2018年01月09日

414 奥出雲の神々 21 鴨倉の建御名方神社

414 奥出雲の神々 21 鴨倉の建御名方神社

20170509

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鴨倉は大きな谷の集落です。この風景を見ただけでここまでやって来た価値があったと思うほどの素晴らしい景観が広がっていました。

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 桜満開の鴨倉は大きな谷の集落でした。その割には傾斜がきつくなく、比較的水張り面積の大きい田んぼが広がっています。

訪れたのは四月の半ばでしたが、既に荒起こしや代掻きどころか田植えまで行うところまでありました。

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鴨倉の建御名方神社は、島根県神社庁データに基づくと 主祭神を 建御名方命 としています。

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昔は参道に電信柱を置くなど憚られて絶対にありえなかったのですが、今や情けない有様です。

スパンを調整し少しずらすだけで良かったはずなのですが、せっかくの景観が台無しですし、無粋極まりません。


まず、鴨倉と呼ばれる地に建御名方神社があることは象徴的ですらあります。

鴨は上賀茂、下賀茂の「鴨」であり大幡主〜ヤタガラス=豊玉彦=豊国主のエリアを示す地名です。

 そこに、国譲りに抵抗した建御名方神社があるのですから、建御名方命が大国主命、大幡主、豊国主の配下にあった事が想像できるのです。

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境内には幾つかの摂社があります 五穀豊穣様と書かれていますが、当然にもスサノウを祀る石塔です


島根県神社庁データによれば、主祭神は 建御名方命となっています。

境内の摂社を見る限り、スサノウ以外はなく(出雲の場合イソタケルと考えられている可能性も排除できませんが…)問題はないでしょう。

 では、建御名方を考えましょう。

 神代には、武、猛、健、建…と書かれタケル、タケと呼ばれる神様がかなりおられます。

 直ぐに頭に浮かぶのは、「日本武尊」「倭建命」(ヤマトタケルノミコト)や日子波限鵜草葺不合命、彦波瀲盧茲草葺不合尊 (ヒコナギサテケウガヤフキアエズノミコト)ですが、建御名方 も、猛々しい、勇敢な、荒々しい…勇者の意味であろうことは間違いないでしょう。

 残りの「御名方」ですが、そういう名のお方で良ければそれだけの話になってしまいます。

 兄の(あくまでも兄とされただけですが)対する「事代主」です。

これも物事を良く知っている、無難な道を選ぶ計算高い人と言った響きです(あくまでも通説の印象)。

「主」は大国主、事代主、天御中主、大物主…と同族を意味しているのですが、「主」は「ヌシ」「ノシ」、つまり、「○○の人」(シは人)であろうと考えています。

百嶋神社考古学では、事代主も建御名方も兄弟どころか、大国主の近親者ですらありません。

ただ、二神とも大幡主(博多の櫛田神社の主神)の配下で活動していた大国主の臣下のような人物だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:18| Comment(0) | 日記

2018年01月13日

415 奥出雲の神々 22 鴨倉の鹿島神社

415 奥出雲の神々 22 鴨倉の鹿島神社

20170509

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鴨倉の建御名方神社から一キロほど山に登ると上鴨倉地区になるのでしょうか、山間の奥まった場所に鹿島神社があります。

 目立たない場所にあったことから場所が分からず、たまたま、野良で鍬を振るっておられたお婆さんに鹿島神社をお尋ねすると、直ぐに目の前の“桜の木の奥にあるよ”と教えて頂きました。

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建御名方が父大国主命の国譲りに最後まで抵抗した弟神、国譲りを強要した軍神が鹿島神社となると、鹿島神社側は占領軍であり、建御名方神社側は植民地側の神といった関係になるのです。

本来は一食触発の関係のはずなのですが、満開の桜は散らんばかりでした。


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鹿島神社 カーナビ検索 仁多郡奥出雲町鴨倉686番地

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神額のない神社はやはり神秘的ですね

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社殿は古色に満ちていますが、やはり谷あいの神社は湿度が高くこのようになりがちです

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鴨倉の鹿島神社は、島根県神社庁データに基づくと 主祭神を 武甕槌命 としています。

鴨倉と呼ばれる地に鹿島神社があることは象徴的ですらあります。鴨は上賀茂、下賀茂の「鴨」であり大幡主〜ヤタガラス=豊玉彦=豊国主のエリアを示す地名です。そこに、国譲りを強要した武甕槌を祀る鹿島神社があるのですから、占領軍集落と監視集落と思わざるを得ないのです。

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さて、この神様が当ブログの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の跡宮であると言えば驚かれるかも知れません。

