太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年05月03日

331  薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した @ “みなみ薩摩市坊津の船戸神社”

331  薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した @ “みなみ薩摩市坊津の船戸神社”

20161028

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


百嶋由一郎氏の音声資料の中に、“薩摩半島の最南端の坊津に田の神様(タノカンサー)が大山祗と大幡主の二神による擬神体であることが分かる石柱があります…”といった話があります。

今回、久しぶりに薩摩の青い海を見たいと思った事と、この話を確認しようと一路南薩を目指しました。

結果は、これだけの情報では探し出すことができずに次回以降への持ち越しとなったのですが、面白いものを発見できたことからお知らせしたいと思います。

それは、九州では見たことがない岐(クナト)の神です。

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地元の雰囲気を探るために以下をお読みください


船戸神社と庚申塔  南さつま市坊津町坊


NPO法人・坊津やまびこ会(観光ボランティア)サイト「坊津へようこそ」史跡の案内による説明は、次のとおり。


     こさっどん   船戸神社

下浜の県道の南側突き当りに船戸神社があります。祭神は猿田彦命ですが、これは中国の岐神(くなど)道祖神で、もともとは道路の神様でしたが、日本へ渡って狩猟や農業の神、地元では漁業の神として祭られてきました。

また、この辺りを「こさっどん」と言う所から高札の場所(法度などを記した立札を立てていた場所)であったと言う説と、沖縄県の石垣島にある崎原御岳(さきはらうたき)の伝説の白髪の老人が、八重山から坊津に鍬、鋤、鎌などの農具を求めに来、開けてはならない「櫃(ひつ)」を授けたと言う話が、沖縄の琉球国由来記の14に伝えられています。これらから推定しますと「こさっどん」は「耕作」つまり農業の神として祭っていたことも想定されます。

現在でも石垣島の大浜村に有名なヒルマクイ、幸地玉ガネ兄弟が坊津へ渡った話と、その時の「櫃」の中の神を崎原御岳に新神と称して祭ってあるとのことです。


     庚 申 塔   市指定文化財

下浜集落の船戸神社の上手の細い道の脇にあります。指宿市山川町でしかとれない黄色っぽい山川石と称する石で出来た三重層の塔で、県下でも二番目に珍しいものである。

下層正面に青面金剛(しょうめんこんごう・病魔や病鬼を追い払う菩薩)を中心に鶏、三匹の猿が彫ってあり左側に奉寄進庚申結衆中、右側に宝永8年(西暦1711年)などの文字が鮮明に判読できます。 道教の影響を受けた庚申講(こうしんこう)と関連があると言われています。

これは平安時代以降盛んだった民間信仰組織で、干支(えと)の庚申(かのえさる)にあたる夜は徹夜して、会食・談合を行う信仰があり、後に社交の場として継続されて来たようではありますが、現在では以前の様な習慣は途絶えています。

無題.pngより


「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある[2]。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。

ウィキペディア(20161028 18:23による


ウィキペディア氏の見解は一般的なものですし良く纏められていますが、まず、百嶋神社考古学では八衢比古(ヤチマタヒコ)、八衢比売(ヤチマタヒメ)を猿田彦、アメノウヅメとはしません。

事実、百嶋先生も良く“この点を間違え易いことから注意をするように”と言われていました。

岐の神も辻の神のように貶められていますが、実は、神武天皇に歯向かった長脛彦(ナガスネヒコ)その人なのです。

父はスサノウ、母は櫛稲田姫というスーパー・スター同士の超エリートの長脛彦、そして、その妹になる武内足尼(タケウチタラシニ)が、八衢比古(ヤチマタヒコ)、八衢比売(ヤチマタヒメ)とするのです。

この岐神については出雲大社の東側に密かに祀られている出雲井神社が知られており当方も二度ほど足を運んでいます。他にも出雲の長浜神社の境内摂社にもあったと記憶しています。

ひぼろぎ逍遥 174 「出雲井神社 初見」 として書いていますので、関心をお持ちの方はそちらをお読み下さい。

この坊津は薩摩藩が琉球経由で密貿易を行っていたところであり、そこに博多の商人が買い付けに来て売りさばいていた事が、隣の浦に博多と言う地名が残っている事からも読み取れるのです。

恐らく、この船戸神社を持ち込んだのも、そういった抜け荷紛いの博多商人だったはずであり、博多祇園山笠の祇園神社=スサノウの子が長脛彦と思えば、ストンと落ち着くのです。

この神社の直ぐそばにも旧密貿易屋敷があり、暫く前までは民宿もされていたのです。

そういえば倉浜荘でした。実は、かく言う私の新婚旅行は釣竿を持ってこの雑魚寝の密貿易宿に泊まる事だったのですが、当時、予約もせずに枕崎から飛び込みで電話を掛け、民宿の御婆さんに「なんで無理してこんなところにまで来るんですか、食事は枕崎で食べてこられるならなんとかしましょう…」と言われたものでした。

今考えればとんでもない事をしたと思っています。

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2017年05月05日

332  薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した A “鹿児島県出水市野田町の熊野神社”

332  薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した A “鹿児島県出水市野田町の熊野神社”

20161028

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


その後えびの経由で宮崎に向かう事から坊津からの帰路とは言えないのですが、今は、同じく隣町の高尾野町とともに鹿児島県出水市に編入された野田町があります。

高尾野町と言えは旧出水市の一部と併せ海軍航空隊出水基地(個人的には高尾野の航空隊と呼んでいた記憶があるのですが、実体としては海軍の特攻基地だったところです)の在った町ですが、直ぐ隣の野田町に熊野神社があります。

