2017年12月06日

ビアヘロ025 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      

ビアヘロ025 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      

20161214

太宰府地名研究会 古川 清久


1218日、太宰府地名研究会(20161218)に於いて、久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行います(公開時点では終了しています)。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?が、今回のテーマです。

無題.png

「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。恐らく朝敵熊襲だったことが百済、新羅、高句麗、秦氏からペルシャまでは許されるものの、決して列島進入を認められてこなかった理由だったようなのです。

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちの間で、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこれら訪問する神社に関係しています。


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 


肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

これに対して、田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(「講」を作り参宮したり、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、当然“うさぎ”などがシンボルになっています。また、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいます。若干のコメントを加えておきますが、古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、無題.png恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人、中国人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑など、入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が主要なテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

 本題はここからです。二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には移転により多少変わっていますが)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 C “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です

無題.png

カーナビ検索  宮崎県西都市三宅4615石貫神社


西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、今回の天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒


 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。         敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP無題.png より

無題.png

この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。

無題.png

新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

無題.png

物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。


物部神社参拝殿、本殿

無題.png

遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

無題.png

参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)


立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

無題.png

敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…無題.pngに助っ人を頼みたいと思います。以下。

徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

無題.png

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-
葉葵

 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?


無題.png

百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

無題.png

皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。

無題.png


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:33| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 024 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

ビアヘロ 024 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

20161014

太宰府地名研究会 古川 清久


もう何度も取り上げていますが、神武僭称贈)崇神ではなく、本物の神武天皇の本物のお妃であるアイラツヒメはご存じだと思います(「古事記」では「阿比良比売」「日本書紀」では「吾平津媛」)。


娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命

日向国吾田邑の吾平津媛を娶り妃とし手研耳命(タギシミミノミコト)を生んだ 「紀」

無題.png

宮崎県日南市 吾平津(乙姫)神社          宮崎県高原町 狭野神社


北部九州辺りではあまり見掛けませんが、ちゃんと吾平津姫を実際に祀る神社もあるのです。


吾平津姫

吾平津姫(あひらつひめ)は、神武天皇の妃。吾平津媛とも表記される。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。阿多小椅の妹。神武天皇日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生んだ。

ウィキペディア (20161014 18:55)による


阿比良比売命 あひらひめのみこと 別名 吾平津姫命:あひらつひめのみこと……

阿多の小椅の君の妹。神武天皇が日向にいた頃の妃。多芸志美美命(手研耳命)と岐須美美命(『日本書紀』には登場しない)を生んだ。

阿比良は、大隅国の郡名。

阿比良比売命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)狹野神社  宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田

敬愛するHP「玄松子」による


さて、百嶋神社考古学では、この本物の神武天皇のお妃であるアイラツヒメの産まれた場所についてある程度見当付けています。(事実鹿児島県鹿屋市には吾平町…がありました)

その場所とは熊本県山鹿市菊鹿町の相良地区なのです。

同地には吾平神社が、また、古の日向村があり。今も吾平山があるのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)128130 吾 平(アイラ) @〜B  をご参照下さい。

しかも、直ぐ傍には(数キロ下流の某地=旧稲田村)、同じく金山彦の子(腹違い)である櫛稲田姫の生誕地と考えられるものもあり、推定ウガヤフキアエズ陵までもあるのです。

これについては、未公開ですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)284 大宮神社と猿田彦大神 C 転載“櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”(年明け三月までには公開予定)として書いています。

まさに、後に列島最大の古代の巨大穀倉となる古代湖「茂賀浦」(これについても久留米地名研究会のHPから「茂賀浦」中原 菊池川流域地名研究会 論文をお読みください。ひぼろぎ逍遥に避退の予定)の畔に列島神代史における二人のスーパー・スターの女神が居られた事になるのです。

ただし、今回はこの話をする訳ではありません。

以前から、気になっていた吾平津姫(アイラツヒメ)の「アイラ」という言葉が列島の和語と語感が全く異なる事への半ば回答を得たと言う思いがしている事をお伝えしたかったのです。

この話に踏み込む前に、例によって百嶋由一郎最終神代系譜の一部をご覧頂きたいと思います。
無題.png

山鹿市菊鹿町相良の吾平神社(相良が内田相良氏ではなく吾平の置換えであることが分かりますね)

無題.png

そして、両女神の父親である金山彦を祀るのが景行天皇を祀るとした山鹿市の大宮神社ではないか?という驚愕の事実に踏み込む話、この間、二回(910月)に亘って菊池地名研究会で講演しているのですが、この「アイラ」という人名に関わる言葉についての話です。


53回菊池(川流域)地名研究会 連続講演

2016911日曜日  13301630

七城町公民館(熊本県菊池市七城町甲佐町721

「大宮神社(山鹿市)と猿田彦大神」@ 前篇

“大宮神社は本当に景行天皇を祀る神社なのか?”

