太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年05月22日

338 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 H 

338 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 H 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161213

太宰府地名研究会 古川 清久


憧れの東金砂、西金砂神社と書きましたが、正直な気持ちです。

 今回、「常陸国探検隊」氏ご一行の案内により西金砂神社だけに訪問しました。

いずれ東金砂神社にも参拝する事にもなるでしょう。

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憧れと書いたのは神武天皇御巡幸に伴うバンブー・ボートによる上陸…のイメージだったのですが、祭神を見る限り、大国主命、少彦名命、国常立命(草部吉見)…でしかありません(これ自体がおかしいという意味ではないのですが)。

金砂となると、金鑚大神、金山彦となり、その痕跡を探しても一向に読み取れない…、このため、立派な山上神社であるにもかかわらず、何か掴みどころがなく、実のところ山登りをしただけで終わってしまったのでした。

通常、「金砂」とは砂金のイメージであり、それだけで有難い神社なのですが、難解この上ない神社と言った印象でした。

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これがバンブー・ボートの痕跡なのかも知れません


金海伽耶から、そして、新羅のほうのイザナギ、スサノオの勢力戦いがあった。その中の一つ、スサノオのミコトと大国主のミコトが大喧嘩して、スサノオのほうが少し年上ですが、負けたのはスサノオのほうでした。その場所は一番の激戦地は播磨の国、現在の兵庫県の瀬戸内海のほうです。負けたのは新羅のほうで、金官伽耶のほうが勝ちました。この時の金官伽耶の日本における大親分である金越智は、現在の群馬県の国定忠治の赤城神社にも祀られて大変な勢いだったのですが、その落ちぶれぶりを見る前に、この人が日本の神社に祀られていたことを証明する歌を源実朝が残していてくれています『上野の勢田の赤城の韓社、大和にいかで跡をたれなむ』、朝鮮の王様が何で日本に神社としてのこっているのか、実朝さんはびっくりして歌を残しているんです。それくらい、中国大陸、朝鮮半島、日本との関係は入り混じって深い関係を持っていたという例の一つです。

イズミの話はしました。もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。この一団が何艘の船を従えたかは知りませんが、大きな船が小さな船を積んで東に遷ったんです。今、船と申しましたが、船の話、これは上陸用舟艇です。何十人かが乗る船で沿岸航路を通り、余り、離れないところを通っていきます。ところが上陸はできません。上陸はどのようにするかというと目無籠、小さな船、これをベトナムではバンブーボートといって、竹で作っています。そして牛の糞と土を混ぜて、竹の網目から水が漏れないようにしてつくります。これに56人乗れます。大きな船には必ずこの目無籠が何艘か積んであった。軽いです、竹製です。これが現在、茨城県の金砂神社で、72年に1度だけ祭礼をする金砂神社に残っています。これはベトナムの遺産です。従って、豊玉彦の先祖達は雲南から渡ってくるときに、雲南にいたときはやっぱり王様だったんですよ、王様の一族が海南島を経由して、琉球列島を経由して、琉球列島の中には台湾も含みます。台湾も琉球ですから、琉球のうちの宝島が現在では台湾と呼ばれています。日本の鹿児島の薩南諸島を通って、そして日本の各地に上陸する。一番多くの人が上陸した場所が、天草下島の北の端、苓北町です。天草の苓北町だけは天草市にならずに単独でがんばっています。それだけここは格式の高いところです。誰がここを治めていたかというと春日大神のはくおじ(伯父さん)さん、カムハエミミのみこと、この方がこの地区を治めていらっしゃいました。現在もその名残がたくさん残っています。上陸したのは黎(レイ)人です。この方達をもっと専門的に言うと、この黎(レイ)というのは、約4700数十年前に中国で三つ巴の戦いが展開されました。ヘブライ人、ヘブライ人、中華民族人、三つ巴の戦いです。結論勝利したのは中華民族の祖先、さっきの泰伯王の先祖です。こういう長い歴史を持ってるのが黎族です。この黎族が何千年の間に何々族、何々族と名のって、さっき面白い映画を作って忠臣蔵をやっているというのが苗族を名乗っているといいましたね。そして熊本の現在の新幹線新玉名駅のどまん前の玉名では、『ツージャ(チャ)ーツゥ:』、玉野の新幹線の駅前は『どしゃの里』と昔は言っていました。ここに天照皇大神宮(玉名大神宮)があるのです。ご祭神はアマテラス、その家来としてさっきお見せした鹿嶋大神がおられます。これは月とすっぽんです。アマテラスは大元帥です。片方の春日の大神は家来です。

神社伝承から見る古代史百嶋由一郎先生の世界

               --- もう一つの神々の系譜 ---            による


「常陸国ふしぎ探検隊」氏の一文をお読み頂きましょう。

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今回の探検は常陸太田市に鎮座する東・西金砂神社です。

百嶋先生をして何が祀られているのか全く分からないと言わしめた神社です。

山田川の谷をはさんで、東金砂神社は旧水府村天下野(けがの)に、西金砂神社は旧金砂郷町上宮河

内にあります。

次は西金砂神社です。以前は単に金砂神社と呼ばれていたようですが、1700年(光圀の時代)に

西金砂神社と呼ぶようになったと伝えられています。おそらくこの時に、東金砂神社がつくられたので

しょう。

<常陸太田市のHPより引用>

祭神は大己貴命と国常立命と少彦名命。大同元806)年に天台僧の宝珠上人が,社殿を造り祭壇を

設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりとされています。

創建当時は,比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設け,千手観音を諸沢村堂平に,鐘楼と

経堂を赤土村太平山に建てたほか,中染村羅漢沢に十六羅漢を祀りました。


じつは鷲子山上神社もこの宝珠上人が勧請しています。こちらの創建は大同2年です。また、宝珠上人

が土地の人(栃木県旧馬頭町)になっています。常陸太田市寿町にある金砂神社では、宝珠上人は横

川(どこの?おそらく旧里美村の横川鉱泉)の人になっていて、祭神はオオナムチと猿田彦になってい

ます。

大同元年、2年創建の神社は全国的に多いようで、当時の朝廷から何らかの指示があったものと考え

られます。少なくとも最澄が帰国したのは805年ですから、806年に天台僧の宝珠上人が創建できる

はずはありません。

最澄にしろ空海にしろ一年足らずで留学から帰国したのですから、何をどれだけ学んできたのか自体

が疑問ですけど。なにしろ天才的な二人ですから、学ぶことはなかったのかもしれません。しかし経典

だけはしっかり持ち帰ったのでしょう。

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北関東調査の記念にと頂いた西金砂神社のお札


埼玉の金鑚神社も、天照、スサノウとなっており金山彦は祀られていません。

結局、この西金砂神社の実体は良く把かめなかったのですが、慌てる必要もないでしょう。

何故か写真を撮っていませんでしたが、この山上神殿からの眺めは感動的ですらありました。

また、参拝する機会もあるでしょう。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記