太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年05月09日

334 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @

334 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @


ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161201

太宰府地名研究会 古川 清久


ようやく地名研究会の雑事から解放され、懸案だった北関東から東北を見据えた神社調査に乗り出しました。

既に昨年暮れに山形の南まで入っていますが、今回は上越から長野に入り、松本から茨城を目指すと言うハードなルートを採用しました。

その辺りの話は飛ばしますが、今回拠点としたのは、blogをリンクしている「常陸国探検隊」「宮古の縁側日記」の研究者のご自宅でした。そこを根城に行なった、同行、独行の78日間の神社調査の一端のご紹介になります。

ただし、神社専門チャンネルの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)で取り上げない、分かりやすい軽い話を「ひぼろぎ逍遥」で扱う事にしています。

北関東も重要な神社が目白押しの状態ですので、詳しくは「常陸国探検隊」外にお任せするとして、当方の初見でも直ぐに判別の付くテーマについて取り上げて行きます。

栃木県大田原市に扇の的で有名な那須与一が太刀を奉納したとされる那須神社があります。

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古「風土記」が九州、出雲、播磨と奇妙な分布を示している事は皆さん良くご存じだと思います。

そもそも、彼らが考える田舎にだけ古「風土記」が成立しており、中央と思い込んでいる奈良にも京都にも大阪(兵庫の一部=播磨はありますが)にも何もないにもかかわらず…なのですが、そんなことは一切問題とされてもいないのです。

まあ、そんな悪口はやめておきますが、まず、古「風土記」がこのような範囲で成立している事に興味を注がない手はないはずなのです。


風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

… 中略 …

写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。

ウイキペディア 20161110 18:50 による


 無関係と思われるような「風土記」の話を入れましたが、何故、このように偏在しているかと言うと、やはり、九州からの飛び地として開拓、植民が行われた結果ではないかと思っています。

 当然にも、土着の神ではなく、九州の神様が鎮座していなければならない事になるのですが、これが今回の底流を流れる隠れたテーマでもあるのです。では、那須神社の縁起をご覧ください。

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那須神社御由緒


このブログをお読みの方で、応神天皇や別雷命が近畿大和の人だなどと思っておられる方はいないと思いますが、応神天皇(誉田別命)は宇佐の東の鷹居宮に居たのですし、別雷命(実は贈崇神天皇)も本拠地は移動していますが、福岡県那珂川町(もうすぐ那珂川市に昇格しますが)に居たのです。

これらについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 091 宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”〜115 015 天御中主神社が福岡県那珂川町片縄に現存する をお読みください。

勿論、“誉田別命は藤原が格上げしたのであって本当の天皇ではない。

別王であって、だから別がついている”“崇神も贈崇神であり、藤原系の出自に関わり、後に格上げされたもの”とは例によって百嶋由一郎氏の弁でした。

 ただ、贈)崇神天皇を奉祭する一族がこの地に進出している事は確実で、その証拠に、大田原市の南に栃木県那珂川町があることでもお分かり頂けるでしょう(冒頭の地図を参照の事)。

 では、御由緒の神様をもう一度ご覧ください。

 オオナムチ(決して現出雲の神様ではなく隠された福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の本当の御祭神です)、スクナヒコナ(これも現出雲の神様などではなく福岡県春日市の須久岡本遺跡周辺におられた大国主の遊び仲間です。

これについては、大国主は九州で生まれた ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”他をお読みください)は良いとして、倉稲魂命が分かり難いかも知れませんが伊勢神宮外宮の豊受大神とお考えください。

 当然ながら、これも福岡県田川郡香春町の香春神社の主神 辛國息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)であり伏見稲荷様であり、猿田彦=山幸彦のお妃=アメノウヅメの命なのです。

 スサノウはどなたもご存じでしょうが、誓約と称する妙な言葉で有名ですが、天照と子の産み比べをして宗像三女神を産んだ事になっているだけでも九州の神様であることは一目でしょう。

 火産霊神は金山彦の事です。

スサノウのお妃となるクシナダヒメや神武僭称贈)崇神ではない本物の神武天皇の本当物のお妃であるアイラツヒメの父神であり、その出生地は熊本県山鹿市の中心部である事を講演していますが、いずれ、公表する予定です。

 武甕槌命は実は、阿蘇高森の草部吉見神であり、表向き春日大神であることは何度も書いていますのでご存じでしょうが、ひぼろぎ逍遥 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那 以下二十数本をお読み頂かなければなりません。

