2018年01月17日

ビアヘロ027 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

ビアヘロ027 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

20170317

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊後での生活に慣れてくると、どうしても、「椎茸(どんこ)」や「かぼす」…と接することが多くなってきます。

 そこで、考えていたのですが、徳島の「すだち」は「酢の橘」の意味である事はあまり考えなくても理解できます。

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スダチ(酢橘、学名:Citrus sudachi)はミカン科の常緑低木ないし中高木。徳島県原産の果物で、カボスやユコウと同じ香酸柑橘類。名称の由来は食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と名付けていたが、現代の一般的な呼称はスダチである。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 問題は大分の「かぼす」の意味で、何故、「かぼす」「カボス」…と呼ばれているのか?が分からないのです。

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カボス(臭橙、香母酢、学名:Citrus sphaerocarpa)は、ミカン科の常緑広葉樹、または、その果実で、柑橘類のひとつである。

カボスという名の由来は明らかではなく、文献で確認できるのも第二次世界大戦後のことである。

ダイダイの一種に「カブチ」、「カブス」などと呼ばれるものがある。平安時代の深根輔仁による『本草和名』に、「枸櫞」「和名加布知」などの記述があり、現代でも和歌山県から三重県にかけてダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。また、1603年ごろ発行の『日葡辞書』にはCabusuの記載があり、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも、乾燥した皮をいぶして蚊よけに用いるからとも記されている。さらに、愛媛県の一部で三宝柑を「かぶす」、大阪府の一部で文旦を「かぼそ」と呼ぶ地域があった。しかし、これらの柑橘類の名称と「カボス」との関連も不明である。

漢字の「臭橙」は熟字訓、「香母酢」は当て字である。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 立派に調べておられる事は十分に分かりますし評価に値しますが、何とも分かるようで分からない説明に留まっています。

 そこまでの話ならば、当方も一つの仮説を出しておきたいと思いたちました。所謂、言うたもの勝ち!

 そう考えた背景には、阿波=徳島と言えば忌部の国=ヤタガラス(豊玉彦)の国という概念が存在していたからでした。

ではお話に入りましょう。

まずは、一例になりますが、「阿波忌部の世界」をお読みください。阿波の神社調査に関しては一通り目を通している有力サイトです。

部門展示(人文)

阿波忌部の世界

会期 2005.6.21(火)〜8.21(日)

執筆分担 はじめに・124=長谷川賢二、3=高島芳弘)

はじめに

 阿波忌部とは、古代の朝廷祭祀を担当した忌部氏に奉仕した集団です。吉野川市の発足に伴って消えた「麻植(おえ)郡」の名称は、阿波忌部にちなんだものとして知られているように、阿波の古代史を語る上で忌部の存在は重要です。
 この展示では、館蔵の考古・歴史資料により、阿波忌部の世界を紹介します。


1 阿波忌部とは何か

 古代の史料には「忌部」が多く見られますが、これらは2種類に分けられます。(1)中臣氏と並んで朝廷の祭祀を担当した忌部氏、(2)忌部氏に従属して王権に奉仕した職能集団である地方忌部です。阿波忌部は後者の一例です。地方忌部は阿波のほかにも、讃岐、紀伊、出雲などに置かれました。また、阿波忌部の一部が、房総半島に移住したともいわれています。 

阿波忌部は東遷したか

 『古語拾遺』には、次のような伝承が記されています。阿波忌部の一部が東国に移住し、彼らの居住したところを阿波から分かれたということで「安房(あわ)郡」と名付けたというのです。安房郡は、8世紀以後、安房国(千葉県)となっています。
 このような、阿波から安房への移住伝承は、黒潮の流れを踏まえたものである可能性があります。すなわち、黒潮に乗って移住した人たちがいたことを示唆するものといえるでしょう。
 しかし、現在知られている史料では、安房地方に忌部の分布は確認できません。したがって、阿波忌部の東遷伝承が事実だと断定することはできません。


