太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年04月13日

324 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと

324 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161008

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

未踏だった南阿波〜東土佐を対象に四国の神社調査に入りましたが、実は高知市の西にある佐川町の一社を見に行く事が今回の最大のテーマでした。

その神社の報告は後に回すとして、佐川町から千メートル級の山を越え伊予市、松山市に戻りました。

往きは児島〜坂出ルートでしたが、複りは今治〜尾道ルートという事になります。

車が少なくなって移動する事から、時間調整もあり、神社を見たり温泉に入るなりすることになるのですが、道後温泉の喧騒を避け奥道後温泉から高縄半島の東側今治に入り鈍川温泉に向かいました。

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石折神社 カーナビ検索 愛媛県今治市玉川町鈍川サルガヲ甲151

 まず、丹生(ニュウ)地名に関心をお持ちの方には直ぐにお分かりになると思いますが、水銀採取集団が残した地名としての丹生、根雨、爾布…の一つが鈍川なのです。

その証拠に、鈍川は丹生川と表記されていたと言いますし、壬布川が流れ下った隣の西条市にも丹原という地名が拾えるのです。

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ともあれ、この地にも水銀採取で賑わった時代が存在した事がうかがい知れたのでした。

 当然にも、この石折(イサク)神社にもその手の神様がおられるのではないかと、雨が降り始めた中、足早に参拝に及んだのでした。

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さて、この神社の祭神です。

まず、鈍川温泉の入口に鎮座している事から丹生津姫(イザナミとイザナギとの間に産れた闇淤加美=神俣姫)が祀られているのではないかと考えたのですが違っていました。

しかし、全くの外れと言う訳でもありません。製鉄の神様でした。いつも触れる事ですが、製鉄神があると付近には鬼○地名が良く発見できるのですが、ここにも鬼原地名があります。

栃木県の磐裂根裂神社などに代表されるイワサク+ネサクの神=埴安姫+金山彦だったのです。

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同社縁起

ご覧の通りですが、主祭神の石筒男神の実体は不明です。多分、大山祗命だと思うのですが、決め手に欠けます。一応、HP「玄松子」氏によれば、


伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。


となるのですが、実体はこれによっても掴めないのです。

客人神社は、出雲大社の客人=ウマシアシカビヒコチか?と考えたのですが、どうもそうでもないようです。そうすると、五男神とされているのは、天照とスサノウの子産比べで出てきた五男神を何故客人として別殿に祀る必要性があったのかが分からないのです。

 七車中泊八日121900キロメートルという調査旅行でしたが、初見の神社ばかりで興味深い旅となりました。

最後に百嶋由一郎「最終神代系譜」と「阿蘇ご一家系譜」から丹生津姫、主祭神を確認しておきましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:11| Comment(0) | 日記

2017年04月17日

325 白人神社とは何か? “那賀郡那賀町拝宮の白人神社”

325 白人神社とは何か? “那賀郡那賀町拝宮の白人神社”

20161008

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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四国の屋根とも言うべき剣山の南麓に白人神社という神社があります。

徳島県美馬市穴吹町にも白人神社がありこちらはどうどうたる神社ですが、今回とりあげるのは秘境中の秘境の山上集落に鎮座する非常に印象的な小社です。

徳島市の南、阿南市に注ぐ那賀川を遡り、現在嵩上げ工事中の長安口ダムのダムサイトを越え5〜6キロ奥に入った日真地区から北に入る山道を上り詰めた辺りにあるのがこの神社です。

 ほぼ離合が不可能と思える急傾斜の曲がりくねった隘路を数キロ上り詰めると標高500メートル辺りに山上集落が現れます。と言っても目に入るのは数戸の人家のみです。

それらを確認する余裕もないまま、さらに登ると川沿いに社殿らしきものが見えてきます。

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 白人神社とは一体なんだ?というのが最初の印象でした。

 まず考えられることは、新羅系の神が奉祭されているのではないかということでしたが、当たらずとも遠からずでした。

 邇邇芸命は高木大神の息子ですから、高木大神の本拠地である古霊(コリョン)は新羅の大邱に近い伽耶ですから新羅とも言えそうな場所であり、邇邇芸命は白人と言えない事もないのです。

 ここでは、剣山北麓の白人神社関連数社を見ていない段階での判断は早とちりになりかねない事から一旦保留し、摂社と思われる八幡神社、若宮神社に目を向けることにしましょう。

 既に、四国の高良神社15社に関しては全て実調しリポートを公開していますが、それに付随し若宮神社も散見される事に気付いていました。

 特に、讃岐、阿波では若宮神社が単独でもあるようで、四国でのフィールド・ワークを重ねるにつれ、これらが久留米の高良大社の高良玉垂命と神功皇后との間に産れた嫡子=斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇=大雀命を祀るものであることは間違いないと思う様になってきました。

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清流に浮かぶといった面持の美しい神社でした。

道さえよければ再訪したいと思いますが、正直言って命からがらといったところで、スズキのジムニーなど軽の四駆でもなければ入らない方が無難かも知れません。

 ただ、感動的な一社でした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:32| Comment(0) | 日記

2017年04月19日

326 阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社

326 阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社

20161009

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 国道56号線で阿波から土佐に入ると、甲浦(カンノウラ)と呼ばれる天然の良港があります。直接太平洋に晒されるも正面に島を持つ天恵の地が甲浦であることは地図をご覧になればお分かりになるでしょう。


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この高知県現東洋町の甲浦駅のそばに八幡神社があります。

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同社由緒書

この八幡宮は宇佐八幡成立当時(応神単独)の一社一殿一神をそのまま表現しているのではないのか?と思われるほどの贈)応神天皇一神が祭神とされており、境内摂社には若宮神社が配されていたのです。

 この甲浦八幡宮自体に興味は尽きないのですが、ただちに東洋町役場の教育委員会を調べるも「東洋町合併50年記念・べんり帳」程度のものしかなく、成果は全く上がらず、まずは、自力で周辺の神社を全て見ようと廻ってみる事にしました。

 すると八幡宮の正面200メートルのところに高良神社が置かれていたのです。

 高良の神が甲浦八幡宮の正面に置かれているとなると、考えられることは一つです。

 それは、本来、甲浦八幡宮とは高良玉垂命と若宮神社(高良玉垂命と神功皇后との間に産れた嫡子=斯礼賀志命/シレカシノミコト=仁徳天皇=大雀命)を祀る神社だったものが、贈)応神天皇(こんなものは天皇でも何でもなくホンダワケと別王なのです)と入れ替えられ、はじき出された高良玉垂命を摂社として祀った可能性があり、その時期は高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」によれば、九州の宗廟を宇佐八幡に渡す749年の段階ではなかったかと考えられそうです。

 これはあくまで推測でしかないのですが、一目、その印象を持ちます。

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甲浦八幡宮正面に置かれた境外摂社高良神社

この神社が境外摂社であることは、「東洋町合併50年記念・べんり帳」の神社一覧にも掲載されていない事から明らかです。

してみると、甲浦港、旧甲浦村の甲浦とはこの高良神社から付されている可能性があり、そもそも高良玉垂命を祀る神社があったからこそ高良の浦と呼ばれ高良村と呼ばれていたものの表記が変えさせられたものであることまでもが見えてきたのでした。

そこまで分ってくると、古代九州王朝の神威が室戸岬の手前まで及んでいた事に戦慄を覚えるのでした。

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高良玉垂宮神秘書

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:19| Comment(0) | 日記