太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年03月01日

431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

20170515

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県飯塚市に「伊岐須」という変わった地名の地域があります。

場所は、中心地の飯塚市役所から西に数キロといったところで、二瀬と言う地名があるからでしょうが河川邂逅部正面の小丘に高宮八幡宮が鎮座しています。

変わった地名という表現をしましたが、奈良時代のはじめ頃、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている事からの類推によるのです。

一般的には二文字に依らない地名は、この好字令それ以前の既に確立し定着していた古い地名であった可能性があるからです。

まず、始めに気になったのは伊岐須という地名の真ん中に「岐」がある事です。

当然にも神武天皇に弓を引いたとされる岐(クナトorフナト)の神=長脛彦を意識してしたのですが、あくまでもこれは切っ掛けでしかありません。

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 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより

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この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。

ただ、これは地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

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百嶋由一郎長脛彦神代系譜


長髄彦

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。


饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている[要出典]。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している。

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。

ウィキペディア(20170517 19:28による


 では、高宮神社をご覧頂きましょう。

 石炭鉱害復旧事業が法外に大量投入された筑豊飯塚の事、この一帯も沈下が顕著であり、埋め立てによって結果この高宮は中ぐらいの高宮に変わったそうですが、それなりの微高地にこの神社は鎮座していました。

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まず、不思議なことに三の鳥居は大山神社となっていました


摂社に大山祗命、大国主命がおられる事から、あってもおかしくない鳥居ですが、小さな摂社の割にはあまりにも立派な鳥居である事からバランスが取れていない事は言うまでもありません。

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全て猿田彦の石塔で、数から考えてもこの一帯がある時期ニギハヤヒの勢力圏であった事を語っています


 藤吉郎が猿とされたのは徳川の意図が見えますし、柿本人麻呂が猿丸太夫とされた様に貶める意味が込められているのです。

猿田彦を表すのに猨田彦とした理由は分かりません。

 獣編+袁ではなくと書かれていますが、これは貶められた名の猿ではないとの思い(猨田彦)が反映されているような気もしますが、猨田彦もサルタヒコ、エンダヒコと読むのです。

ただ、ウイキペディア氏も言われている様に、“長脛彦は饒速日命の手によって殺された、若しくは失脚後に故地に留まり死んだともされています。

百嶋神社考古学では猿田彦はニギハヤヒであり山幸彦になるのですが、これが神社の配神と関係でどのような位置付けになるのかは良く分かりません。

「日本書紀」神武天皇条に神武東征に先立ち天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というとします。

ニギハヤヒは大和の土豪の長髄彦の妹を娶り、初めはナガスネヒコと共に神武の侵攻に抵抗します。

しかし、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことによって互いに天神の子であることを認め合いニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏する事になるのです。

そしてニギハヤヒは物部氏の遠祖になったと言われるのですが、そのニギハヤヒは「古事記」では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場しています。

記紀によればニギハヤヒが飛来した所は畿内となってしまいます。

百嶋神社考古学では神武巡幸はあるが、神武東征を行ったのは崇神としますので、長脛彦と衝突した神武は初代神武であって崇神ではないのです。

このため、長脛彦がいたのは飯塚であり、後に富の長脛彦と言われるように、金富神社、大冨神社がある行橋〜豊前の一帯だったのではないかと考えるのですが、今後の課題です。

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この石塔上部の紋章が椿のように見え気になったのですが、社務所を見て氷解しました。椿は猿田彦のシンボルであることは伊勢の椿大神社でも明らかです。

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本殿に祀られている神様については後段に譲るとして、摂社から話を進めましょう。

