2018年02月05日

ビアヘロ032 山田論文のご紹介 “「お稲荷さま」を考察する”

ビアヘロ032 山田論文のご紹介 “「お稲荷さま」を考察する”

20180106

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)には多くの研究者のblogがリンクされていますが、その一つに愛知県安城市の山田 裕さんの「百嶋神社考古学」から見る古代があります。以下…

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正月早々に、某神社の氏子総代の立場に忙殺されながらも、稲荷に関する詳細な検討が加えられた論稿が送られてきました。

 ここに全文を掲載させて頂きますが、当方の手により画像とか地図等を加え読みやすくかつ分かり易く編集を加えさせていただきます。

 山田さんは九州王朝論の立場から古代史を探究する研究者ですが、今回も文献史学の観点から「お稲荷さま」に精緻なメスを入れておられます。

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お国自慢風に私の出身県である佐賀県に鎮座する巨大神社祐徳稲荷(鹿島市)をご紹介しましょう


「お稲荷さま」を考察する

安城市 山田 裕

はじめに

 全国の神社の中で最も多いといわれているのが稲荷神社である。総本社は京都の伏見稲荷大社で、ご祭神は宇迦之(うかの)御魂(みたまの)(かみ)で、大宜津比売(おおげつひめ)、保食(うけもちの)(かみ)とも称されている。

 本来は、一坐の神のはずだが、総本社の伏見稲荷大社では、以下の五坐の神が祀られている。

 本殿

下社 宇迦之御魂神

中社 佐田彦大神

上社 大宮能売(おおみやのめ)大神

  摂社

 田中社(田中(たなかの)大神)・四(しの)大神

 どのような経緯で一坐から五坐に至ったかを同社に関わる文献史料から辿ってみるとともに五坐の神々についても検証を試みたい。

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1.      文献史料


1)奈良時代以前 

〇『山城國風土記』逸文

 「“伊奈利”と称する所以は、秦(はた)中家忌(なかつけい)(むき)などの遠い祖先の秦氏族“伊侶具”は稲作で裕福であった。餅を的にして、矢を射ったところ、餅が白鳥に変貌して飛び立ち、この山(稲荷山)に降りて稲が成ったことから、社名とした。」

〇「稲荷神鮭神主家大西(秦)氏系図」

 「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子、和銅四年(704)二月壬午。稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル。天平神護元年(765)八月八日卒」

 上記二史料からは、秦氏と「稲荷神」との因果関係はうかがえない。確実なのは、秦氏が天平神護元年から稲荷社の社家として禰宜職に就いたことだけである。


2)平安時代

〇「延喜式」神名帳頭註

 延喜五年(924年)にまとめられた「延喜式」神名帳頭註に、「稲荷」山城國紀伊郡

 本社 倉稻魂神也 此神素戔嗚の女也、  

 母大山祇神女大市(おち)姫也

 ご祭神は大市姫神の一座で倉稻魂神=大市姫と認識されていたようである。

 根拠は、『日本書紀(以下、『紀』と略す)−神代上』第五段一書第七に

「倉稻魂、此れを宇介能美佗磨と云う」と記されているが、「倉稻魂」を「ウカノミタマ」と読むには無理があり、『紀』編纂者の意図が盛り込まれていると考えられる。

博多の「櫛田神社」の元宮とされる佐賀県神埼市神埼の「櫛田宮」の摂社櫛森稲荷神社のご祭神は以下の通りである。

倉稻魂命・大宮女命・猿田彦命

倉稻魂命は古代から「稲荷さま」として崇められていたと考えられる。また、倉稻魂命と大宮売命は同体の神ではないことを語っている。

次に、大市姫を検証すると

『古事記(以下、『記』と略す)』の須佐之男命の系譜において登場し、大山祇神の娘で、櫛稻田比売の次に須佐之男命の妻となり、大年神(大歳神とも記される)と宇迦之御魂神を生んだとされ、またの名を大歳(おおとし)御祖(みおやの)(かみ)とも呼ばれている。

 余談だが、卑弥呼の墓とされている箸墓古墳には、宮内庁冶定として「大市墓」の銘がある。通説は倭迹迹日百々襲姫である。

〇「延喜式」大殿(おほとの)(ほかひ)祝詞(忌部氏)

同祝詞は「屋船久()久遅(くちの)(みこと)・屋船豊宇気姫命・大宮賣命」の三神を祀って皇御孫命の住居である宮殿の平安を願い大御身の平安と御代の繁栄を希求する祭りである。

稲荷社と関連する記述は見えないが、 

 忌部氏は稲荷社のご祭神を「屋船久()久遅(くちの)(みこと)・屋船豊宇気姫命・大宮賣命」の三坐と認識していたようである。

屋船豊宇気姫命について、後代の注記では「これ船の霊(みたま)となり、世に宇迦之という。」と説明し、豊宇気姫命=宇迦之御魂神であるとの認識を示しているが、こじつけの類であろう。素直に「屋船」を屋根板が葺かれた船で、両神は船で移動してきたと考えられる。