久留米地名研究会(編集員)古川清久

A 後編は1016日日曜日の予定です。


まず、百嶋神社考古学に於いて、アイラツヒメはヘブライ系瀛氏の金山彦とトルコ系匈奴(伽耶から侵入)である越智族の大山祗の妹である越智姫との間の政略結婚で産れたハイブリッド中のハイブリッド・エリートとします。

ここで、百嶋由一郎説により母親がトルコ系匈奴の越智族であったとした場合、その娘の名がトルコ系言語だったのではないかと考えた事がありました。

ただ、昨年、少し「アイラ」がトルコ語ではないかと調べてはみたのですが、ayという語幹があることまでは見当が着いたもののそれ以上進めず踏みとどまっていたのです。

ところが、百嶋研究に関心を寄せる熊本の女性が、一週間ほど前に「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきたのでした。

急いで調べると、確かに彼女の言うとおりでした。


aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

無題.pngによる


無題.png

そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫の事だったのです。

してみると、父親である大山祗を百嶋神社考古学が月読命としている事とも対応するのです。

この辺りになると、通常の神社研究から逸れてくるようではあるのですが、百嶋先生の話には半島、中国から中近東にまで及ぶ膨大な情報が背後というか基層にあり、そのことによって神社を解説されている事から、どうしてもその基層の裏取りを行なう必要があったのです。

そこでお読み頂きたいと思うのが、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクを張っている、百嶋神代史研究グループの一つ、「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」です。

当方には霊感などなくスピリィチュアルな世界は敬遠していたのですが、彼女の書く内容は、その感性の鋭さは言うまでもなく、愕くほどの幅広い知識、深い知識に裏付けられている事に気付き最近になって良く読んでいるのですが、実は、彼女もアイラツヒメの「アイラ」がトルコ語である事にとっくに気付いておられたのでした。

そのことを知り、逆に、「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきた某女性にこのblogを紹介したところ大喜びで感激したのでした。

では、縁側日記からお読み頂きましょう。

奇しくもあのくそ暑い夏の時期に、お二人は同じようなテーマに取り組んでおられたのでした。

無題.png

アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然

前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

まず、アイラツ姫アイラツ地名になっています。

姶良(あいら)です。

姶良と言えば姶良カルデラですね。

最初に姶良の文字転化から。

姶良(あいら)→相楽(さがら)→佐良(さがら)

相模(さがみ)→寒河江(さがえ)

さがらさんは元はあいらです。

姶良カルデラは桜島へのマグマ供給源になっていて今でも立派な活火山です。

九州は活火山の多い場所なのです。

アイラは、トルコ語でと言う意味。

姶良カルデラは、元々火山だったでしょうからアイラ火山・アイラ山≒月山です。

月山(つきやま)→築山(つきやま)→筑山(つくやま)

アイラは、トルコ語で月と言う意味。


無題.png

筑豊、筑紫、竹島(九州)竹生島(滋賀)筑波山(茨城)月山(山形)姶良は始羅とも書きやはりシラ姫との関連を無視できなくなりました。

(知人よりの情報です)


aylar - 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar" トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

以下も無題.pngによる

現代のテュルク系諸民族


主権国家[編集]

トルコ共和国 → トルコ人(5,549万人〜5,800万人/7,000万人)

アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人〜3,300万人、イランに1,200万人〜2,010万人)

ウズベキスタン共和国 → ウズベク(2,230万人/2,830万人)

トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)

キルギス共和国 → キルギス人(380.4万人/485.5万人)

カザフスタン共和国 → カザフ(955万人/1,600万人)

連邦構成国・民族自治区[編集]

ロシア連邦 タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)

バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)

チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)

ハカス共和国 → ハカス人(8万人)

アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)

トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)

サハ共和国 → ヤクート(44.4万人)