2 文献に見る阿波忌部

 阿波忌部の存在は、8世紀以降の文献史料などから知られます。具体的な人名が記されたものもありますが、とくに、平安時代の『古語拾遺』や『延喜式』には、阿波忌部の役割などが詳しく記されています。これらから、阿波忌部が天皇の即位儀礼である大嘗祭に奉仕したことや、本拠地である麻植郡に、祖神である天日鷲命を祭った忌部神社があったことなどがわかります。


阿波〜和歌山〜奈良が、忌部というよりも、豊玉彦(ヤタガラス)の領域であった事は百嶋由一郎氏の話と併せこれまでにも何度となく触れてきました。

 その阿波に於いて、@ ダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。A 『日葡辞書』にはCabusuの記載があり B 貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも…となると、消し去る事の出来ない強烈なイメージが湧いてきました。

 それは、賀茂族=加茂族=鴨族=カモ族の酢橘だったのではないか?「カモの酢」という意味です。

 まず、橘一族が、白族と呼ばれる大幡主の一族であることが理解できれば、後は自ずからすんなりと分かってくるはずです。

 勿論、賀茂族とは、京都の上賀茂、下賀茂に象徴される大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)系の民族と言った意味です。

 その一族こそ橘一族であり、中国の白族であり、九州王朝を支えた有力豪族だったのです。


 県犬養三千代

県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5111日(73324日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。

生涯『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で、母も不詳。出生年月日も不明であるが、出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられている。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。

三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。

はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。

ウィキペディア20170322 16:32 による


 目を瞑る(ツムル)と言う言葉と目を瞑る(ツブル)と言う言葉が、発音は全く異なるものの、同じ意味を持っている事はお分かり頂けると思います。

当然、「ひもろぎ逍遥」も「ひぼろぎ逍遥」も同じ概念ですし、「カムル」も「カブル」もそうです。「カムリつく」と「カブリつく」も「湯あみ」と「湯浴び」も同様です。

このようにM音とB音とが入れ替わっても意味が全く変わらない言葉が日本語の中には驚くほどたくさんあるのです。

 とすると、「カボス」は「カモス」とも考えられそうだとお分かり頂けるのではないでしょうか?

 そうです、賀茂族か列島に持ち込んだ酢橘こそ「カモス」であり「カボス」であるという話になるのです。

 大分県が中心だったことから当然ですが、現在、ガボスは96%が大分県で生産されています。

地域的には、竹田市、豊後大野市、臼杵市といった豊後地方を中心に生産されているようです。

 最近、神社を詳しく調べて行くと、この領域も阿蘇氏、大蛇伝説の大神氏、金山彦、ヤタガラス…の領域であった事が分かって来るのですが、ここから構造線を辿って四国の脊梁山脈、徳島、和歌山、奈良と金属鉱床のラインと共に、柑橘系の橘一族のラインも通じていたように思えてきます。

 故)百嶋由一郎氏は、生前、伊勢は大幡主の領域であったと言われていました。

 その伊勢も現在三重県と呼ばれている事にも関心を持っています。

 それは、豊後大野にも三重町があり、一説には松尾芭蕉も豊後の三重辺りの出身だったと言う話まであるのです。

 この間、豊後の最奥部の神社調査を進めてきましたが、伊勢とは神武皇兄五瀬命(イツセノミコト)の伊勢ではないのか?宮崎県五ヶ瀬町、五ヶ瀬川とも関係があるのではないのか?

カボスとスダチにも関係があるのではないのか?といった話にまでイメージの暴走が止まらなくなっています。

また、阿波の神社調査にも行きたいと思っているのですが、思考の暴走を繰り返している中で、カボスの語源を考えてみただけの思い付きに過ぎませんので、その範囲でご理解いただきたいと考えているところです。


かぼす(香母酢)

かぼすと呼ばれるようになった所以は、かぼすの果皮を細かく刻み、蚊やりとしていぶして使用していたため、「蚊いぶし」から「かぶし」に転じ、そして現在の「かぼす」という名称に落ち着いたのです。


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こういった気楽な話であれば簡単なのですが、お考えは自由です。

