太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年07月01日

350 和風諡号から考えてみた 

350 和風諡号から考えてみた 

 20170117

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久 


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)      阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)   大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)    阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)    九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスマラミコト)   黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)     宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)           素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)        九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)           宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)           九州王朝正統皇統


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もあり、なお、検討中です)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。

 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:59| Comment(0) | 日記

2017年07月02日

ビアヘロ番外 伊藤正子講演会においでになりませんか

ビアヘロ番外 伊藤正子講演会においでになりませんか

20170619

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 地名研究会の十年に近い活動の中で、私の目から見て本当の研究者、探究者と言える人に出会ったのは十人に満たないほどですが、その中でも最も特筆すべき本物の研究者と言えるのがこの伊藤正子女史です。

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伊藤まさ子著「太宰府・宝満・沖ノ島」 (不知火書房 п@092-781-6962 まで)

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伊藤女史のblog(検索を試みて下さい)


 無題.png今夏、民間研究者中の研究者である伊藤正子女史による講演があいつで行われます。

 7月の講演に参加できない場合は、盆明けの和水町の講演(こちらの方が安くて長時間の講演になりお得かも知れません)を聴くことができます。本blogの読者の皆さんもぜひお聴き頂きたいと思います。


@  78() 13時〜1430分   

会場:久留米大学 御井キャンパス500号館51A教室

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」

 伊藤正子(太宰府地名研究会)



A  820日(日)13:30〜         会場:和水町中央公民館 (0968-86-2022

             菊水インターから南へ3` 車で3

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」 伊藤正子(太宰府地名研究会)

参加費200円(資料代)菊水インターから南へ車で3分

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これは伊藤女史の講演用のパワー・ポイントの一部です。

 宗像大社と言えば、宗像三女神を祀る神社として知らぬ人のない神社ですが、百嶋神社考古学では本来の祭神は大国主命であるとします。

この歌には8世紀初頭まで宗像大社の祭神はオオナムチ、スクナヒコナであった事が書き留められているのです。

 この歌の存在を教えて頂いたのもこの伊藤女史なのです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:54| Comment(0) | 日記

2017年07月05日

351 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”@

351 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”@

2017012620130725)再編集

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

九州王朝論者の内部では、以前から、八世紀初頭、鹿児島県(薩摩、大隅、日向の一部)の一帯に最末期の九州王朝系勢力が避退(あるいは敗残)し、新興の大和朝廷に抵抗したのではないかと推測されていました。

加世田を中心とする南さつま市の東隣に、北から頴娃、知覧、川辺の三町で形成された南九州市は、中でも最も可能性が高い一帯かもしれません。

主要には「続日本紀」の“衣評督等反抗”の記事によるものですが、この一翼をになったのではないかと思われる氏族と遭遇したのではないか考えています。  高良一族が宮司を務めた川辺町宮の飯倉神社

資料の一つとして「最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析」古賀達也(古田史学の会)後段に添付していますので参照して下さい。

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南さつま市 飯倉神社


内倉武久氏(元朝日新聞考古学担当記者)が熊襲の軍馬と想定されている在来馬(現在、開聞岳の麓で50頭ほどが岩崎グループにより育成されている)との同行取材の帰路、頴娃町から川辺町に抜けたところ、同地に高良酒造なるものがあることに気付きました。


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写真は鹿児島県旧川辺町(現南九州市)の高良醸造所による甕つくり焼酎「八幡」。[蔵元] 高良酒造 [蔵元住所] 鹿児島県川辺郡川辺町宮 [焼酎の種類] 芋焼酎 [原材料] さつま芋(黄金千貫)・米麹  [] 白麹  [蒸留方法] 常圧蒸留 [アルコール度数] 25 [容量] 1,800ml[購入価格] 1,850

旧川辺町は薩摩半島南部の中ほどにありますが、その宮地区にこの高良酒造(0993-56-0181があります。

こういう次第で、同社の存在に気付いたのはつい最近のことでしたが、この焼酎メーカーの一族が九州王朝と関係があるのではないかと思い始めたのは、その経営者の姓が「高良」である上に、隣の南さつま市まで広がる南薩のかなり広いエリアの中心的な神社であった飯倉神社の重要な社家であると知ってからでした。

HP「姓名分布&姓名ランキング」によれば、現在、全国に1649件の「高良」姓があり、沖縄に最多の1158、福岡に125件、大阪に60件、鹿児島に58(以下略)が確認できますが、鹿児島の「高良」姓が最も集中するのが南九州市の一帯であり、これが、高良大社と無関係とは考えにくいように思います。

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また、同市教育委員会に聴くと周辺にも高良神社がある(過去存在した記録が在る)と聴きました。   

一方、隣接する南さつま市にも「高良」地名、高良神社が確認できます(県神社庁)。

 飯倉神社とその周辺を調べ始めただけの段階であり軽々には言えませんが、祭神や古資料を見る限り、鹿児島県に特有の大宮姫伝承(「開聞故事縁起」他に残る、天智天皇の皇后が志賀の都から戻り、後に追ってきた天智天皇と添い遂げた…)との対応が見て取れ、直ぐに「続日本紀」に登場する衣(頴娃)評督、隼人の反抗、七二〇/養老四年、九州南部の隼人が大和の王権に対して起こした反乱で一年半に及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し九州南部における支配が確立したとするもの)が頭に浮かびました。

