抑え込む役割を担わされ続けたのでした。

ともあれ、石清水八幡宮とは九州王朝の中枢部を荷った紀氏(橘一族…)の僧侶によって創られたものなのです。

国東半島の調査は今後も続けますが、紀氏、橘一族、高良大社、九州王朝が国東の謎を解く鍵になりそうです。


徒然草(上)

52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、

 仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*


 吉田兼好先生のおかげで良く分かるのですが、徒然草でも非常に有名な話です。

石清水八幡宮も元々高良神社のある地に建てられていた事が非常に良く分かります。

 つまり、伊美の別宮社も元々高良神社があった場所に勧請された神社だったのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記