豊宇気姫は伊勢の下宮のご祭神「豊受大神」と同体の神と認識されている。

豊宇気姫について、『記−神々の生成』では、イザナミが体調を崩して尿から生まれたのが弥都波能売の神、和久産巣日の神。この神の子は豊宇気毗売の神と記しているが、『紀』には記述がない。

トヨウケ姫が尿から派生した神であるにもかかわらず、格式の高い伊勢神宮下宮・広瀬大社のご祭神として祀られているのは、解せない。

したがって、トヨウケ姫に関する『記』の記述は不審と言わざるを得ない。

伊勢神道の渡会氏は下宮の「豊受大神」を内宮の「天照大神」よりも上位に置いていた。 

渡会氏は朝廷が南北朝に分立した際に南朝側についたことにより、室町時代になると吉田兼倶が興した「天照大神」を最高神とする吉田神道が朝廷と幕府に受容され、次第に伊勢神道は吉田神道に圧迫され、その勢力が衰微した経緯がある。

無題.pngトヨウケ姫と一対の神とされる屋船久久遅命との関係について、『記』は一切記述していない。

久久遅命について、『記―神々の生成』では、イザナギとイザナミとの間に生まれた木の神「久久能智の神」と記され、『紀−神代上 第五段一書第六』では、木神等を「句句廻馳」と記しているが、トヨウケ姫と関連する記述はない。

京都市伏見区深草にある鎌(けん)(たつ)稲荷社は、倉稻魂命と猿田彦の二坐を祀っていることから、ククチノ神は猿田彦神である可能性が高い。

大宮売神については後述する。

〇「伊呂波字類抄」平安時代末期に橘忠謙が著した国語辞典。   

 下宮 田中 中宮 命婦 上宮 小薄

田中・命婦神については後述する。

小薄神の「小薄(をすすき)」は「キツネ」の意と解釈されているが、本当のところは不明である。


3)鎌倉時代

〇『古事類縁―神祇部六十八』

 稲荷神社 山城國紀伊郡深草村稲荷山ノ麓二アリテ倉稻魂命・素戔嗚尊・大市姫命ヲ祀ル

 同書は、倉稻魂命と大市姫命とは別の神としている。

〇「神祇拾遺」稲荷社本縁

本殿 宇迦御魂神父大地主素戔嗚、母大山祇女大市姫 又豊宇気 傳有之 

第二殿 素戔嗚命

 第三殿 大市姫 己上秘秘中甚深事也

 中社 大巳貴命

 四大臣 五十猛命・大屋姫・抓津姫・事八十神

同書「鈴鹿本」は、

本殿 宇迦御魂神父大地主素戔嗚、母大山祇女大市姫 又豊宇気 傳有之

第二殿 素戔嗚命

 第三殿 大市姫亦大宮命婦(みょうぶ)トモ云ウ

 田中社 大巳貴命

 四大神 五十猛命・大屋姫・抓津姫・客人大歳神

 同書には、弘長三年(1263)田中社・四大 神の二坐を加え、五坐とされたとあるが、いかなる経緯で祀られたかは不明である 

 命婦とは、天平宝宇元年(747)に施行された「養老律令−職員令」の中務省条に、五位以上の女性を内命婦、五位以上の官人の妻のことを外(げの)命婦という。但し、命婦は官職ではなく所属官司の職掌に奉仕する地位であった。命婦の奉仕する対象は内侍司の務めで、天皇の儀式或いは神事に限定された。

ところが、古代において命婦は側室の意であった。

 スサノオの正妻は櫛稲田姫とすると、大市姫は二番目の妻であることから、側室の意である「命婦」と呼ばれた可能性もうかがえる。

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伏見稲荷HPによる

 「田中神」については後述する。

「四大神」のうち、五十猛命・大屋姫(またの名大屋津姫)・抓津姫は『紀−神代上第八段一書第四』にいずれもスサノオの御子とし、五十猛命を樹種の神、紀伊国に坐す大神。大屋姫(またの名大屋津姫)・抓津姫は樹種を全国に分布した女神と記している。

『記』には三神の記述はない。

客人(まろうど)神の大年神について、『記』はスサノオと神大市姫との御子神と記しているが、『紀』には記述がない。

『先代旧事本紀−地祁本紀』では、大年神を五十猛命の弟と記しているが、同書の研究家である原田常治・大野七三の両氏は、大年神と饒速日命とは同体の神であると指摘している。

〇「諸社根元記」稲荷

 下社 大宮命婦 田中社

 中社 大宮 四大神

 上社 客神十禅師

〇「神道五部書」

 伊勢神宮で編纂された書。同書には、内宮と下宮の主な社殿と祭神が記されている。同書の一つである「伊勢二所皇大神御鎮座伝記」では内宮について「御倉神」の三坐は、素戔嗚の娘宇迦之御魂神なり。また、専女(とうめ)とも 三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。

