太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年02月12日

294 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

294 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

20160809

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


茨城県の鹿島神宮に対して千葉県に香取神宮があります。

香取神社は千葉県から埼玉県に掛けて多くの神社が展開しています。

鹿島神社の話はしませんが(こちらは草部吉見…)、この香取神宮の主祭神も実は猿田彦大神なのです。

すると、海幸、山幸が利根川、霞ケ浦を挟んで蟠踞している事がお分かり頂けると思います。

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「日本書記」ではフツヌシ命はアマテラス大神の命を受け、天孫降臨に先立ち

タケミカヅチ命とともに出雲国に降り、国譲りを成功させたとされています


経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。…(中略)…なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫だったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられている。

ウィキペディア(20160809 18:30による


もう皆さんも経津(フツヌシ)が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛(イタケル)=石上(イソノカミ)…であることがお分かりになったと思います。

 草部吉見(海幸彦)、猿田彦(山幸彦)共々、神武東征ならぬ神武御巡幸の随行者として東日本に入っている可能性があるのです。

 その後、これらの神々を奉斎する氏族が東日本に入っている事は想像するに難くありません。

 では、何故経津主と呼ばれるのでしょうか?

 「主」は、天御中主を筆頭に、大幡主、豊国主(ヤタガラス)、大国主、経津主(山幸彦)、事代主(蛭子)、天之甕主…と大幡主(白族)系の神々の尊称であることは見当が着きます。

 これについては、百嶋由一郎氏は“現地(雲南省昆明)の青銅器にも「主」が刻まれている”と言われていました(滇(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)。では、経津、布都…とは何でしょうか?

 まず、香取神社が鎮座する千葉県には富津(フッツ)市がありますね。隣は君津市ですね。

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しかし、それは移住地であって、本来の震源地は九州島にあり、猛島神社(五十猛を祀る)が鎮座する長崎県島原市の布津(旧布津町)だろうと考えています。

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実は、五十猛命を祀る(ニニギ説もあり)荒穂神社(基山、太宰府、嘉麻…に数社)に近い、鳥栖市にも布津原町があります。

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 遠い古代、猿田彦=五十猛…を奉祭する諫早から有明海を中心とする海人集団が、第二拠点とも言うべき山鹿の猿田彦軍団と共に、房総半島で上総(カズサ)に向かったと考えています。

 その根拠はと問われれば、同一神を奉祭神社が存在し、経津(フツヌシ)=フツの主と呼ばれている事、千葉県と有明海沿岸に「フツ」「フッツ」と呼ばれる地名が存在している事ですが、千葉県富津市、君津市が在る一帯を上総(カズサ)と呼びますね、「かずさ」と呼び習わしていたから、下の「カズサ」と併せて上総、下総(シモウサ)とされたのだろうと考えています。

 では、何故、カズサと呼ばれているのでしょうか?

 それは、有明海の出口である、口之津の隣町の南島原市の加津佐(カズサ)という地名が持ち込まれたからだろうと考えています。

 隣の口之津は明治から昭和初期に掛けて大貿易(上海向石炭積出港)であり、さながら海員学校が置かれた口之津は、ある時期、国際貿易港の様相を呈していました。

 一般的には、博多港、唐津港、呼子港が注目されていますが、海流を考えれば、直ぐわかるように、有明海を出れば、そこには対馬海流が流れており、半島、大陸、インドシナへの航路が開かれていたのです。

大幡主の配下にあった山幸彦=経津主は、島原半島の布津、加津佐を拠点に活動していたのです。

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猿田彦=経津主は口之津、加津佐から列島に展開した

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:55| Comment(0) | 日記