太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年10月12日

385 国東半島の古社奈多八幡宮とは何か? “大分県杵築市八幡奈多宮”

385 国東半島の古社奈多八幡宮とは何か? “大分県杵築市八幡奈多宮”

20170411

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 福岡市東区に奈田(ナタ)海岸があり、兵庫県に灘の生一本灘(ナダ)があります。そして国東にも奈多八幡もあるのですが、共に大幡主の一族が展開した土地だったのではないかと考えて来ました。

今回、二度目の訪問でゆっくり見せて頂き、この神社の性格がおぼろげながらも分かるようになってきました。

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奈多海岸の沖合(と言っても目の前ですが)にある市杵島という小島が同社の元宮と言われ、比売大神はこの島に降臨したと伝えられています。

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宇佐神宮の別宮とし、神亀6729)年に宇佐神宮大宮司の宇佐公基により創建されたと言われ、主祭神を比売大神、応神天皇、神功皇后としています。

奈多宮

奈多海岸のほぼ中央に位置する。宇佐神宮と関係の深い神社であるが、正確な創建の時期は不明である。伝承では宇佐神宮の別宮として、神亀6年(729年)に宇佐神宮大宮司であった宇佐公基により創建されたという。主祭神は比売大神、応神天皇、神功皇后。

宇佐神宮の旧神体とされる木造僧形八幡神坐像と2躯の木造女神坐像の三神像を収蔵しており、これら三神像は国の重要文化財に指定されている。このことが示すように当社と宇佐神宮との関係は深く、かつて宇佐神宮で行われていた6年毎の行幸会では、新しい神体の薦枕が宇佐宮本殿(上宮)に納められると、上宮の古い薦枕は宇佐神宮の御炊殿(下宮)に納められ、下宮の古い薦枕はいったん奈多宮に納められた後、海に流されたとされる。

ウィキペディア(20170410 1858)による


宇佐神宮沿革


宇佐神宮を九州王朝論の立場から取り上げることについては、少なからざる危うさが付きまといます。

九州王朝論者の内部においてさえ、和気清麻呂の故事でも知られる近畿大和朝廷とのただならぬ結び付きからか、敵とまでは言わないものの、むしろ九州王朝の対極(敵方)と考える向が少なからずあります。

当然ながら、九州王朝論に立場にある研究者の中にも宇佐神宮に古王権の痕跡を探った人を知りません。

無題.pngしかし、宇佐神宮という最低でも六世紀まではその存在が想像できる神社が仮に九州王朝の敵対物だったとした時、西日本全域から東日本までも版図を伸ばしていたとは全く想像できない事になるのです。つまり九州王朝論者の喉に刺さった棘なのです。  

当方も百嶋先生との接触によって、ようやく、七〇一年以前において宇佐神宮は九州王朝の神宮だったと考えるに至ったのでした。

勿論、通説に寄り添う方々はこぞって否定されるでしょうが、注意して考えれば宇佐神宮はその痕跡をなおも持ち続けているのです。

そもそも「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、八幡大菩薩(大帯姫)は善記元年に唐より日本に還ってきたというのです(これが宇佐神宮の九州年号なのです)。

まず、「善記」そのものも通説派が否定し続ける最初の九州年号なのであって、容易に九州王朝との関係を無視できるはずがない事は明らかでしょう。

そこまで考えるまでもなく、宇佐神宮の祭神については、古来、“主祭神は二の御殿の比売大神ではないか”とか、実は“卑弥呼である”といった多くの疑問が出され提案もされてきたのです。

ここではそのような他愛もない「邪馬台国論」の経緯にはふれず、簡単に九州王朝との関係を考えて見たいと思います。

まず、主神は一の御殿の凡牟都和気(応神天皇)、正面の二の御殿に比売大御神、右の三の御殿に神功皇后が配されていますが、当然にも重要なのは、やはり、中央の二の御殿の比売大神でしょう。

その証拠に、その正面には勅使門、申殿が置かれているのです。

しかし、宇佐宮が始めからそうであったというわけでもないのです。

顕現は古く、欽明天皇32年(571)といわれ、和銅五年(712)に官幣大社に班幣されたと伝承されているのです。

今の亀山の地での創建は神亀2年(725)であり、その時点では一の御殿の応神天皇が単独で祀られていたとされるのですが、何故か、直ぐ四年後には二の御殿の祭神、姫神、(比売大御神)が天平元年(729)に併祀され、さらに百年近く遅れて平安時代の弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られ現在の形が成立しているのです。

無論、根拠が僅かしかない私見ですが、数年で二殿、二神とされた経緯は何とも奇妙です。

本来、二の殿の比売大神が祀られていたものが、応神天皇にとって変わり祀られたものの収まらず(治まらず)、あわてて元の比売大神が呼び戻され合せ祀られたものに見えるのです。

では、比売大神とは何か。これが、全ての謎を解く鍵でしょう。

かつて、比売大神が女神を意味するお姫様の姫(媛)ではなく、「姫」姓を名乗る男神の姫氏であったと考えていた事がありました。九州王朝論者に限らず、古代史に精通した人ならば誰でも知っている「倭人は呉の太伯の末」という「後漢書」他の多くの中国側史書に記載された有名なフレーズが直ぐに浮び上がってくるのです。

無題.pngいわゆる邪馬台国論争はともかくも、北部九州が倭人の国であったことについては、畿内説論者でも無理に否定する人は少ないでしょう。

「呉」も、もちろん三国志の呉ではなく「臥薪嘗胆」の故事で知られる「呉越同舟」の呉ですが、その王は姓を「姫」と称していたのです。

だからこそ、その周王朝の末裔である姫氏=九州王朝の大王が祀られ、その裔たる天子が通るからこそ宇佐神宮の正面に呉橋(今は呉の工人が造ったとだけ説明される)が掛けられていたのではないかと考えていたのでした。