 専女は、平安時代の紀貫之による紀行文『土佐日記』では、老女として記されている。

 三狐神の「狐」に着目すると、「伊呂波字類抄」で稲荷社下宮のご祭神「小薄神(狐の意)」が、ウカノミタマ神である可能性がうかがえる。

 下宮についても、「調(つきの)御倉(みくらの)(かみ)は、宇迦之御魂神におわす。これ、伊弉諾・伊弉冉二柱の尊の生みし所の神なり。また、大宜都姫とも号す。また、保食神とも名づく。神祇官社内におわす御膳(みけつ)(かみ)とはこれなり。また、神服機殿に祝い祀る三狐神とは同坐の神なり。故にまた専女神」とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊も宇迦之御魂神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記されている。


4)室町時代

〇「吉田家神道書」

 神祇次官吉田兼倶が著した「神名帳頭註」伏見稲荷条では、「本社。宇迦之御魂神也。

この神は素戔嗚の娘なり。母は大市比売なり。宇迦之御魂神は百穀を播きし神なり。故に稲荷と名づくか。伊弉諾の御娘にこの名これあり。」と記している。

 イザナギの御娘について、『記』は、「石巣比売の神・水の神速秋津比売の神・鹿屋野比売、亦の名を野椎・大宜都比売の神」の四神と記している。

他方、『紀』は、「大日靈(おおひるめ)(むち)・土神埴山姫・水神罔象女・水戸神等速秋津日命」の四神と記しているが、倉稻魂命は、軻遇突智神から派生したものであり、イザナギの子ではない。

したがって、吉田兼倶がウカノミタマ神をイザナギの御娘とする根拠は奈辺にあるのか不明である。

  〇「二十二社註式−伏見稲荷条」神祇次官吉田兼(かね)(みぎ)が著した書。

下社 大宮女命 伊弉冉の娘罔(みず)象女(はのめ)

中社 稻倉魂命神 一名豊宇気姫命、広瀬大明神・伊勢下宮 

上社 猿田彦命

吉田兼右は大宮女命=罔象女命とし、同様に稻倉魂命神(倉稻魂命の誤記かもしれない)=豊宇気姫命としている。

 大宮女は大宮売・大宮能賣神・大宮比売命等と表記され、大同二年(807)に成立した斎部広成による『古語拾遺』では、天太玉命の御子神としている。 

 「玄松子」のブログでは、大宮売命を天細女命とし、同体の神と紹介している。

天太玉命について、『記』は「布刀玉命」、『紀』は「太玉命」と記されるが、出自は不明である。両書では、「アマテラスの岩戸隠れ」と「ニニギノミコトの天孫降臨」に登場するが、大宮女命との関係については記されていない。

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2.「百嶋神社考古学」

文献史料を検証すると、「倉稻魂神(ウカノミタマ)・大市姫・大宮売」の解釈が錯綜を極めている。また、田中神・四大神についての解釈も曖昧模糊となっている。

「稲荷さま」の解釈を巡っては、「神社考古学」に60年を捧げた故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図−平成12年考」と同氏の講演で採録されたDVDに重要な示唆が含まれていると考えられるため検証を試みたい。

1)大市姫

 大山祇神(またの名月読命)と草野(かやの)(ひめ)との間の御子神で、またの名を水神罔象女・龍神姫・伊和野姫とも表記される。 

スサノオの二番目の后となり、御子神に辛国息長大姫(またの名を志那津姫・大目姫・天細女命等)がある。

大市姫のまたの名、罔象女神は全国各地の神社で祀られている。

『記紀』は、罔象女をイザナミが体調を崩した際に尿から生まれた神として描かれているのとは対照的である。

多くの名を持つ理由は、当時の女神は血筋・格式が尊く、結婚や移動の都度名を改められたと百嶋氏は指摘している。

スサノオとの間に生まれた御子神は辛国息長大姫(志那津姫)こと天細女としている。

2)倉稻魂神 

 故百嶋氏は「倉稻魂神は大市姫」であり、またの名を罔象女・龍神姫と呼ばれていたとしている。 

 スサノオとの間に誕生したのが、辛国息長姫、またの名を支那津姫・大目(うず)(ひめ)・天細女・女鍛冶神と呼ばれたとしている。

女鍛冶神と呼ばれた所以は確かではないが、稲作増産に寄与した農業鉄器生産の熟練者であったと推測される。

女鍛冶神の母、大市姫もそのような側面を有していた可能性がある。

大市姫の活躍時期は、弥生時代末期に急速に発展した稲作文化時期に符合する。民は稲作増産による備蓄米・余剰米を貯蔵するための「倉」を建設した。「倉」から搬出された余剰米は、市で「物々交換」で売買された。この市が「交易の中心地」として発展し、「大きな市」を形成していったと考えられる。

すなわち、市場経済の萌芽である。

大市姫の「大市」は「大きな市」を意味し、現代的に言えば「市場経済」を齎した。

その証左が全国に残されている「大市」の地名に残っている

大市姫は、稲作文化発展の功労者として、後に民から「倉稻魂神」として崇められたと推測される。

「倉稻魂神」の訓みは、「ソウトウタマ神」或いは「ゾウドウ玉神」とよばれていたかもしれない。

3)大年神(大歳神とも表記される)