詳しくは 199 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”とは何か? をお読み頂きたいのですが、簡単に言えば、この軍神武甕槌とは阿蘇高森の草部吉見神社の神様なのです。


ただ、「(跡宮)って何だ?」という声も聞かれますので、ここで、説明しておこうと思います。

「跡宮」と聞けば古い方ならば、戦後の焼跡ラジオ・ドラマ(NHK連続放送劇と言うべきですか?…実に古い表現ですね…)として全国を沸かした「君の名は」の主人公、氏家真知子の恋人役の後宮春樹を思い出される方もおられるでしょう。

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勿論、「宮跡」という言葉は存在します。言うまでもなく神社の移転後の跡地程度の意味ですが、実は「跡宮」という表現を残す神社があるのです。

これは、恐らく後置修飾語(フランス語、スペイン語、イタリア語…)の名残などではなく、“確かに御神霊をお移しした跡地ですが、ちゃんと分霊を今もお宮としてお祭りしているものですよ。”といった気概が込められた名称のように思います。


その神社とは、剣豪塚原卜伝が信奉した武甕槌大神を祀る常陸の国の鹿島本宮(跡宮)です。


みなさんは、鹿島神宮に実は「本宮と跡宮」がある事をご存知でしょうか?このことは「新鹿島神宮史」にも記述があり以前より気になる場所でした。今回の探訪は、今までの鹿島散策とは、一味違った散策となりました。本宮と云われているのは、茨城県潮来市大生にある大生(おおう)神社です。
ここは、毎年11月中旬に開催されている茨城県無形民俗文化財ともなっている「巫女舞神事」で、有名です。大生神社は、建御雷之男神を祭神としていますが、梅原猛が「神々の流竄」の中でこの神社の事を言及しています。同著の中で氏は、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地であるという説を紹介していて、これらのことから鹿島は建借間命の名をとって地名としたのではないかと結論づけています。確かに「タケカシマ」から「カシマ」そう言われると尤もに感じてしまうわけですが、ここ常陸の国の大半が多氏によって開拓されたのは事実のようです。ここ、大生神社は多臣の氏神様の地でもあるわけです。 …中略… 鎌倉時代に「光俊朝臣」は歌に


みそらより 跡たれそめし 跡の宮 その代もしらす 神さいにけり

  
と詠み、この跡宮が「鹿島社の大明神がはしめて天くたらせ給いし所なり云々」と伝えています。この跡宮に降りた神こそ、鹿島の神なのでしょうか…。

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「(武甕槌大神が)神護景雲元年に奈良にご遷幸の際ここから出発されたのでその跡宮として祀る」とあります。                               ブログ「日々平穏」より


お分かり頂けたでしょうか?「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 の“跡宮”とは、この神社から採題したものでした。

さて、ブログ「日々平穏」氏がお書きになっているとおり、大生神社は、建御雷之男神を祭神として、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地す。

その多氏こそ「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 で何度となく書いてきた阿蘇氏の事であり、建御雷之男神、建借間命武甕槌尊…とする阿蘇高森の草部吉見神社の祭神=彦八井耳命=海幸彦=大年神=天児屋根=天忍穂耳=支那ツ彦=贈)孝昭天皇(勿論、本物の天皇ではない)なのです。

この草部吉見神社については、その重要性から「ひぼろぎ逍遥」でも過去何度となく取上げ書いてきました。

「ひぼろぎ逍遥」掲載分のみで「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 のものは含まれていませんが、少なくともこれだけは取上げています(以下、関心をお持ちの方はお読みください)。


162

神沼河耳(綏靖天皇)から阿蘇氏を考える“草部吉見が神武の皇子と称する訳”

122

草部吉見神社の深夜の遷座祭

119

阿蘇草部吉見神社の日子八井命御陵

42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

41

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  H “阿蘇から筑後に移動した阿蘇氏”

40

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  G “阿蘇ご一家神代系図”

39

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? F  “八井さんを探して下さい”

38

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? E  国造神社と風宮神社

37

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  D  “草壁吉見神社の参拝客急増”

36

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  C  “龍田の神を立野に祀る!”

35

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  B   神代系譜

34

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A  立田阿蘇三宮神社

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那

1

阿蘇外輪山外延部、谷底に沈められた謎の古社「草壁吉見」神社、2011年夏の大祭


ブログの冒頭001から書いている様に、この俗称海幸彦は、山幸彦(実は香取神社の祭神)とともに、常陸の国=日高見の国=北上の国(H音とK音の入れ替わり現象)まで進出していたのです。

これが九州王朝の最大版図であり、第二ブログをスタートさせる時点で、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とした理由なのです。

では、この鹿島神宮の鹿島とは何でしょうか?