 美保神社と言えば事代主ですが、実態として事代主は格下の神で、このような社が造られる事もまれで、そもそも数こそ多いものの違和感があります。

 鳥居との関係からも神殿上部の神紋(隅切り角に三引き)からも、本来、この社殿には次の大山祗大神と大国主命(実は親子)が入るべきなのです。

 このように、事代主命こと恵比須さんは少し格上げされ過ぎているようです。

 ある時代の高宮神社は、スサノウ、長脛彦を隠し、大山祗、大国主を前面に掲げる神社だったのかも知れないのです。

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さて、高宮八幡宮の祭神です。まず、福岡市の高宮にも高宮八幡宮がありますが、玉依姫命、応神天皇、神功皇后の三柱を祀っておられます。

さらに気になるのは宗像大社の高宮です。それは、百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とするからです。この大山祗神社の大山祗と、疫神社とする大国主命こそが、宇佐神宮が覆い被さってくる前の本来の祭神に見えるのです。

そうでもなければ、大山祗神社の神額を付けた鳥居など造られるはずはないのです。

 勿論、この摂社があるからこの鳥居が寄進された可能性はあるのですが、元々大山祗神社の鳥居があった事から寄進された可能性もあるからです。

 どうも、何度も主祭神が換えられた形跡があるのですが、「福岡県神社誌」の境内神社を見ると、貴船は女性宮司から神殿にお祀りしていますとお聴きしました。

 同じく、天満神社として菅原神が二社合祀されているようです。これは明治の合祀に思えるのですが(一村一社)、この一帯に多くの菅原系氏族がいたことを示しています。

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左)「福岡県神社誌」上巻 339p 右)現在の高宮八幡宮の由緒(2015年)


 祭神がコロコロ変わっているのには目が回りますが、昭和19年編纂の「福岡県神社誌」にある誉田別命(ホンダワケ)=別王応神、贈)仲哀天皇、スサノウという非常に特異な配神が気になるのか、現在は今の宇佐神宮に沿った祭神に変えられています(2015年)。

しかし、それでもスサノウを残すところがこの神社の非常に興味深い特異性を示しています。

 そこで、何故、宇佐八幡宮に関係がないスサノウが殊更に祀られているのでしょうか?

 一つの仮説を提出しておきたいと思います。

伊岐須の高宮八幡にはやはりスサノウの子である岐神(クナトノカミ)が見え隠れします。

それは「伊岐須」という地名が対応する東国三社の一つである息栖神社が長脛彦を祀るとする事からの類推でしかないのですが、スサノウの子がナガスネヒコである事から八幡宮に衣替えしても、なお、スサノウが祀られている事にその背景を見てしまうのです。

 さらに言えば、確かに仲哀天皇が祀られるタイプの八幡宮はあるのですが(大分市の柞原八幡宮…他) 、

長脛彦の妹である瀛津世襲足媛命(オキツヨソタラシヒメノミコト)から帯中津日子命(まさか中津市にいた訳ではないでしょうね)=仲哀も出てきている事から、それが高宮八幡宮に反映されているのではないかと考えるのです。

では、高宮とはと考えると、大山祗と大国主命祭祀が色濃く残っている事から始めはスサノウと金山彦の血を引いた祭祀から大山祗と大国主命の系統の祭祀へと移行し、最終的に阿蘇を起源とする藤原の息の掛かった宇佐神宮に覆いかぶさられたのがこの高宮八幡宮の性格ではないかと見たのでした。

簡単に言えば、昭和19年の「福岡県神社誌」の祭神である応神、仲哀、スサノウの三神を、スサノウ、長脛彦、仲哀とすれば、スサノウ〜長脛彦の妹瀛津ヨソ足姫(武内足尼)=菅原の一祖〜天足彦〜ヤマトタケル命〜仲哀天皇〜という栄えある本流が復元できるのです。

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境内から参道方向を望む

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)


追補)


あくまでも思考の冒険であり、シュミレーションの一つですが、この神社は、当初スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が成立し(スサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の兄妹=長脛彦、オキツヨソタラシヒメ)、その後大山祗、大国主(トルコ系匈奴)系氏族への転換が起こり(これは立岩遺跡が甕棺から古墳へと変わっている事と対応する)、その後700年代半ばに宇佐神宮の影響下で八幡宮へと変わったものと考えられそうです。

