太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年11月04日

261 チョッパリとパンチョッパリ

261 チョッパリとパンチョッパリ

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160506

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


奇妙なタイトルに思えるでしょうが、だんだん意味が分かってきます。

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古代史にある程度足を踏み入れた方は、宮廷に上がった女官が鹿の子だったから返されたとか、鹿の足だったから意地悪された…といった話をご存じかも知れません。


神話の森 > 歌語り風土記 

和泉式部の足袋 佐賀県杵島郡有明町大字田野上字泉 旧錦江村


 むかし杵島郡の和泉村の福泉寺の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒かうとすると、白鹿が飲んでしまった。鹿は毎日現はれて茶を飲んだ。ある日、堂の裏で赤子の泣く声がしたので、僧が行って見ると、鹿が人の子を産んで乳ちちを与へてゐた。この子は、寺で子授けを祈願してゐた大黒丸の夫婦に引き取られ、九歳のときに京へ上って宮仕へをしたといふ。娘は和泉式部と呼ばれ、あるとき故郷の錦浦に歌を送って来た。

 ○ふるさとにかへる衣の色朽ちて、錦の浦や、きしまなるらん  和泉式部


 和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。それを隠すために母は足袋を発明して娘にはかせたといふ。(柳田国男・和泉式部の足袋)


丹後国での話だが、翌日の狩猟に備へて和泉式部の夫の藤原保昌らが準備をしてゐると、夜更けに鹿の声が聞えた。和泉式部が鹿を憐れんで歌を詠むと、保昌らは心を打たれて狩りを中止したといふ。(古本説話集)

 ○ことわりや、いかでか鹿の鳴かざらん。今宵ばかりの命と思へば 和泉式部


神話の森 > 「歌語り風土記」より


開聞岳で閼伽の水を飲んだ雌鹿の口から生まれた赤ん坊は見目麗しく、生まれる時に瑞祥が現れたことから端照姫と名付けられて、智通上人と仙人の塩土老翁により大切に育てられました。日毎に美しさは増し、2歳で読み書きも出来ました。その評判は大宰府から朝廷にまで届きます。藤原鎌足によって京に呼び寄せられ、育てられることになりました。端照姫は13歳の時宮中に召され、名も大宮姫と改めました。

天智天皇は皇后を亡くしていたので、大宮姫が皇后となります。しかし、幸せは長く続きませんでした。

大宮姫は才女で、天女のように美しく、天智天皇の寵愛を受けたのですが宮中女官たちの妬みの的にもなりました。実は大宮姫には人に知られたくない秘密がありました。足の爪が2つに割れていたのです。姫は夏冬問わず、常に足袋を履き、素足を見せませんでした。しかし、ある日女官たちの悪だくみで、足袋を脱がされて鹿の足!牛の爪!とののしられます・・・。大宮姫は耐え切れず、人知れず近江大津宮を出て、生まれ故郷の開聞へ戻ります。しかし、天智天皇は大宮姫を尋ねて遥々開聞の地までやってきたそうです。

その後2人は末永く仲良く暮らしました。


鹿児島県だけで採集できる「大宮姫伝承」の一部ですがblog「思いっきりスローライフ」より


奇妙な話ですが、多くの民族(最低でも帰化人が)が衝突していたと考えられる宮廷がらみの話ですから、ここにはなんらかの民族衝突が反映されているのではないかと考えていましたが、ようやく分かってきました。 

 ここに「チョッパリ」という朝鮮語があります。既に、一部では日本語の中にも取り込まれていますが、列島人を侮蔑した言葉として、今、一層頻度が上がっているようです。 

この鹿の子と鹿の足の話を奇妙と思っていたところで、チョッパリとパンチョッパリが、列島人に対する半島人からの侮蔑語であることに気付き、疑問があっという間に氷解してしまいました。

 柳田民俗学とか古典文学や国史学の専門家の言説に頼る必要など全くありませんでした。

 ウィキペディアの次の記事をお読みになれば、この奇妙な話の意味が直ぐに分かったのです。

 情報化社会はもろ刃の剣と言われますが、こちらは良い方で、労することなく真実に辿りつけるのです。

 ウィキペディアは誰が書いたかが不明なため学者は毛嫌いし鼻であしらいますが、私は嫌がらせの意味でも多用することに方針を変えました。

要は真実に辿り着ければ良いだけで学者の遠回しで自己保身に満ちた御高説など一切不要です。


チョッパリ チョッパリ Anti-japan banner, 2005.jpg 韓国で差別語が公然と使われている横断幕

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各種表記 ハングル:쪽발이  漢字:豚足 / 豚脚 発音:チョッパリ チョクパリ

