2018年02月21日

428 奥出雲の神々 34 郡村の大領神社

428 奥出雲の神々 34 郡村の大領神社

20170519

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 JR木次線亀嵩駅辺りから数キロ北に入った郡村に鎮座する神社です。

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リポートとしては最後の神社になりますが、何とも神社らしい良い顔の神社です。

初見の神社のうえに、大領神社という耳慣れない社名から始めから難航しそうとの印象を受けました。

奥まった集落、狭い道路、どうみても主流の神社ではないようですが、あまりにも情報が少なく、どのような神社なのか見当も付きません。かなり古い神社であろうことは間違いありません。

この様な時どのような方法で判別して行くかですが、今回はほとんどネット上の情報に依存する事になります。ただ、大領、少領は、九州王朝の職名であったという記憶があり、少し希望があります(後段へ)。


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社殿は質素ですが、山門付の参拝殿神殿は良い絵柄となっています。

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県神社庁の資料によれば 祭神は 伊弉諾命・伊弉冊命 とされていますが、百嶋神社考古学から見れば、偽装のように見えてしまいます。

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境内に入ってみると、いたって情報の少ない神社であり、表面的な情報以外判断できる材料が全くありません。

所謂、顔の見えない神社と言えるでしょう。それは、祭神にも現れています。

概して、琵琶湖の多賀神社の様に伊弉諾命・伊弉冊命…という当たり障りのない神名にしている背景には、基層部に差し障りのある別の神々がおられるのではないかとの印象を受けます。

鍵は、大領という奇妙な社名に在ります。直ぐに古代の職名であろう気付きました。


大領(だいりょう)

律令制における職名のひとつ。大宝令によって定められた郡司における最高の地位。四等官の長官にあたる。終身官 権大領

韓国軍の階級のひとつ。佐官の最高位である大佐に相当する。→詳細は韓国軍の階級を参照…

栃木県下野市上大領、中大領、下大領。もと下都賀郡(都賀郡)上大領村、中大領村、下大領村(一時石橋宿の一部)

石川県小松市大領中町、大領町。もと能美郡大領村、大領中村、のち浅井村、苗代村の各一部

大阪府大阪市住吉区大領 (大阪市)(だいりょう)。大阪市立大領中学校、大阪市立大領小学校の所在地

神社 大領神社、岐阜県不破郡垂井町にある神社

人名 日本の姓のひとつ。能美郡由来の氏族がある

津守氏の別称。大海神社(大阪市住吉区住吉)を参照  

ウィキペディア(20170519 0802による

そこで、大領神社を検索して見ました。


大領神社

大領神社 所在地 岐阜県不破郡垂井町宮代森下765

主祭神  不破郡大領宮勝木實命

社格等  式内小社(伝)美濃国二宮、郷社、南宮大社摂社

創建   不明、715年(霊亀元年)説あり

大領神社(たいりょうじんじゃ)は、岐阜県不破郡垂井町にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。美濃国二宮とされる。南宮大社の摂社である。

祭神   宮勝木實(みやの すぐりの このみ)宮勝木實は、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)の命で、不破道(不破関付近)に出兵した人物。功績により、不破郡の大領になったという。

所在地  岐阜県不破郡垂井町宮代森下765 南宮大社の東、約0.5km

歴史   創建時期は不明。宮勝木實の死後の715年(霊亀元年)という説がある…


ウィキペディア(20170519 0822による


どうもピンと来ないので、敬愛する「玄松子」氏のサイトにより調べて見ると


大領神社  たいりょうじんじゃ

[岐阜旅行] 岐阜県不破郡垂井町宮代森下765  Zenrin Data Com Maps display !!

三つ巴

式内社 美濃國不破郡 大領神社 南宮大社摂社 旧郷社

御祭神 不破郡大領宮勝木實命 配祀 伊邪那美尊 速玉之男神 泉津事解之男神

岐阜県垂井町にある。垂井駅の南1Kmほどの宮代に鎮座。 当社は、南宮大社の摂社にあたり、南宮大社の東500mと近い場所にある。 参拝は冬の夕方で、陽が沈む間際。境内周囲の木々が、長く影を落とす頃。境内は広いが、何も装飾のない空間で、寂しげな雰囲気だった。当社の前に、赤く華やかな南宮大社へ参拝したせいかもしれない。創立年代は未詳。祭神は、不破郡の大領であった、宮勝木實(みやのすぐりのこのみ)。壬申の乱の際に、天武天皇に味方して不破関を守り、勝利に貢献した人物。壬申の乱後、不破郡を賜り大領となった。不破郡初代の大領である彼の事跡を慕って祭神の死後(霊亀元年、715年)、当地に祀られた神社で、当社は円墳の上にあるという説もある。 宮勝(みやのすぐり)の姓から、南宮大社の祀職であったといい、また「すぐり」が帰化人特有の姓であることも指摘されている。拝殿に巴紋が掲げられ、本殿の屋根にも巴の飾りが付けられている。たぶんこれが、神紋だと思う。境内に当社の由緒を刻んだ石碑があるが、一部、よく読めなかったので。読める部分のみ掲載してみた。が、誤読している箇所もあるかもしれない。