それが、大山神社との神額を持つ鳥居があり、大山祗、大国主命を祀る摂社がある意味であり、八幡宮としては異質なスサノウが残されている理由だろうと考えられそうです。

また、スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が存在した時代があったはずです。

長脛彦の妹である瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)の後裔には、天足彦、ヤマトタケルとその子仲哀天皇があります。そう考えれば、それが八幡神社となってもスサノウ、仲哀を残している理由かもしれません。このように、伊岐須という地名から常陸の息栖神社のカガセオ=長脛彦を推定したのですが、必ずしも的外れではなかったようです。

最後に伊岐須の意味ですが少し見当が付きました。「岐」の意味を調べてください。枝の様に二つに別れる所のことなのです。

つまり、この伊岐須は二瀬でもありますが、二又瀬の意味なのです。

そして、神社の前には象徴的な河川邂逅部がありますね。そうです。井(水路)の岐の洲が伊岐須の意味だったのです。従って、付近の伊川温泉の伊川地区も、井川の意味なのです。

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神社正面の河川合流部


関連メモ 岡山県宍粟市一の宮町「生栖」に鹿島神社があり二股川の上に池王神社が祭神はスサノウ…

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2018年03月03日

432 出雲の長浜神社の岐の神 “長浜神社再訪”

432 出雲の長浜神社の岐の神 “長浜神社再訪”

20170522

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 奥出雲町全神社調査(第三次)の帰路、久しぶりに長浜神社に参拝しました。

 実は、出雲で最も心を惹かれる神社とは出雲大社などではなくこの長浜神社です。

 以前、ひぼろぎ逍遥 196 出雲の長浜神社の祭神 として書きましたのでお読みになった方もおられるかと思います。

 久しぶりでしたので、カーナビを頼りに探しても間違いながらの参拝となりました。

 出雲大社一極偏重というおかしな構造への反発もある上に、そもそも出雲大社(出雲大社は藤原が創った「古事記」により偽装されたテーマ・パーク)と考える事からも個人的にはもっと参拝客が増えるべきと考える一社です。

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それはともかくも、この神社は進入路、参道、駐車場…に至るまで、どこから入るべきかが分かり難い神社です。

それはそれで神秘性を高めてはいるのですが、宣伝する気がないのか…、失礼ながら実に商売っ気が無いと言うべきか?未だに孤高の独立性を保っておられるようです。

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こちらは裏参道から本殿に入る瞬間のアングルですが、前blogでも掲載した好きな画像です


 今回は、同社の主祭神についてはコメント致しません。以下は「出雲国神仏霊場」より。

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百嶋由一郎「八束水臣津野命」神代系譜


とりあえず、ひぼろぎ逍遥 196 出雲の長浜神社の祭神 を読んで頂くとして、百嶋由一郎「八束水臣津野命」神代系譜を再掲しておきます。

今回は「岐神」(長脛彦)=出雲井神社の写真を撮っていなかったことから再訪したもので、改めて色々と気付いた事もありこちらの話をさせて頂きます。

直前ブログの ひぼろぎ逍遥(跡宮) 431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”において「岐神」(長脛彦)の居た場所突き止めた気持ちでいますので、百嶋先生からは、ナガスネヒコは政治的な失敗(神武天皇に敵対した)後、世話になっている…との話をされていましたので、九州での衝突(恐らく豊前)以後、元々大幡主の領域であった長脛彦の一族は現出雲に移動していたとすれば、妙見山の麓、しかも、博多の長浜という地名(実際両方とも長浜があったのですが…)とも対応するこの神社こそその移動地だったのではないかとの妄想が膨らんだからでした。

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非常に分かり難いため「出雲国神仏霊場」より詳細な地図をお知らせしておきます。

