太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年12月02日

271  田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した

271  田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した

20160624

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)では、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”

217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。

まず、ざっと目を通した荒い調査ですからその範囲で理解して頂くことにさせて頂きます。

実際に、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに無格社として朝倉郡を中心に40社近くが拾えたのでした。

今回はこのリストを公開するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

“鹿児島のタノカンサーが甘木、朝倉になどあるはずがない!”とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、バックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と、大山祇の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回、40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな疑問が浮上してきたのでした。

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まず、馬田村の田神社ですが、表向きは「菅原神」として社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このことから、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

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ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。研究目的で百嶋神代系譜、講演録音声データを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:44| Comment(0) | 日記

2016年12月03日

272 朝倉市(甘木)古賀の松尾神社は田神社(タノカンサー)だった!

272 朝倉市(甘木)古賀の松尾神社は田神社(タノカンサー)だった!

20160624

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 626日、大雨が降り続く中、梅雨の合間を狙ってトレッキングを行いました。

 その二番目に訪問したのが旧甘木市古賀の松尾神社でした。

 旧佐田村から流れ出す佐田川の傍に松尾神社があることから、松尾大神とは、大山咋神=佐田大神(出雲の佐田大社)日吉神社=日枝山王権現=阿蘇国造神社…であることが分かる好例と考えてのことでした。

 ところが、グーグル・アースを見ると「田神社」とされているのです。してみると、松尾神社の基層に田神社が存在している事が見えてきたのでした。

そこで、後日、トレッキングに参加できなかったI女史を案内し再訪したのですが、松尾が後である事が分かりました。無題.png

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このことから、再度訪問した際にその点を確認すると、大同二(807)年、京都の松尾神社が肥後に分霊された。

それを…元和二(1616)年に遷座された。とあったのです。

 従って、江戸時代以降に山鹿市菊鹿町の松尾神社(九州王朝論者なら良くご存じの倭五王に絡む「松野連系図」の所有者だったのではと推定されている松野鶴平、頼三、頼久の一族の故地=鶴平氏の生家の隣ある神社)から分けられた事が見えてきたのでした(勿論、京都の松尾からの勧請はベクトルが逆だと考えていますが)。

当然ながら、松尾神社が山鹿から持ち込まれる以前、田神社だったのです。

 トレッキング当日まで気付かなかったのですが、境内には二つの摂社と考えられるものがありました。ご覧いただきましょう。

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もう一つの神社は、荒波神社という耳慣れない神社でした。

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ただ、一目、お稲荷さんであることは明らかで、少し考えると正体が分かりました。

 荒穂神社だったのです。

佐賀県の基山町(現きやま町)から太宰府市、嘉麻市一帯に展開する五十猛命(通説はニニギとしますが)=ニギハヤヒ(山幸彦)を祀る神社だったのです。

ただ、物部氏の中核であることから憚られ、奥様の伏見稲荷が立たれ名前だけが荒穂=荒波として痕跡を留めているのではないかと言うのが現在のところの解釈です。

田神神社が大幡主(埴安命)であることから、その配下のニギハヤヒが祀られているとすれば論理的です。

 最後になりますが、I女史(太宰府地名研究会)は穴掘り考古学のエキスパートです。

いつものことながら、境内の一角でそれなりの小さな発見をしてくれました。

 古代の瓦だそうです。

 色々難しい説明をしてくれていましたが、うわの空で、その時しか覚えていませんでした。お粗末。

 こんなことをいとも易々とやってのけるI女史には驚かされます。

 美人な上に、博識なのですから世の中とは不公平なものです。

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いずれにせよ、甘木、朝倉が巨大な大幡主の領域だった事が見えてきたのでした。

大国主命はトルコ系匈奴=大山祇命(月読命)が大幡主の妹である埴安姫を娶って産まれたエリート中のエリートで、大幡主の傘下で活動していた事から大国主の「主」という大幡主同様の尊称を得ていたのでした。

 どうやら、ひぼろぎ逍遥 スポット4041で取り上げた「オオナムチの移転先」@A で問題とした出雲神話の舞台=国譲りの現場とは、甘木、朝倉、筑前の一帯だったのではないか?という驚愕の事実が見えてきたのでした。

 百嶋神社考古学では大国主命を島根県の出雲の御出身などとは考えていません。

 古代出雲の国とは大幡主のエリアのことであり、全国に多くの出雲があったのです。

 そして、「出雲」はイウン=イオン=インと読むべきで、忌部、陰陽師、役行者、卜部…であることが分かってくるのです。

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無題.png右は朝倉市甘木公園の金毘羅宮参道に鎮座する田神社です。これが一社だけなら見過ごすのですが、実は朝倉市小隈の原田八幡宮にも同様の田神社が確認できるのです。故)百嶋先生は南九州のタノカンサーは、博多の櫛田神社の大幡主と大山祇の二柱の神が田の神様の正体とされていました。