ウズベキスタン共和国 カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)

中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)


列島には、新羅、百済、伽耶、秦氏、ポリネシアンはもとより、ペルシャ人さえも入っているとまではされるのですが、トルコ系匈奴が入っていると言う話は、ユダヤ、イスラエルと併せ列島ではタブーとされているようです。

それが何故かも考えてみる価値がありそうです。

多分、列島の支配民族の琴線に触れることなのでしょう。

狗奴国、熊襲こそが、この隠されたトルコ系匈奴(漢に帰順した南匈奴)だったからなのです。

無題.png

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:21| Comment(0) | 日記

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

20160614

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)があった事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。

無題.png

現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が新しい社を建て直してやるとしたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応するのです。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島にはならず、何故、都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

無題.png

日向一の宮都濃神社


また、熊本市西里に大己貴神社があり、薩摩は吹上浜に、大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思います。

一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しています

無題.png

現在は失われた大字弥永の田神神社の旧縁起


一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。


無題.png

地理院地図


現在、日隅宮は福岡県筑前町(旧夜須町)の弥永に田神社(天神社)とも呼ばれ鎮座しています。

この境内に日隅宮も置かれ、実際には日隅(ウズ)宮とも呼ばれているのですから、甘木、朝倉、杷木の一帯を明け渡した大国主系の人々が、明け渡した故地を偲ぶかのように東を向いて鎮座しているのです。

「奈良」という地名もご確認ください。この地名についても故)百嶋由一郎氏は、奈良に持ち出されていると言われていました。

奈良と言う古代に於いても重要な地名がこの地から持ち出されているのです。

思えばこの山手の夜須高原一帯(夜須川も流れ降る=天の安川ですね)には大山祗神社が数多く拾えますし、平野部は田神社(タノカンサー)が朝倉郡内に60数社拾えますし、一社を除き無格社に落とされているのです(「福岡県神社誌」)。

この地こそが高木大神から明け渡す事を要求された出雲の地なのです。

無題.png

筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかをひけらかすような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる始末なのです。

百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界であり、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今もなお後を絶ちません。情けない限りです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:10| Comment(0) | 日記

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

20160626

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 トレッキングの当初の予定ポイントは以下の通りでした。

@   原田八幡宮(朝倉市小隈560)田神様を確認すべし!素晴らしい絵馬を奉納したのもこの人々!

A   松尾神社(甘木バイパス沿線) 佐田大神がいた佐田から流れる佐田川沿いに松尾神社が鎮座する!

B   金毘羅宮(朝倉市甘木公園) 田神様を確認すべし!金毘羅宮も贈)崇神による乗っ取りか?

C   高木神社(朝倉市佐田町)  朝倉市佐田村は大山咋神の転勤地、「瀛津比売」は母神にあたる。

無題.png

大己貴神社からも近い筑前町弥永の田神社(天神社)


 今回のトレッキングの責任者であるN氏の提案でAとBの間に探訪ポイントを追加し、朝倉市の卑弥呼ロマンの湯に近く街中の別天地とも言うべき、湧水池傍の田神社を見た後、甘木公園の田神社を確認したのですが、次の提案を入れ、BとCの間に筑前町弥永の大己貴神社からも遠くない弥永の田神社(天神社)を訪問する事にしたのです。しかし、そこにはとんでもない事実がある事が分かってきたのでした。

無題.png

地番不詳 カーナビ検索 筑前町弥永 地元の方に田神社とお尋ね下さい


 そもそも、出雲神話の大スターである大国主命を祀る神社が何故この筑前町に存在するのかについて、どなたか説明して頂けないかと以前から思っておりました。

 まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとは一度も聞いたことがないことから、日向の一の宮が何故高千穂とか霧島にはならずに都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

 また、熊本市の西里周辺や薩摩は吹上浜に、かなり立派な大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思い続けているのです。

 目を北に転じると、宗像大社の主祭神とは大国主命ではないのかという話が付き纏い、付近の遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座している事に気付くのです。

 それ以上に驚愕すべき事実としては、春日市の商工会議所の敷地には、オオナムチの幼名であるオオナビコを祀る伯玄社が存在している事を考えて頂きたいのです。

 これについては、ひぼろき逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ”(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社“をお読み下さい。

