太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年10月12日

246 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く D “真庭市湯原温泉の社地区は古代の神域”

246  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く D “真庭市湯原温泉の社地区は古代の神域”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「安芸太田から邑南町へ中国山地の奥深く」に引き続き「真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く」へと物部氏の領域での神社探査を進めていましたが、いよいよ、その中心地と言うべき湯原地区に入ル事になります。

 湯原温泉には過去何度か足を踏み入れていますが、その泉源の素晴らしさにも関わらず、また、年間200湯に入るとしても、苫田ダムに対する当時の岡山(長野県政)県の旧奥津町への横暴の記憶も引き擦りつつ、ダム直下の温泉街というイメージを拂拭できずに未だに足が遠のき続けています。

 ただ、足が遠のいていたということは未知の領域が残されていた訳で、今回の神社探査に於いてハイライトとも言うべき「社」の古社実見へと繋がったのでした。

 以前から、「湯原」とは河原から自噴する温泉の意味と考えていました。

 事実、ダム直下の砂湯は敬遠しますが、最近できた下湯原温泉 「ひまわり館」も30メートル足らずで良泉を得ていることから、古代には方々に湯小屋が建てられていた事が目に浮かんで来ました。

 その日は、神社探査を早めに切り上げゆっくり温泉で体を休めましたが、明くる早朝から非常に気になる「社」地区の数社を訪問させて頂きました。

 案の定、ここには、山間の谷間に二宮神社、横見神社、佐波良刑部神社の三社が鎮座していました。

 そして、作州11延喜式内社の内なんと8社が置かれている事を知ったのです。

 まさに、「社」とは神々が鎮座する地の意味だったのです。

 早速、車中で「社」地区の神社についてネット検索を行うと、なんと、民間の高級ホテルのサイトがトップで飛び出してきました。

 最近は、行政機関の学芸サイトはゆるキャラ、町興し村興しの馬鹿騒ぎばかりで、見るに値しませんが、一般に分かり易く一目で分かる簡潔かつ明瞭な価値ある文章に出くわすことは稀です。

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横見神社より社の中心部を望む 正面右は尼ケ子山


まずは、お読み頂きたく思いますが、地域の雰囲気がたちどころに分かる良文です。


湯原温泉は、現在も温泉薬師周辺の河原一帯から温泉が自噴しており、古くは、その自噴する温泉をそのまま利用した露天風呂が多数ありました。またその一帯は河原の地熱そのものが高く冬季は、天然の床暖房として、たたら製鉄に従事する特に高齢者達がその河原に簡単な小屋を建て越冬地として利用していました。「たたら製鉄」は、弥生時代の後期から始まっており、湯原温泉一帯にはその時代からすでに多くの人達が分け入りたたら場と同時に温泉も利用されていたようです。この事から湯原温泉の開湯は、鉄の歴史と同じ弥生後期の約1700年前という説が有力です。奈良時代には最高権力者であった和気清麻呂の支配地となっており岡山県北の全域に当たる美作の地に政(まつりごと)を行う11の式内縣社が建てられたが湯原温泉の社地区にその内の8社が密集してあった事から時の権力者にとって重要な地域であったことが想像できる。今でもその社跡や史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)社地区から7里四方に多く存在していますたたら場には多くの人手が必要とされ500名から5000名規模の集団で作業を行ってたそうです。湯原温泉周辺にはそのたたら場が多数存在していました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用や冬の越冬地として湯原温泉がその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。

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映画「もののけ姫」に関しては、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社” 321春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 C “広島県旧加計町中心部の着天神社” でも、同映画のモデルになったといった忌部の歴史を意識し、安芸太田の「太田」が物部の「太田種子」の太田であることを書きましたが、この湯原の西には太田種子を連想する「種」地区があり宇気母智神(伊勢外宮豊受大神)を祀る田根神社があります。

また、製鉄に関わるものとしか思えない、鉄山川が流れる鉄山(カナヤマ)地区があり、表面は八幡神社とされていますが大山祇命を祀る鉄山神社までが揃っています。

正しく、巨大断層線により生み出された地溝帯故に地殻からマグマが吹き上がり、温泉が湧き出でているのであり、このような場所だからこそ、製鉄、冶金の国が開かれたのでした。

正しく、温泉とは巨大断層の恩恵でもあり、間違ってもダムを造るような場所ではないのです。

決して熊本地震の直後だから言っているのではなく、ダムとはスカンジナビア半島のような氷河で削られた谷には造っても良いのですが、巨大な地殻の割れ目に雨が流れ造られた谷には造られるべきではないのです(これぐらいのことは国土交通省の官僚どもは十分知った上で目先の利益に飛びついているのです)。

もしも、熊本地震クラスの地震が引き起こされた場合、巨大な水塊が一気に麓の温泉街を襲うことは必定なのです。では、場所を確認して頂きましょう。人災による巨大な洪水が起きても絶対に安全場所が、今尚神々が住み続ける社地区です。

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刑部神社、佐波良神社、二宮神社 横見神社 カーナビ検索 岡山県 真庭市 湯原 社


