太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年05月21日

337 朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 

337 朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161212

太宰府地名研究会 古川 清久


大分自動車道の杷木ICから東に10分ほどのところにある山奥の小集落におしろい祭で知られる大山祗神社があります。

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しとぎを顔に塗り豊作を願うと言う風習、もっと言えば、奇習、奇祭といった面だけを町興し宜しく宣伝されてはいますが、これについてはそれだけでは済ませられない列島神(古)代史の重要な側面が表に出ているものと理解しています。

 この内容は、千数百年の長きに亘ってひた隠しにされていた可能性があり、一度に、説明したとしても凡そ理解して頂けないと考えています。

 ただ、後世にこの重要な側面を伝え残すためにもそろそろ重い腰を上げなければならないと考えているのですが、まずは、表層の解説からご覧いただきましょう。


おしろい祭り

  日時:122日  1400

昔からの「伝説」によると、大山祗神社を「山の神」と呼び、山の神は元来「女の神様」といわれています。その「女の神様」がお化粧をする事を意味し、「おしろいをぬる」といわれています。

このおしろいは、新米(初穂)を粉にして水でといて(しとぎ)顔にぬるもので、昔の農家の人が、氏子の繁栄と新穀の豊作を神に感謝し、来年の五穀豊穣を祈願する、全国でも類のない奇習とされています。

おしろいの顔の付き具合で来年の「作柄」を占い、このおしろいは家に帰るまで顔を洗ったり落としてはならず、火の中に入れると火事になり、帰って牛馬の飼料に混ぜて飲ませると無病息災だといいます。

当日は午後2時頃から宮座が始まり、宮司のお払いがあり、祝詞が奏上されます。拝殿で氏子全部が宮座の膳につき、座元の人達は大きな鉢にしとぎを持ち出して宮司の顔から塗り始めます。

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による

 問い合わせ先:道の駅「原鶴」インフォメーションセンター

       電話:0946-62-0730

       住所:朝倉市杷木大山

       地図:http://goo.gl/maps/pb0kT

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現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちにとって、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこの神社に関係しているのです。

(音声CDが必要な方は09062983254まで)。


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。


中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 


肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(一部には「講」を作り、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、“うさぎ”などがシンボルになっています。

一方、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。

 さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいますので、若干のコメントを加えておきます。

 古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。

 百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

 つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑などと入れ替わった人々のことなのです。

 つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。

そこまでの事を理解して頂いたうえで、この月を愛でうさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が今回のテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。

 あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

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必要とされる方は直接09062983254までご連絡ください。

 以降は随時続編で書くとして、ここでは、大山祇神社をご覧いただきます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:40| Comment(0) | 日記

2017年05月22日

338 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 H 

338 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 H 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161213

太宰府地名研究会 古川 清久


憧れの東金砂、西金砂神社と書きましたが、正直な気持ちです。

 今回、「常陸国探検隊」氏ご一行の案内により西金砂神社だけに訪問しました。

いずれ東金砂神社にも参拝する事にもなるでしょう。

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憧れと書いたのは神武天皇御巡幸に伴うバンブー・ボートによる上陸…のイメージだったのですが、祭神を見る限り、大国主命、少彦名命、国常立命(草部吉見)…でしかありません(これ自体がおかしいという意味ではないのですが)。

金砂となると、金鑚大神、金山彦となり、その痕跡を探しても一向に読み取れない…、このため、立派な山上神社であるにもかかわらず、何か掴みどころがなく、実のところ山登りをしただけで終わってしまったのでした。

通常、「金砂」とは砂金のイメージであり、それだけで有難い神社なのですが、難解この上ない神社と言った印象でした。

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これがバンブー・ボートの痕跡なのかも知れません


金海伽耶から、そして、新羅のほうのイザナギ、スサノオの勢力戦いがあった。その中の一つ、スサノオのミコトと大国主のミコトが大喧嘩して、スサノオのほうが少し年上ですが、負けたのはスサノオのほうでした。その場所は一番の激戦地は播磨の国、現在の兵庫県の瀬戸内海のほうです。負けたのは新羅のほうで、金官伽耶のほうが勝ちました。この時の金官伽耶の日本における大親分である金越智は、現在の群馬県の国定忠治の赤城神社にも祀られて大変な勢いだったのですが、その落ちぶれぶりを見る前に、この人が日本の神社に祀られていたことを証明する歌を源実朝が残していてくれています『上野の勢田の赤城の韓社、大和にいかで跡をたれなむ』、朝鮮の王様が何で日本に神社としてのこっているのか、実朝さんはびっくりして歌を残しているんです。それくらい、中国大陸、朝鮮半島、日本との関係は入り混じって深い関係を持っていたという例の一つです。