 ここまでくると、筑前町の大己貴神社が非常に気になってくるのですが、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者は、大国主命が実際に活動したのは九州であるという認識を持っており(現出雲の国は近畿大和朝廷が創ったテーマ・パーク)、そのポジションからも、この大己貴神社をクローズ・アップせざるを得なくなるのです。

 田神社が大己貴、大山祗の二神による擬神体であるという百嶋説に基づく調査ですから、大国主命が無視できないのです。

 理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗の第二世代が大国主命=大己貴だからです。

無題.png

さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を空け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい、天穂日命に祀らせたとされています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)の息子であるヤタガラスになりますので、それだけでも話が繋がってきますね。

「天穂日命」がヤタガラスであることについては、ひぼろき逍遥 175 「天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に縣社クラスの大己貴神社が置かれていたのかが分からずに奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主命の転居先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。

では弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、筑前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なのか?それとも国譲り以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちあいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であったようです。

最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くない所に本当の出雲の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくないようです。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」と言う通説になびくお役人の発想です。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しと村興しと大はしゃぎで使いそうなのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋がるとなると、既存の権力に尾を振り自己規制してしまうのでしょう。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのです。

無題.png

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

ウィキペディア (20160629 23:00)による


「八束水臣津野命の国引き給いし後に、天下(あめのした)造らしし大神の宮を奉らんとして、諸々の皇神(すめがみ)等、宮処(みやどころ)に参集(まいつど)ひて、杵築(きづき)給ひき。」

「出雲国風土記」 楯縫郡 郡名由来

「神魂命(かみむすひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまいて・・・。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとありますが、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営したとあります。

いずれにせよ、風土記でも日本書紀でも古事記でも、豪壮・荘厳な宮だと記しています。

・・・平安初期の天禄元年(970年)に源為憲の著わした「口遊(くちずさみ)」にも、「雲太、和二、京三」と詠われています。 

 「出雲太郎、大和二郎、京三郎」の略で、大きい建物の順を説明するものだそうです。

「雲太」が、出雲国杵築明神神殿(出雲大社)で、「和二」が大和国の東大寺大仏殿、「京三」とは京都の宮城内にある大極殿だとされています。

大社の宮前の町に入る宇迦橋の所に、日本一高い大鳥居があり、町を通り抜けた所にある祓橋(はらいのはし)を渡ると、鬱蒼とした松原の続く長い長い参道があります。参拝者は参道の端を歩かなくてはいけません。真中は神々の通り道だからです。

参道の終わりに手水処があり、胴囲が六尺ある青銅の鳥居をくぐると境内です。境内にはこの正門と、東西それぞれに三つの門があり、古来から「七口門」と呼ばれています。

正面にある拝殿にかかる「注連縄(しめなわ)」は豪壮で、参拝者の目を奪い、「出雲大社といえば・・」と言われるシンボリックなものです。 出雲大社のシメ縄は、世の神社とは唯一正反対になっています。即ち、一般の神社では、綯始(ないはじめ)・・・[縄を綯う始め] を社殿に向かって右にし、綯終(ないおわり)を左にします。祭式としては、左右尊卑本末論に合致しますが、出雲大社のそれは左右が逆なのです。その由来は、どこにも書き記されていませんので「謎」です。


無題.pngより


 これから、日隅宮を探す作業に入らなければならないようです。

 勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて再検討する必要があるでしょう。まずは小字日隅宮を探す作業から入りたいと思います。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:05| Comment(0) | 日記

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

20160626

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 6月末の集中豪雨の間隙を縫って、太宰府地名研究会、玄海地名研究会合同の神社トレッキングを行いました。

 梅雨の期間中のトレッキングは野外の環境から天候に左右される事が多く、実際に決行できるかどうかは直前まで分かりません。

 このため本気で案内する事も出来ず、大雨の中、傘を刺してでも参加しようという意志堅固な参加者がいれば良いと少人数を覚悟し取り組みました。

 それほど案内はしていませんでしたが、15人規模の「田神社探訪トレッキング」が始まりました。

以下は、その時配布したトレッキング用の資料です。

 基本的にはカーナビで廻れるように住所を明記し車での移動中に交差点などでグループが切断されたり、行方不明が出て逸れても目的地に到達できるようにしています。

ところが、ところが、同行の企画責任者であるN氏からの提案により二つの田神社が加えられたため、急遽、予定のコースを逸れて二つの田神社を加える事にしたのですが、筑前町、朝倉市の境界に近い大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永6973)の傍にある田神社(天神社)で衝撃的な事実を知ることになったのです。これは、その伏線になりますので、そのつもりで読んで下さい。