しかし、今はこの仮説を降ろし、百嶋由一郎氏が言われていた三女神を中心に考えています。

現在、宇佐神宮庁は二の御殿の比売大神を公式には宗像大社の三女神としているのですが、それは、一社三御殿制となって以降、比売大神の存在と神功皇后との座りの悪さによって生じた混乱を解消しようとされた上の事ではあるのでしょう。しかし、いつしか一社、三御殿、五神制という極めて変則的な形になった今の姿は、さらに一層混乱した姿に見えるのです。


高良大社に残る古文書「高良玉垂宮神秘書」
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宇佐神宮に於いても神功皇后が祀られるのは9世紀に入ってからであって、729年の段階では九州王朝は滅んだものの、その権威は残っており、最終的には749年に九州(従って列島)の宗廟を宇佐に譲る(奪われる)事になるのです(高良大社に残る古文書「高良玉垂宮神秘書」)。

 そこまでの背景を理解した上で、この八幡奈多宮を考えてみましょう。


伝承では宇佐神宮の別宮として、神亀6年(729年)に宇佐神宮大宮司であった宇佐公基により創建されたという。主祭神は比売大神、応神天皇、神功皇后。              (八幡奈多宮由緒)


今の亀山の地での創建は神亀2年(725)であり、その時点では一の御殿の応神天皇が単独で祀られていたとされるのですが、何故か、直ぐ四年後には二の御殿の祭神、姫神、(比売大御神)が天平元年(729)に併祀され、さらに百年近く遅れて平安時代の弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られ現在の形が成立しているのです。                          (宇佐神宮の経緯)


まず、八幡奈多宮は、宇佐神宮が応神単独から比売大御神を受入れた段階で成立していることが分かります。このことから八幡奈多宮とは比売大御神を奉斎する氏族によって創られた事が分かります。

 では、比売大御神を奉斎する氏族とは何でしょうか?

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それこそが宝物館奥に置かれた妙見宮を奉斎する氏族であり、ここに並べられた神々(妙見山山頂から降ろされたもので摂社扱いされていないようですが)こそが、元々、八幡奈多宮を支えた人々であった事が分かります。
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そこで、前掲の宇佐神宮発行の宇佐神宮神殿配置図(吹き出しは当方で書いたもの)をご覧下さい。

 北辰殿=妙見社(天御中主命)=博多の櫛田神社の大幡主の叔母が後見人として鎮座しているのがお分かり頂けると思います。

 宝物殿裏の北辰社=妙見社が外に出されたものと考える事は、一応は可能です。

神殿左の副殿が正面(海側)を向いている事から、普通に考えれば春日神社はないと見るべきで、外の妙見社は妙見山から降ろされたもので、同社の説明とは異なりますが、本当の妙見社とは神殿内に在るものかも知れません。

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八幡造りの中央神殿(一殿)の左に海を見た副殿、右から中央神殿を見た副殿が配置されていますが、宇佐神宮の神殿配置に酷似しています。

 ここで、宇佐神宮の一社三殿を一社一殿にして春日神社を外せば、八幡奈多宮の神殿配置と同一のものが出来上がります。

 このことが、春日神社が神殿内部に収められているのか?それとも本当にないのか?それは神殿内部を解析しなければ全く分かりません。

 一応、仮説を提出しておきます。

宗像の三女神(実際には市杵島姫=瀛津嶋姫だけかも知れませんが…)=比売大神の後見人としての妙見社奉斎氏族=紀氏=橘一族=忌部の象徴としての天御中主命が左の副殿に、応神天皇の母神とされた神功皇后の後見人としての九州王朝の大王=開化が右の副殿に祀られているのではないかと考えています。

 それは、中哀死後の神功皇后は開化の正妃となっており、その長男が仁徳(オオサザキ)だからです。

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由緒を見ると、社殿に於ける祭神の配置は一致しているものの、宇佐八幡宮では、一の御殿が応神天皇、

二の御殿の祭神が姫神、(比売大御神)、三の御殿が神功皇后として祀られている事から考えれば、八幡奈多宮は、主祭神を比売大神とする、より天御中主命〜大幡主〜市杵島姫に重心を移した白族(博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神)系の神社である事が見て取れるのです。

 また、「八幡奈多宮」との呼称そのものも、大幡主を祀る「正八幡宮」の痕跡を留めている様に見えるのです。

 正八幡宮は豊前、筑豊、筑後などにかなりの数認められます。簡単に言えば、八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の事なのです。

勿論、「大幡」(可能な限り絹で造られた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)を意味しているのです。


八幡船 ばはんせん


奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。


ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より


無題.png 何故、そこまで言えるのかとお考えの方も多いでしょうが、宝物殿手前に祀られた橘祖田道間守公由来を見て頂ければ、納得される方もおられる事と思います。

 この田道間守公こそ橘一族の祖であり、県の犬飼の橘美千代から始まる橘一族=紀氏=大幡主〜豊玉彦(ヤタガラス)の一族の起源なのです。

そして、「田道間」も「田島」であり宗像大社の鎮座地の大字田島なのです。

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橘とは「みかん」非時香菓=(ときじくのかぐのこのみ)であり、冬でも青々とした葉を付ける生命力あふれる木であり、垂仁天皇のころ不老不死を求めた天皇の命令により常世の国に往き持ち帰った「ときじくの実」と呼ばれ珍重されたのでした。

これが、後の県犬養美智代という美女が橘の姓を賜り橘美智代と名乗り、橘姓が一代で終わることを惜しみ、美奴王との間に生まれた葛城王で、弟の佐為王らとともに橘姓を継ぎ橘諸兄と名乗ったのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:59| Comment(0) | 日記