『記』では、ウカノミタマ神の弟神として、皇統や支配神でもない神だが、神裔が記される珍しい神である。この点について故百嶋氏は、阿蘇の統領多(おほ)氏の庶流であった阿蘇氏の末裔につながる藤原氏によって『紀』に挿入されたと述べられている。

同神を祀る神社は「平成祭データ」で検索すると全国に734社あり、最周密地域は兵庫県で448社ある。同神社の由来については神亀年間(724729)に伊勢の伊雑宮から勧請されたとする神社が多い。

故百嶋氏は、大年神はまたの名を海幸彦・天児屋根命・天忍穂耳命・志那津彦・饒速日命・五十猛神など多くの名で呼ばれていたとしている。

大年神の妻、志那津姫はまたの名を出勢稲荷・女鍛冶神・豊受大神・猿女・天細女命などと呼ばれていた。

両神の御子神に御年神があり、またの名を拝跪(はいきの)(かみ)と表記される。

 大年神こと海幸彦は『記紀―海幸彦・山幸彦神話』では、後に山幸彦の従僕となるなど散々の態であるが、多くの神名を持つ偉大な神として日本各地の神社で篤く崇拝されている。

 一例を挙げれば、またの名である天児屋根命は、全国の春日社で祀られている。

ところが、妻の天細女命は名を秘されて「比賣神」とされている。同様な例が下総国一宮の香取神宮でも、海幸彦のまたの名「經津主命」とともに「比賣神」が祀られている。

なお、吉田神道の吉田家は「天児屋根命」を祖神としている。

また、中臣神道の中臣氏は海幸彦のまたの名「武甕槌命」を祖神としている。

海幸彦を貶める『記紀』の編集姿勢は、奈辺にあったのか疑問である。

4)屋船久久遅命と屋船豊宇気姫 

 故百嶋氏は豊宇気姫をアメノウズメ命と指摘されている。

三重県伊勢市宇治の猿田彦神社の主祭神は猿田彦大神と天宇受賣命である。

同社境内には、天宇受賣命を祀る佐留女(=猨女)神社が本殿に向かい合うように建っている。

この配置から、猿田彦と佐留女ことアメノウズメは夫婦神として祀られていることは確実である。

屋船久久遅命=猿田彦について検証すると、『記』は、九州から大八州国を青山に被われるようになった功労者を「五十猛命」と記している。また、『記紀』はクグチノミコトを「木の神」として記述している。

したがって、「木の神=クグチノミコト=五十猛神」とする仮説を提起することが出来る。

故百嶋氏は、五十猛命を山幸彦こと猿田彦・ヒコホホデミノミコトと指摘されている。

以上から、屋船久久遅命は猿田彦と同体対の神と考えられる。

また、屋船豊宇気姫は猿田彦の妻である天細女命と考えられる。

〇大宮女命(大宮売命とも表記される)

故百嶋氏は大宮女命を豊玉姫とし、またの名に美保津姫・若狭姫・田心姫と指摘され、さらに最初の夫が山幸彦ことヒコホホデミノミコトで、二人の間にはウガヤフキアエズ(またの名を天稚彦・アジスキタカヒコネ・迦毛大神)が生まれた。山幸彦と別れた後は、事代主(少年期の名はスクナヒコ)を連れ子に、  

出雲へ移動した大己貴命こと大国主に嫁ぎ、名を美保津姫に改められ、その後は大己貴命と共に各地へ移動し、若狭姫・田心姫・大宮売などの名に改められたと指摘している。

これらの指摘について、各地の神社から検証してみたい。

トヨタマヒメを祀る神社には、以下のパターンがある。

@  豊玉姫

山幸彦ことヒコホホデミノミコトと一緒に祀られている。

益救(やく)神社(屋久島)・海神神社(対馬市)・鹿児島神宮(南九州市)・豊玉姫神社(南九州市)など

海神神社では、御子神ウガヤフキアエズが共に祀られている。

A  美保津姫

大己貴神こと大国主神と一緒に祀られている。

美保神社(松江市)・氷川女體神社(さいたま市)など

美保神社では御子神事代主が共に祀られている。

B   田心姫

大己貴神こと大国主神と一緒に祀られている。

 日光二荒神社(日光市)・一宮神社(神戸市)・厳島神社など

 日光二荒神社では御子神アジスキタカヒコネ(=ウガヤフキアエズ)と共に祀られている。

C 大宮売

 大己貴神こと大国主が主祭神あるいは配祀神として祀られている。

 常陸國総社(茨城県石岡市)・大目神社(佐渡市)など

以上の検証から、故百嶋氏の指摘には頷けるものがある。

5)田中神

故百嶋氏は「開花天皇」と指摘している。理由として「祇園祭」を初めて行われた方だとしているが、「稲荷祭」の記憶違いではないだろうか。

また、同氏が提示された「神々の系図−平成12年考」によると開化天皇と命婦神との関連が認められない。

私のも一つ…申し訳ない。

4)で述べたように「田中神は大己貴命」である蓋然性が高い。また、「大宮売は大己貴命の正妻豊玉姫」である蓋然性が高い。

したがって、大己貴命の正妻である大宮売を命婦とすることはできない。命婦は、スサノオの二番目の妻大市姫とするのが妥当ではないだろうか。

6   四大神

故百嶋氏は「四大神は猿田彦」とし、四大神の四とは「四公六民の四」である。従来の収税方

針「五公五民」から「四公六民」へ改めたのが猿田彦である。

新たな収税方針による税負担の軽減がもたらす効用は絶大であった。民は一層稲作の増産に尽力し、もって民の生活は一段と豊かになった。民はこれを讃えて猿田彦を「四大神」として崇めたようである。