 しかし、その前に新たに分かってきた事実を先行してお伝えする事にします。

 次にご覧に入れるのは現段階での、7月用のチラシであり、トレッキング資料です。

 遠方の方にはどのような場所か見当が付かないと思いますので、付近の地図を出しておきます。

無題.png

田神社の祭神である大幡主+大山祇の第二世代(子)が大国主命であり、その本拠地がここなのです

無題.png
無題.png

無題.png鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。

無題.pngざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

無題.png朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

無題.png
無題.png

百嶋神社考古学勉強会、太宰府、玄海合同地名研究会のスケジュールについてはblog「ひぼろぎ逍遥」に公開します。

無題.png

無題.png無題.png右は朝倉市甘木公園の金毘羅宮参道に鎮座する田神社です。これが一社だけなら見過ごすのですが、実は朝倉市小隈の原田八幡宮にも同様の田神社が確認できるのです。故)百嶋先生は南九州のタノカンサーは、博多の櫛田神社の大幡主と大山祇の二柱の神が田の神様の正体とされていました。

その実体の確認が今回のテーマです。併せて、佐田大神こと大山咋神の安心院からの転勤地である朝倉市佐田町の高木神社の摂社に「瀛津比売」の表記が確認できますので皆  で確認しましょう。ここにも忌部、卜部、役の人々が住み着いていたのです。

無題.png
無題.png

南九州のタノカンサーは甘木、朝倉の田神様

(実は博多の大幡主と大山祇命)が起源!


@  原田八幡宮(朝倉市小隈560or648?


同社は、嘉麻市大隈に対応するような印象を与える小隈集落に鎮座する八幡宮です。

表面上は宇佐八幡宮が幅を利かせるようになる鎌倉以降(1200年〜)の八幡宮と考えられますが、その基層には別の神様がおられるようです。付近には平塚川添遺跡がある事から、この重要な遺跡に関与するする集落であることは容易に想像が付きます。付近には古墳もあります。

ネットには何も出て来ません。当方のリポートがそのうち出てくる程度で、あまり注目されていない神社であることは分かります。だからこそ田神社が残されているのかも知れません。

「福岡県神社誌」によれば、祭神は神功皇后、応神天皇、武内大臣とあり、田神様の片鱗もありません。

それどころか、境内社摂社としても三柱神社(イザナギ、天忍穂耳尊、イザナミ)、高木神社(高皇産霊尊)、菅原神社(菅原神)とあり、田神様の痕跡は全く拾えないのです。

にも拘らず、ここには田神様が祀られているということはどういう事でしょうか?

一つの可能性として、圃場整備の際に合祀された可能性ですが、社を構えた移転も一般的には考えにくいことから、田神様の信仰圏の存在は否定できないように思えます。

そして、思わぬことに三つ目の田神様が、追加で入れた松尾神社がそれであったことが分かってきたのです。

無題.png

@  松尾神社(朝倉市古賀203)無格社


祭神 大山咋神 元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。

「神社由来によると、醸造の神である京都松尾大社の分霊が大同2(807)に肥後国に遷座された。」とも。NET地図には「田神社」と表示されているものもあり、これも田神社=タノカンサーの可能性がある。

「肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。とありますが、この神社こそ、松野鶴平、頼三、頼久…と続く菊池山鹿の松野党の本拠地、山鹿市菊鹿町木野の旧鶴平宅に隣接する松尾神社(坂本宮司)を勧請したものとは思いもよりませんでした。

熊襲の北上は内部で静かに検討されていますが、それと関係があるのか?それとも南北朝争乱期に起こった事なのかまずは興味津々といったところです。

「福岡県神社誌」を見ていますが、どうも搭載されていないようで使えません。

これについては、もう少し周辺調査を行わない限りこれ以上の事は言えないように思います。

逆に、情報を求めたいと思います。

ただ、松尾の神と佐田大神は同神であり、佐田川、旧佐田村の起源は相当に古いものと考えられることから、単に山鹿の松尾神社の勧請の前にも同種の神社があったように思えるのですがいかがでしょうか?