イズミの話はしました。もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。この一団が何艘の船を従えたかは知りませんが、大きな船が小さな船を積んで東に遷ったんです。今、船と申しましたが、船の話、これは上陸用舟艇です。何十人かが乗る船で沿岸航路を通り、余り、離れないところを通っていきます。ところが上陸はできません。上陸はどのようにするかというと目無籠、小さな船、これをベトナムではバンブーボートといって、竹で作っています。そして牛の糞と土を混ぜて、竹の網目から水が漏れないようにしてつくります。これに56人乗れます。大きな船には必ずこの目無籠が何艘か積んであった。軽いです、竹製です。これが現在、茨城県の金砂神社で、72年に1度だけ祭礼をする金砂神社に残っています。これはベトナムの遺産です。従って、豊玉彦の先祖達は雲南から渡ってくるときに、雲南にいたときはやっぱり王様だったんですよ、王様の一族が海南島を経由して、琉球列島を経由して、琉球列島の中には台湾も含みます。台湾も琉球ですから、琉球のうちの宝島が現在では台湾と呼ばれています。日本の鹿児島の薩南諸島を通って、そして日本の各地に上陸する。一番多くの人が上陸した場所が、天草下島の北の端、苓北町です。天草の苓北町だけは天草市にならずに単独でがんばっています。それだけここは格式の高いところです。誰がここを治めていたかというと春日大神のはくおじ(伯父さん)さん、カムハエミミのみこと、この方がこの地区を治めていらっしゃいました。現在もその名残がたくさん残っています。上陸したのは黎(レイ)人です。この方達をもっと専門的に言うと、この黎(レイ)というのは、約4700数十年前に中国で三つ巴の戦いが展開されました。ヘブライ人、ヘブライ人、中華民族人、三つ巴の戦いです。結論勝利したのは中華民族の祖先、さっきの泰伯王の先祖です。こういう長い歴史を持ってるのが黎族です。この黎族が何千年の間に何々族、何々族と名のって、さっき面白い映画を作って忠臣蔵をやっているというのが苗族を名乗っているといいましたね。そして熊本の現在の新幹線新玉名駅のどまん前の玉名では、『ツージャ(チャ)ーツゥ:』、玉野の新幹線の駅前は『どしゃの里』と昔は言っていました。ここに天照皇大神宮(玉名大神宮)があるのです。ご祭神はアマテラス、その家来としてさっきお見せした鹿嶋大神がおられます。これは月とすっぽんです。アマテラスは大元帥です。片方の春日の大神は家来です。