 さて、今回のテーマである岐神(クナトノカミ)=出雲井神社の祭神=長脛彦(ナガスネヒコ)の祭祀をご覧頂きましょう。

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 劇的なまでの強烈な印象を受けますが、殷の鳥居が置かれています。

 今まで、長浜神社以外ではこの鳥居に遭遇した事は5社、6回しかありません。

 佐賀県嬉野市塩田町の八天神社、福岡県吉富町の八幡古表神社(二基)、国東市国東町来浦の八坂神社…

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佐賀県嬉野市塩田町の八天神社

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勝手ながら、この岐神についても解説を省略します。関心をお持ちの方は、先行して以下をお読みください。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

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ただ、夫婦神として扱われている事に多少の違和感を感ぜざるを得ません。

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百嶋由一郎荒神神代系譜(本当の荒神とはこの御兄妹なので夫婦ではないのです)


長脛彦は多分殺されたのではないかと考えていますが、妹の武内足尼=瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)=奥ツ姫は海幸彦=草部吉見=淤美豆奴命の妃となり、国譲りに反対した建御名方を産んでいるのです。

その事が分かっておられるからか、この社殿には荒神(納社)として祀られているようなのです。

 そして、表参道の一番下の右手にも荒神として大切に扱われているのです。

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表参道右手の荒神


 天御中主命、金山彦、その一族の栄えある皇子こそ長脛彦であらされ、その妹が荒神となるのですが、その流れから菅原道真も出てくるのです。

 この神社には、この岐神の御祖父神にあたる金山彦、その義理の母神にあたる天御中主命、ずっと下った後裔の菅原道真…が摂社として祀られているのです。

 まさに、金山彦(始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛の一族)の神社なのです。

 だからこそ殷の鳥居が伝えられているのです。

 ただ、もう一つの三宝荒神(奥ツ彦、奥ツ姫)系譜があり、この関係がまだ解析ができていません。

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百嶋由一郎 奥ツ彦、奥ツ姫系譜


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百嶋由一郎最終神代系譜(通称みたらし団子系譜)部分


  研究目的で百嶋由一郎氏の音声データ、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

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2018年03月06日

433 伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

433 伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

20170619

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 遠賀川と言えば筑豊を貫流し玄界灘に注ぐ大河ですが、その河口両岸に3〜4社の伊豆神社、伊豆の名称はないものの同系の神社があります。

 今回はこの神社群と伊豆目の神との関係を考えます。

 ともあれ、何故、伊豆神社、伊豆能売に注目したかという話を飛ばすわけには行かないでしょう。

 ある種の新興宗教教団の方以外、一般にはほとんど知られていない伊豆能売という神があります。


伊豆能売

『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「神」「命」などの神号はつけられていない。

神道系新宗教では伊都能売神と表記することもある。神名の「イヅ」は「厳」で、斎み清めることを意味する。神名の「メ」は女神であることを意味する。 神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉から帰って来た際、黄泉の穢れから禍津日神が生まれた。その禍津日神がもたらす禍(災厄)を直すために、直毘神二柱(神直毘神、大直毘神)と伊豆能売が生まれたとしている。

『延喜式神名帳』には伊豆能売を祀ったと思われる出雲国出雲郡の「神魂伊豆之賣神社」が記載されており、同社は伊努神社に合祀されたとされているが、同社の祭神に伊豆能売の名はない。『延喜式神名帳』以外にこの神社について記載した史料はなく、伊豆能売を祀る神社は現存しないことになる。 しかし、伊豆能売の名を冠しない式内社は現存しており、三重県津市の元伊勢伝承地の一つである「加良比乃神社」は倭姫命が天照大御神を奉戴して「片樋宮」を建立した跡地に「御倉板舉神」と「伊豆能賣神」を祭祀したのが起源とされている。これは後世の復古神道や古神道の思想の影響下で奉祀されたものではなく、延喜式編纂以前の祭祀である。 幕末以降の神道系新宗教の中には、伊豆能売が古代には信仰されていたが後に信仰されなくなった「埋没神」であるとして、新たに信仰の対象にしようとするものもある。

