2018年03月01日

431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

20170515

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県飯塚市に「伊岐須」という変わった地名の地域があります。

場所は、中心地の飯塚市役所から西に数キロといったところで、二瀬と言う地名があるからでしょうが河川邂逅部正面の小丘に高宮八幡宮が鎮座しています。

変わった地名という表現をしましたが、奈良時代のはじめ頃、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている事からの類推によるのです。

一般的には二文字に依らない地名は、この好字令それ以前の既に確立し定着していた古い地名であった可能性があるからです。

まず、始めに気になったのは伊岐須という地名の真ん中に「岐」がある事です。

当然にも神武天皇に弓を引いたとされる岐(クナトorフナト)の神=長脛彦を意識してしたのですが、あくまでもこれは切っ掛けでしかありません。

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 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより

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この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。

ただ、これは地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

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百嶋由一郎長脛彦神代系譜


長髄彦

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。


饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている[要出典]。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している。

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。

ウィキペディア(20170517 19:28による


 では、高宮神社をご覧頂きましょう。

 石炭鉱害復旧事業が法外に大量投入された筑豊飯塚の事、この一帯も沈下が顕著であり、埋め立てによって結果この高宮は中ぐらいの高宮に変わったそうですが、それなりの微高地にこの神社は鎮座していました。

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まず、不思議なことに三の鳥居は大山神社となっていました


摂社に大山祗命、大国主命がおられる事から、あってもおかしくない鳥居ですが、小さな摂社の割にはあまりにも立派な鳥居である事からバランスが取れていない事は言うまでもありません。

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全て猿田彦の石塔で、数から考えてもこの一帯がある時期ニギハヤヒの勢力圏であった事を語っています


 藤吉郎が猿とされたのは徳川の意図が見えますし、柿本人麻呂が猿丸太夫とされた様に貶める意味が込められているのです。

猿田彦を表すのに猨田彦とした理由は分かりません。

 獣編+袁ではなくと書かれていますが、これは貶められた名の猿ではないとの思い(猨田彦)が反映されているような気もしますが、猨田彦もサルタヒコ、エンダヒコと読むのです。

ただ、ウイキペディア氏も言われている様に、“長脛彦は饒速日命の手によって殺された、若しくは失脚後に故地に留まり死んだともされています。

百嶋神社考古学では猿田彦はニギハヤヒであり山幸彦になるのですが、これが神社の配神と関係でどのような位置付けになるのかは良く分かりません。

「日本書紀」神武天皇条に神武東征に先立ち天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というとします。

ニギハヤヒは大和の土豪の長髄彦の妹を娶り、初めはナガスネヒコと共に神武の侵攻に抵抗します。

しかし、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことによって互いに天神の子であることを認め合いニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏する事になるのです。

そしてニギハヤヒは物部氏の遠祖になったと言われるのですが、そのニギハヤヒは「古事記」では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場しています。

記紀によればニギハヤヒが飛来した所は畿内となってしまいます。

百嶋神社考古学では神武巡幸はあるが、神武東征を行ったのは崇神としますので、長脛彦と衝突した神武は初代神武であって崇神ではないのです。

このため、長脛彦がいたのは飯塚であり、後に富の長脛彦と言われるように、金富神社、大冨神社がある行橋〜豊前の一帯だったのではないかと考えるのですが、今後の課題です。

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この石塔上部の紋章が椿のように見え気になったのですが、社務所を見て氷解しました。椿は猿田彦のシンボルであることは伊勢の椿大神社でも明らかです。

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本殿に祀られている神様については後段に譲るとして、摂社から話を進めましょう。

 美保神社と言えば事代主ですが、実態として事代主は格下の神で、このような社が造られる事もまれで、そもそも数こそ多いものの違和感があります。

 鳥居との関係からも神殿上部の神紋(隅切り角に三引き)からも、本来、この社殿には次の大山祗大神と大国主命(実は親子)が入るべきなのです。

 このように、事代主命こと恵比須さんは少し格上げされ過ぎているようです。

 ある時代の高宮神社は、スサノウ、長脛彦を隠し、大山祗、大国主を前面に掲げる神社だったのかも知れないのです。

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さて、高宮八幡宮の祭神です。まず、福岡市の高宮にも高宮八幡宮がありますが、玉依姫命、応神天皇、神功皇后の三柱を祀っておられます。

さらに気になるのは宗像大社の高宮です。それは、百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とするからです。この大山祗神社の大山祗と、疫神社とする大国主命こそが、宇佐神宮が覆い被さってくる前の本来の祭神に見えるのです。