それこそが、肥前の国(佐賀県)有明海西岸の小都市鹿島市の事であり、佐賀県白石町、嬉野市、武雄市…と境を接する「万葉集」に歌われた杵島山の河岸の間である対岸の鹿島市(鹿嶋アントラーズの鹿嶋と鹿島市は市の名称を巡り多少のトラブルがあったことはご存じでしょう)の意味だったと考えるのです。

この地には、建借間命が東に向かったと言う伝承があり、この「万葉集」に歌われた杵島山は歌垣(嬥歌:かがい)の伝承地であり(常陸の筑波山の歌垣と対応します)、「常陸国風土記」に登場する“だまし討ち”とも対応するのです。

これについては、分かり易いブログがありますのでご紹介します。


 『肥前国風土記・逸文』(万葉集註)にある杵島の峰は比古神・比売神・御子神が鎮座していて、「郷閭(ムラザト)の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望(ミサ)け、樂飮歌ひ舞ひて、曲盡きて歸る。歌の詞に云はく、「あられふる杵島が岳を峻(さか)しみと草採りかねて 妹が手を執る」是は杵島曲(キシマブリ)なり」

…中略…

 再び常陸国。行方郡の話。

 崇神天皇のとき、健借間命という人が国巣(=土蜘蛛)のヤサカシとヤツクシを倒すため、油断をさせようと「天の鳥琴・天の鳥笛、波の随に潮を逐ひて、杵島唱曲を七日七夜遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。時に賊の党、盛なる音楽を聞きて、房(イエ)挙りて男女、悉尽に出て来て、浜傾かして歓咲(ヱラ)ぎけり」。そこで我等がタケ・カシマ、「堡を閉ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき」。その戦勝を記念して各地にヨクコロシタとかカンタンニコロシタとかいう意味の地名をつけた……。

 記紀で崇神天皇が東国に使わした四道将軍は「健沼河別命」(古川注:草部吉見の父)であった。この人は、同時期に強敵・越(つまりヤマタノオロチの出身地)を平定した大毘古の息子で、二人がそれぞれ攻めあがって、再会したところを「相津」=「会津」と名づけた。ちなみに大毘古は八代・孝元天皇の息子で・次の開化天皇古川注:高良玉垂命のお兄さんでもある…。ふうむ。タケカシマなんて、鹿島大神を思わせる武人名。やっぱ、タケミカヅチは後付なのかな?          

…中略…

 で、この土着マツロワヌ勢力の二人組みを、だまし討ちにしたり・歌にからめて滅ぼすっていうのは、神武軍・大久米命の得意技じゃあないか! このあたり神武=崇神=ハツクシシラシシスメラミコトのミックスジュースを還元できるかどうかワクワクするところであります。で、やっともとの神武天皇の話にもどった。

ブログ「不思議なことはあったほうがいいより

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恐らく阿蘇五岳の一つに杵島山があり熊本県にも氷川町(旧竜北町)鹿島や益城郡嘉島町があることもこの通称杵島山や鹿島から建借間命の阿蘇への移動と関係があると考えています(鹿島の前の鹿島は鹿児島県薩摩川内市市の甑島かも…)。

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写真提供:松尾紘一郎(糸島市)


杵島山より対岸(古代には杵島山は島だった)の鹿島方面を望む(さらに先は雲仙岳)


軍神建借間命の一族(黎族=多氏=宇治氏=支那人)は、雲南省麗江からメコン川を下り、海に出て海南島に集結し、黒潮に乗り、熊本県の天草下島の苓北町に上陸し(この時点で杵島山方面に移動した分派があったと考えています)、その後阿蘇に移動して、先住者であった高木大神(高御産巣日神)の傘下に入ったのです。

その後(神武後)、九州王朝の時代、第9代開化天皇の時代の四道将軍が東日本に送り込まれるのです。

建借間命が直接送り込まれたのか、この神を奉祭する一族が進出したのかは、まだ、見当が付きません。

さらに七〜八世紀になり藤原が権力を掌握して一族を守る軍神が必要とされ春日大社が造られる事は良く知られています。今回は、「跡宮」の意味をお知らせしただけでしたのでここまでとします。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上、阿蘇ご一家系譜(部分)下

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研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:38| Comment(0) | 日記

2018年01月17日

ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載” ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”

ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”

20170117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。皆さんも、「…宮古の縁側日記」に注目を。