いずれにせよ雲南省から列島に移動して来た黎族の首領で阿蘇に拠点を築いた神様です。

 分かり難いのが、高龗神 (タカオカミ)だろうと思いますが、これも、百嶋「蘇民漿来、巨胆漿来」神代系譜に依れば、阿蘇神社の一番奥に祀られている金凝彦=神沼河耳であり、スサノウ説話の「巨胆漿来」にあたります。

 以上、同社の配神を全てご紹介しましたが、九州ご出身の神様ばかりです。

 では、境内社を考えて見ましょう。

驚くことに、高良神社が持ち込まれていました。これが、後世の持ち込みによるものであるか、元々あったものを境内社として残したものかの判別は今のところ付きません。

 しかし、福岡県久留米市の高良大社の主神である高良玉垂命を祀るものであることは疑いようがありません。

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高良神社と明示されていたものを撮影したつもりでしたが写真が見つかりません


宗像神社は良いとして神明宮です。これは、「常陸国探検隊」によれば、北関東一帯では天照大御神の事だそうですのでそれで良いでしょう(こちらも福岡県の糸島市から福岡市に掛けておられた事は確実です)。

 話は変わりますが、船上から那須の与一に扇を射よと差し出したという平家の女官玉虫御膳は熊本県御船町の出身のようで、現地には玉虫という地名もあり尼となって平家の菩提を弔ったとされています。

 では、祭神に話を戻します。

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神明宮


愛宕神社は火の神様で、金山彦、秋葉様。「古事記」では、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ 加具土命)と、また、「日本書紀」では、軻遇突智(カグツチ)などとされる神様ですが、配神に上げられている火産霊神は金山彦の事であり、重複が認められます。

日本武神社は、勿論、ヤマトタケルですが、その本拠地は、佐賀県の神埼市か熊本県の山鹿市か悩んでいるところです。

 以上、全て九州から持ち込まれた神様であり、一定の征服、被征服は「常陸国風土記」を読むまでもなく明らかですが、最低でも、これらの神々を奉斎する氏族、民族が進出してきた事が確認できるのです。

 それは、ここでは触れませんが、地名や伝承や風習や言葉に、なお。その痕跡を感じる事しきりでした。

 では、最期に、この神社を奉斎した一族とはどのような人々だったのかという問題です。

 勿論、入れ替わりはあるはずでしょうし、一概には言えませんが、この祭神、配神を見る限りは、阿蘇系、スサノウ系と一応はバランスが取れており判然としません。

 しかし、神殿横に打たれたオモダカの家紋を見る限り、ここには祇園神社、八坂神社などの宮司家に繋がる一族が支配的だったのではないかと思うものです。

 八幡神の持ち込みは、鎌倉以降の武家政権の強制と見れば理解できるのではないでしょうか?

 特徴的な事は、猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ系の祭神が見えなかったことぐらいです。

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 神殿の横にはオモダカ紋(スサノウ系宮司家が多用する)があり、その上には高良玉垂命個人の神紋である五七桐紋が打たれていました。

 してみると、九州王朝の時代に進出した高良玉垂命を奉斎する集団の神社であった可能性も捨て切れません。

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八幡宮の八な鳥文字が使われていますが、石清水八幡系橘一族を意識せざるを得ません。

いつも参考にさせて頂いている、「紀氏のルーツ」によれば、

那須塩原市 から、那須郡一帯、古代:那須国 国造:大臣命(八井耳の弟:建沼河命の孫)神祝系

景行天皇時代とされ、那須郡については以下のように書かれています。


  − 荘園 −

@  1221「那須庄」

       ・郡名:那須郡 那須町

       ・領家:宣陽門院領・皇室領

       ・史料村郷名:横岡郷・上庄・下庄・小川郷・梅薗・長倉

              温泉八幡・伊王野郷・日溝・福原・境

       ・明治村字:湯津上

        ※出典:島田文書・結城古文書・金剛院文書・那須文書

        ※1552-8-15 実済「温泉八幡」

                             (那須高原地帯、つつじの名所)         

太田原市

     @「実相寺」曹洞宗

        ・創建:佐久山の城主福原氏の娘が尼寺を建てたのが始まり

        ・福原氏の菩提寺

        ・赤穂浪士の大高源五の墓あり

        ・住所:太田原市佐久山2243


九州王朝下に於いて、四道将軍として送り込まれた贈)崇神の一族による開拓との評価は一応可能ではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記