恐らく、かぼす(香母酢)はかもす(賀茂酢)が起源であろうと考えています。

そして、持ち込まれたルートも海南島の加茂(チャマオ)からだったのではなかったかとさえ考えています。


賀茂族=博多の櫛田神社の大幡主の一族は、雲南省昆明から海南島を経由して列島に移動した白族の後裔であろうと言う話はこれまでにも何度となくお話ししています。

再度お読みになりたい方は、ひぼろぎ逍遥から以下などを参照下さい。


209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”

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白族が住み着いたと思われる海南島南西部の加茂


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:33| Comment(0) | 日記

ビアヘロ028 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

ビアヘロ028 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

20170531

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、以前から懸案であった山川町の山神宮の意味をようやく理解できる端緒が掴めましたので、途中経過ながらその一端をご紹介することにしました。

 場所は、筑後、肥後(九州王朝時代の筑紫と肥前の…)の国境の山川町(現みやま市)の難関インターに近い一角です。

 対応が遅れたのは、高良神社が背後に存在する事に気付かなかったからでした。

何度か訪問していましたが、当時は、山神宮の境内地だけを探し、高良神社の片鱗も無い事からそこで思考をストップさせてしまっていたのですが、メンバーの大石氏はその裏手の小丘の上にも高良神社が置かれている事を知っていたのでした。その事を最近になって教えられ、やっとスタート・ラインに立てたのでした。

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この神社がどれほど重要かは語り尽くせませんが、捏造され塗り潰された列島古代史の一端を垣間見せる筑後でも最も重要な現場がこの二社の祭祀連合体なのです。

百嶋先生の話を聴いていて最も理解できなかった部分が、久留米の高良大社と福津市の宮地嶽神社の関係でした。

現在把握できているだけの範囲でお話し致しますが、筑紫舞が継承され九州王朝系と呼んで間違いない宮地嶽神社は、現在、神功皇后と勝村大明神(藤勝村)、勝頼大明神(藤勝頼)を祀る神社とされています。

ネット上でも、この勝村、勝頼という近世風の氏名から古代(若しくは神代)のものではないとして祭神を宗像徳善とその臣下ぐらいなどと好い加減な見当を付けた意見が提出されていますが、まさに表面だけを浚った通説風の浅い追従論でしかなく、それも、宮地嶽古墳の主を宗像徳善…云々(Nダニ…)といった話が小田富士雄説の修整により潰れた事によっていずれは自然消滅していく事でしょう。

まず、宮地嶽神社は、現在、同社の祭神を神功皇后とその臣下である藤勝村、藤勝頼とされています。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

このため、宮地嶽神社では高良玉垂命を伏せざるを得ない圧力があり、祭神までも変えていると理解しています。

一方、列島最高の権威を持った神宮以上の存在の神社であった久留米の高良大社も、本来は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳を祀る神社(同時に本拠地)であったはずなのですが、こちらは神功皇后と仁徳とを隠し全く無関係を装う事を持って生延びたのでした。

何故、そのような事が言えるかというと、筑後の重要な高良宮、玉垂宮といったものには、この高良玉垂命と神功皇后を主神として祀った痕跡が複数あり、それ以外にも、高良神社と若宮神社として仁徳を祀る祭祀が国東半島を始めとして山梨…全国にも数多く拾えるからです(これについては半端な数ではないので「ひぼろぎ逍遥」跡宮のバック・ナンバーをご覧くしかありません)。

要は、本来、同一の祭祀(宮地嶽神社での高良玉垂命は、まだ、天皇にはなっていない、四王子山から高良山に上り天皇となる)の神社であったものを、宮地嶽神社では、ワカヤマトネコヒコを隠し、高良大社ではオキナガタラシヒメを隠す事を持って九州王朝の背骨を制圧し九州を平定したと考えるのです。

これこそが列島の神代と言うよりも古代史の最大の謎の部分であり、全国の九州王朝論者の方々にあってもほとんど理解されていないのです。

それは、フィールド・ワークの欠如(勿論、東北北海道の方々には中々要求できませんが…)による文献偏重が齎したものです。

九州王朝論者でも、ほとんど百嶋神社考古学の学徒だけが懸命に取り組んでいる状態なのです。

従って、如何に古田精神を継承しようされても、現場に入らない方々ばかりでは、「高良玉垂宮神秘書」に書かれた右の部分の一端さえも理解できずに、95パーセントが嘘(百嶋由一郎氏)と言われた「記」、少しは本当を書いている「紀」の藤原の罠に陥り、通説派にあしらわれてしまう構造にあるのです。