英語:jjok-bari テンプレートを表示

チョッパリ或はチョクパリは、朝鮮語における差別用語のひとつで、日本人に対する侮蔑表現である。韓国では比較的頻繁に使われる日本人の卑称。派生語と合わせて解説する。

概要

羊や牛や鹿などの偶蹄類に属する豚の蹄の先が二つに割れていることから、転じて植民地時代に朝鮮人が支配者である日本の民族衣装である下駄の鼻緒や足袋のつま先が二つに分かれている様子を動物になぞらえたものである。端的には「豚の足」を指していて、要するに下駄や足袋を履く日本人を豚になぞらえるようとする表現であって、「豚〜」という派生する差別表現も使われる。似た表現に、これよりも古くからあるが、「ウェノム(왜놈 / 倭奴)」があるが、こちらは小中華思想および中華思想を反映したものである。

また、同様に在日韓国・朝鮮人に対して朝鮮半島の人が使う、半分日本人であるという意味のパンチョッパリ(쪽발이 / 半チョッパリ)という侮蔑語もあり、これは在日への軽蔑の意を表す差別用語である。半分日本人は、同胞ではない部外者であることを暗示するが、混血児や日本在住者だけではなく、日本贔屓や日本人のような行動をする人に対しても広く使われる。似た表現に「キョッポ(교포 / 僑胞)」があるが、これにも侮蔑的ニュアンスが含まれる。


下駄:日本の伝統的履物。親指とその他の指の間に引掛けて履く。

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 文芸作品

小林勝に『チョッパリ』という小説があるが、朝鮮で暮らした日本人が敗戦を境に「部外者」であることを強く認識して「チョッパリ」という精神的な刑を自らに与えたというものであるが、後藤明生は同小説を「『朝鮮コンプレックス』とでもいう他ない」と書評している。

李恢成に、帰化問題をめぐって家族との葛藤をもつ在日青年を主人公にした「半チョッパリ」という小説がある。

ウィキペディア(20160506 12:30による

 十分にお分かりになったと思います。

 佐賀県白石町(旧有明町)、嬉野市塩田町出身と考えられる和泉式部は生まれたとされる現福泉禅寺(当時は無論禅寺ではない)の隣に百済の聖明王一族を祀る稲佐神社があることや、和泉式部の歌に「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」に登場する錦の浦から取られたと考えられる旧有明町がかつては錦江村であったこと、さらには、旧百済の王都の正面を流れる河が錦河(クムガン)であったこと、最後に、泉式部が初めに嫁いだ夫が橘 道貞であり、白石町と嬉野市を隔てる杵島山の西に橘奈良麻呂の変の立太子(廃太子)道祖王の墓が現存するなど、幼少期の式部には百済が色濃く取り巻いているのです。

してみると、和泉式部は「パンチョッパリ」と純粋な(新羅系?)半島人(帰化人)から攻撃され侮辱された事が見えてくるのです。

 新羅系からは、百済系も倭人と通婚している事から指が割れた足袋を履き、下駄も履くと毛嫌いし差別したのです。

 かれらは、逆に割れたズボンを着こみ鐙を踏むフェルトの靴を履く馬賊の子孫と言うだけの事なのですが、所詮、民族差別とはその程度のものなのです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:48| Comment(0) | 日記

262 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く K “真庭郡新庄村の御鴨神社”

262  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く K “真庭郡新庄村の御鴨神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160507

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久 


真庭の中心部から蒜山に向かいます。湯原からそのまま直行もつまらないので西の新庄村経由のコースを取りましたが、新庄村にもかなり重要な神社がありました。

 アジスキタカヒコネを主神として祀る神社ですが、なかなか出くわさないものです。

 境内摂社としては「稲荷神社大神」として一社がありますが、それ以外にはないようで、神社縁起に言う他四柱が如何なる神々であるかは今のところ分かりません。

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社殿は荘厳で境内は美しくそれだけで心惹かれるものでしたが、この御鴨という地名が上賀茂神社、下賀茂神社の「賀茂」から持ち込まれたものであることは言うまでもありません(逆の可能性もあるかも)。

 主神が誰であれ、実権を握っていた人々は加茂系の方々、白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の流れを汲む人々だったことを意味しています。

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玄松子、神奈備氏も採材されていないようですので、今回はウィキペディア氏を引用します。

 嘘つき、胡麻すりの御用学者にはウンザリしていますので、彼らの権威を認めないという意味でも今後とも多用させていただきます。


アジスキタカヒコネ

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。  

また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。

概要

大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。

伝承[編集]

