2018年03月09日

434 伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

434 伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

20170619

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 次に向かったのは、木+八と書く朳(エブリ)地区の伊豆神社でした。

 エブリとは奇妙な地名ですが、中国の江南系の農具の名称とか言われています。

 農村部の皆さんならば見たことのあるものだと思いますが、要は水田の均し=均平(キンペイ)作業のためのもので、トラクターが主流となるまでは、こういった物を使って作業を行っていたものなのです。

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それはさておき、水巻町役場に近い頃末の伊豆神社からも1キロほどの山際(古くは岬の縁)といったところに鎮座する社です。

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ご覧の様に、脇には公民館が併設されており、一族的で私的な神社ではない事が分かります(とは言っても、古代この地区に住み着いた方達についてはある程度の見当が付いておりやはり同族なのです…後述)。

 さて、洞海湾と遠賀川は現在でも江川という浅い感潮河川によって繋がっている様に(神功皇后も通過し熊鰐が出迎えた…、また、豊臣秀吉大公殿下も江川を通過し魚釣池で戯れた…)古代にはかなり広い泊地を持ち、荒れる玄界灘を通らずとも、直接、遠賀川から中間、直方、田川、飯塚方面に移動できることから遠賀川河口でも取分け重要な場所であり、古代の要衝、最重要の港湾領域の一角であったことは明らかです。

 境内には石に刻まれた由緒書きがあり、この石場の伊豆神社からそう遠くない場所にある久我神社から移された事が書かれています。

 このことから、久我神社もかつては伊豆神社であった事もある程度想像できるのです。

 これについては「福岡県神社誌」をお読み頂きたいと思います。

 なお、百嶋由一郎最終神代系譜によれば、大国主命(宗像大社の本当の主祭神)には三女神の内のタギツ姫を除く市杵島姫と多紀理姫がお妃になっておられます(この辺りの事情が神殿内の「厳神社」(イヅと読むのかイツキと読むのか)との神額に影響しているかも知れません。勿論、混同かどうかは不明です)。

現地の聴き込みが出来ていないためこれ以上の浅酌は間違いのもとになりますので止めておきましょう。


えぶり小学校 カーナビ検索 福岡県遠賀郡水巻町えぶり2丁目31

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参拝殿の神額には厳神社とあります 当然 伊豆の置換え文字と考えますがこちらが原型かも


「厳」の意味は厳島神社の「厳」かも知れませんが、今後の課題です。宗像三女神の市杵島姫は、本来は厳(厳き奉るの意味)島姫であり、それよりも古くは島姫であったことはこれまでにも触れてきました。どうも豊玉(タゴリ)姫と市杵島姫の混同があるのかも知れません。いずれにせよ、垂れ幕の陽負いの烏と言い、同種の神社である事は間違いがないようです。

 次葉には「福岡県神社誌」上巻232pを置いています。伊豆神社の主祭神は豊玉彦=ヤタガラスの娘である(母神は高木大神の長女の豊秋ツ姫)豊玉姫と考えている事から、神社誌でも、朳(エブリ)地区の伊豆神社の祭神として多紀理比賣命(百嶋説では豊玉姫に対応するのです)が残されている事に感激しました。この女神こそ伊豆神社の本来の神様のはずなのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:00| Comment(0) | 日記

2018年03月14日

435 伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

435 伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

20170621

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次に向かったのは、朳(エブリ)の伊豆神社からも歩いて行ける程度の久我神社でした。

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同社由緒書


 祭神はヒコホオデミ=山幸彦、ヒコナギサタケウガヤフキアエズ、玉依姫(恐らく鴨玉依姫)、カグツチ=金山彦…と続きますが、神社誌と由緒書きとは、ほぼ、一致しており、多紀理姫は入っていません。どうやら久我神社はやはり伊豆神社とは多少性格が異なる異なった氏族の祀る神社のようです。

