太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年07月09日

353 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”B

353 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”B

2017012620130725)再編集

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


再び川辺町へ(第2次川辺調査)


九月二十五日、前回の内倉武久氏(富田林市)に代り永井正範氏(たつの市)の随行を得て、薩摩に向かい、二十六日昼前には再び川辺町に入りました。

直ぐに高良酒造に向かいましたが、社長も覚えておられていたことから話も滑らかに進み、甕仕込みの倉まで見せて頂きました。

今回は奥様もお会いすることができ、いろいろな話が飛び出してきました。

正確を期すために今後の調査を待つとしても、一つだけおもしろい話を紹介させて頂きます。

無題.png奥様の話の中に「ひいおばあさんから聴いた話ですが、高良の家は今はコオラだけど、元々はきキだったと言っていました」というものがありました。急いで確認するために「紀貫之の紀ですか」と問い直したのですが、後で、「姫」かもしれないと思い、再確認すれば良かったと思いました。

詳しくは、再度、電話で確認することとして、そうなると家紋を確認したくなり、

お尋ねすると、「どうぞ御覧下さい」と応接間に案内されました。「橘」「葵」かなどと期待したのですが、そこにあったのは、丁子(ちょうじ)紋の一つでした。

 丁子紋を使うのは中央の有力氏族は三条西家だけだそうで、紀氏との関係を辿ることはできません。            丁子紋の三ツ星は剣の置き換えか


無題.png丁子はモルッカ諸島が原産の輸入植物で、日本でも古くから知られていた。正倉院御物の中にもある。中世の貴族はこの花のつぼみを干して香料にしていたようだ。また薬としても役立てていたともいう。(抱き丁子) 丁子は高貴薬で香料であることから、七宝のひとつになっている。これにちなみ紋章としても人気が出たようだ。

【主な使用家】 押小路、甲藤、新庄、松村、竹尾の藤原氏流の諸氏。源氏系では真崎、志村、幡野、石崎の諸氏。ほか菅原氏系の来栖氏、滋野氏系の望月氏などが使用している。

HP「家紋の由来」より

 今後、詳しく調べ報告できることもあるでしょう。

もちろん、期待はしていたのですが、紀氏とは正直言って面食らいました。

紀氏と言えば、岩清水八幡を奉祭する橘一族、曽我氏、田中、松永、松延、安富…といったものが、頭に浮かんでいますが、どうも繋がりが見つかりません。

薩摩半島にも岩清水八幡系の氏族もあることから今後の課題です。

前回、同行して頂いた内倉氏の著書に「謎の古代氏族紀氏」(三一書房)が急に信憑性を帯びてきました。

永井氏に飯倉神社を見せ、以前から多少存じ上げていた地元の郷土史家と言うよりも歴史家と言った方が正しい青屋正興氏(「南九州の地名」「薩摩史談」「川辺町風土記」・・・著書多数)を訪ねました。

初対面でしたが、手紙のやり取りはしていたため、既に、こちらの意向はお分かりで、川辺町の主なところをご案内いただきました。

まずは全体を把握するために、高台の運動公園に向かいました。天気も良く、眼下には大きな平野が広がっています。

この間の訪問以来考えていたのですが、川辺盆地は、太古、湖だった可能性を思わざるを得ませんでした。あまりにも標高差のない平地が広がっており、湖による水平堆積の結果できたのが川辺平野のように思えたのです。

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川辺盆地


そのことを青屋先生にお話しすると、先生もそうお考えだったようで、“今は出水一帯になりますが、古代には大口(現伊佐)と川辺が最大の穀倉だったようですね」とのことでした。

色々ご案内頂きましたが、今回の目的、飯倉神社以外の高良神社に向かいました。

 まず、両添地区の稲穂神社ですが、社殿、境内を見る限り、高良の神を感じさせるものは全くありません。

 神社を見慣れている人にはお分かり頂けると思いますが、概して、熊本から鹿児島に入ると、維新政府の影響が色濃く出ています。記紀に合わない祭神を隠し、入れ替え、合祀と称して消し去っていることが分ります。

このため、痕跡を探ることが難しいという印象は拭えません。高良八幡宮を併せたとする稲穂神社もその一例と言えそうです。

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竹屋神社

次に竹屋神社に向かいました。

ここも平野が広がる一帯ですが、麓川水系の飯倉神社と山一越えた大谷川流域の小丘の縁といった場所です。

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竹屋神社


ここも神社縁起もなく、社殿周辺を見ても何の痕跡もありません。

早々に切り上げ、金峰町の高良神社を見に行こうと思いましたが、青屋先生が直ぐ傍に宮司宅があるからと案内され、高良武蔵宮司のお話を聴くことができました。

高良宮司は、元は小学校の先生をされていた方で、昭和二年生まれで現在八十六歳とのことですが、まだ、記憶もしっかりしておられ、農作業もされていることから、頭も体も健康で貴重な話を聴くことができました。

早々に御自宅の離れに上がりこみ、宮司からお話を聴きかせ頂きました。

詳細はICレコーダーに収録していますので聴かれるとして、要約すると、


@  高良一族は和銅(708)年間に飯倉神社の社家と竹屋神社の社家に分れた。

A 両添えの稲穂神社の場所に高良一族の大きな屋敷があった。

B 飯倉神社、竹屋神社ともに玉垂命を祀っている(いた)。

C 竹屋神社から南に五キロほどの高原谷(こおらだに)に高良一族の墓がある。

D 屋敷神の祭神も玉垂命である。


と、いった驚くべきものでしたが、高良の一族が、そのまま高良玉垂命の直接的な後裔であるのか(玉垂命は先祖なのか?)、単に臣下として奉祭していただけなのかはこれからです。

しかも、記憶を留めている人々が高齢化していることから急ぐ必要があります。

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竹屋神社社家の屋敷神


 神社庁の資料によれば、竹屋神社の祭神には高良玉垂命の名は出てきません。今のところ宮司の口伝だけですが、もしかしたら、江戸期までは自由であったため竹屋神社に公然と祀られていたものが、明治期に屋敷神として匿まわれたものかも知れません。全てはこれからです。

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戦後の祭神調査に基づくものです

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竹屋神社の縁起には高良玉垂命の名は出てきません。今のところ宮司の口伝だけが頼りです。

祭神は慎重に外されていると考えるのが正しいようです。この若宮が仁徳か応神天皇かも気になります。多分、仁徳と思うのですが、和銅年間に王子大明神と社名を替えるとありますので王子の意味からして若宮八幡こそが高良玉垂命の直系かも知れません(「高良玉垂宮神秘書」と繋がりそうです)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:51| Comment(0) | 日記