まさに、「記」「紀」をベースに古代の解明をされる方々の熱意と努力には敬意を表しますが、これ以外にも「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には多くの謎が隠され閉じ込められており(例えば欠史八代と言われる天皇の中にも多くの九州王朝系の臣下が天皇として差し入れられている…)、これらの謎を解明する事無く九州王朝論云々する事は、ほとんど、素振りに近く、それ以下の「全国邪馬台国シンポジウム」などに取り組んでおられる方々、ましてや邪馬台国畿内説論者などという方々のお話に至っては、我々から見ればほとんど漫画や良くて「日本昔話」に近い構造になっているのです。

このような列島古代史の最大の謎であり同時に罠の部分を解明する鍵になるのが今回の山神宮であり、この地が山川町であることも、久留米市の高良大社直下の山川町(校区)に九躰皇子を祀る高良皇子神社、坂本宮が存在している事を意識せざるを得ないのです。

百嶋先生が話されていた事を再構成すると、“あれほど重要な天皇と皇宮皇后のご夫婦でありながら、宮地嶽神社でも高良大社でも夫婦別れをさせられている。”“それを、年に一度ぐらいは夫婦をご一緒になる様にお祀りをさせようではないか…と判断し、表(下)は、宮地嶽神社、裏、奥(上)は高良神社という形で祭祀を行った形が認められる事から、この神社(山神宮)を創ったのは、恐らく、菅原道真公であろうと思います…。”“横に道真公もちゃっかり祀られておられます…。”と言われていました。

この分離された高良玉垂命と神功皇后を復元しようとした神社ではあったのですが、現在は山神宮(山神社)として大山祗を祀る神社とされています。

神社を見ると、三階松の神紋が打たれ、神功皇后と仁徳と考えられる神像、道真公と思われる人像が下宮と言える山神宮の神殿に納められているのです。

逆に言えば、偽装して本当の祭神を守っているとも言えそうですが、現地のヒアリングを行っていないためこれ以上の踏み込みは許されないでしょう。

では、その神社をご覧頂きましょう。


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優雅で美しい山門があり三階松の神紋が打たれています

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参集殿は 左から左三つ巴、三階松、梅鉢の神紋

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神殿は左三つ巴に三階松が守られている形

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なかなか格調高い社殿です

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では高良神社に参りましょう

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神殿の御簾の内側には高良玉垂命が鎮座されていました 御簾を揚げる事から打上(ターシャン)神社と呼ばれる高良神社もありますが(大阪府) 神殿には鍵も掛けられておらず、少し開いていましたので きちんと閉める必要もありその前に少し覗かせて頂きました 「高良玉垂宮神秘書」では底筒男は月神とされています 高良玉垂命は月神でもあることから右三つ巴とも対応します

神像は一体で 御幣では三神とされている意味は 下宮の山神宮の神功皇后+若宮+高良玉垂命と理解しています これもいつ隠されるか分からない貴重な神社であり 第一級の文化遺産ですが 歴史ファンと称する方々も、村興し町興し宜しく宗像の馬鹿騒ぎしか関心がないようです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:40| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 029 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

ビアヘロ 029 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当然にも森友学園と加計学園の関係者の意味です。

通常、国会審議など、与野党を含めたグルによるお笑い番組=猿芝居=八百長=やらせ…としか考えていないのですが、今回の「閉会中審査」に関しては、正面切った正統性の主張がぶつかりあっているように思えた(初めて国会審議といったもののそれこそ劇場性の綻びが見えた)事から、蓮舫氏から青山繁春氏…まで、全てラジオで聴かせて頂きました。

勿論、このくだらない見せかけの民主主義制度など何の価値も見出していないため、当然にもこれまで同様、投票に行くつもりは毛頭ありません(選挙で投票に行くほど政治意識は低くないつもりですので)。