神社伝承から見る古代史百嶋由一郎先生の世界

               --- もう一つの神々の系譜 ---            による


「常陸国ふしぎ探検隊」氏の一文をお読み頂きましょう。

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今回の探検は常陸太田市に鎮座する東・西金砂神社です。

百嶋先生をして何が祀られているのか全く分からないと言わしめた神社です。

山田川の谷をはさんで、東金砂神社は旧水府村天下野(けがの)に、西金砂神社は旧金砂郷町上宮河

内にあります。

次は西金砂神社です。以前は単に金砂神社と呼ばれていたようですが、1700年(光圀の時代)に

西金砂神社と呼ぶようになったと伝えられています。おそらくこの時に、東金砂神社がつくられたので

しょう。

<常陸太田市のHPより引用>

祭神は大己貴命と国常立命と少彦名命。大同元806)年に天台僧の宝珠上人が,社殿を造り祭壇を

設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりとされています。

創建当時は,比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設け,千手観音を諸沢村堂平に,鐘楼と

経堂を赤土村太平山に建てたほか,中染村羅漢沢に十六羅漢を祀りました。


じつは鷲子山上神社もこの宝珠上人が勧請しています。こちらの創建は大同2年です。また、宝珠上人

が土地の人(栃木県旧馬頭町)になっています。常陸太田市寿町にある金砂神社では、宝珠上人は横

川(どこの?おそらく旧里美村の横川鉱泉)の人になっていて、祭神はオオナムチと猿田彦になってい

ます。

大同元年、2年創建の神社は全国的に多いようで、当時の朝廷から何らかの指示があったものと考え

られます。少なくとも最澄が帰国したのは805年ですから、806年に天台僧の宝珠上人が創建できる

はずはありません。

最澄にしろ空海にしろ一年足らずで留学から帰国したのですから、何をどれだけ学んできたのか自体

が疑問ですけど。なにしろ天才的な二人ですから、学ぶことはなかったのかもしれません。しかし経典

だけはしっかり持ち帰ったのでしょう。

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北関東調査の記念にと頂いた西金砂神社のお札


埼玉の金鑚神社も、天照、スサノウとなっており金山彦は祀られていません。

結局、この西金砂神社の実体は良く把かめなかったのですが、慌てる必要もないでしょう。

何故か写真を撮っていませんでしたが、この山上神殿からの眺めは感動的ですらありました。

また、参拝する機会もあるでしょう。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記

2017年05月27日

339 石尊神社とは何か? “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社

339 石尊神社とは何か? “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社

20161213 

太宰府地名研究会 古川 清久


中央本線の石和温泉で著名な旧石和町(現笛吹市)に石尊神社という神社があります。

北杜市などにもあることから、全体を把握せずに大雑把な検討を付けることになるのですが、遠来の調査という事でご容赦頂くとして逃げさせて頂きます。

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付近には延喜式内社もゴロゴロしているのですが、マイナーな神社こそ地域の本質を探る最良の手段と考える事から、どうしても目はそちらに向いてしまいます。

 離合どころか車の進入さえも危ぶまれる所だけに、それだけでこの地域の歴史が見えて来ます。

 なんとか探し出し、初見の神社に辿り着きました。まず感じたのは山岳修験の雰囲気でした。

 「かつては三柱大神として崇神天皇、天照大神、阿夫利大神を祭っていた」とあります。

 崇神天皇は後の祭神入れ替えの可能性もありますが、四道将軍の故事もある事から何とも言えません。

 問題は、阿夫利大神です。「阿夫利」とは天降りの置換え、アフリをアブリ(aburi)と考えれば、アマオリのアモリ(amori)であり、M音B音の入れ替わり、O音U音の入れ替わりで説明できそうですが、もう少し多くのファクターを押さえる必要がありそうですので、当面は保留します。

 しかし、阿夫利大神こそが主神に見えます。

 これについては、その名を冠した阿夫利神社があり、大山祗命を祀るものであることからそれで良いようです。一例ですが大山阿夫利神社ありますのでご紹介しておきます。

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そして、戦後、石尊神社と恐らく復し石尊大権現を祀るとしたのだろうと考えますが、富士山を中心に多くの石尊山が確認できることから、大山詣り、富士山山岳修験と結びついた大山祗命を祀る神社なのだろうと思います。

 事実、甲州市勝沼のぶどう寺正面にも石尊山があり、石尊神社もあるのです。 


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さて、本題はここからです。

 石尊大権現が大山祗命であることがお分かり頂いたとして、この石尊神社の「石尊」、石和温泉の「石和」は通底していると考えています。そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。

 まず、ひぼろぎ逍遥(跡宮)をお読み頂く必要があります(以下、一部再掲)。


179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 C “西都原に大山祗命の痕跡がある!”


今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。

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西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。

 この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。

 この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり(実際には多いのだけど無格社に落とされているものが多い)、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。

 ただ、今回の天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。

 さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。


由緒

 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。

敬愛するHP「神奈備」より

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この石貫神社がもしかしたら本物(大山祗命の墓守神社か)ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社の存在を知っているからですが、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている事の起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。                                  (以上)

実は「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えとなるのです。

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。

 これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これらについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシコルガン、タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

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手書きデータ 百嶋神社考古学03 「014猿田彦から女木島」による


恐らく石尊山も石和もこのタシクルガンの地名移動であるはずなのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 16:53| Comment(0) | 日記