7)小薄神

同神は「老狐=老女」と考えられ、大宮売より年長の女神、「大市姫」である蓋然性が高い。

8   豊受気姫

故百嶋氏が指摘されるように猿田彦の妻天細女命である蓋然性が高い。


3.まとめ

現在、伏見稲荷大社で祀られている五坐の神々は、

 本殿

 下社 宇迦之御魂神=大市姫

 中社 佐田彦大神=猿田彦

 上社 大宮能売大神=豊玉姫

 摂社 田中大神=大己貴命

 四大神=猿田彦

 故百嶋氏は多くの神々が様々な名を持った理由として、移動・結婚の都度名を改められ、また移動地の人々から新たな神として崇められたことを指摘されている。同社で猿田彦が重複して祀られているのもこのような理由があったと考えられる。

その証左が多くの神社に同様な例がみられる。

伏見稲荷大社のご祭神の変遷史をながめると、そこには時代を反映した各神道家とのかかわりが垣間見える。


おわりに

私の住む安城市に「三河三白山」と呼ばれる「大岡白山神社・上条白山媛神社・桜井神社」の三社がある。いずれも案内板には「イザナギ・イザナミ」をご祭神としている。

この三社のうち、大岡白山神社のご祭神は「白山媛」であり、もとは「大市(おち)社」と呼ばれる大市郷の鎮守神であったと言い伝えられている。

「大市」という地名は、大山祇の娘「大市姫」に因むとする説が有力である。

したがって、「大市姫」のご神格はその名が示すとおり、「大きな市」であったと考えられる。

「市」は古代における交易の中核を成すものであり、人々の往来は殷賑をきわめていたであろう。

「稲荷さま」は、現代でも「商売繁盛の神」として崇められている。

その原点が、「稲荷さまこと大市姫」であったと考えられる。


<参考文献>

 『古事類苑−神祇部』

 『日本書紀上』岩波書店

 『古事記』角川書店

 国会図書館デジタルコレクション


 神社研究に於いて、どこにでもあって、いったい何なのかさっぱり分からないと言われるように、非常に難いのがお稲荷さんです。

 今回、山田 裕氏によって多少とも解明が進んだように思います。

 今後とも山田氏のblogに注目して頂きたいと思います。

 ひぼろぎ逍遥もひぼろぎ逍遥(跡宮)も近畿大和朝廷と繋がった通説派の大嘘を暴露し、一般の方に分かり易く、大嘘つき共が好い加減な事を言えない環境を創るためのプロパガンダ=扇動と先導の文書として公開しています。

 私を制御し、宣伝のための研究論文が幾つも登場する事をせつに希望します。


以下、百嶋神代系譜でも最も難解な金神系譜をご覧ください。

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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を希望される方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年02月07日

ビアヘロ033 七山村に宗五霊廟があるのは何故か? “佐賀県唐津市七山村馬川の馬川神社”

ビアヘロ033 七山村に宗五霊廟があるのは何故か? “佐賀県唐津市七山村馬川の馬川神社”

20180113

太宰府地名研究会 古川 清久


多くの神社を見て廻っていると中には非常に驚かされるものに遭遇する事があります。

それが、旧七山村(現佐賀県唐津市)の通称宗吾郎神社です。

まず、これを宗吾郎神社と呼ぶべきかどうかが疑問なのです。

つい最近も三つ鳥居が印象的な神社をご紹介しました。

この神社は馬川神社とも呼ばれているのですが、それは馬川地区にあるからであって、この神社の奥にあるのが明治期に造られた宗吾霊(廟)を以て宗吾郎神社と呼ばれているようなのです。

一応は、ひぼろぎ逍遥のバック・ナンバーを見て頂ければお分かり頂けるでしょうが、今回はこの「宗吾霊」廟を考えます。


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旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山馬川神社”


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 さて、宗吾郎とはご存じの通り千葉県佐倉市の佐倉宗五郎こと木内宗吾の事です。

 何分関東のことご存じでない方もおられるかも知れません。

佐倉惣吾郎の怨霊を福沢諭吉が祀れと言った話までもあるのですが、下総200ケ村の百姓一揆の首謀者として死ぬ事となった義民中の義民です。

しかし、自分自身が薄汚い権力者への怒りを抑えられないことから、この手の水戸黄門に登場するような悪代官だか家老だかに過剰反応しているのかも知れません。

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佐倉惣五郎

佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応283日(1653924日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉

藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。

領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

ウィキペディア(20180104 21:14による


では、宗吾霊廟堂をご覧ください。

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始めは寺なのか神社なのかを迷いましたが、列島の民族とは祖霊(先祖霊)を神として崇めます。