その実体の確認が今回のテーマです。併せて、佐田大神こと大山咋神の安心院からの転勤地である朝倉市佐田町の高木神社の摂社に「瀛津比売」の表記が確認できますので皆  で確認しましょう。ここにも忌部、卜部、役の人々が住み着いていたのです。


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@  松尾神社(朝倉市古賀203)無格社


祭神 大山咋神 元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。

「神社由来によると、醸造の神である京都松尾大社の分霊が大同2(807)に肥後国に遷座された。」とも。NET地図には「田神社」と表示されているものもあり、これも田神社=タノカンサーの可能性がある。

「肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。


とありますが、この神社こそ、松野鶴平、頼三、頼久…と続く菊池山鹿の松野党の本拠地、山鹿市菊鹿町木野の旧鶴平宅に隣接する松尾神社(坂本宮司)を勧請したものとは思いもよりませんでした。

熊襲の北上は内部で静かに検討されていますが、それと関係があるのか?それとも南北朝争乱期に起こった事なのかまずは興味津々といったところです。

「福岡県神社誌」を見ていますが、どうも搭載されていないようで使えません。

これについては、もう少し周辺調査を行わない限りこれ以上の事は言えないように思います。

逆に、情報を求めたいと思います。

ただ、松尾の神と佐田大神は同神であり、佐田川、旧佐田村の起源は相当に古いものと考えられることから、単に山鹿の松尾神社の勧請の前にも同種の神社があったように思えるのですがいかがでしょうか?

あくまでも、ここでは佐田川と松尾神社が対応している事だけを確認してもらいたいと思います。

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祭神が大山咋神である以上、この神様の別名は、佐田大神であり松尾大神であり、日吉神社、日枝神社でもあることは確実なのです。だからこそ、東には佐田川が流れているのです。

トレッキング資料からの切出し


研究目的で百嶋神代系譜、講演録音声データを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:33| Comment(0) | 日記

2016年12月08日

273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か?

273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か?

20160709

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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まずは、6年前に撮影した画像から


 百嶋神社考古学の支持者である熊本の女性が兵庫に行く事になり、急に思い立ち、翌日、佐用町の佐用都比賣神社に行くつもりと電話してこられました。

 個人的には二度ほど訪問していますが、後の方の訪問も既に六年も前の事になります。

 市杵島姫(別名作用都姫)が祀られている事以外は理解できず、当時は境内社の意味も全く分かりませんでした。

 ただ、作用神社に行って来ましたと百嶋先生にご報告した所、“どんな神社だかさっぱり分からなかったでしょう…““でも、市杵島姫が祀られる前に高木大神の一族がいたことが見えるんですよ…”といったお話を伺ったことがあります。

 勿論、神社への理解力も今以上に乏しく、神社の掲示もなかったことから全く読み解くことは出来ませんでした。

 当時は天子宮調査の一環で訪問していた事もあり、また、作用神社それ自体に関心を持っていた訳でもなかったために致し方なかったとも言えるでしょう。

 無題.pngそういった状態だったのですが、彼女から突然電話が入り(電話というのはいつでも突然ですが…)、「高木大神を祀る境内社がありましたよ、それに伯母宮神社という不思議な社がある」と連絡してこられたのでした。

 前置きが長くなりましたが佐用都比売神社をご紹介しましょう。


式内社 播磨國佐用郡 佐用都比賣神社

旧県社

御祭神

市杵嶋姫命(狭依毘売命)

配祀

素盞嗚尊 大國主命 誉田別命 天児屋根命

敬愛する「玄松子」より

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祭神などについてはご覧の通りですが、まず、市杵嶋姫命の別名が狭依毘売(サヨヒメ)命であることが分かります。

この点、佐賀県唐津市の呼子の沖に文字通り壁のように港を守る加部島に鎮座する田島神社の祭神として市杵島姫と佐代姫神社が分離している事にも違和感を覚えます。

そもそも、佐用町は播磨ですが但馬も佐用も田島と佐與の置換えなのです。

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写真提供 松尾紘一郎(糸島市)