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私自身も完全には勤め上げられなかった某藩の下級藩士でしたから役人の生態には精通しているつもりですので、見上げる様な高級官僚の在り様に。一抹のしかし深刻な対立、ひずみが生じている事は良く分かりますし、背後に何らかの政治的変動が起こっている事も想像が付きます。

しかし、そのような生々しい政治の話をするのが今回の目的ではありません。

我々は神社研究者ですので、その観点から見ているとある種の面白い現象が見えることから、この側面に光を当てて調べて見ようと思ったものです。

まず、お二人から考えて見ましょう。森友学園の籠池 泰典氏と加計学園の加計 晃太郎理事長です。


@  森友学園の籠池 泰典 前理事長

「籠池泰典」

195327日 香川県高松市にて生誕。実家は海運業だった。

19634月 籠池海運の倒産に伴い一家で兵庫県尼崎市へ転居。

19773月 関西大学商学部を卒業。4月 奈良県に新卒で採用[5]

1979年 森友学園創立者の娘と結婚。…以下省略

ウィキペディア20170716 10:43


 無題.pngまず、「籠池」という姓自体が非常に珍しいものである事は始めから気付いていました。

 しかし、全国で13件ものレアものとは思いもしませんでした。

 勿論、少ない姓というものはそれなりに意味のある重要な氏族である場合が多い事から、ご本人の類まれなキャラクター(まず、吉本興業でも直ぐにトップスターになれる素晴らしいタレント性を持った方です)にも拘らず、それなりに謂れのある氏素性であることは一目です。

 特に香川、兵庫(淡路島南部限定)に中心がある事から、それだけでもある種のイメージが湧いてきます。讃岐、阿波から熊野に掛けては忌部=豊玉彦=ヤタガラスの領域ですね。

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高松と言えば田村神社ですが、大幡主と山幸=ニギハヤヒ、孝霊、孝元、開化の流れのエリアなのです。

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香川県高松市にある神社。709年創祀。祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天隠山命(あめのかぐやまのみこと)、天五田根命(あめのいたねのみこと))讃岐国一之宮。「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」とも呼ばれる。                            (コトバンク)


祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)

五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) 別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。

猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)

天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) 別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。

天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。

田村大神について、中世の書物では猿田彦大神[2]や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。        (ウィキペディア)


さて「籠池」ですが、籠とは何でしょうか? まず、天橋立の籠(コノ)神社が頭に浮かびます。

 この「籠」については、佛教大学の 黄 當時教授からポリネシア系言語のカウヌイ、タウヌイという大型の外洋性カヌーの置換えとの説が提出されています。

 「コノ」は「カヌー」の置換えで、「カウ」がポリネシア語の船で「ヌイ」が大きいという意味の後置修飾語という話です。

 詳しくは太宰府地名研究会のHPから以下を検索して下さい。

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その意味で、籠池氏のご先祖が海運業をされていた事、籠神社の宝物、物部の海部の「海部文書」があること、伊勢神宮にも繋がる一族にも思えてくるのです。伊勢も大幡主とヤタガラスのエリアです。

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また、籠池の籠は「籠目紋」の籠である可能性も見て取れるのです。

 ユダヤの神紋とも重なり、大幡主系の伊勢神宮、大江山皇大神宮、籠神社、上賀茂神社、下賀茂神社…

といったものを無視せざるを得ないのです。

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籠(かご)の目=ユダヤの六芒星の内側が籠目紋とも言えますが、六芒星そのものでもあるのです。

少し、籠池さんの顔つきにポリネシアンの影が見え、その背景(南方系海洋民)が見えてきた気もしませんか?


@  加計学園の加計 晃太郎理事長

「加計 晃太郎」

加計 晃太郎(加計 孝太郎、かけ こうたろう、1950年または1951年生まれ)は、日本の学校法人経営者。学校法人加計学園理事長・総長、広島加計学園長、フィンドレー大学理事、日本私立大学協会理事、岡山県国際交流協会理事、岡山県郷土文化財団理事。岡山県日中教育交流協議会参与。特定非営利活動法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会顧問、岡山北ゴルフ倶楽部理事。

広島県出身。立教大学文学部卒業。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に語学留学。父は加計学園グループ創始者加計勉。語学留学中にアメリカで安倍晋三と知り合い、以来、交友がある。

ウィキペディア20170716 15:04


無題.png 中々気品のある風格ある方ですが、私にはこの方の素性が直ぐに分かります。

 皆さんは「白川伯王家」というものが存在している(していた)事をご存じでしょうか?