 野田町の郵便局の近くにある事から、まずは、この地域の中心的神社であることが分かります。

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 祭神は“伊邪那美命、泉津(ヨモツ)事解男命、速玉男命の熊野三神を祀る“と、されていますが、そこは薩摩の事、恐らく明治期に地元に馴染みのある神々で、なお、かつ、通りの良い祭神に入れ替えられたことはが易に想像ができそうです。

 そう思って見回すと、境内の一角に本物と思える摂社が置かれていました。

 間違いなく、この三神、四神こそが、野田町の皆さんが古来祀ってきた祭神と思われるのです。

八衢比古(ヤチマタヒコ)、八衢比売(ヤチマタヒメ)に猿田彦(通説と異なりサルタが前のヤチマタヒコと異なる事を証言しているようですね)と、もう一神が祀られていました。

言うまでもなく、神武天皇に逆らった逆賊の長脛彦(兄、妹)の事ですが、だからこそ明治期に主神から外されたのでしょう(あくまでも推定ですが)。

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八衢比古、八衢比売は一般的には猿田彦と天鈿女命などと考えられていますが、百嶋先生からも、“皆間違えているが、これはスサノウの息子と娘である長脛彦(岐神)ナガスネヒコと瀛ヨソ足姫(オキツヨソタラシヒメ)”と聴いています。ここで面白い事に気付きます。

 この野田町には非常に興味深い姓の方々が住んでおられます。

個人的にも学生時代以来の友人でもあった学校の先生に徳手(コッテ)さんがおられましたが、野田町の山手の方に、特手と言う集落もあるのです。

これが、「特牛」と書き西日本全域で見掛ける特牛地名と同一のものと考えて間違いないでしょう。

確認はしていませんが、前ブログで取り上げた坊津の裏にも尊牛山(318m)がありますが、これもコット山と思います。

 山陰本線の駅にコットイと呼ぶ特牛駅(下関市豊北町大字神田字大場ヶ迫)がありますし、九州でも犢牛(コットイ)岳、特牛岳と呼ばれるが数多くあることは、山登りをされる方などは良くご存じだと思います。

 そして、このコッテ、コットイが強力(ゴウリキ)のコッテ牛のコッテであることも間違いないのです。

 そして、熊野神社と関係が深いスサノウが牛頭(ゴヅ、ゴッヅ)天皇とされ、牛をシンボルとしている事とも通底しているのです。

 そうです、それがゴット=神にまでなっているはずなのですが、思考の暴走はここまでとして、特手姓の分布を見ましょう。

 例によって、いつも使わせて頂いている「姓名分布&ランキング」というサイトによるものです。

 全国で24件という相当に珍しい姓ですが、この野田町、高尾野町が中心であることがお分かりだと思います。

 特牛という姓がないことから、特手がこの地名をもたらした中心的氏族だと考えているところです。

 そして、熊野神社の主神の座から外されたナガスネヒコ(スサノウの子)の後裔が特手さんではないかと思うのですが、これ以上は思考の暴走になるでしょう。

 そして、鹿児島県出水市の出水も和泉、泉、白水と通底しており、これらの民族が大量に入った結果が反映されている様にも見えるのですが、ここは、百嶋神社考古学に精通された方でなければ分かって頂けないと思います。

 いずれにせよ、九州では確認できないと考えていた岐の神=ナガスネヒコ(決して猿田彦=山幸彦ではない)が、図らずも薩摩の辺境で確認できたことは望外の喜びでした。

 まずは、一勝一敗という事で今回の薩摩遠征もなんとか恰好が付いたようです。

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2017年05月08日

333 高知県東洋町五社神社の祭神をどう考えるか

333 高知県東洋町五社神社の祭神をどう考えるか

20161029

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮)326において、阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社 という話を書きました。

内容は読んで頂くとして、表向きは八幡神社とはされているものの、若宮神社が境内摂社として置かれ、文献的には確認する手段がないものの、100メートルほど離れたところに高良神社があることから、若宮が仁徳である事、高良は高良玉垂命そのものであろうことが丸分かりになっているとしました。

この神社から500メートルほど離れたところにあるのが今回お話しする五社神社ですが、祭神は住吉大神(所謂住吉三神)と神功皇后に後世の豪族といった設えになっているのです。

さて、私達、百嶋神社考古学の徒は高良玉垂命と神功皇后が夫婦であり、その直系(嫡男)が仁徳天皇=オオサザキこと斯礼賀志命(シレカシノミコト)であることを知っています。

尚、かつ住吉三神が兄弟などではなく、底筒男命が高良玉垂命=第9代開化天皇、中底筒男命=贈)第10代とされた崇神天皇、表底筒男命がウガヤフキアエズである事も知っているのです。

してみると、住吉大神を三神とはしているものの、ここには神功皇后を妃とする高良玉垂命が祀られている事になるのです。

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無題.pngそして、東洋町の旧甲浦村という村名に高良玉垂命と神功皇后が夫婦であった痕跡が残されているとしたいのですが、それについては判断される方の考え方次第です。

まず、九州でも高良玉垂命と神功皇后が夫婦であったという痕跡を今も隠し消そうとする動きが今も存在しています。

つまり、この事こそが九州王朝隠しと相まって、列島古代史の根幹を揺さぶる秘密なのです。

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右は奇跡的に久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」の一節ですが、高良玉垂命と神功皇后が夫婦であったと記しています。

この組み合わせが分かれば仲哀天皇(これも百嶋説では本当の天皇ではないとする)亡き後の住吉大神と神功皇后を祀る祭祀形態が、五社神社に反映されている事は明らかなのですが、これについても、関連する先行ブログをある程度お読み頂くしかありません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:14| Comment(0) | 日記