48 龍族大国主の複雑な事情@2017-01-11 11:24:10

きらきらあけましておめでとうございます〜きらきら今年もよろしくお願いいたします。

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出雲大社と言えば大国主神です。

日本書記ではスサノオの息子、古事記ではスサノオの6世孫、7世孫と判然としていません。

大国主には沢山の名前があります。

大國主大神

根国から帰ってきてからの名。大国を治める帝王の意

大穴牟遅神(おおなむぢ)

大穴持命(おおあなもち)

大己貴命(おほなむち)

大汝命(おほなむち)

播磨国風土記の表記

大名持神(おおなもち)

国作大己貴(くにつくりおおほなむち)

八千矛神(やちほこ)

須勢理姫との歌物語の名

葦原醜男

葦原色許男

葦原志許乎

あしはらしこを   根国での呼称「しこを」は強い男で武神

大物主神(おおものぬし)

古事記においては別の神、日本書紀においては国譲りの別名

大國魂大神(おおくにたま)

顕国玉神・宇都志国魂(うつしくにたま)

根国から帰ってからの名

伊和大神(いわおおかみ)

播磨国風土記での呼称

所造天下大神(あめのしたつくらししおおおかみ)

幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

杵築大神(きづきのおおかみ)

あまりに多すぎて覚えきれません。一体どんな人物なのでしょうか?

まず、大国主とは国を治める王様、王君と言う意味なので名前ではないのです。

固有名詞ではありません。

出雲の王様であるとするならば名前があるはずなのに具体的には記紀には書いてなのです。

漢字の成立は少なく見積もっても紀元前6世紀には成立していました。

紀元前2590年には漢字の元になった甲骨文字、象形文字等があります。

最古の漢字は殷の時代紀元前1046に占いの結果を書き残す為に使用されています。

大国主の名前は何と言ったのでしょうか?沢山の名前から推理して見ましょう。

大穴牟遅・大穴持・大己貴命・大汝命

おおなむじ・おおあなもち・おほなむち

似たような名前ですね。

元は一つだった名前の漢字のフリガナを変えて言い換えているようです。

ヒントは大物主(おおものぬし)です。

古事記でも大国主と大物主は別人だと言っています。

日本書紀おいては国譲り後の別名とあります。

大国主の神話は大国主にとっての都合の良い作り話ですが、いつものように作者は真実を織り交ぜています。

スサノオのいる根の国大国主なる人物は行ったのです。

播磨風土記に書いてあります。

スサノオの娘を嫁に貰いに行ったのです。

もちろん、断られました。

大国主はそのまま引っ込んでいるような性格ではありませんでした。

スサノオ軍団と戦い武力で勝ち取りました。

娘を略奪したのです。

スサノオの娘を連れて意気揚々と引き上げて行きました。

大国主には二人の妻がいます。

八上姫(ヤカミヒメ)

根の国からの帰還後では最初の妻とされる、こちらが略奪したスサノオの娘

辛国息長大姫(カラクニシナオオヒメ)

古事記ではアメノウズメにされています。

須勢理姫(スセリヒメ)

スサノオの息子の妻を略奪した最初の妻で正妻。

本名は瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)

古事記では豊玉姫になっています。

都合二回戦っています。

狗奴国の乱

長髄彦の乱.....長髄彦はスサノオの息子で王子様。

古事記では、長髄彦は一方的な悪者。

大国主は一人で戦いに挑んだわけではありません。

沢山の兄達軍団(匈奴軍団)で、

スサノオ軍団(月氏軍団)に奇襲攻撃をかけたのです

何故、スサノオに断られ攻撃してまで娘達を得なければならなかったのか。

それは、サカ国スサノオとはあまりに身分が違いすぎたからです。

複雑な事情が大国主にはありました。(続く)


49 龍族大国主の複雑な事情A2017-01-12 23:11:04

大国主を取り巻く複雑な人間関係。

先ずは、大国主の名前です。

姓は(キム)

母方の出自がセレブです。

呼韓邪単于(こかんやぜんう)

燕の女王 王昭君(おうしょうくん)の子供の子孫、金朱露(キムスロ)の子孫です。

51年匈奴の王族呼韓邪単于は、漢に入朝して王昭君婿になりました。

wikiによれば姓を(りゅう)に変えた事になっています。

しかし王昭君の姓になどはないのです。

後世の辻褄合わせです。

前漢の高祖劉邦は主君である項羽より先に手柄を立て、下克上で漢王になりました。

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しかし、劉邦の死後皇后の呂氏一族の悪政により一族は粛清されました。