伊豆神社と呼ばれていない事にはやはり意味があったのです。

 さて、蛇足ながら、ついでに触れておきますが、「久我」とは何かです。

 「古賀」地名が、ほぼ、九州限定(姓名でも同様)であることは地名研究者の間では常識とされています。

九州王朝論者でもある程度意識されている方は多いのですが、ずばり、「久我」は「古賀」の原型であると考えています。

九州(大分県の瀬戸内海沿岸を除く)では、沖縄の三母音の影響と思われますが、一般的に、九州島以外のO音が九州島のU音に対応します。

 栂(トガ×ツガ)、大事(オオーゴト×ウーゴト)、オッタマゲタ(ウッタマゲタ)、ホウヅキ(フウヅキ)…事例は多過ぎて書けませんので省略します。

 「古賀」は逆で、九州の「久我」が近畿大和の支配が及んで以降、「古賀」(「好字令」以降の古くてめでたい…)に変えられたものと考えています。

 では、「古賀」とは何でしょうか?

「古川」(フルゴウ、フルコ、フルゴ)→ 古河(東北の古河も「コガ」と呼びますね…これは古い時代の九州からの移住者だと考えています)→好字令→「古賀」(コガ)と変化したものと考えています。

この「古河」は恐らく九州王朝の行政用語であり、「旧河」が原型で、この「旧河」の好字令以降の置換えが「久我」や畿内の「空閑」が成立したのではないか考えています。

 では、何故「古賀」地名を九州限定の九州王朝の行政用語としたかを考えましょう。

 有明海沿岸には阿蘇周辺から粒子の細かい大量の火山灰が流れ込み大規模な干潟を形成し続けています。

 勿論、規模は異なりますが、遠賀川流域でも久住山系から同様の流れ込が有り干潟を形成しました。

 このような場所では、洪水の度に流路が変わり、昔の住居や田畑が流され、旧流路が新たな余剰地となります。中学生の時に習った「三日月湖」を思い出されるでしょう。

 勢い、被災地の人々は新たに産まれた旧流路上に産まれた、荒れた(しかし肥沃な)土地に住まざる得なくなります。

 これが、「古川」であり、制度化された「古河」「旧河」(久我)「空閑」(久我)だったのではないかと考えています。

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石狩川の例です                横浜市栄区の資料から


 要するに、「古賀」とは「古川」であり、洪水の結果生み出された三日月湖や旧河川敷の事なのです。

 事実、433 伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”で取り上げた伊豆神社も通称「古賀」の伊豆神社なのです。

 この「古賀」地名の解読は、九州王朝論者の永井正範氏が提案(発案)したものであり、その解読作業にも関わった事から、ここで好例に出くわした事からお知らせしたものです。優秀な民間研究者であり立派な業績にも関わらず、blogも書かず出版もしない様では何の業績も残せず、歴史の紙屑籠に潰え去る事になると思いますので、その一端をエッセンスのみに留め明らかにしておきます。

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「福岡県神社誌」上巻234p


 重要な内容とは言え、多少、話が横道にそれましたが、この遠賀川右岸の三社の祭神配置を考えていると、少し見えてきた事があります。

 それは、百嶋由一郎最終神代系譜で大国主命のお妃となったお二人(宗像三女神)の市杵島姫系氏族と豊玉姫系氏族が遠賀川の右岸、左岸に展開していたのではないかという仮説です。

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相互の出入りはあるようですが、神社の祭神を見ていると、筑豊でも遠賀川河口の右岸、左岸で民族、氏族の棲み分けが行われているように見えます。

 豊玉姫も市杵島姫も共に大国主命のお妃なのですが、外戚(正しい表現かは置くとして)を見る限り豊玉姫の母神は高木大神の娘の豊秋ツ姫であり、市杵島姫の母神は金山彦の妹のイザナミの娘であるアカル姫(スサノウが追い掛けた)なのです。