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ところが、敬愛する「神奈備」氏が奥出雲の大領神社を書いておられました。

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祭神 伊弉諾命、伊弉册命、速玉男命、事解男命

合祀 天照皇大神、素盞嗚命、五十猛命、月夜見命、稻田姫命、天津日高日子穗穗手見命、豐玉姫命、迦具土命

摂社 若宮神社「木花開耶姫命」

由緒 神門横の説明板によれば、創建年代は大化の改新の頃と云う。仁多郡の大豪族蝮部臣が郡家大領職にある時に、 当地から西2kmの城山(じょうやま)の峰に鎮座していた須我非神社を遷して、郡家鬼門鎮護の神として祀ったと記す。

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明治初年までは諾册神社と称していたと云う。神社名は変転を経ているようだが、祭神から逆に見るのは危険なことだが、敢えて云えば熊野神社ではなかったろうか。熊野大社とは川筋が違うので、紀の国の熊野からの勧請かも知れない。

境内の説明板によると、明治末期に桧山神社「素盞嗚命、五十猛命」を合祀したとしている。

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境内には社日神も…


冒頭で、大領、少領は、九州王朝の職名であったという記憶があり少し希望があります(後段へ)。と書きましたが、故)古田武彦氏の論文はネット上にかなり流れており、古田史学の会の「新古代学の扉」外で読むことができます。その一つ、市民の古代・古田武彦とともに 第6集 中に、

1984年 「市民の古代」編集委員会 大化の改新と九州王朝 古田武彦があります。

その郡評論争絡みの部分に大領が出て来ます。


六、「評の隠蔽」問題〈その二〉

(インターネット上の強調のための赤色表示と漢文表記は省略)

A風郡、以四十里為大郡。三十里以下四里以上為中郡。三里為小郡。其郡司、並取国造性識清靡堪時務者為大領少領。・・・凡五十万為里。

〈大化二年、改新之詔、考徳天皇、日本書紀考徳紀〉

井上光貞氏「大化改新詔の信憑性」

昭和二十六年十一月東京大学

史学会 第五十回大会 研究発表

「評」史料(井上氏『日本古代国家の研究』P388390

(1).評督領〔皇太神宮儀式帳〕

(2).笠評君〔金銅観音薩造像記、辛亥年〕(白雉二年とする)

(3).石城評造部志許妻等〔常陸国風土記多珂郡、癸丑年〈白雉四年〉〕

(4).評督凡直麻呂等(続日本紀、神護景雲元年三月丑年。庚午年籍〈天智九年〉・・・自此之後〕

(5).川内国志貴評〔僧宝林敬造金剛傷陀羅尼経願文。歳次丙戌年 ーー天武一四年か。〕

(6).那須国造追大壱那須直韋提、評督被賜、〔那須国造碑銘、永昌元年 ーー持統三年、井上氏の読みによる。〕

(7).木国氷高評〔続日本紀、天平宝字八年七月「未条。条。・・・後至庚寅論 之歳等 ーー持統天皇四年〕

(8).糟屋評造舂米連広国〔妙心寺鐘銘。戊戌年〈文武二年とする〉〕

(9).(薩末)衣評督衣君県、助督衣君弖自美〔続日本紀、文武四年六月庚辰年。〕

〈系図〉

(10).次評造小山上宮手古別君之 ーー子評督□建□別君之〔讃岐、和気氏系図〕

(11).真里子阿蘇評督 ーー角足阿蘇評督

〈朱鳥二年二月為評督改賜姓宇治宿禰〉 ーー平田麻呂

 〈阿蘇郡擬大領、外従七位上阿蘇宮司、平城宮朝廷郡司〉〔肥後、阿蘇氏系図〕(参考)

(12).倉足諏訪評督〔信濃、金刺氏系図〕(参考)