この時に劉邦一族の下克上は終わりを告げたのです。

後に地方に散った残党も処分されています。

5代目の孝文帝からきちんとした国造りが行われました。

6代目の孝景帝も父に習いました。

民から税金を取らない事や肉刑や宦官を廃止しました。

国は富、中国で興った国の中で一番豊かな時代「文景の治」言われています。

孝文帝は劉邦の子供という事になっていますが、たった一度、褥を共にしただけで生まれた子供なのです。

金朱露は金官伽耶の王様になっています。これは大きな誤魔化しです。

中国と朝鮮で歴史の捏造をしています。

金朱露は後漢の2代目皇帝劉荘です。

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前漢 孝武帝の時代に五銖銭を制定しています。

五≒皇帝

+

皇帝  金朱

皇帝 金朱(きむしゅ)が 造ったお金と言う意味です。

金朱露の名はここからきているのではと推測しています。

造ったのは燕の国です。

金朱露は燕の王様。

本当に漢と言う国はあったのでしょうか?

「漢書・後漢書」は文官出身の司馬遷が相当大袈裟に書いてある小説のようなものです。

全てを鵜呑みにはできませんね。

その金朱露の子孫の金超智(キムオチ)の娘の超智姫(別名 燕脂姫 エンジヒメ)の娘の

アイラツ姫(アカル姫)お母さんです。

それでは、お父さんはと言うと.....

劉邦の子孫であると言う事は間違いありません。

劉邦の出自は薛延陀族(せつえんだ)    賎民です。

河原よもぎ

河原ナデシコ

鉄奴隷

白菊

そのような立場から戦闘能力を買われ密偵から成り上がった強者です。

(密偵≒草の者)

河伯(ハベク)河童です。

朴氏です。

当然ですが、燕のお姫様と婚姻できません。

略奪したのです。

そして生まれたのが大国主です。

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母違いの兄  

猿田彦(サルタヒコ)   別名 饒速日(ニギハヤヒ)山幸彦

延陀彦(エンダヒコ)塩田彦→猿田彦

この方の姓は(パク)です。

からが出ています。

その兄に虐められた大国主。(続く)     参考 百嶋由一郎最終神代系譜

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参考 百嶋由一郎(高氏)系譜

連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。

ただ、この第3 blog「建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。」に至っては当方も理解の領域を超えており、目下のところ学習中と言ったところです。


50 龍族大国主の複雑な事情B2017-01-14 22:50:26

178年大国主30才。

決断を迫られていました。

頼みの綱だった後漢機能不全の末期状態。

南匈奴も否応なしに無益な戦いに繰り出され青息吐息でした。

大国主は大きな溜息を一つつき腰に剣を挿しました。

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自分を頼ってきている何人もの義兄弟、従兄弟、親戚を食べさせて行かなければならない。

あんなに幼い時に虐められたのに...今更。

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大国主は、呼韓邪単于と王昭君の子孫匈奴の貴種(王族階級)です。

これから、スサノオ(月氏軍団)と戦わなければならないのです。

又、父親と同じ事をするのかと思いました。

大国主に母の記憶はありません。孤独が憂鬱を生んでいました。

大国主の母はアイラツ姫(蒲田姫)です、

父は河伯(河童)

記紀では神沼河耳になります。

神沼河耳(河伯・河童)アイラツ姫を略奪して生まれた子供です。

神沼河と言う名前は女神を表しています。

男性の使う名前ではないのです。

神沼河姫アイラツ姫(アカル姫)です、どんな形であれ子供を産んだ事で夫婦になったので神沼河耳と名乗った事にしたのでしょう。

結局、大国主も同じ事をしました。

スサノオの娘と長髄彦の妻を略奪したのです。

阿蘇の蹴破り伝説で有名な建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。

奥方の名前は豊秋津姫(とよあきつひめ)

別名・豊玉姫、瀛津襲足姫(おきつよそたらしひめ)

二人の子供は下照姫です。

もう一人青玉繋(あおたまかけ)と言う息子がいるようですが調査中です。

大国主は根の国に行きました。

根の国(あの世)に旅立った....38才でした。

大国主は匈奴の血が入っていたからと言って大雑把な性格ではありませんでした。

繊細な神経の持ち主だったのです。

根の国から帰ってきたのは、義理の兄山幸彦息子の大山咋(18)でした。

大山咋が大国主の跡を取ったのです。

大国主の奥方達は山幸彦の妻になりました。(レビラト婚、逆縁)

大国主亡き後、山幸彦率いる匈奴軍団は安住の地(倭国・九州)を得たのです。

スサノオ達にとっては不穏の幕開けでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:29| Comment(0) | 日記