 このため、右岸では高木大神の系統が強く、左岸では金山彦、スサノウ系が強いと言う印象を受けるのです(特に久我神社の由緒は象徴的でその事が豊玉姫に代わり市杵島姫が入っている)。

 まあ、これは河口周辺だけの現象かも知れませんので絶対視されない様に…。

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百嶋由一郎極秘神代系譜


高木系 金山彦系を操る白族=大幡主系のバランス感覚が凄い 大山祗を父とする大国主も大幡主系です


研究目的で故)百嶋由一郎氏の音声CD(3040h)、手書き資料スキャニングデータ、神代系譜DVDを必要とされる方は、直接、09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:22| Comment(0) | 日記

ビアヘロ036 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

ビアヘロ036 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

20180113

太宰府地名研究会 古川 清久

この間、何度か民俗学者の故)吉野裕子による「カガミ山」=蛇山説の事例を取り上げてきました。


ひぼろぎ逍遥

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お読みでない方には、再度、これらをお読み頂きたいと思うのですが、2018年の1612日に掛けて大雪を覚悟した但馬の神社調査に行ってきました。

九州島に戻った後の帰りのルートは、行橋〜田川〜飯塚〜小郡を経由し久留米に向かう事にしました。

過去何度となく通った道でしたが、仲哀トンネルを貫け田川に入って来ると右手に香春岳が見えその手前に鏡山神社があります。多くはありませんが、過去、何度か参拝させて頂いています。

ただ、この神社が何故鏡山神社と呼ばれているかについては、“仲哀トンネル(峠)や神功皇后による鏡の奉納といった話があり、そうかも知れないなあ…”などとあまり深く考えもせずに判断を保留してきました。しかし、どうやらそうではない事に気付いたのでした。

冒頭に書いた通り、民俗学者の吉野裕子(故人)は、蛇は「カカ」であり、一本足の案山子も「カカ」の「シ」「シト」(ツヌガノアラシトも「シト」ですね…)「カカノシ」(カカノ氏)であり、正月のお鏡餅も縁起の良い(餅を好む稲作農耕民にとっては穀物を食い荒らす鼠や虫や鳥を退治してくれる蛇を豊穣のシンボルとした)トグロを巻いた蛇の姿を模したものであるとしました。

神社研究として、一旦は、神功皇后に準えた説話を受入れたのですが、ここでも吉野裕子説の方がより説得力がある事に気付き、今回、鏡山=カカ+巳山説としたいと思います。


仲哀天皇の御代、天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものとて、御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。その途路、此の岡に天神地祇を祭り、必勝を祈願し御魂代として御鏡を鎮め給ひ崇め給いしが、御社の草創と伝えられるが、祭神は神功皇后を主神に仲哀天皇及び応神天皇(西暦二七〇年)を併祀せられたる神社にして御鎭座より此の方一千七百余年を閲する御宮居である。

神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。

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鏡山神社 カーナビ検索 田川郡香春町大字鏡山字南原705

 豊前国風土記逸文

田河の郡。鏡山。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいらせられて、はるかに国状をご覧になり、祈って申されるには、「天神も地祇も、私の(新羅征伐の)ために幸福を与え給え」と。そして御鏡をもってここに安置した。その鏡は化して石となり、現に山の中にある。それで名づけて鏡山という。(『万葉集注釈』三)         敬愛する「神奈備」による  まさか、鏡とは御鏡餅ではないでしょうね。

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これを見るとどう見ても山が御神体にしか見えないのですが

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写真が見つからないので「ひもろぎ逍遥」様から借用しました

まずは「福岡県神社誌」中巻210pを見ることにします。

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神功皇后と仲哀を祀る神社である事は説明がいらないほどですが、それは1700年前から始まった事であって、それ以前は別の祭祀が存在していたのではないかと考えるに至りました。

それは、以前のフィールド・ワークから、この一帯にはツヌガノアラシトこと神武僭称 贈)崇神を奉斎する現人神社が数社存在する事を確認していた事もあり、最終的には金も採れた採銅所を握った人々がこの勢力であった事が見えたからでした。