そうでもなければ、大山祗神社の神額を付けた鳥居など造られるはずはないのです。

 勿論、この摂社があるからこの鳥居が寄進された可能性はあるのですが、元々大山祗神社の鳥居があった事から寄進された可能性もあるからです。

 どうも、何度も主祭神が換えられた形跡があるのですが、「福岡県神社誌」の境内神社を見ると、貴船は女性宮司から神殿にお祀りしていますとお聴きしました。

 同じく、天満神社として菅原神が二社合祀されているようです。これは明治の合祀に思えるのですが(一村一社)、この一帯に多くの菅原系氏族がいたことを示しています。

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左)「福岡県神社誌」上巻 339p 右)現在の高宮八幡宮の由緒(2015年)


 祭神がコロコロ変わっているのには目が回りますが、昭和19年編纂の「福岡県神社誌」にある誉田別命(ホンダワケ)=別王応神、贈)仲哀天皇、スサノウという非常に特異な配神が気になるのか、現在は今の宇佐神宮に沿った祭神に変えられています(2015年)。

しかし、それでもスサノウを残すところがこの神社の非常に興味深い特異性を示しています。

 そこで、何故、宇佐八幡宮に関係がないスサノウが殊更に祀られているのでしょうか?

 一つの仮説を提出しておきたいと思います。

伊岐須の高宮八幡にはやはりスサノウの子である岐神(クナトノカミ)が見え隠れします。

それは「伊岐須」という地名が対応する東国三社の一つである息栖神社が長脛彦を祀るとする事からの類推でしかないのですが、スサノウの子がナガスネヒコである事から八幡宮に衣替えしても、なお、スサノウが祀られている事にその背景を見てしまうのです。

 さらに言えば、確かに仲哀天皇が祀られるタイプの八幡宮はあるのですが(大分市の柞原八幡宮…他) 、

長脛彦の妹である瀛津世襲足媛命(オキツヨソタラシヒメノミコト)から帯中津日子命(まさか中津市にいた訳ではないでしょうね)=仲哀も出てきている事から、それが高宮八幡宮に反映されているのではないかと考えるのです。

では、高宮とはと考えると、大山祗と大国主命祭祀が色濃く残っている事から始めはスサノウと金山彦の血を引いた祭祀から大山祗と大国主命の系統の祭祀へと移行し、最終的に阿蘇を起源とする藤原の息の掛かった宇佐神宮に覆いかぶさられたのがこの高宮八幡宮の性格ではないかと見たのでした。

簡単に言えば、昭和19年の「福岡県神社誌」の祭神である応神、仲哀、スサノウの三神を、スサノウ、長脛彦、仲哀とすれば、スサノウ〜長脛彦の妹瀛津ヨソ足姫(武内足尼)=菅原の一祖〜天足彦〜ヤマトタケル命〜仲哀天皇〜という栄えある本流が復元できるのです。

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境内から参道方向を望む

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)


追補)


あくまでも思考の冒険であり、シュミレーションの一つですが、この神社は、当初スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が成立し(スサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の兄妹=長脛彦、オキツヨソタラシヒメ)、その後大山祗、大国主(トルコ系匈奴)系氏族への転換が起こり(これは立岩遺跡が甕棺から古墳へと変わっている事と対応する)、その後700年代半ばに宇佐神宮の影響下で八幡宮へと変わったものと考えられそうです。

それが、大山神社との神額を持つ鳥居があり、大山祗、大国主命を祀る摂社がある意味であり、八幡宮としては異質なスサノウが残されている理由だろうと考えられそうです。

また、スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が存在した時代があったはずです。

長脛彦の妹である瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)の後裔には、天足彦、ヤマトタケルとその子仲哀天皇があります。そう考えれば、それが八幡神社となってもスサノウ、仲哀を残している理由かもしれません。このように、伊岐須という地名から常陸の息栖神社のカガセオ=長脛彦を推定したのですが、必ずしも的外れではなかったようです。

最後に伊岐須の意味ですが少し見当が付きました。「岐」の意味を調べてください。枝の様に二つに別れる所のことなのです。

つまり、この伊岐須は二瀬でもありますが、二又瀬の意味なのです。

そして、神社の前には象徴的な河川邂逅部がありますね。そうです。井(水路)の岐の洲が伊岐須の意味だったのです。従って、付近の伊川温泉の伊川地区も、井川の意味なのです。

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神社正面の河川合流部


関連メモ 岡山県宍粟市一の宮町「生栖」に鹿島神社があり二股川の上に池王神社が祭神はスサノウ…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記