大本の出口王仁三郎は1918年ごろ『伊都能売神論』を発表した。また、1926年ごろ、教団内の機関誌『神の国』において、7月号より翌年5月号まで、『伊都能売』と題した連載を行い、伊都能売神の解説を行った。これ以外にも、霊界物語内に伊都能売神の記述が点在してあり、伊都能売神を詠んだ和歌も数点発表している。王仁三郎の弟子で、世界救世教を興こした岡田茂吉は、伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、中国を経由してインドへ渡って観自在菩薩と名乗り、釈迦に仏教を伝授し、その後、南中国地方に移って観世音菩薩と名を改めたのだという「逆本地垂迹(神本仏迹)」とも言える説を示した。また、伊都能売大神は金龍となって琵琶湖に潜んでいたとも述べている。

ウイキペディア(20170619 19:09による

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神社の事を書き続けていると、好むと好まざるを問わず様々な宗教関係者と接触する事にならざるを得ません。

 まず、第一に神社庁傘下の宮司、禰宜との接触もある種の教団なのであって、それ以外にもスピリチュアル系の人々とも接触は出てくるのです。

 そもそも、神社庁自身が邦人以外の目で見れば、これこそ奇妙で偏ったカルト教団の元締でしかないのであって、新興宗教だから云々といった議論はほとんど意味がないでしょう。

 明治の末に巨大教団に成長していく大本教は、二度にわたる大弾圧にもかかわらず、数多くの分派教団を生み出します。大本系を広く捉えれば、谷口雅春の生長の家や岡田茂吉の世界救世教を筆頭にその分派教団は数えられないほどの広がりを見せています。

晴明教、救世主教、救世真教、救いの光教団、世界浄霊会、みろく神教…、世界真光文明教団、その分派としての世界真光文明教団(こちらが本家筋ですか…)崇教真光…と。

 これらの全てが伊豆能売を祀るかまでは知りませんが、少なくとも、今回、関係を持った崇教真光の主祭神は「主()の大御神様」と言われますが、それが伊豆能売であろうと言われているのです。


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同社由緒

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同社の縁起を読む限り、彦火々出見命、玉依姫命、塩土老翁…合祀神社(貴船、幸、唐熊)とあり、山幸彦(大幡主の子ではないか…)、玉依姫(恐らく鴨玉依姫)、塩土老翁(大幡主=神産巣神)であることから、伊豆神社とはどう見ても博多の櫛田神社の大幡主系の神社である事は間違いないのです。

 してみると、伊豆能売もこの系統の神と考えて間違いがないのではないかと思うものです。

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面白いのは陽負いの烏(三本足かは不明)で、大幡主系の山幸彦=ニギハヤヒ(陽負の鶴の神紋)、鴨玉依姫の父神は豊玉彦=ヤタガラスである事を考えれば、陽負いの烏はリーズナブルなのです。

 では、鴨玉依姫が伊豆能売かというとそうではないようです。

 その理由は、次のblogになるでしょうが、遠賀川右岸の水巻町ではなく、対岸の遠賀町にある伊豆神社には伊豆能賣神が主神として祀られている事から、水巻側で違う呼ばれ方をしているとは思えないという事、もう一つは、崇教真光の嘉穂道場の祭壇を見せて頂いた事から気付いたのですが、「主()の大御神様」(恐らく伊豆能売)の横に大国主命が祀られていたとなると、そのお妃(大国主には多くのお妃がおられるのですが)として筆頭に浮かぶのは豊玉姫(豊玉彦=ヤタガラスと高木大神の娘豊秋ツ姫の娘)なのです。

 もう、早々と結論めいたものを出してしまいましたが、これも作業仮説であり将来修正する可能性もあることを前提として提出させて頂くものです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:42| Comment(0) | 日記