太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2017年12月02日

401 第三次奥出雲調査に行かなければならない A

401 第三次奥出雲調査に行かなければならない A

20170504

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


スポット099 奥出雲の仁田調査に行かなければならない において島根県仁多郡の調査に触れました。

ネット上に公開されている島根県神社庁の神社リストによれば、奥出雲町には34の神社があることになっています。

ただ、登載されていない神社も把握していますし、三宝荒神のように神社庁の管理下にない神社もありますので、最低でも356社はあることになる訳です。

このため月間10本の公開ペースを考えると、4か月分のblog原稿を書くことになる訳です。

奥出雲町の神社だけを連続公開する事も単調になりすぎますので、このプロジェクトの目的を書きながら、9本のblogを公開して行く事にしました。

これによって、第三次奥出雲調査に行かなければならない @〜C と01099本×4回=36本で4ケ月での奥出雲町の全ての神社のオンエアが可能になる訳です。

では、方針が確定したことから、ここでは新潟県柏崎市の二田物部神社をご紹介する事から始めましょう。

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有名な東京電力(株)柏崎刈羽原発に近い西山町に二田という地区があり物部神社があります。

日本海では有名な出雲(これも「出雲」であり白族の展開地の一つなのです)崎にも近く柏崎刈羽原発から北東方向に5キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


石見(島根県太田市)の物部神社を別にすれば、これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が、筑後川流域から北に向かったとされる筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つの福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)の地名移動であることは疑いようがありません。

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物部神社参拝殿、本殿


この神社の神殿、参拝殿には興味深い神紋が付されていました。

一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、調べると徳川家の重臣の本多氏が賀茂神社の社家だったとされています。

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立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであり興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていたとも言われています。

物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ、その物部氏から武士が生まれたとすると武士が「モノノフ」と呼ばれた理由が良く分かります。

そもそも、徳川家には新田義貞の後裔との説もあり、二田、新多、仁多…が北関東の新田になったと考える事は無謀でもないでしょう。


徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。


と言った話はネット上にも普通に流れています。


実際の本多氏は、古くから松平氏に仕えた三河の譜代の家系である。安祥七譜代の一つに挙げられている。三河三奉行の一人とされる本多重次(作左衛門)、徳川四天王に数えられる本多忠勝、徳川家康の参謀となった本多正信の3人が有名。宗家については忠勝の家系をこれにあてる説が一般的な通説であるが、正信の家系を宗家とする説もある。

江戸時代、三河本多氏一族の多くが大名・旗本として栄えた。本多氏の大名は13家、旗本は45家あり[いつ?]、他家に例をみない。江戸時代を通して徳川宗家と分家以外に使用できなかった葵紋を、唯一許されていた。本多氏は徳川家から「葵紋」の使用を認めた事項があることで、前述の右馬允秀豊以来、古くから三河に土着した松平家(徳川家)と同じく賀茂神社を司る賀茂氏の系統である。


同じく「本多氏」をウィキペディアで検索したもの20170504 0916

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敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」… 無題.png に助っ人を頼みたいと思います。以下。

徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。


無題.png 徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。 ………
・写真:上賀茂神社の紋-二葉葵

 無題.png葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


 この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。新田は○に一文字(一引き)です。この家紋を使う一族(二子石…)も阿蘇周辺に展開しています。多分、南北朝争乱期の連絡将校の後裔でしょう。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:56| Comment(0) | 日記

2017年12月05日

402 奥出雲の神々 10 稲原光森山の天満宮

402 奥出雲の神々 10 稲原光森山の天満宮

20170504

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


稲原光森山の天満宮も豊かな山上楽園といった農耕地の一角にあります。

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大馬木の天満宮は奥出雲町でも広島県境に近い最奥部の神社で、大馬木、小馬木という親子地名が拾える辺境の地域です。