偉人とか武人も神として崇めますので、江戸初期の人物としても神として崇められるはずで、思い入れによっては神にも等しい扱いになる事を示す好例とまでは言えそうです。

 この霊堂が明治期に造られている事から、明治政府が幕藩体制を過剰に悪く宣伝する要素も加えられているとは思うのですが、この地に造られた背景については同地が肥前と言っても実質天領であった唐津藩であった事も関係しているのではないかと思います。

 何故ならば、肥前でも唐津藩以外の領域で見掛けた事が無いからです。

 天領であれば水戸学も奨励されているはずですし、その影響を受けた人が居たことは考えられるかも知れません。

 しかし、宗吾の悲劇性は語り尽くせません。結局、一族は皆殺しになるのです。


佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期の下総国印旛郡公津村(現千葉県成田市台方)の名主。義人と呼ばれる人であります。姓は木内氏、俗称宗吾。堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎と云う。

農民たちが飢饉に喘(あえ)いでいた。藩主堀田氏の苛政、年貢取立ての厳しさは年年増し、惣五郎は、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。「一揆しかない!」と農民たちが思い詰める中、将軍徳川家綱への直訴を思い立つ。

しかし将軍家への直訴は死罪であります。其の為、妻おさんに離縁を促したが、おさんは離縁状を燃やし、4人の子供たちだけ離縁させた。一家全員を死罪から逃れる為であります。

承応元年(1652年)1220日、惣五郎は、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴した。かいあって家綱は、佐倉藩への3年の年貢減免を決定してくれる。佐倉藩領民は危機を脱したのである。しかし、恥をかかされた領主堀田正信が宗五郎を許す訳が無い。宗五郎を捕らえ、拷問し、宗五郎の目前で、妻おせんと4人の子供を斬首。宗五郎は磔にかけられたまま憤死した。

しかし。其の後、夜中に磔のまま宙を舞う宗五郎の怨霊が目撃されるようになった。

領民を悪政で苦しめた佐倉藩役人たちが次々と怪死を遂げ、40日で全員死亡。堀田正信も血塗れの宗五郎を視て乱心。狂った正信は側近、腰元を次々と惨殺する。正信の妻も病に倒れ、正信自身は錯乱死。堀田家は改易(かいえき〜更迭-クビ)となった。領民たちは宗五郎のための霊堂を建て、義人の霊を手厚く奉った。現千葉県成田市の東勝寺が其れであります。             

宗五霊堂(東勝寺)による


 さて、この霊堂が何故この地にあるのかについては他に類例がないだけに尚も悩みました。

 神社の分布と言い地名と言い領主の姓と言い、限られたピースながら気になる事があります。

 一つは、鎌倉期以来九州に入って来た千葉氏です。この桓武平氏の流れを汲む武士団は本拠地が千葉であったことから千葉氏(千葉県でも)と称していたのです。佐賀県では小城市に拠点を置き後に東千葉氏と西千葉氏に分裂し力を落しますが、この千葉氏が居た小城市は山を越えれば七山村に近接しており、このエリアからの働き掛けがあったのではないかとも思ってしまいます。

 もう一つ、この七山村の実質全神社調査を終えた事から感じたことですが、この地の神社のほとんど全てが天御中主命=白山姫系〜大幡主系〜豊玉彦=ヤタガラス系=白族系であり、どう考えてもこの地に住み着いた人々とは大幡主(ヤタガラスの父神)系氏族である事が見えて来るのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


つまり、この赤枠内にある神々を祀る人々が七山村の人々なのです。

 もしかしたら、この神々の後裔である七山の人々の子孫が移り住んだ場所が千葉県であり、特に印旛沼周辺だったのではないかと思いついた時、多少の付合を見出したのでご紹介しておくことにします。

 そうです、天御中主命=白山姫神社=北辰宮=妙見宮を奉斎するのが、千葉県佐倉、印旛沼を中心とする千葉氏だったのです。

 では、中近世の武士団については殆ど知識を持たないため、いつも利用させて頂いている武家の家紋の由来、家紋拾い話から引用させて頂きます。

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である。


 十分にお分かり頂けたと思います。

 濃厚な妙見=北辰信仰のある七山村や村には以前から千葉の佐倉、印旛沼周辺を本願地とする千葉氏と連動する、従って、義民佐倉惣五郎の事を十分に知った人々が住み着いていた事が分かるのです。

 とすると、印旛沼の「印」も忌部の「忌」であり、市杵島姫=瀛ツ島姫の「瀛」であり、北辰一刀流の千葉周作も妙見信仰=北辰信仰であり、周作の周も中国1周王朝の「周」であり、北斗の拳の北斗も妙見信仰となるのです。

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無題.png九州千葉氏元寇の際、九州の防衛(異国警固番役)のため下総国より九州に派遣され肥前国に土着した千葉宗胤を祖とし、肥前千葉氏ともいう。宗胤が下総不在の間に弟胤宗に千葉氏宗家の家督を横領され、宗胤の子の胤貞は北朝方の足利尊氏に付き、宮方に付いた胤宗の子の貞胤と家督を争ったものの、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため、宗家復帰はならなかった。胤貞の領地の肥前国小城郡、下総国千田荘・八幡荘は胤貞の次男の胤平から三男胤継に継承され、その後肥前国小城郡については猶子(宗胤の次男)の胤泰が継承した。