一方、九州王朝論者の一部には“最末期の九州王朝は奄美大島沖の喜界ケ島に亡命した”との説もあり、沖縄の高良(こちらはタカラと呼ばれます)姓も、薩摩から沖縄へと亡命し、九州王朝の大和王権徹底抗戦派の末裔の可能性があるのかも知れません。

大阪の高良姓も「タカラ」と呼ばれているのですが、今のところ、沖縄からの本土移住者と考えています。これらのことから、これ以降、南薩からは眼が放せなくなりました。 

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南九州市川辺町(市の中心は旧知覧町に置かれた)


ともあれ、内倉氏と高良酒造に向かいました。高良酒造の社長にお会いし、久留米の高良大社との関係をお尋ねすると、直ちに「毎年奉納させていただいています…」とのお答えを頂き、一族が、古来、高良玉垂宮を奉祭し続けている可能性があると理解しました。

また、元々の社家ではないものの、本来の社家が途絶えたため江戸期から代々飯倉神社の宮司を務めていたともお聴きしました。

話もそこ、そこに、すぐそばにある飯倉神社に向かうと、当日はたまたま御田植神事の大祭(高良大社では最近行われなくなっている)とかで、既に氏子以外の人々も集まり始めていました。


『川辺町郷土史追録』には飯倉神社縁起と異なる別の祭神が


まず縁起を見ると、八世紀初頭、和銅年間に遡る古社であり、同時に川辺の一の宮であったとされ、一社、三殿の正殿には玉依姫が、東殿には大綿津見神。西殿には食飯魂命が祭られているとしています。

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 まずは、無難に見えますが、直ぐに本来の祭神は食飯魂命ではなかったかと感じました。薩摩のこと、神代史の神武(カムヤマトイワレヒコ)に絡む豊玉姫、玉依姫は出来過ぎの感があり、祭りの準備でごったがえす中、社務所に上り込み、とりあえず、実質的な川辺町誌の感がある、『川辺町郷土史追録』(平成九年)を読ませて頂きました。

詳しくは『川辺町郷土史』追録を読まれるものとして、少なくとも現在の縁起に対し主祭神の天智天皇の妃と東殿の祭神の天智天皇とは明らかに異っています。

一般的には武家政権と結びついた仏教勢力を排除し、「疑似」的親政による神道の重用という明治維新以来の政策により祭神に変更が生じたものとの推定が可能ですが、まずは、壬申大乱からみの天智天皇云々が憚られ慎重に排除されたものと考えられそうです。

いずれにせよ、変更が生じていない食稲魂命については八世紀以前に遡る本来の神霊である可能性はありそうです。

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飯倉神社については『川辺町郷土史』追録 神社史以外にも、江戸期に成立した『川邊名勝誌』大正写本(活字版)があり、この調査研究編には高良八幡宮が出てきます。

これは前掲地図の宮地区の東の両添地区にあったらしく、「…両添の川崎橋の南、大薗地区の北側にある畑地がその跡である。相当大きな神社だったらしく、両添の川に添った地区を宮下村と言ったのはこの神社と関係があるものと思われる。…」明治四十二年に同地区の稲穂神社に合祀されています。

また、合祀を受け入れた側の稲穂大明神についても、「両添山添にあり、祭神は武内宿祢と大年神とされ、神体は石である。『上古両添柏木門先祖が因幡国より小石を持ち帰り因幡と名付おきたるに後に後稲穂と誤唱せり』と伝えられている。…中略…明治四十二年(一九〇九)に高良八幡宮を併せた。」とあります。


「明治維新以来の政策により祭神に変更が生じたものとの推定が可能ですが、…」と前述しましたが、「南九州の地名」(南方新社)「川辺町風土記」などを書かれた青屋昌興氏が川辺町在住であったことを思い出し再読しましたが、「南九州の地名」6 明治維新の傷痕として、この点についても、当然にも飯倉神社についても書いておられました。


現在の神道ということで言えば、明治維新、一部の国学者の唱える国家神道なるものを背景にした神仏分離令による廃仏毀釈や神社の合祀あるいは主神の入れ替え等が半ば強制的に行われ、日本本来の神道の姿がかなり歪められている。

例えば、開聞にある鹿児島県の一の宮とも言われている枚聞神社は昔、和多都美神社と言われていたとされ、主神は豊玉姫、玉依姫の父君である豊玉彦(オオワタツミ)であった。二人の娘たちとともに祀られていた筈である。ところが明治維新時、オオヒルメムチノミコト(天照大神のこと)に替えられている。川辺宮の飯倉神社は枚聞神社の分社(末社)だとされている。飯倉神社には玉依姫、豊玉彦が祀られている。

このことから、枚聞神社、飯倉神社は海人の神社であることが分かる。ということは枚聞神社には豊玉姫、玉依姫の神話に結びつく何らかの古文書が存在した可能性がある。ところが、現在はそういう古文書の類は残されていない。…


現在の神社庁官僚によるものも含め「祭神入れ替え」については、青屋氏の言われるとおりかと考えますが、もちろん、当方の問題意識は大宮姫伝説にあることは言うまでもありません。祭神2 馬の利用と玉依姫神話においても以下のように書かれています。


川辺でも玉依姫が開聞から馬に乗って来られて、川辺の宮で馬を下りられたという、いわれのある土地がある。そこは、今でも「下馬(ゲバ)」と呼ばれており、飯倉神社の近くにある。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:22| Comment(0) | 日記