太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年10月02日

241 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 G “三次市日下の鹿島神社”

241 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 G “三次市日下の鹿島神社

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160422

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 ひぼろぎ逍遥 324 “県境に金山彦を探る!三次市の三つの迦具神社でとりあげた3つの迦具神社に移動する途中、由緒ありそうな鹿島神社を発見したのでおもむろに車を停め参拝させて頂きました。

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江の川、JR三江線に沿い国道375線を北下(こんな言葉ないのですが)していると、日下(ヒゲ)と呼ばれる地区の中心部に鹿島神社を見出したのです。

 この神社が阿蘇の草部吉見神社の祭神のヒコヤイミミを祀るものであると言えば、神社からも神社庁筋からもお叱りを被る事は明らかですが、「記」「紀」を真に受けることの無い百嶋由一郎神社考古学の立場からは、ここでもその事の一端を多少とも解読できるのです。

 その話に入る前に、まずは、社殿をご覧ください。

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まず、武甕槌命(鹿島大明神)は塚原卜伝が信奉した鹿島大神そのものであることはどなたも異論はないでしょう。

 一つ飛ばして、奥津日子神、奥津日女神は、スサノオと櫛稲田姫との間に産まれた「瀛」(イン)氏の長脛彦(ナガスネヒコ)と義理の娘となる奥津姫(鴨玉依姫=ヤタガラスの娘)の場合もあるのですが、天忍穂耳(実は阿蘇の草部吉見神=海幸彦)と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(オオヤマクイ)命と鴨玉依姫=ヤタガラスの娘である可能性もあるため現段階では判別できません。

 牛頭天皇=スサノウは良いとしてこの神社の場合、天水分神は阿蘇草部吉見神のお妃であった辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫=天大目(アメノウヅメ)で良いでしょう(多分、豊受大神が山幸彦のお妃となられた時点で境内摂社に移されている)。

 問題は、天穂姫命事代主命(春日神社)の解析です。

 私達、百嶋由一郎神社考古学の立場からは、通常、春日大社は藤原氏の一族を守るための軍神を求めて常陸の鹿島大社から鹿島大神=武甕槌命を勧請したとして説明をしていますが、実はその奥があり、本当の春日大社の祭神とはスサノヲと神大市姫(罔象女神)との間に産まれた辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫であり、さらに言えば、本当の奥の奥は母神である罔象女神を祀っているのですが(このことは春日大社はご存知のはずです)、表面的には武甕槌命(鹿島大明神)を祀っている事にされているのです。

 特にこの鹿島神社の場合、戦国期に威勢の良い軍神が勧請されていることから、前提として、女系の春日神社、つまり、辛国息長大姫大目命と罔象女神を祀る神社があったはずなのですが、それが物部氏とのの関係から隠され、大国主に国譲りを強いた天穂姫命(本当はヤタガラス)、事代主(国譲りに賛成した大国主の長男=帰順派)という奇妙な組合せの祭神に入れ替えられているようなのです。

 この点は、通説派による配神の解読も困難ではないでしょうか?

 縁起には武甕槌命の大国主命への国譲り交渉の話が書かれていますが、仮に出雲に侵攻するとなると三次を起点に江の川を下り出雲の手前に橋頭保を確保するのが一番合理的なルートであり、その事を意識した縁起になっているようです。

 ところが、百嶋由一郎由一郎氏は出雲神話の舞台は九州であり出雲ではないとします。

古事記神話は捏造なのです。

 しかし、興味深い一社でした。ただ、この祭神の解析になると対岸の粟屋駅付近の鹿島神社などと併せ判断するしかなく次回以降に廻さざるを得ません。

 いずれにせよ、この鹿島大神は九州の出身者=阿蘇草部吉見であるという事に関しては過去何度も書いてきていますので、今回は敢えて触れません。以下の ひぼろぎ逍遥 033042外をお読みください。

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さて、この鹿島神社が鎮座している地名「日下」(ヒゲ)について考えましょう。

 「日下」これは通常「クサカ」と読まれますが、漢字の読みだけからは普通「クサカ」とは読めません。

 しかし、多分、政治的な配慮から「クサカ」と読むことにしたのです。


『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」谷川健一より


この点に関して、「百嶋由一郎神社考古学」の立場から考えれば、多少の解決の糸口を持っています。

百嶋先生は、“阿蘇高森の草部吉見神社の「草部」は「草部」(クサカベ)クサガベと読むのではなく伽耶部(カヤベ)カヤガベ、カヤカベと読まなければ祭神の意味が理解できない。”といった趣旨の事を話しておられました(先生が話されていたのはあくまでここまでですが…)。

つまり、阿蘇のヒコヤイミミの御先祖は、雲南省麗江から海南島を経由し熊本県の天草下島の苓北町を起点に阿蘇まで進出し、半島から高千穂(三田井)から島原(南北両高来郡)から北部から伽耶一帯の支配者であった高木大神=高御産巣日神の次女をお妃として、高木大神の傘下に入った事を持って伽耶部の吉見=草部吉見と言われたとされているのです。

後に、恐らく藤原が権力を握った段階で、この辺りの事情が政治的にまずいと判断した結果(何故ならば、藤原氏はこの阿蘇の草部吉見の流れから端を発して権力に登りつめたからなのです)、草部を日の下の、つまり、掌握した日本国に従う意味で、草部を日下部(クサカベ)日下(クサカ)としたのです。

これを、国語学者、漢字学者、国史学者が寄って集ってトンチンカンな解読をしてこられたのですが、百嶋由一郎先生には既にここまでお見通しだったように思います。

逆に言えば、武甕槌命(鹿島大明神)を日下(ヒゲ)の集落の方が祀られている事が、武甕槌命が草部吉見神である事を裏付けているのです。

藤原は自らの家伝として草部吉見神が自らの祖先である事を知っており、「常陸国風土記」にも見られる軍神=建借馬命(タケカシマノミコト)を知っており、敵対勢力の橘氏に春日大社を建立させ、その強さを見せつけるかのように軍神=武甕槌命を勧請したのです。

 なお、市杵島姫と考えられる天水分神が神殿外に祀られている事も、市杵島姫が草部吉見=武甕槌命のお妃であった後に、大国主命のお妃にもなっておられる事から、多分、天穂姫命との関係上、同じ神殿から外されたものと判断できそうです。

 また、恐らく宮司家と思われる方の家紋が四ツ目であることを考える時、この家紋を使う一族が長崎県島原半島(南高来郡)の四面神社に関係する一族であり、高木(高来)大神であるため、草部吉見の初期のお妃が高木大神の次女の栲幡千千姫の系統である可能性を考えざるを得ないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 03:28| Comment(0) | 日記