(13).〈田中卓氏による、井上氏は従がわず〉

 a高市評久米里〔和爾部系図〕

 b多々見(年魚市評督、板蓋宮朝奉斎、熱田神宮)

    〔田島氏(尾張)系図〕

c立水依評任督〔伊福部氏因幡系図、孝徳二年〕

 a日本書紀

  (1).豊国国前郡(垂仁二年、一云)

  (2).肥後国皮石郡(持統十年  696

 b続日本紀

  (1).詔、筑前国宗形。出雲國意宇二郡司。・・・(文武二年、698 三月)

  (2).大倭国葛上郡鴨君粳賣(文武四年、700 十一月)

日本書紀 ーー原則として評制の痕跡なし。(ただ例外一 後述)

続日本紀 ーー評制について記さず。特に「評→郡」の変換の詔カット。

                 評制の痕跡有り。(上の(4),(7),(9)

  共通   九州年号の制について記さず。九州年号の痕跡有り。

         「白鳳以来、朱雀以前」〈神亀元年、七二四、聖武天皇〉詔報

少し分かりやすいものから、無題.pngをお読みください。

筑紫倭国の終焉(2

九州王朝は唐・新羅の連合軍に完膚なきまでに打ちのめされ、いまは細々と点いている最後の灯火まで消えようとしています。

さて今回から、「続日本紀」の世界に入ります。引用する場合は、「続紀」としましょう。

さて大和の主は代わって、大海人皇子(天武)と鸕野姫(うの。持統)の孫である「豊祖父(文武・もんむ)」の時代です。今後は、「文武」で通します。697年に即位しました。その二年条に、面白い記事があります。

<三月(9日)、詔して、「筑前国宗形(むなかた)・出雲国意宇(おう)の二の郡司は、並びに三等已上の親(三等親以上の者)を連任する(続けて任ずる)ことを聴(ゆる)す」とのたまふ。10日)、諸国の郡司を任じたまふ。よりて諸国司らに詔して、「郡司を銓擬(せんぎ。人の才能を測って適任かどうか決める)せむに、偏党(へんとう。偏る、えこひいきする)あること勿(なか)らしむ。郡司、任にいて須(すべか)らく法の如くすべし。いまより以降、違越(いえつ。違い超える、違反する)せざれ」といふ。>(文武続紀二年条、698年)

古田先生は、次のように解説されました。

1)まず、「諸国の郡司を任ず」とあることより、これまでの九州王朝による「評」制度に代わり、大和王朝の「郡」制度を発足させる…との正式表明であることが分かる。これまでの「評督ー助督」に代わる「郡司(大領ー小領ー主政ー主張)」の任命である。原則として、九州王朝下の「評督、助督」は再任されないのだ。宗像・意宇二群を除いては…。

2)次に、「宗像・意宇二群の郡司は三等親以上のものを続けて任じてもよい」とは、明記はされていないものの、やとえば父や伯父が「評督」などであった場合、子や甥が新制度下の「郡司」になってよい…という意味であろう。前者は九州王朝に深く関る人であったろうし、後者ははるか昔の出雲王朝の後裔であったかもしれない。


「宗像・意宇二群を除いては…。」は、九州王朝にとっては裏切り者に見えますね。

最後に、「神奈備」氏が 明治初年までは諾册神社と称していたと云う。神社名は変転を経ているようだが、祭神から逆に見るのは危険なことだが、 敢えて云えば熊野神社ではなかったろうか。熊野大社とは川筋が違うので、紀の国の熊野からの勧請かも知れない。と書かれていました。イザナミは黄泉の国で死んだことになっていますが、百嶋神社考古学では、イザナギと別れた後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり、ヤタガラスの母神となっているのです。

それが、百嶋神社考古学から見れば、偽装のように見えてしまいます。と前述した理由です。

以下、それに関する神代系譜を出しておきますのでご覧ください。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:03| Comment(0) | 日記

2018年02月24日

429 奥出雲の神々 番外編 @ 島根県神社庁リストにない神社 小馬木の板敷神社

429 奥出雲の神々 番外編 @ 島根県神社庁リストにない神社 小馬木の板敷神社

20170519

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 奥出雲町の全神社調査が終わりました。目的は奥出雲町が仁多郡であることから「先代旧事本紀」に書かれる物部25部族筆頭の二田物部(ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=五十猛…)の痕跡を辿るものでした。

神社庁データによれば34社が拾えます。

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以下省略

その意味では、以下の4社のみならず、これ以外にも摂社、分社、末社…にその姻戚関係も含めて、ニギハヤヒの痕跡を辿れるものがあり、全体として非常に濃厚な物部氏の影を見る事ができたのでした。