とは言っても意外と平坦で、奥出雲町全体がそうなのですが、隠れ里といったおどろおどろした印象など微塵もない山上楽園といった風情を持っています。

正面には庄屋かとも思わせるような大屋敷があり、そのお宅の倉には丸に橘の家紋が打たれていました。

これだけでこの地域が橘一族の定着した土地でもあった事が見えてきます。

天満宮があるのも当然と思えてきます。それは菅原道真公には橘家の血が注がれているからです。

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天満宮正面の風景


 そもそも菅原道真を祀る神社は全国至るところにあります。

 天満宮を始めとして、天神社、菅原神社、須賀神社、老松神社…と色々な系統が拾えます。

 それは、道真公が博多の櫛田神社の大幡主(実は「紀」の神皇産霊尊であり、出雲では神魂命として風土記で知られた神)の子である豊玉彦=ヤタガラスを父とし、スサノウとクシナダヒメの間に産れた武内足尼(タケウチタラシニ)を母として産れた武夷鳥(タケヒナドリ)の流れを引いているからです。

従って、この集落、天満宮も橘一族=豊玉彦の流れを引いた集落ではないかと考えています。

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天満宮 カーナビ検索仁多郡奥出雲町稲原光森山756番地

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参道正面と山門(上)と牛像(下)


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天満宮参拝殿

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これといった特徴はありませんが、注連縄は出雲大社風ですね

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境内摂社の荒神様と平田社(これは分かりません)

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


参拝殿には確かに天満宮と書かれています。

また、神社庁の資料では祭神は 菅原道真公となっています。

天穂日命は豊玉彦=豊国主=ヤタガラス(武夷鳥の父神)の事です。

この武夷鳥の後裔が道真であることから、天満宮と橘一族の関係もお分かり頂けるのではないでしょうか。

よく、藤原氏が雷に恐れ“菅原の祟りじゃ”として、“道真を祀れ”としたのが天神様であるかのように言われますが、そうではなく、その底流には藤原にとって疎ましい先祖神を奉斎する氏族がいたのであり、それを消し去ったのが天満宮だった事が透けて見えるのです。

境内には別の祭祀も認められます。

実は、その一つに荒神様がありますが、この神様も、道真公の母方の流れと関係があるのです。

ただ、ここではその話までは踏み込みません。

関心をお持ちの方は直接お問い合わせください。

余談です。荒神様に関してここではコンクリート・ブロックですが、他の神社でも木や金属の格子などで囲んであるのは、閉じ込めているのか、守っているのか、まだ、意味が分からないでいます。

お分かりの方は、ぜひ、お教え願いたいと思います。


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:12| Comment(0) | 日記

2017年12月06日

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

20160626

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 6月末の集中豪雨の間隙を縫って、太宰府地名研究会、玄海地名研究会合同の神社トレッキングを行いました。

 梅雨の期間中のトレッキングは野外の環境から天候に左右される事が多く、実際に決行できるかどうかは直前まで分かりません。

 このため本気で案内する事も出来ず、大雨の中、傘を刺してでも参加しようという意志堅固な参加者がいれば良いと少人数を覚悟し取り組みました。

 それほど案内はしていませんでしたが、15人規模の「田神社探訪トレッキング」が始まりました。

以下は、その時配布したトレッキング用の資料です。

 基本的にはカーナビで廻れるように住所を明記し車での移動中に交差点などでグループが切断されたり、行方不明が出て逸れても目的地に到達できるようにしています。

ところが、ところが、同行の企画責任者であるN氏からの提案により二つの田神社が加えられたため、急遽、予定のコースを逸れて二つの田神社を加える事にしたのですが、筑前町、朝倉市の境界に近い大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永6973)の傍にある田神社(天神社)で衝撃的な事実を知ることになったのです。これは、その伏線になりますので、そのつもりで読んで下さい。

 しかし、その前に新たに分かってきた事実を先行してお伝えする事にします。

 次にご覧に入れるのは現段階での、7月用のチラシであり、トレッキング資料です。

 遠方の方にはどのような場所か見当が付かないと思いますので、付近の地図を出しておきます。

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田神社の祭神である大幡主+大山祇の第二世代(子)が大国主命であり、その本拠地がここなのです