それ故に鏡山神社とは、現在境内社とされている稲荷社(保食神=ウケモチ)祭祀だったはずなのです。

それは、採銅所で採れた銅によって造られた(作られたと書くべきかもしれませんが…)鏡が宇佐神宮に納められる関係にあり(採銅所の古宮八幡宮)、今回、この勢力が、贈)崇神の権威を高めるためにも神功皇后+仲哀祭祀を生じさせたのではないかが見えてきたのでした。応神の背後にいたのは崇神なのです。

まず、採銅所の正面には辛國息長大姫大目命神社を主神として祀る式内社の香春岳神社があります。

私達百嶋神社考古学の者にはこの辛國息長大姫大目命が伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり、当然、=猿田彦のお妃の天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)であることが分かっています。

一方、この贈)崇神が海幸彦の孫である事は何度も申し上げて来たのですが、ここにはニギハヤヒ(山幸彦)系物部氏主流派と海幸系の対立が見えるのです。

それが、この鏡山神社祭祀の背景に存在する事が見えて来ると、この神社が鏡の奉納といった事から鏡山神社と呼ばれている訳ではない事に五年も掛かってようやく気付いたのでした。

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と…、すると、何故、鏡山神社と呼ばれているかについては、改めて民俗学者の吉野裕子に立ち返る必要がある事に気付くのでした。

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大雪の但馬の神社調査遠征から戻ってきて、行橋から大雪の田川盆地へと入り途端に渋滞する中で、この鏡山神社とこの一帯が「鏡ケ池」と呼ばれている事に気付き(勿論知ってはいても意識していない以上パス・スルーしているのであり、「ゲシュタルト」心理学の見ていても見えていないのと同義なのです)、鏡を奉納したから鏡山神社と呼ばれているのではなく、鏡山と呼ばれていたから鏡山神社と呼ばれているのでしかなく、普通に考えても鏡が奉納されたからと言って池まで「鏡ケ池」とは呼ばれるはずはなかったのです。つまり、鏡山を島として浮かす池だったからこそ「鏡ケ池」と呼ばれた事が見えたのでした。

この位置からはお鏡餅状の山に見えますが、再度、始めの方に掲げた地図と俯瞰画像をご覧ください。

日田英彦山線がこの地(採銅所〜香春)で大きく蛇行している事にお気付きになると思います。

これは古代遠賀湾、遠賀湖といったものの名残りとも言うべき湿地を避けて(鉄路は安全な傾斜を維持するため地盤沈下を嫌いますので安全な回転半径を取る事は元よりですが)、最低でも汀線の縁を通過するものなのであり、その内側が古代の池であった事も見えて来るのです。


再掲

もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…

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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より

お分かり頂けたでしょうか?  以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。


鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。


一例ですが、HP風水パワースポット検索 から

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神奈備氏が“神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。”と書かれている事は先に引用している通りですが、長い階段参道を歩かれれば直ぐに分かるとおり、香春神社の氏子には他にも多くの鶴賀さんがおられます。

やはり、これは付合ではなく古代の政争の結果が反映されているのです。

繰り返しますが、辛國息長大姫大目命とは伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり=天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)なのです。

鶴賀さんが敦賀さんであり、ツヌガノアラシト(草部吉見=ヒコヤイミミの孫)=現人神(アラヒトガミ)、氣比神宮の後裔であろうことは十分に想像できるでしょう(これは血統が継承されていなくともその氏族の利益を継承する家系であっただろう事を示しているのです)。

要するに、ここでは山幸系が海幸系に排除され、採銅所という重要な拠点が支配されているのです。

ましてや、香春神社の主神は男神ですなどと公言する地元郷土史会の方も出てくるようでは混乱と無理解は一層拡大する事になるでしょう。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:30| Comment(0) | 日記