室町時代に全盛期をむかえた。このころ日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書『海東諸国記』にも肥前国最大の勢力として千葉氏の名を挙げている。戦国時代初期に東西両家に分裂し、少弐氏の介入を受けその養子を当主として受け入れることを余儀なくされるほど衰退した。少弐氏が滅亡した際、東千葉家当主千葉胤頼は実兄少弐冬尚とともに自刃し、残った西千葉家は龍造寺氏に仕え、その部将として活動した。龍造寺隆信死後は、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂が一時期、西千葉家の千葉胤連の養子だった縁もあり重用され、江戸時代には鍋島姓を与えられて、佐賀藩に家老として仕えた。            ウィキペディア(20180105 10:28による


福岡県の二丈町〜佐賀県唐津市の七山村は白族系北辰信仰の神社ばかりであり白族の国だったのです。


赤胴鈴之助も千葉道場の門下だったのです…従って彼も妙見信仰を持つ白族だったことになるのです


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年02月09日

ビアヘロ 034 クマリの団扇に六芒星が…

ビアヘロ 034 クマリの団扇に六芒星が…

20180111

太宰府地名研究会 古川 清久


 NHKの正月番組(BSスペシャル)の二時間特番でネパールの生神様「クマリ」のドキュメントが放送されました。

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以前、百嶋先生からの話として聴いていましたが、芸人とオカマと外人とハーフに化け物 で仕立てられる馬鹿番組は元より、年末から正月に掛けての手抜き番組ばかりが怠惰に流れる中、良い機会でしたので見せて頂きました。

 ネパールの「クマリ」とは何か…をご存じない方は多いと思いますので、まずは、一般的な解説から見て見ましょう。


クマリ(KumariKumari Devi)は、ネパールに住む生きた女神である。密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレージュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす。中には初潮が来ず、50歳を過ぎてもクマリを務めているケースもある。

カトマンドゥのクマリの館に住む国王もひれ伏すロイヤル・クマリが最も有名であり、国の運命を占う予言者でもある。クマリという場合、概ねロイヤル・クマリを表す(ネパール国内の村や町にも多数存在するクマリはローカル・クマリと呼ばれている)。

先先代のロイヤル・クマリは2001710日に当時4歳で選ばれたPreeti Shakya、先代のロイヤル・クマリは2008107日に当時3歳で選ばれたMatina Shakyaであった。2017929日にTrishna Shakyaが3歳で新しいロイヤル・クマリに選ばれた。

9月に行われるインドラ・ジャートラーの大祭ではクマリが主役となり、王がクマリの元を訪ね跪き祝福のティラカ(Tilaka)を受ける。 顔は額から鼻筋にかけて赤い化粧が施されている。

ウィキペディア(20180111 23:18による


 一応、主だったメンバーに「クマリ」を見る様に連絡したのですが、それほど見て頂いた訳でもないでしょう。

 ただ、ユーチューブでもある程度は把握できるため、そちらを見て頂ければそれで良いでしょう。


釈迦族(しゃかぞく、Śākyaシャーキャ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族シャーキャ族とも。

インドではサンスクリット語शाक्य (śakya, シャーキャ) ーリ語 sākiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。

概説[編集]

仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが属していたことで有名である。

前6前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキャはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった。(場所は現在のインドネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった。

シャーキヤ族は、政治形態としてはサンガを採用していた。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという。

系統[編集]

伝説では、アーリヤ人クシャトリヤ王統に属すると言われる。

一説には、日種英語版 (: sūryavaśa, : ādiccagotta) に属し、甘庶王英語版)(かんしょおう、オッカーカ)系といわれる[2][3]

漢書張騫伝の「塞王」について、顔師古による注は「即ち仏経に釈種と謂う所の者。塞・釈は声(発音)近く、もと一姓なるのみ。」とあり、塞(そく)と呼ばれる種族(サカ)と釈迦族がもとは同じ民族であったとしている。サンスクリット文法上は śākya(シャーキヤ)を śaka(シャカ(=サカの梵語形))の派生語とするのは自然であるが[4]、サカ族がインドに到達したのは紀元前2世紀で、仏陀の時代よりはるかに後であるという問題がある。

歴史家の中には、チベット・ビルマ系だと見なす人もいる。

釈迦族

釈迦族の家系は、経典によって内容に差異があるが、『佛本行集経』賢劫王種品・第三などによると、

衆許大転輪王 - 27- 大須弥小轉輪王 - 18 - 真生王 - 31 - 茅草王 - 甘庶王 - 別成王 - 拘盧王 - 瞿拘盧王子 - 獅子頬王

と続いている。この獅子頬王に四男一女(浄飯王・白飯王・斛飯王・甘露飯王・甘露味女)がいたとされる。

『起生経』では次のとおり。

甘庶種王(不善長) - 足瞿 - 天城 - 牛城 - 広車 - 別車 - 堅車 - 住車 - 十車 - 百車 - 九(十)車 - 雑(色)車 - 智車 - 広弓 - 多弓 - 兼弓 - 住弓 - 十弓 - 百弓 - 九(十)弓 - 雑(色)弓 - 智弓 - 獅子頬 - 浄飯