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無題.png鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。

無題.pngざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

無題.png朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

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百嶋神社考古学勉強会、太宰府、玄海合同地名研究会のスケジュールについてはblog「ひぼろぎ逍遥」に公開します。

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無題.png無題.png右は朝倉市甘木公園の金毘羅宮参道に鎮座する田神社です。これが一社だけなら見過ごすのですが、実は朝倉市小隈の原田八幡宮にも同様の田神社が確認できるのです。故)百嶋先生は南九州のタノカンサーは、博多の櫛田神社の大幡主と大山祇の二柱の神が田の神様の正体とされていました。

その実体の確認が今回のテーマです。併せて、佐田大神こと大山咋神の安心院からの転勤地である朝倉市佐田町の高木神社の摂社に「瀛津比売」の表記が確認できますので皆  で確認しましょう。ここにも忌部、卜部、役の人々が住み着いていたのです。

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南九州のタノカンサーは甘木、朝倉の田神様

(実は博多の大幡主と大山祇命)が起源!


@  原田八幡宮(朝倉市小隈560or648?


同社は、嘉麻市大隈に対応するような印象を与える小隈集落に鎮座する八幡宮です。

表面上は宇佐八幡宮が幅を利かせるようになる鎌倉以降(1200年〜)の八幡宮と考えられますが、その基層には別の神様がおられるようです。付近には平塚川添遺跡がある事から、この重要な遺跡に関与するする集落であることは容易に想像が付きます。付近には古墳もあります。

ネットには何も出て来ません。当方のリポートがそのうち出てくる程度で、あまり注目されていない神社であることは分かります。だからこそ田神社が残されているのかも知れません。

「福岡県神社誌」によれば、祭神は神功皇后、応神天皇、武内大臣とあり、田神様の片鱗もありません。

それどころか、境内社摂社としても三柱神社(イザナギ、天忍穂耳尊、イザナミ)、高木神社(高皇産霊尊)、菅原神社(菅原神)とあり、田神様の痕跡は全く拾えないのです。

にも拘らず、ここには田神様が祀られているということはどういう事でしょうか?

一つの可能性として、圃場整備の際に合祀された可能性ですが、社を構えた移転も一般的には考えにくいことから、田神様の信仰圏の存在は否定できないように思えます。

そして、思わぬことに三つ目の田神様が、追加で入れた松尾神社がそれであったことが分かってきたのです。

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@  松尾神社(朝倉市古賀203)無格社


祭神 大山咋神 元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。

「神社由来によると、醸造の神である京都松尾大社の分霊が大同2(807)に肥後国に遷座された。」とも。NET地図には「田神社」と表示されているものもあり、これも田神社=タノカンサーの可能性がある。

「肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。とありますが、この神社こそ、松野鶴平、頼三、頼久…と続く菊池山鹿の松野党の本拠地、山鹿市菊鹿町木野の旧鶴平宅に隣接する松尾神社(坂本宮司)を勧請したものとは思いもよりませんでした。

熊襲の北上は内部で静かに検討されていますが、それと関係があるのか?それとも南北朝争乱期に起こった事なのかまずは興味津々といったところです。

「福岡県神社誌」を見ていますが、どうも搭載されていないようで使えません。

これについては、もう少し周辺調査を行わない限りこれ以上の事は言えないように思います。

逆に、情報を求めたいと思います。

ただ、松尾の神と佐田大神は同神であり、佐田川、旧佐田村の起源は相当に古いものと考えられることから、単に山鹿の松尾神社の勧請の前にも同種の神社があったように思えるのですがいかがでしょうか?