あくまでも、ここでは佐田川と松尾神社が対応している事だけを確認してもらいたいと思います。

無題.png

祭神が大山咋神である以上、この神様の別名は、佐田大神であり松尾大神であり、日吉神社、日枝神社でもあることは確実なのです。だからこそ、東には佐田川が流れているのです。


@  金毘羅宮(朝倉市甘木公園朝倉市菩堤寺342

無題.png

旧甘木市の中心地にあるのが甘木公園ですが、その高見に鎮座するのが金毘羅宮です。


結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。


そうすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


「神社伝承から見る古代史(百嶋由一郎先生の世界)--- もう一つの神々の系譜 ---牛島稔太のHPより


@   高木神社(朝倉市佐田2953


先に優良ブログの「日本の歴史と日本人のルーツ」からお読みいただきましょう。


高木神社(嘉麻市小野谷1580番)(参考)

祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」とある。以下はその高木神社であろう。


無題.png高木神社田川郡添田町大字津野6717番の1

高木神社田川郡添田町落合3583

高木神社田川郡添田町津野2227

高木神社田川郡大任町大行事118

高木神社田川郡大任町大行事2496-1

高木神社嘉麻市熊ヶ畑1075

高木神社嘉麻市桑野2588

高木神社嘉麻市小野谷1580

高木神社嘉麻市桑野1399

高木神社嘉麻市平217

高木神社久留米市田主丸町豊城1088

高木神社宮若市黒丸1572

高木神社京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308

高木神社京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594

高木神社築上郡築上町船迫字水上1133

高木神社筑紫野市大石字上ノ屋敷569

高木神社筑紫野市天山字山畑241

高木神社朝倉郡東峰村小石原鼓978-8

高木神社朝倉郡東峰村宝珠山24

高木神社朝倉郡東峰村小石原655

高木神社朝倉市佐田377

高木神社朝倉市黒川1806

高木神社朝倉市黒川3328

高木神社朝倉市佐田2953

高木神社朝倉市江川1201-1

高木神社朝倉市杷木白木172

高木神社朝倉市杷木赤谷744

高木神社朝倉市杷木松末2784

高木神社朝倉市須川1683


無題.png高木神社の分布は筑後平野の東側に押しやられた分布


高樹神社(たかきじんじゃ)(参考) 福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国御井郡


祭神高皇産靈神 式外社 高樹神 久留米市高良山中高樹神社

由緒 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。


高皇産霊尊:たかみむすびのみこと 別名 高御産巣日神:たかみむすびのかみ 高木神:たかぎのかみ

高魂尊:たかみむすびのみこと高御魂命:たかみむすびのみこと天高御魂乃尊:あめのたかみむすびのみこと別高皇産霊尊:わけたかみむすびのみこと高御牟須比命:たかみむすびのみこと高御産巣日神が天孫降臨神話等、天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場し、神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場するのが特徴。


ここには貞任の一族が入っているようです。佐田村の佐田も「貞任」の置換えとまで言われていますが、それは誤りで、百嶋先生の説に沿い、あくまでも、佐田大神の滞在が起源と考えています。

当方は大分市の七瀬にお住いで、昨年、「豊後安倍氏の伝承」を書かれた宗任の直系から直接お話を聴いており、この地に何故孝元天皇の大彦の流れを引く人々が住み着かれたかについては、どのように考えても久留米高良大社との関係が考えられそうです。

この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。

それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。

こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

一般的に“宗任配流は史実だが、貞任は死んでいるため貞任の一族が住み着いていると言う話は信憑性がなくあり得ない”とするのが通説ですが、貝原益軒先生も「此故に貞任より十三代を現人神に祝い木像十三あり、伝々」と書いていることからご存じだったようです。


しかし、我々神社考古学のものは、その背後、基層、深層を探るのを常としており、やはり、脇殿に配(廃)された須賀神社(スサノウ)こそ、本来の氏神ではなかったかと考えるのです。

無題.png

文献でとはほとんどありません。これも、フィールド・ワークの賜物です。          

さて、この高木神社には摂社が4社置かれています。

「瀛」が秦の始皇帝と金山彦との縁組により許された名誉ある表記であることについては以前も触れましたのでここまでとします。関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 156「秦の始皇帝と市杵島姫」外をお読み下さい。

トレッキング注意事項

玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)

実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。

最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。

参加申込等:090-52892994 (中島)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:00| Comment(0) | 日記