なお浄飯(シュッドーダナ)を父としてゴウタマ・シッダールタは生まれた、とされる。

逸話[編集]

律蔵』の「小品」には、釈迦族の青年たちの出家について述べている箇所があり、パッディヤ、アヌルッダがそろって出家したときの逸話なども書かれている。

釈迦族は自尊心が非常に強い民族だった、といわれる。釈迦が成道後、カピラ城に帰った際にクシャトリアである諸王子を差し置いてシュードラ出身の優波離が先ず弟子となった後に、諸王子が仏教の教団の伝統に基づき、阿難など諸王子達が優波離に礼拝して末席に連なったことから、釈迦仏が「よくぞシャカ族の高慢な心を打ち破った」と讃嘆したという。

シャカ族がコーサラ国の毘瑠璃王によって滅ぼされたのも、もとを正せば、この自尊心の強さによる高慢心が原因だったといわれる。

コーサラ国のヴィドゥーダバ王子は、コーサラ国のプラセーナジット王とシャカ族の女性との間に生まれた子であった。ヴィドゥーダバ王子は、ある時シャーキャ国の都カピラヴァストゥを旅していたが、その時シャカ族のなかに心ない陰口を言う者がいたという[6]。「ヴィドゥーダバ王子の母親というのは、シャカ族指導者マハーナーマンが召使に生ませた娘だ」などとシャカ族の者が馬鹿にするように話すのがヴィドゥーダバ王子に聞こえ、それをきっかけにしてヴィドゥーダバは母親・父親・シャカ族を憎み、いつかシャカ族に復讐してやると心に決めた、という。やがてヴィドゥーダバは父であるコーサラ王プラセーナジットから王位を奪い、プラセーナジットは失意のうちに死去。王になったヴィドゥーダバは大軍を率いてカピラヴァストゥに攻め込んだとされる。

釈迦族のその後[編集]

仏教文献等によると、釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国毘瑠璃王(びるりおう、ヴィドゥーダバ)の大軍に攻められ滅亡したとされる。

異説も有り、滅亡したのではなく、生き残った四人の王族がヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在する。

シャカ族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説も。

インドのウッタル・プラデーシュ州南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる。

ネパールのパタンネワール族のサキヤ・カーストという職人たちが存在している。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされたサーキャ族の末裔だと信じられている。パタンではネパールの他の街にくらべて仏教徒の割合が高い、という。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、古代仏教の伝統を今に伝えている、という。

ウィキペディア(20180111 23:18による

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ネパールでもインド国境に近いルンビニにいた非アーリア系氏族(釈迦族=決して多数派と言う意味ではないのですが)の釈迦族王子ゴウタマが釈迦牟尼、釈尊(まあ「仏陀」でも良いでしょうが)が仏様、御釈迦様になるのですが、一般にはネパール王国(現在では王制は廃止)から仏教が始まったと考えられています。

 実は、この釈迦族の中から今回取り上げた生き仏のクマリも選ばれる事になっているのです。

 ただ、この「生仏」(活仏)は何故か女の子であって、月経の始まりによってクマリではなくなるのです(閉経が無かったり異常に遅れた場合はどうするのかと心配しますが、それは下種の勘繰りになるでしょう)。

それはともかく、彼らが太陰暦(「ヴィクラム暦」ネパールの公式の暦)使っている事とも関係がありそうです。

 この仏陀を生み出した釈迦族を紛れもないイスラエル系氏族であると言ったのも故)百嶋由一郎氏でした。

 その話が今も耳に残っていますが、今回NHKのBS放送を見て確信を持つに至りました。

 恐らく、百嶋先生は直接カトマンズにも足を延ばしその感触を得ておられたのだと思います。


 今回報道に関して

関東の無題.png無題.pngの二氏にもご連絡したところ、私はblogを書きながら好い加減に見ていたのですが、お二人は丁寧に見ておられたのでしょう。

常陸の国探検隊のK氏は、傍らに於いた携帯で直ぐに撮られたと見えて、クマリの団扇に刺繍された六芒星を見逃さず、テレビの映像を撮影されたのでした。それを送って頂いたのが以下の写真です。

 一方、宮古の縁側日記女史は 早々と Gautama Siddhartha を最新版としてオンエアされています。

 宮古の縁側日記最新版 65 Gautama Siddhartha も併せお読み頂きたいと思います。

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お分かり頂けると思いますが六芒星がはっきりと描かれているのです


 少なくともクマリを釈迦族から選ぶ習慣(戒律)が残っている事から考えて見ても、この釈迦族が紛れもないイスラエル12氏族の一つであろうことは疑い得ないのです。

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ネパール人=釈迦族とは言えないでしょうが…日本人にも良く似ていますね

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記