あくまでも、ここでは佐田川と松尾神社が対応している事だけを確認してもらいたいと思います。

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祭神が大山咋神である以上、この神様の別名は、佐田大神であり松尾大神であり、日吉神社、日枝神社でもあることは確実なのです。だからこそ、東には佐田川が流れているのです。


@  金毘羅宮(朝倉市甘木公園朝倉市菩堤寺342

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旧甘木市の中心地にあるのが甘木公園ですが、その高見に鎮座するのが金毘羅宮です。


結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。


そうすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


「神社伝承から見る古代史(百嶋由一郎先生の世界)--- もう一つの神々の系譜 ---牛島稔太のHPより


@   高木神社(朝倉市佐田2953


先に優良ブログの「日本の歴史と日本人のルーツ」からお読みいただきましょう。


高木神社(嘉麻市小野谷1580番)(参考)

祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」とある。以下はその高木神社であろう。


無題.png高木神社田川郡添田町大字津野6717番の1

高木神社田川郡添田町落合3583

高木神社田川郡添田町津野2227

高木神社田川郡大任町大行事118

高木神社田川郡大任町大行事2496-1

高木神社嘉麻市熊ヶ畑1075

高木神社嘉麻市桑野2588

高木神社嘉麻市小野谷1580

高木神社嘉麻市桑野1399

高木神社嘉麻市平217

高木神社久留米市田主丸町豊城1088

高木神社宮若市黒丸1572

高木神社京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308

高木神社京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594

高木神社築上郡築上町船迫字水上1133

高木神社筑紫野市大石字上ノ屋敷569

高木神社筑紫野市天山字山畑241

高木神社朝倉郡東峰村小石原鼓978-8

高木神社朝倉郡東峰村宝珠山24

高木神社朝倉郡東峰村小石原655

高木神社朝倉市佐田377

高木神社朝倉市黒川1806

高木神社朝倉市黒川3328

高木神社朝倉市佐田2953

高木神社朝倉市江川1201-1

高木神社朝倉市杷木白木172

高木神社朝倉市杷木赤谷744

高木神社朝倉市杷木松末2784

高木神社朝倉市須川1683


無題.png高木神社の分布は筑後平野の東側に押しやられた分布


高樹神社(たかきじんじゃ)(参考) 福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国御井郡


祭神高皇産靈神 式外社 高樹神 久留米市高良山中高樹神社

由緒 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。


高皇産霊尊:たかみむすびのみこと 別名 高御産巣日神:たかみむすびのかみ 高木神:たかぎのかみ

高魂尊:たかみむすびのみこと高御魂命:たかみむすびのみこと天高御魂乃尊:あめのたかみむすびのみこと別高皇産霊尊:わけたかみむすびのみこと高御牟須比命:たかみむすびのみこと高御産巣日神が天孫降臨神話等、天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場し、神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場するのが特徴。


ここには貞任の一族が入っているようです。佐田村の佐田も「貞任」の置換えとまで言われていますが、それは誤りで、百嶋先生の説に沿い、あくまでも、佐田大神の滞在が起源と考えています。

当方は大分市の七瀬にお住いで、昨年、「豊後安倍氏の伝承」を書かれた宗任の直系から直接お話を聴いており、この地に何故孝元天皇の大彦の流れを引く人々が住み着かれたかについては、どのように考えても久留米高良大社との関係が考えられそうです。

この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。

それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。

こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

一般的に“宗任配流は史実だが、貞任は死んでいるため貞任の一族が住み着いていると言う話は信憑性がなくあり得ない”とするのが通説ですが、貝原益軒先生も「此故に貞任より十三代を現人神に祝い木像十三あり、伝々」と書いていることからご存じだったようです。


しかし、我々神社考古学のものは、その背後、基層、深層を探るのを常としており、やはり、脇殿に配(廃)された須賀神社(スサノウ)こそ、本来の氏神ではなかったかと考えるのです。

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文献でとはほとんどありません。これも、フィールド・ワークの賜物です。          

さて、この高木神社には摂社が4社置かれています。

「瀛」が秦の始皇帝と金山彦との縁組により許された名誉ある表記であることについては以前も触れましたのでここまでとします。関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 156「秦の始皇帝と市杵島姫」外をお読み下さい。

トレッキング注意事項

玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)

実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。

最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。

参加申込等:090-52892994 (中島)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:00| Comment(0) | 日記