太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年04月09日

321 白王姓を「白土」姓に変えざる得なく追い込んだ明治神道の横暴の証拠を見た

321 白王姓を「白土」姓に変えざる得なく追い込んだ明治神道の横暴の証拠を見た

20160926

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、白川伯王家と「白土」姓については、ひぼろぎ逍遥 230 及び ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 「白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”」 共通掲載 として公開しています。

百嶋由一郎先生からは、“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

ただ、明治の神祇官、神祇省の指導(圧力)によって、「王」を名乗るのは皇室に対して不敬であるとして千数百年続いた「伯王」という栄えある姓を変えさせ、渋々ながら受け入れた一族は「白王」の「王」から横一を抜き「白土」とはしたものの、「白 土+、」としてその事実を後世に伝えた事が分かるのでした。

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厳島神社 カーナビ検索 飯塚市鹿毛馬字宮下1083


まず、この「白川伯王家」と「白川神道」とは、明治まで宮中の皇室祭祀を司っていた家元であり、維新によってその祭祀権を喪失した一族でした。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立[編集]

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗られたことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない[1]。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

延信王は、万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下して、寛徳3年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが[2]、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実先の四名の間に大中臣氏が補任されている。

…中略…

吉田家との地位逆転[編集]

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。

王号返上と家系断絶[編集]

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


「白川伯王家」ウィキペディア(20160926 14:23から


しかし、その話は百嶋由一郎氏の音声と厳島神社の現宮司代行からの聴き取りしかなく、その物証が欲しいと思っていました。

ところが、9月(2016)の太宰府地名研究会のトレッキングに際して責任者であるN氏から一枚のコピーを貰ったのですが、そこには白王抹殺の一端が垣間見えるものでした。

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「北山村神社誌」(旧福岡県八女郡北山村)


これは「北山村神社誌」(八女市市立図書館所蔵)の一部であり、現八女市北山地区にある(あったとされる)罔象女(ミヅハノメ)を祀る水符神社に関する記事です。

お読みになってお分かりの通り、無格社扱いとなっていた淡島神社の境内社としての水符神社と字柳場にあった同じく無格社の水符神社が合祀され新たな水符神社として成立した事が書かれているのです。

ただ、「福岡県神社誌」の無格社一覧で北山村を確認すると淡島神社も水符神社も確認できませんでした。

しかし、北山村ではなく隣の光友村谷川柳場に水符神社が確認できることから、こちらにまとめられた可能性が考えられます。

元々、村社以下の無格社であり、そのまた境内社も絡んだ話であることから、現実的には同地を踏んだとしても確認する事は困難と考えられます。

しかし、焦点は水の神様と考えられる水符神社ではなく、淡嶋神社の鎮座地が「白王」であったこと、それが「白 土+」と修正=改竄(もちろん堂々と塗り替えられたのであり改竄ではないかも知れませんが…)されたことが見えたところにあります。

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「八女郡 北山村」 ウィキペディア(20160926 15:30から

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記