美作国の式内社は、次の11座(大1座・小10座)のみです。

大庭郡 8座 並小

佐波良神社    (四宮 佐波良神 社村谷口)

  http://www.genbu.net/data/mimasaka/sawara_title.htm    敬愛するHP「玄松子」のサイト


形部神社     (五宮 形部神=神阿多津比売命=木花咲夜姫 社村谷口)

佐波良神社と同じところに祭られている。


以下の五座は、二宮神社(ふたみや) に祭られています。

http://www.genbu.net/data/mimasaka/futamiya_title.htm  同じくHP「玄松子」のサイト


壱粟神社二座   (六宮 壱粟神=神大市姫命 社村於和佐)

(相殿 大笹神社  (七宮      社村於和佐)

久刀神社     (八宮 久刀神  社村於和佐)

兎上神社     (三宮 兎上神  社村於和佐)

長田神社     (九宮 長田神  社村於和佐)


横見神社     (十宮 横見神=大山津見命 社村加佐美山 )

http://www.genbu.net/data/mimasaka/yokomi_title.htm    同じくHP「玄松子」のサイト

五社ありますが、すべて、社村にあり、すぐ近くにあります。

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 分かり難いと思いますので少し整理しましょう。


形部神社                    形部神(神阿多津比売命)   岡山県真庭市社1272 

佐波良神社                  佐波良神

二宮神社        壹粟神社    神大市姫命          岡山県真庭市社字於和佐654

大笹神社    大佐々神

久刀神社    久那止神

菟上神社    岐神 あるいは 弟彦王命

長田神社    事代主神

横見神社          大山津見命                   岡山県真庭市社字加佐美山758


これら全てがこの小さな谷に集中しているのです。問題は、これらの神々の実体がどの程度分かるかです。

 以下、佐波良刑部神社、二宮神社、横見神社として順次考えて見ましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記

245 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く C “庄原市東城町川鳥の八幡神社”

245真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く C “庄原市東城町川鳥の八幡神社”

20160502

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


タイトルは、真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く としていますが、未だに広島県に留まっています。

既に参拝した神社は10社を超えていますが、全ての神社のリポートが書ける訳でも、書く価値があるものでもありません。

一早く真庭、湯原の神社について書きたいのですが、この神社までは触れておく必要があり、触れておく価値があるようです。

広島、岡山の山中には多くの小平野がありますが、ここもその一つで、少しばかりの小山や小丘を越えただけで、かなり開けた山上楽園とも言うべき平野が広がっていました。

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同社由緒に書かれている事ですが、地図の領域は川鳥村だけを示しており、まずは、この8倍のエリアがこの八幡宮の影響下にあったことが推察されそうです。

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創立年代不詳。往古より現境内の裏山(宮山と称す)中腹に山の神と して祀り来り、文和元年(1352年)に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したと伝える。当社は奴可郡の3八幡宮の一つとして、川鳥村、森村、田殿村、菅 村、山中村、始終村、未渡村、田黒村の八ケ村の大氏神と称していた。なお、 明治22年に6村合併により出来た八幡村の名の由来となる。また、昔より 社領 50 石ありしを福島正則に没収されたが、今も神田と称えて不浄を禁じ る地が残っている。神社の向い45町の所には『鳥居が段』と称する地名 が残り、往昔の鳥居のありし所という。その付近に存する小仏堂は、朝日山 万松寺と称し、かっては当神社の別当寺であったという。


森村は ひぼろぎ逍遥 343 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く B “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”で取り上げた白髪神社のある集落です。

当初からこの地域に八幡宮があることに多少の違和感を抱いていたのですが、古くから八幡神のエリアだったとは到底考えられません。その前にまず同社の縁起をご覧いただきましょう。

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八幡宮が進出するのは鎌倉政権成立からだいぶ経った後(1352年)の事のようですが、それ以前はと言えば、8ケ村ごとに異なった神を奉祭していた事が想像できます。

従って、この川鳥村に限って言えば、本来の神は大国主命、大歳神、国司神であったと考えるべきなのでしょう。

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  神額には大歳宮とあります     境内摂社として村荒神(三宝荒神)も 

ただ、国司神社は中国地方に散見されますが、ほぼ、大国主命を祀るものと理解しており、重複を意識せざるを得ません。しかし、川鳥村に、各々の名で大国主命を祀る別の社があったとも考えられることから、あまり細かい事には拘わらないでおきましょう。

さて、大歳神ですが、当ブログを長期間お読みになっている方にはお分かりと思いますが、阿蘇の草部吉見神=武甕槌命=春日大神=彦八井耳=支那津彦…であり、「古事記」のインチキ神話で大国主命に国譲りを迫った神とされるものです。

ただ、神殿の配置を見たとき、この神社の本来の神は大山祇命だったと理解しました。

それは、八幡神他(宮司と30分あまりお話ししましたが、神殿に大国主命は移されていると言う事でした)が祀られているその背後にもう一つの境内摂社が置かれている事そのものが本来の神が誰であるかを示しているのです。

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