2018年03月20日

ビアヘロ 038 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!  “九州王朝の白族”

ビアヘロ 038 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!

 “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバー集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びついて、ようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそが橘一族であり「火の君」の後裔でもあったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 十分にお読み頂けると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を好い加減な所で纏めるために折半したものであり、当然、糸島半島の「志摩」に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


466

杵 島 A 2/2

465

杵 島 @ 1/2

505

熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。

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兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスのご先祖の一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明するや肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

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下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。大雑把に言えば、妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることもお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事が分かるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:41| Comment(0) | 日記

2018年03月21日

438 伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

438 伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

20170622

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けによって発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

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伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578


九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずであり、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)だろうとした馬鹿学者がいましたが、その追従者どもが今も大手を振って跋扈しているのが実態なのです。

酷いのは、かつて九州王朝論者の組織として古田武彦よりももっと鋭い研究姿勢を持っていたとする九州○○史の会とかいった連中が、長年に亘り一切現場に入る事もなく過ごしてきた事から(対馬や挑戦への観光旅行はやっているようですが)か、今や研究姿勢も研究者も失い、学会通説に調教された畿内説論者の教育委員会や学芸員からの御高説を賜わり、有難がって拝聴していると言う無様な状態にあるのです。

大喜びしているのは佐原 真に調教された利権まみれの考古学協会であり、九州の重要な施設をコンクリートで覆い隠し続けている京都学派の連中であり、そのお手伝いをしているという酷い有様なのです。

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これまでのblogにおいて伊豆能賣とは対馬の木坂の海神神社の主祭神である豊玉姫のことであり、この海神神社の後背地が伊豆山(居津山)居津原であることから豊玉姫の別名が伊豆能賣(イヅノメ)と呼ばれたのではないかとしました。

してみると、伊豆の置換え地名である厳原、糸島、伊都、出雲、出石、伊東…もその展開地である可能性までが見えてきたのです。

豊玉姫の起源が、木坂の海神神社なのか豊玉町仁位の和多都美神社のどちらにあったかは、なお、不明ですが(龍宮、海幸山幸神話の舞台としては地元でも決着がついていない)、糸島市の志登神社(主神:豊玉姫)一帯、今回とりあげた三つの伊豆神社群(遠賀町の伊豆神社は伊豆能賣が主祭神)が展開する遠賀川河口…と、対馬の要衝浅茅湾〜一大率がいた伊都国〜言わずと知れた筑豊から瀬戸内海への要衝としての遠賀川河口と豊玉姫系氏族の展開が見えるのです。

ここで脇道に入らせて頂きます。

今のところ印象と言うか直感だけで考えているのですが、木坂の海神神社は外洋に面した場所であり、一方の豊玉町仁位の和多都美神社はそれこそ湖の様な穏やかな内湾の地です。

木坂の海神神社は旧國幣中社 對馬國一宮であり、祭神を見ると道主貴神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)だったようです。

木坂の海神神社  御祭神 豊玉姫命 配祀 彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合


豊玉町仁位の和多都美神社は式内社 名神大社 旧村社であり、祭神を見ると渡海大明神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

仁位の和多都美神社 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神 


海幸山幸神話では山幸は三年間でしたか豊玉姫と暮らし(凄し)戻って行くのですが、その場所が波静かな豊玉町だったのではないかと考えています。

その理由は、その地が「仁位」と呼ばれているからですが、この説明に関しては、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦と二田物部の展開地に二田(久留米市、新潟県柏崎)新多(筑豊)、新田(北関東)、仁多(島根県奥出雲)との関係について多くを書いてきましたので内部検索を試みて下さい。

もう一つ、木崎の海神神社が豊玉姫の実家であり、新婚生活を送ったのが豊玉町仁位の和多都美神社ではないかと考えた理由に木坂の産屋の風習があります。

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無題.png紙面の関係で一部しか掲載しませんが、「海神と天神」(永留久恵)白水社 民俗編264pには産屋の遺風として一文が書かれています。