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”をお読み頂きたいのですが、要は、明治維新まで天皇家の宮廷祭祀を司っていた白川伯王家(ヤタガラス系裏天皇)の流れを汲む人々の一部(恐らく主流)が加計(カケ)姓を名乗っているのです。

 その前に加計姓の分布を、例によって姓名分布&ランキングからご覧いただきましょう。

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こちらも56件(あくまでも姓名分布&ランキング調べによるものですが)と、こちらもそれなりに有力な氏族である事が分かる家系のようです。

そこで、中国自動車道に「加計スマートIC」があることを思い出して下さい(広島県山県郡安芸太田町加計)。

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この安芸太田町加計に長尾神社があるのですが、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”では、このように書いています。


いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より

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この加計の一帯に厳島神社の社家の一族が入っている事は確実なのです。

では、この加計という地名はどこを起源としているのでしょうか?

これについても、ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 でこのように書いていたのです。

それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点でも気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々は、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者、若しくは縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで(古代遠賀湾の最奥部)、本来、地名の根幹は「鹿毛(カケ)」=「加計」にあります。

しかも、この地にある飯塚市鹿毛馬の厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)によって、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。

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この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。市杵島姫はこの地で産まれたか?幼少期をすごされたからこそ佐用姫とも呼ばれたのです。

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厳島神社 カーナビ検索 飯塚市鹿毛馬字宮下1083


 詳細はこれらを読んで頂くとして、広島県の出身とされる加計学園の加計 晃太郎が、この白川伯王の一族の後裔のお一人であり、この一帯で有名な「加計隅屋鉄山」の経営者の一族の後裔の人物である可能性は非常に高いように思うのです。

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飯塚市鹿毛馬の厳島神社参拝殿の神紋(三つ盛り亀甲)上、安芸太田加計の長尾神社の神紋

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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”にはこのように書いていました。


百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。


王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か?で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ一点、明治期になり神祇官の指示によって白王姓を名乗るのはまかりならん(天皇家に対して不敬である)として「白王」姓を「白土」姓に変更され、この宮司家は白+(土+、)を名乗っているのです。

ここまで見てくると、加計姓を名乗った人々とは、朝倉日田の大災害で多くの人々が犠牲になっている最中に、自らの世界遺産登録を喜ぶ今の宗像大社や安芸宮島の厳島神社などよりも遥かに高格式の、飯塚市鹿毛馬(カケノマ)の厳島神社に起源を持つ白族(博多の櫛田神社の大幡主の一族)であり、下賀茂、上加茂にも通じる豊玉彦、ヤタガラスの後裔つまり裏天皇家の一族の様に見えるのです。

では、安倍晋三と仲良しのお友達だった方々との関係が、何故、ガタガタし始めたのでしょうか?

今年の二月に スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 で、以下のように書いていました。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。籠池氏と加計氏は等しく日本会議のような安倍政権を支えたお友達なのでしょうが、そもそも系統の異なる勢力の方なのでしょう。今回、籠池氏は切り捨てられ、加計氏はまだ関係を維持していると思われます。

この温度差は、統一教会なども含め、安倍を支えた勢力内部に内紛、衝突が起こっており内部分裂が起こっている可能性が考えられますが、奥の院の様子は伺い知る事はできません。

この延長上に現在もあるのですが、安倍の応援団として動いていたヤタガラス系の人々が、キッシンジャー(彼は伝統的親中勢力であることは明らかですね)が引き継いだとされるロックフェラー系ユダヤ・マフィアの指示で反中国を標榜する安倍を降ろす方向で動き始めたのかも知れません。

ここでは厳島神社の一族がどのような流れなのかを百嶋由一郎最終神代系譜で確認しておこうと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この黄枠の三姫君こそ三女神=市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)、鴨玉依姫(タギツヒメ)なのです。

白川伯王〜大幡主〜ヤタガラスの後裔なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:53| Comment(0) | 日記