『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。

『出雲国風土記』によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりした。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている。


ウィキペディア(20160508 0730による

さて、祭神です。


旧社格 県社 総本社 −−−−−

ご祭神

味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのかみ)※[別記]味耜高彦根命/阿遅鉏高日子根神

天御梶日女命(あめのみかじひめ)

大己貴命/大穴牟遅神(おおなむち)※[別名]大国主命

多紀理毘売命(たきりびめ)※[別記]田心姫(たごりびめ):日本書紀 ※[別記]田霧姫 他4

ご祭神について 味耜高彦根命:農業の神、雷の神、不動産業の神

天御梶日女命:味耜高彦根命の妃神(出雲風土記)大己貴命:国造りの神、農業神、商業神、医療神

多紀理毘売命:宗像三女のひとつ、大国主の妃神、下照姫命の母神

ご利益 商売繁盛、五穀豊穣、交通安全、恋愛成就 他[対応業種]不動産業 参拝形式 二拝二拍一拝

創建 −−−−−

由緒 当社は、美作郷の総鎮守の大神であり、往古は、美作国真嶋郡美甘郷美甘川の川上、新庄宮座山の山上に鎮座し、神代からの大宮所となる。称光天皇の応永26年(1419年)の頃,宮座山の麓の神集の上の宮に移し奉り、さらに,霊光天皇の延宝7年(1679年)、裏手の路の上の宮に遷座し、更に、中御門天皇の宝永7年(1710年)、現在地に至る。   所在地 (〒717-0201)岡山県真庭郡新庄村梨瀬5388

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三位、四位の大国主命と多紀理毘売命については説明不要でしょうが、味耜高彦根命、天御梶日女命については解説が必要かも知れません。

 結論から言えば、ウガヤフキアエズの事と考えられます。

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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


「ウィキペディア」氏が書いて(指摘して)いる @“迦毛大御神(かものおおみかみ)”の部分は、母親が豊玉姫であることから百嶋系譜のアジスキ…に対応しそうです。

また、“大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。”の部分は、大国主命のお妃の豊玉姫(タゴリ・ミホ)の次の夫となった山幸彦の子とすれば、異母(市杵島姫)の妹(下照姫)を持つことになり、混乱(偽装)されつつも整合しそうです。

その辺りが、“アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神…”に関係していそうです。

お分かりでしょうか?味耜高彦根命(アジスキキタカヒコネ)とは百嶋神代系譜のウガヤフキアエズ(安曇磯良=表筒男)の父親であり、鴨玉依姫(宗像三女神のタギツヒメ)夫に相当するのです。

 従って、天御梶日女命(アメノミカジヒメ)とは豊玉彦(ヤタガラス)と櫛稲田姫との間に産まれた鴨氏の正統継承者である鴨玉依姫の事なのです。

 そして、御鴨神社とはその栄えある系統を今に伝える貴重この上ない古社なのです。

 そこまで見てくると、唯一の摂社である稲荷神社が、何故、外に置かれているかも見えるのです。

 それは、この稲荷神社の神様とは伊勢神宮外宮の豊受大神の事であり、始めは海幸彦(阿蘇草部吉見神社)のお妃であり、次には山幸彦のお妃となった方だからです。

 背後に海幸彦と山幸彦の暗闘が垣間見えます。それは、鴨玉依姫を巡っても再燃しているのです。


由緒書きにその栄光が反映されています。


当社は、美作郷の総鎮守の大神であり、往古は、美作国真嶋郡美甘郷美甘川の川上、新庄宮座山の山上に鎮座し、神代からの大宮所となる。


 この川上も奈良の川上、つまり、丹生川上神社 上社、中社、下社 の川上であり、佐賀川上温泉郷の淀姫神社に通底しているのですが、その話は別稿とします。

 そこにも、ウガヤフキアエズ(アジスキタカヒコネ)の子であるアズミノイソラが、そして、そのお妃としての豊姫(ユタヒメ)=淀姫が鎮座しているからこそ、京都から大阪に淀川が流れているのです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:54| Comment(0) | 日記

2016年11月06日

263 東 瀛 遊(トオエイユウ) 

263 東 瀛 遊(トオエイユウ)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160514

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

研究会のスケジュールの合間を縫って、鹿児島市の城山観光ホテルで行われた第74期将棋名人戦第三局(羽生善治名人VS佐藤天彦挑戦者)の大盤解説会に行ってきました。

一応、地元佐賀県の某将棋連盟に参加していましたが、最近は将棋を指すよりも見る方が楽しく、もっぱら大盤解説会に参加するだけになっています。

このため、一セット35万円也(歩一駒一万円相当)の虎斑入りの八丈柘植の駒も仕舞い込んで冬眠状態にあります。

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タイトルを読まれた上に、場違いな将棋の話が飛び出して来て、冒頭から驚かれたでしょうが、勿論、将棋の話をする訳ではありません。