「対馬に産屋の習俗があった事が確認できるのは木坂の里だけで、それは明治二十年ぐらいまで続いていたと言われる」

「そもそも産屋の習俗は海神神話の豊玉姫が御子ウガヤフキアエズを出産したときの所伝にあり、南方系海洋民の習俗といわれるもので、おそらく倭の水人と呼ばれた海人族の遺風に違いない。その習俗が豊玉姫と磯良を祀る木坂の里にあったことは示唆的である。」とされているのです。

右は、百嶋由一郎最終神代系譜の一部ですが、山幸彦、ウガヤフキアエズ、安曇磯良の三代と整合している事がお分かり頂けるでしょう。

豊玉姫と山幸彦の夫婦は豊玉町仁位で新婚生活を送り、やはり出産には豊玉姫の父神の龍王が居る木坂に戻りそこの産屋でウガヤフキアエズを産んだのではないかと思うのです。

対馬には福岡空港から20分のフライトで到着します。

後はレンタカーを借り、木坂や仁位のワダツミ神社を訪ねれば良いのです。

伊豆能賣に関心をお持ちになる方は、現場をお示ししましたので、ご自分の目で確かめられ、列島の古代に起こった民族の伝承を確認されるべきであろうと思うものです。

故)百嶋由一郎は“「古事記」の95パーセントは嘘であり、「日本書紀」は、少しは本当を書いていると言い切りました。”これによれば、全ての神官、禰宜、古代史家、歴史学者、教育委員会、学芸員…は大嘘つきで、ほとんど漫画みたいな話をしておられる事になるのですが、それが現実なのです。

最後に、豊玉姫が別名伊豆能賣と呼ばれた理由と考えられる聖地としての伊豆山(居津山)をグーグル・アースで拡大していますのでご覧に入れましょう。

しかし、何故、埋没神として消されたかは不明です。

恐らく、阿蘇系(雲南省麗江から列島に亡命した黎族の後裔)の藤原氏が関わっているからであろうことは容易に想像が付きますが、これは今後の作業であり、また、ご紹介できる機会がくるかも知れません。

黄色い円が伊豆山です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年03月23日

ビアヘロ 039 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

ビアヘロ 039 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“白族は雲南から”                                 20171224

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この話に入ると正統派(現場に全く入ろうともしないただの文献史学派=邪馬台国本読みという程度の意味ですが)の九州王朝論者の方々から顰蹙を買う事は覚悟の上で申し上げます。

この天御中主命=白山姫の一族は雲南省昆明から入って来た白族であると故)百嶋由一郎は語っておりました。

blogはその話を次世代に引き継ぐ事を目的としていますので、可能な限り民俗学の手法=帰納演繹法によって証明して行こうと考えています。

文献史学派の方は眉を顰められるかも知れませんが、通説派であれ異端派の九州王朝論者であれ、九州王朝の現場にも入らずに「古事記」「日本書紀」…を喫架玉条の如く盲目的に論証されているだけであって、それが藤原によって作為が入っている事は不問にしているだけの事なのです(つまり、それを信じ込んで依拠しているだけの事なのです)。

 さてこのテーマに関しては、極力先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に入って来た天御中主=白山姫を奉斎する一族とは雲南省の昆明から海南島を経由して入って来た白族だったのです

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)もかつては中原にまで展開していたはずの主要民族(九黎族ほか)だったのですが、漢族、鮮卑族、清族、モンゴルなどに追われ追われ、最終的には山岳辺境の少数民族地帯に逃れ、遂にはそこさえも失って列島に新天地を求めて移動した人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り、旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖ハロン湾沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

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理由は不明ですが櫛田神社は熊野から移ってきているはずです


無題.pngどうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。         ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達(彼らは文化の伝播だけで逃げているのですが…)が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


無題.png雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 機(期)を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。

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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

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