鬼神々社     素盞鳴命・五十猛命        仁多郡奥出雲町大呂2058番地2

伊賀多氣神社   五十猛命・素盞鳴尊、大己貴命  仁多郡奥出雲町横田1278番地

伊賀武神社    五十猛命・武御名方神      仁多郡奥出雲町佐白116番地

高尾神社     大国主命・布留魂命・五十猛命  仁多郡奥出雲町高尾780番地


 ただ、うっかりして金刀比羅神社 金山彦命・素盞鳴命 仁多郡奥出雲町河内515番地 についてはパスしてしまいましたので、オンエアまで(来年二月)には再訪し調査を終える事が出来ると思っています。

 無題.png二回の調査により全体で3433)社を廻ったのですが、実際に遭遇した神社はこの他にもありました。

 神社庁のリストに登載されていない神社があるのか?とお考えの方もあるかと思いますが、三宝荒神(荒神さんは概して神社庁管理の神社でないものが多いようです)も含め、個人の屋敷神や神社庁とは別系統の教派神道系の祭祀もあるのです。

 実は、今回の調査でも二社ほどリストにない神社と称するものがありました。

 一つは馬木小林の板敷神社です。

 馬木の天満宮二社を探している時に偶然発見したものですが、鳥居を持つそれなりの神社であり、何故リストに載せられていないのかと奇妙に思った物でした。

 ここではこの神社に詳しいコメントを加えるつもりはありません。

 この神社も伊賀平山直下の神社である事から、伊賀多氣神社:五十猛命・素盞鳴尊・大己貴命、伊賀武神社:五十猛命の社名に伊賀があるように、五十猛を祀る神社であるか関係する神社ではないかと思っていました。

 そこで、敬愛する「神奈備」氏で小馬木の八幡神社を検索すると、同社の境外摂社として板敷神社「櫲樟日命」があることが分かりました。

この櫲樟日命こそ熊野櫲樟日命:クマノクスビ命であり、前ブログで「百嶋神社考古学では、イザナギと別れた後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となりヤタガラスの母神」と書いたクマノクスビノミコト(クマノフスミノミコト)だったのです。

 結果として、直接的には五十猛命ではなかったのですが、このクマノクスビノミコトの夫神である大幡主の腹違いの子がニギハヤヒ=五十猛=猿田彦=山幸彦と考えますので、あながち無関係と言う訳でもなかったのでした。

 これについては、ひぼろぎ逍遥 201宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社 をお読みください。

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板敷神社 カーナビ検索 島根県仁多郡奥出雲町小馬木


しかし、板敷神社という名前で熊野櫲樟日命が鎮座されていたとは思いもよりませんでした。

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本殿

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本殿の直ぐ裏にあることから本来はこの小さな遊水池が御神体かも知れません

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年02月28日

430 奥出雲の神々 番外編 A 島根県神社庁リストにない神社 大谷の大荒神社

430 奥出雲の神々 番外編 A 島根県神社庁リストにない神社 大谷の大荒神社

20170519

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは大谷に移動中遭遇した神社ですが、場所を正確には特定できていません。

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始めはそれなりに大きな神社といった印象を受けたのですが、実際にはそれほど大きな神域ではありませんでした。

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境内に入ると、左手に大荒神社と書かれた木があり柵により守られた神域があるだけでした。

 つまり、一本の木自体が御神体なのですが、それが降臨地と言う意味なのか?木本体に意味がある神木なのかは不明です。

 奥出雲を見て回りましたが、かなりの神社でこのような事例を見たことから興味深く考えているところです。

 ところが、大荒神社とはやはり中国地方に色濃く分布する三宝荒神と同種のものである事に気づき氷解しました。

 事実、大荒神社と言う三宝荒神神社がたくさんあり、そう考えれば神社庁データにないのは当然であり、既存の勢力に尾を振らない独立した祭祀がここにも息づいていたのでした。

 では、百嶋神社考古学から見た荒神様をご覧ください。

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長脛彦は出雲大社の東数百メートルに鎮座する出雲井神社、長浜神社などに祀られる神様で、岐神(クナトノカミ)で知られた栄えある金山彦、イザナミ、スサノウ、アカルヒメの流れを汲む神様です。


これは三宝荒神の起源と考えている白鬚神社 宮崎県児湯郡川南町川南1987番地

 当然、カグツチは金山彦、奥津彦、奥津媛はスサノウの孫にあたる事が分かります。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:43| Comment(0) | 日記