2018年03月21日

438 伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

438 伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

20170622

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けによって発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

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伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578


九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずであり、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)だろうとした馬鹿学者がいましたが、その追従者どもが今も大手を振って跋扈しているのが実態なのです。

酷いのは、かつて九州王朝論者の組織として古田武彦よりももっと鋭い研究姿勢を持っていたとする九州○○史の会とかいった連中が、長年に亘り一切現場に入る事もなく過ごしてきた事から(対馬や挑戦への観光旅行はやっているようですが)か、今や研究姿勢も研究者も失い、学会通説に調教された畿内説論者の教育委員会や学芸員からの御高説を賜わり、有難がって拝聴していると言う無様な状態にあるのです。

大喜びしているのは佐原 真に調教された利権まみれの考古学協会であり、九州の重要な施設をコンクリートで覆い隠し続けている京都学派の連中であり、そのお手伝いをしているという酷い有様なのです。

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これまでのblogにおいて伊豆能賣とは対馬の木坂の海神神社の主祭神である豊玉姫のことであり、この海神神社の後背地が伊豆山(居津山)居津原であることから豊玉姫の別名が伊豆能賣(イヅノメ)と呼ばれたのではないかとしました。

してみると、伊豆の置換え地名である厳原、糸島、伊都、出雲、出石、伊東…もその展開地である可能性までが見えてきたのです。

豊玉姫の起源が、木坂の海神神社なのか豊玉町仁位の和多都美神社のどちらにあったかは、なお、不明ですが(龍宮、海幸山幸神話の舞台としては地元でも決着がついていない)、糸島市の志登神社(主神:豊玉姫)一帯、今回とりあげた三つの伊豆神社群(遠賀町の伊豆神社は伊豆能賣が主祭神)が展開する遠賀川河口…と、対馬の要衝浅茅湾〜一大率がいた伊都国〜言わずと知れた筑豊から瀬戸内海への要衝としての遠賀川河口と豊玉姫系氏族の展開が見えるのです。

ここで脇道に入らせて頂きます。

今のところ印象と言うか直感だけで考えているのですが、木坂の海神神社は外洋に面した場所であり、一方の豊玉町仁位の和多都美神社はそれこそ湖の様な穏やかな内湾の地です。

木坂の海神神社は旧國幣中社 對馬國一宮であり、祭神を見ると道主貴神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)だったようです。

木坂の海神神社  御祭神 豊玉姫命 配祀 彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合


豊玉町仁位の和多都美神社は式内社 名神大社 旧村社であり、祭神を見ると渡海大明神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

仁位の和多都美神社 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神 


海幸山幸神話では山幸は三年間でしたか豊玉姫と暮らし(凄し)戻って行くのですが、その場所が波静かな豊玉町だったのではないかと考えています。

その理由は、その地が「仁位」と呼ばれているからですが、この説明に関しては、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦と二田物部の展開地に二田(久留米市、新潟県柏崎)新多(筑豊)、新田(北関東)、仁多(島根県奥出雲)との関係について多くを書いてきましたので内部検索を試みて下さい。

もう一つ、木崎の海神神社が豊玉姫の実家であり、新婚生活を送ったのが豊玉町仁位の和多都美神社ではないかと考えた理由に木坂の産屋の風習があります。

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無題.png紙面の関係で一部しか掲載しませんが、「海神と天神」(永留久恵)白水社 民俗編264pには産屋の遺風として一文が書かれています。

「対馬に産屋の習俗があった事が確認できるのは木坂の里だけで、それは明治二十年ぐらいまで続いていたと言われる」

「そもそも産屋の習俗は海神神話の豊玉姫が御子ウガヤフキアエズを出産したときの所伝にあり、南方系海洋民の習俗といわれるもので、おそらく倭の水人と呼ばれた海人族の遺風に違いない。その習俗が豊玉姫と磯良を祀る木坂の里にあったことは示唆的である。」とされているのです。

右は、百嶋由一郎最終神代系譜の一部ですが、山幸彦、ウガヤフキアエズ、安曇磯良の三代と整合している事がお分かり頂けるでしょう。

豊玉姫と山幸彦の夫婦は豊玉町仁位で新婚生活を送り、やはり出産には豊玉姫の父神の龍王が居る木坂に戻りそこの産屋でウガヤフキアエズを産んだのではないかと思うのです。

対馬には福岡空港から20分のフライトで到着します。

後はレンタカーを借り、木坂や仁位のワダツミ神社を訪ねれば良いのです。

伊豆能賣に関心をお持ちになる方は、現場をお示ししましたので、ご自分の目で確かめられ、列島の古代に起こった民族の伝承を確認されるべきであろうと思うものです。

故)百嶋由一郎は“「古事記」の95パーセントは嘘であり、「日本書紀」は、少しは本当を書いていると言い切りました。”これによれば、全ての神官、禰宜、古代史家、歴史学者、教育委員会、学芸員…は大嘘つきで、ほとんど漫画みたいな話をしておられる事になるのですが、それが現実なのです。

最後に、豊玉姫が別名伊豆能賣と呼ばれた理由と考えられる聖地としての伊豆山(居津山)をグーグル・アースで拡大していますのでご覧に入れましょう。

しかし、何故、埋没神として消されたかは不明です。

恐らく、阿蘇系(雲南省麗江から列島に亡命した黎族の後裔)の藤原氏が関わっているからであろうことは容易に想像が付きますが、これは今後の作業であり、また、ご紹介できる機会がくるかも知れません。

黄色い円が伊豆山です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記