太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年02月22日

297 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の意味を知っていた”

297 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の意味を知っていた”

20160822

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


まーりんのホメオパシック・ライフ ホメオパシー&オリジナル「海のエッセンス」をつかう療法家

というblogがあります。当方は、『儺の国の星 拾遺』を書いた真鍋大覚氏(物部の暦法家の末裔で那珂川町在住の元九大教授)が“猿田”の意味を知っていたという事は見当が着いていましたが(百嶋先生からは真鍋の物部文書を読めば分かりますとされていました)、彼の著書は非常に読みづらく辛抱できずに放棄してしまったところから、いずれは読まなければと棚上げにしていたのです。どうやらまーりん女史はサルタの意味を把握されたようです。非常に有難いので全文掲載させて頂きます。多分、これで間違いないはずです。百嶋先生は「赤米研究田=サルタ」と言われていました。勿論、「猿」の表記はアメノウヅメと併せ、柿本人麻呂同様(猿丸太夫)に貶められていますが。


サルタヒコ神話、なんと猿田とは・・・ 

2016-01-19 23:21:20

テーマ:サルタヒコ

真鍋大覚の 『儺の国の星 拾遺』

(この記事書いてる間、ほんとに漢字変換で苦労する)

衝撃的な一文を、偶然発見。

猿田(さるた)とは、水漲田(さはりだ)の略である。

なにい〜〜〜?

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古語で “さ” は水であった。 

早稲(さなえ)は籾から出た芽が水の上に細くのびたばかりの稲をいう。

してみると早稲とは発芽を水温によって早めた陸稲のことになるのである。

(※水稲の間違い?)

四月に植え八月に刈る品種が育つところが猿田であった。

“うへてさる” が卯と申を意識させた百姓の言葉であった。

那珂川では、今も陽暦ではあるが、四月晦に水祭、八月晦に風祭を開く。

昔は田植えの済(しま)ひと、田の干し揚りが発祥であったと聞く。

水漲田(さはりだ)は、小墾田(おはりだ)とも書き写される。

水稲畑稲の品種が改良され、耕地面積が少なくして済む時代にきたことを示す古語である。

在野の古代史研究家百嶋由一郎先生の資料をネットで拝見していますとサルタヒコは、アマテラスの依頼を受けて、伊勢で赤米の研究をしていたとあります。

いわく猿田とは、赤米研究田のことである。

なぜ猿なのか。 赤いから???

(顔とかお尻が赤いのは ニホンザルだけなんだそうです)

つまらん話といいきれないのはアマテラスが始めて降ります処、伊勢の狭長田の五十鈴の川上には、

先にサルタヒコが来ているから。

『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』 では

倭姫命が五十鈴の河上の辺に磯宮を立てたときに、サルタヒコ登場。

「狭長田之猨田彦大神」として、割注に「宇遅土君(うぢのつちぎみ)氏子遠祖也」とある。

宇治土君とは、アマテラスに宮地を提供し、家田を御田として寄進した太田命の子孫。

逆に言うと、サルタヒコ(の子孫)が、アマテラスに宮地と自分とこの田んぼをあげた。

ここになんども狭長田という言葉が出てきますが狭田・長田とは、細長い田であり、上流にある田のことをいうそうです。

そして、最も水源に近い田は神聖視して聖田とする慣行があるそうです。

(伊勢信仰と海人の神サルタビコ、小島瓔禮、「サルタヒコの旅」) 

「狭長田」とは、聖なる田という意味としてよい?

日本書紀では、アマテラスが地上に持っていくようにと息子オシホミミに渡したのが

(ニニギはまだ生まれてなかった)、高天原の「斎庭の稲穂」です。 

天孫降臨の使命のひとつ、それは天上のアマテラスの田で栽培された稲を、地上にもたらすこと。

晴れてそれは実現しコノハナサクヤこと、神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)が、稲の収穫の祭りをされました。

すなわち占いで定めた神に供えるための「卜定田(ウラヘタ)」を狹名田(サナダ)と名付けて、その田の稲で天甜酒(アメノタムサケ)を醸造して収穫の新嘗祭で奉納しました。

また、渟浪田(ヌナタ)の稲を炊いて新嘗祭で奉納しました。

ちなみに天皇即位の儀式である践祚大甞祭では、神にささげる酒と飯にする稲を栽培する田を、悠紀(ゆき)と主基(すき)とに定めるそうで、ちょうどこれに対応したもののようにみえます。

真鍋大覚の『儺の国の星 拾遺』によれば、

悠紀田は上田のことで、“ゆき”とは冬の間に降り積もった雪とその溶水、湧き水を瀦水する

からであり、主基田は下田(すけた)、即ち夏の間の水を受け敷(す)けて熱水を貯えるから

である。

上田と下田で、閘門(こうもん)を介して水をとおす、水を落とすことを言っています。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播く。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板扉(いたび)を揚げて水を落とす。

冬の間に蓄えた水が下手に移る。 こうして夏場は下田に水を通して早生の水稲を植える。 

やがて上田の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

はい、ちょっと待って。

さっき、真鍋さん言いましたよね、

猿田って四月に植え八月に刈る品種が育つところ、って。

これに今の説明を追加すると

猿田って夏の間に早稲の水稲を植える下田のほう、水漲田ってことですかな?

(赤米は猿田でつくるんでしょうね?)

・・・つまり、稲作とは、たんに植物としての稲の扱いを知ってるだけではなくて

このような田んぼや瀦水塘の仕組みをつくる灌漑土木作業がまず肝要なのであって

そのような大掛かりな土木作業はだれがやれるかというと

そうした技術をたずさえてやってきた氏族。ですね。

ダムとかピラミッドとか 昔の出雲大社みたいなのを建造する人達。

例えば、国栖とよばれる有明海一帯の水運を支配した人々。

彼らは船を建造し、潮位を見定めながら港を造り、干潟を開拓していったといいます。

つまりは海人族ということになりはしないでしょうか。

百嶋考古学では、サルタヒコは山幸彦ということになっていますが

そうすれば綿津見神の娘、豊玉姫との婚姻によって海人族とつながっているし

神裔安曇族の長、安曇磯良は「アメノウズメの舞を舞うことができる唯一のもの」であると

いう志賀島の伝承にもつながってきます

(百嶋先生は山幸彦の子どもが安曇磯良であるとされていますが、それも矛盾しない)

以上の説に多少の間違いがあったとしても

そのくらい、サルタヒコと磯良、海人族が近い関係であることは間違いなかろうと思われます。

その関係は、とりもなおさずアメノウズメ、秘密の舞、傀儡につながっていくものです。

サルタヒコ、猿田、稲作。

なお、猿女君は大和では稗田を拠点とし、稗田氏を名乗っています。 稗田は、よい水田の

ある地域ということで、これも無関係ではないでしょう。

なお、ここまでのところ、

サルタヒコとウズメに関して まったく動物の猿との関係がでてきていません。

海と猿は関係があるという説、ひろくアジアにみられる民話説話との関連も見ましたが

稲作という面からみた場合、それらは結びついてくる感じはまったくしません。

サルタヒコの「サル」という音だけで派生する猿との関連は、

確実にあるのですが それは別記事で書きたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:06| Comment(0) | 日記