 ここで、見掛けたポスターに「東 遊」(トオインユウ)という文字を見たと言うだけの至って単純な話です。

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話には聴いていましたが、城山観光ホテルは車中泊族にとっては高嶺の花の超高級ホテルです。

 30年も前の昔は、鹿児島なら妙見温泉の石原山荘とか指宿温泉の白水館といったハイクラスのホテルや旅館を利用していたこともあったのですが、今や民俗学徒を気取り地べたを這いつくばるような旅をするのが当たり前になっています。

 将棋の方は、もう20年も遠ざかっており、刺さない将棋ファンですが(相撲や歌舞伎ファンはそんなもの)、結果だけは申し上げておきます。第三局は28歳の挑戦者佐藤天彦の勝ち(二勝一敗)となりました。

どうやら、26日に広島県福山市で行われる第四局二日目の大盤解説会にも行き、また広島県の山中に入り込み未踏の神社を見て回る事になりそうです。

 さて、本題に入りましょう。ロビーを徘徊していると、非常に面白いポスターに目が留まりました。

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ご覧のとおり、中国からの旅行団を熱烈歓迎するというポスターですが、この「東瀛遊」とはイースタン・グローバル・ツアーなのか?イースタン・エイ(Gはサイレンス?)・レジャーなのか不明ですが、中国の旅行会社の名称なのです(これもネット検索でエバーグロスツアーズの意味と判明)。

始めは「体験温泉」が旧字の「體」と書かれていることから(日本も戦前は體操と書いていたのです)、今でも難しい漢字を使い続ける台湾の代理店かと思ったのですが、後で分かったのですが香港の旅行会社だったのです。

これだけなら、何を言っているのだろうと思われるでしょうが、当ブログを丹念にお読みの方は思い当たられると思います。お読みでない方はこれらをご覧ください。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

              159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、臝政(エイセイ)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え 水+臝=「瀛」を姓としたのです。

 これらの事は後で触れるとして、この「東瀛」とは大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものを意味しており、恐らく、その事を認識している一族によって創られた会社が、この「東瀛遊」であろうとの発想が走ったのでした。

 してみると、香港もいつでも東南アジアに移動できる亡命地のような場所であり、列島に逃れた中国ナンバー・ワン秦帝国の始皇帝と姻戚関係を結び列島に移動した一族の一部である可能性があるのです。

 列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役  小角の一族がそれに当たるのです。

 そこまで考えれば、「東瀛遊」の社長が袁(エン)文英氏(清末期の袁世凱の一族なのでしょうか?)

であることは、今もその法則性が二〇〇〇年を越え働いていることに感動をすら抱くのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。

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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 178 参照


朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“


 名人戦は終局が夜ふけに及ぶ事が多々あります。翌日が久留米大学の公開講座の初日のため、局面も逆転の可能性がなさそうでしたので、終局を待たず早い段階で引き揚げましたが、今回は二日目の封じ手以降、つまり観戦の最初から最後まで羽生名人に良さそうな局面はなく、ある意味で一方的な一曲でそれほど面白くはありませんでした。

 唯一、面白かったのは、副立会人の木村一基八段と偶然トイレで隣り合わせの連れ○○○になった程度で、終局も確認せず足早に駐車場に向かいました。

 すると、正面に「東瀛遊」社のツアー・バスが駐車していたのです。

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運転手さんがおられましたので、「これは普通の方はなかなか読めないと思いますが、実際には“トウインユウ”か“トンエイユン”…と呼んでいるんではありませんか?とお尋ねすると、“「トウエイユウ」で良いようです”とのお答えを頂きました。

 しばらくお話をしましたが、一つだけ非常に面白いことを言われていました。

 それは、“「東瀛」だけで日本を意味していると聞いています”と言われた事でした(常識ですが)。

 私がにやりとした事は言うまでもありません。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。

ネット上の某辞書から


 まさに、二千年を越えた大陸の歴史を見た思いがしたのです。

 将棋より面白い発見に遭遇して何か得したような気分で、一路、無料の南九州自動車道を通り悲惨な状態に陥っている熊本方面に向かい戻ることになりました。

 翌日は昼から古田武彦亡き後ナンバー・ワンの研究者である佃 収先生の講演を聴くことになるのです。


以下参考


秦の始皇帝と市杵島姫


奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、


  1. 無題.png【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した

と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。

ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記