実は、この田島神社の田島が宗像大社の辺ツ宮の鎮座地の大字田島となり、兵庫県の日本海岸の但馬の國にもなっているのですが(宗像大社公式HP参照 下記)、もっと面白いことに、白川伯王家の本拠地であったとも思われ、古代には安芸の宮島の厳島神社よりも高格式であったと考えられる、厳島神社(飯塚市鹿毛間)の大字鹿毛間(カケノマ)が大字佐與(サヨ)に隣接していることが佐用都比賣神社の鎮座地である佐用町と通底している事です。

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飯塚市鹿毛間の厳島神社

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これだけでも、兵庫県佐用町の佐用都比賣神社が北部九州からの移動であることがお分かり頂けたと思います。

 さて、話はここからです。彼女から送られてきた画像(6枚)を見ると神社の印象がすっかり変わってしまっていました。

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以前来たときはほとんど木が茂っておらず非常に殺風景な印象でしたが、送られてきた写真を見ると鬱蒼たる森の如き神域になっていました。神社とはこうでなければなりません。

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神社の掲示板の写真は画素数が低く拡大にしても神名が完全には読み取れない事から、ネット上(古代史探訪)から借用させていただきましたが、境内社として向かって左の手前から塩川神社速佐須良比売命)、若宮神社(高皇魂命)が、そして左右の別なく最奥部の最も社格の高い場所に水神社彌都波能売命=ミツハノメノミコト)が鎮座していました。

 そして、向かって右の手前から佐用姫稲荷神社(豊受大神)天満神社(菅原道真公)三寶荒神社(火と竈の神様:三宝荒神が何者かは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から177「天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 B “白髭神社に再々訪”宮崎県児湯郡川南町の三宝荒神」を参照のこと)、そして、今回一番関心を持っている伯母宮神社片宮神社、天照皇大神が鎮座しているのでした。

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HP「古代史探訪」より


まず、若宮神社です。この神名の神様は高皇産霊尊で良いと思うのですが、若宮神社との表現には疑問があります。これまでの経験から若宮神社の祭神とは久留米高良大社の高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた若宮=斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇以外にはありえず(例外として大幡主の若宮=ヤタガラス=豊玉彦も…)、もし、若宮神社との社名が古代からのものであるならば、この佐用都比賣神社の基層には高良大社の存在、威光が存在するように見えてなりません。

無題.pngそれについては今後の課題として、佐用都比賣神社の底流に“高木大神=高皇産霊尊が存在していた”と言う百嶋先生の話はこの境内摂社、若宮神社の存在からある程度推測できそうです。

次に三寶荒神社です。金山彦=加具土命、軻遇突智の流れを汲む一族とされますが、百嶋神代系譜(三寶荒神)には二人ずつの奥(瀛)ツ彦、奥(瀛)ツ姫が書かれています。もしも、佐用都比賣神社の基層に高木大神があるとすると二系統(というより二代に渡る)のどちらかが気になります。

さて、水神社(彌都波能売命=ミツハノメノミコト)は百嶋最終神代系譜の青枠で良いとして、最大の難問が、伯母宮神社(片宮神社、天照皇大神)の意味です。

この神社の境内摂社の祭神には違和感が付き纏います。塩川神社(速佐須良比売命)にしても普通は天照大御神と塩槌翁(大幡主)とするはずですし、仮に速佐須良比売命としても、これは鴨玉依姫で塩槌翁の孫になると思います。また、若宮神社=高木大神というのも奇妙です。さらに佐用姫稲荷神社(豊受大神)というのも、伊勢の外宮を市杵島姫と言いたそうです。明治期の縣社昇格に絡んで祭神が弄られているように見えてなりません。そのため、そのまま素直に推測できないのですが、極めて重要な古社であることに間違いはなく(勿体無いですね)、伯母宮=天照大御神という組合せに古層が反映されているのではないかとの思いが消せません。それは、“神武天皇のお母さんは大幡主の姉の神玉依姫ですが、”天照大御神=卑弥呼の母は多分高木大神の叔母だろう”と言っておられた事から、あくまで推測ですが高木大神の匂いが濃厚な佐用都比賣神社にある伯母宮=天照大御神とは高木大神=高皇産霊尊の妹(叔母)の可能性があるのではないかと思います(極秘系譜を参照のこと)。これも今後の課題ですね。そのうち再度訪問しようと思っています。

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百嶋由一郎最終神代系譜


一番右端の奥ツ彦は高木大神系統なのですが、ナガスネヒコではないため、もしかしたら百嶋先生も間違っておられるのかも知れません。この点、当方の理解不足から上下が整合しません。課題です。

研究目的で百嶋神代系譜、講演録音声データを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 15:11| Comment(0) | 日記