太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年10月09日

244 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く B “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”

244 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く B “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”

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ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


つぎに向かったのは小奴可に近い白髪神社でした(髪と鬚は共用されているようです)。

 一般的に白髪神社と言えば、琵琶湖の白鬚神社が頭に浮かぶと思います。

祭神は猿田彦(実は山幸彦=ニギハヤヒ)とされています。


無題.png白鬚神社は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。 全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることら、「近江の厳島」とも称される。

所在地: 〒520-1122 滋賀県高島市鵜川 215  0740-36-1555               


 しかし、私達百嶋神社考古学の者には、直ぐに佐賀県佐賀市久保泉の白髪神社が念頭を過ります。

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川久保白鬚神社には、109日早朝今もなお続けられている『丸祭』がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会の肴・供え膳に残していることで注目されている。
 前夜のお籠りに続いて早朝、丸持の家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰したという。
 供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。
 御膳は30×25?角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。
 天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。
 『推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云』とある。残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。
 白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿説)

 上代の日付の変り刻は、日のくたち日没で、9日は8日の日没からであった。99日は重陽の日で、お供日の祭り日であった。明治5年暮の太陽暦採用により、1019日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変り省略された。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.9899


この白髪神社のエリアに「持丸」地名があることは前ブログで書いていますので、この一族が琵琶湖から来たか?九州から来たかについては、多少のベクトルが見えて来ます。


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無題.png さて、祭神ですが、参拝殿の神名表には白髪神社、母里神社を中心に12柱の神様が鎮座していました。

 まず、母里神社ですが、これは黒田氏の臣下の母里太兵の一族が奉祭したものでしょう。東城町森に、母里神社があるのですから整合します。


母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛・多兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。

槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。

「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため「毛利但馬」「毛利太兵衛」と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある


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右から、白髪神社の一族らしい白族の神々が並んでいます。金毘羅は良いとして、白王太子、○宮神社(これは不明)、恵比須、厳島神社と順当です。

 愛宕(金山彦)、住吉、鷺(ニギハヤヒ)、竜王、若宮(高良若宮か?)も順当です。

 驚いたのが、白王太子神社です。

 白山姫(天御中主命)+白川伯王‐大幡主-ヤタガラス(豊玉彦)‐鴨玉依姫(神直日)と続く白族の流れの最上位の神、恐らく博多の櫛田神社の大幡主の父が白王太子だろうと考えられます。

 これについては、故)百嶋由一郎氏が岡山辺りに、大幡主のお父さん、そして、お爺さんと思われる方が高知県に祀られていますと言われていましたが、先生がこの神社を見逃すとは考えられず、白王太子神社とは、白川伯王を祀るものと思われます。

 今回は、白王太子神社=推定白川伯王を見出したことで、他の問題はどうでも良くなってしまいました。

 白山姫=天御中主命以上に珍しい、それほど、レアな神様なのです。

 初めに申し上げた通り、白髪神社は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=鷺神社で良いでしょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


 故)百嶋由一郎氏からは、“初期の九州王朝、九州王朝前夜は佐賀の久保泉一帯を中心にしていました”と聞かされていました。

 この中心部にあったのが白髪神社であり、白族(雲南省昆明から海南島を経由し隈本に入った)の古い時代の拠点だったのです。

 このことについては、九州王朝論者でもほとんどご存じではなく、倭国形成期の最も重要なポイントなのですが、私達 神社考古学研究班でもまだ決定的なことは全く分かっていないのです。

 なお、最後尾に書かれている若宮神社は久留米の高良大社の主神 高良玉垂命の若宮(シレカシノミコト)=仁徳天皇(オオサザキ)の事だと考えられます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記