太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年10月02日

241 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 G “三次市日下の鹿島神社”

241 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 G “三次市日下の鹿島神社

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160422

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 ひぼろぎ逍遥 324 “県境に金山彦を探る!三次市の三つの迦具神社でとりあげた3つの迦具神社に移動する途中、由緒ありそうな鹿島神社を発見したのでおもむろに車を停め参拝させて頂きました。

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江の川、JR三江線に沿い国道375線を北下(こんな言葉ないのですが)していると、日下(ヒゲ)と呼ばれる地区の中心部に鹿島神社を見出したのです。

 この神社が阿蘇の草部吉見神社の祭神のヒコヤイミミを祀るものであると言えば、神社からも神社庁筋からもお叱りを被る事は明らかですが、「記」「紀」を真に受けることの無い百嶋由一郎神社考古学の立場からは、ここでもその事の一端を多少とも解読できるのです。

 その話に入る前に、まずは、社殿をご覧ください。

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まず、武甕槌命(鹿島大明神)は塚原卜伝が信奉した鹿島大神そのものであることはどなたも異論はないでしょう。

 一つ飛ばして、奥津日子神、奥津日女神は、スサノオと櫛稲田姫との間に産まれた「瀛」(イン)氏の長脛彦(ナガスネヒコ)と義理の娘となる奥津姫(鴨玉依姫=ヤタガラスの娘)の場合もあるのですが、天忍穂耳(実は阿蘇の草部吉見神=海幸彦)と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(オオヤマクイ)命と鴨玉依姫=ヤタガラスの娘である可能性もあるため現段階では判別できません。

 牛頭天皇=スサノウは良いとしてこの神社の場合、天水分神は阿蘇草部吉見神のお妃であった辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫=天大目(アメノウヅメ)で良いでしょう(多分、豊受大神が山幸彦のお妃となられた時点で境内摂社に移されている)。

 問題は、天穂姫命事代主命(春日神社)の解析です。

 私達、百嶋由一郎神社考古学の立場からは、通常、春日大社は藤原氏の一族を守るための軍神を求めて常陸の鹿島大社から鹿島大神=武甕槌命を勧請したとして説明をしていますが、実はその奥があり、本当の春日大社の祭神とはスサノヲと神大市姫(罔象女神)との間に産まれた辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫であり、さらに言えば、本当の奥の奥は母神である罔象女神を祀っているのですが(このことは春日大社はご存知のはずです)、表面的には武甕槌命(鹿島大明神)を祀っている事にされているのです。

 特にこの鹿島神社の場合、戦国期に威勢の良い軍神が勧請されていることから、前提として、女系の春日神社、つまり、辛国息長大姫大目命と罔象女神を祀る神社があったはずなのですが、それが物部氏とのの関係から隠され、大国主に国譲りを強いた天穂姫命(本当はヤタガラス)、事代主(国譲りに賛成した大国主の長男=帰順派)という奇妙な組合せの祭神に入れ替えられているようなのです。

 この点は、通説派による配神の解読も困難ではないでしょうか?

 縁起には武甕槌命の大国主命への国譲り交渉の話が書かれていますが、仮に出雲に侵攻するとなると三次を起点に江の川を下り出雲の手前に橋頭保を確保するのが一番合理的なルートであり、その事を意識した縁起になっているようです。

 ところが、百嶋由一郎由一郎氏は出雲神話の舞台は九州であり出雲ではないとします。

古事記神話は捏造なのです。

 しかし、興味深い一社でした。ただ、この祭神の解析になると対岸の粟屋駅付近の鹿島神社などと併せ判断するしかなく次回以降に廻さざるを得ません。

 いずれにせよ、この鹿島大神は九州の出身者=阿蘇草部吉見であるという事に関しては過去何度も書いてきていますので、今回は敢えて触れません。以下の ひぼろぎ逍遥 033042外をお読みください。

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さて、この鹿島神社が鎮座している地名「日下」(ヒゲ)について考えましょう。

 「日下」これは通常「クサカ」と読まれますが、漢字の読みだけからは普通「クサカ」とは読めません。

 しかし、多分、政治的な配慮から「クサカ」と読むことにしたのです。


『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」谷川健一より


この点に関して、「百嶋由一郎神社考古学」の立場から考えれば、多少の解決の糸口を持っています。

百嶋先生は、“阿蘇高森の草部吉見神社の「草部」は「草部」(クサカベ)クサガベと読むのではなく伽耶部(カヤベ)カヤガベ、カヤカベと読まなければ祭神の意味が理解できない。”といった趣旨の事を話しておられました(先生が話されていたのはあくまでここまでですが…)。

つまり、阿蘇のヒコヤイミミの御先祖は、雲南省麗江から海南島を経由し熊本県の天草下島の苓北町を起点に阿蘇まで進出し、半島から高千穂(三田井)から島原(南北両高来郡)から北部から伽耶一帯の支配者であった高木大神=高御産巣日神の次女をお妃として、高木大神の傘下に入った事を持って伽耶部の吉見=草部吉見と言われたとされているのです。

後に、恐らく藤原が権力を握った段階で、この辺りの事情が政治的にまずいと判断した結果(何故ならば、藤原氏はこの阿蘇の草部吉見の流れから端を発して権力に登りつめたからなのです)、草部を日の下の、つまり、掌握した日本国に従う意味で、草部を日下部(クサカベ)日下(クサカ)としたのです。

これを、国語学者、漢字学者、国史学者が寄って集ってトンチンカンな解読をしてこられたのですが、百嶋由一郎先生には既にここまでお見通しだったように思います。

逆に言えば、武甕槌命(鹿島大明神)を日下(ヒゲ)の集落の方が祀られている事が、武甕槌命が草部吉見神である事を裏付けているのです。

藤原は自らの家伝として草部吉見神が自らの祖先である事を知っており、「常陸国風土記」にも見られる軍神=建借馬命(タケカシマノミコト)を知っており、敵対勢力の橘氏に春日大社を建立させ、その強さを見せつけるかのように軍神=武甕槌命を勧請したのです。

 なお、市杵島姫と考えられる天水分神が神殿外に祀られている事も、市杵島姫が草部吉見=武甕槌命のお妃であった後に、大国主命のお妃にもなっておられる事から、多分、天穂姫命との関係上、同じ神殿から外されたものと判断できそうです。

 また、恐らく宮司家と思われる方の家紋が四ツ目であることを考える時、この家紋を使う一族が長崎県島原半島(南高来郡)の四面神社に関係する一族であり、高木(高来)大神であるため、草部吉見の初期のお妃が高木大神の次女の栲幡千千姫の系統である可能性を考えざるを得ないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 03:28| Comment(0) | 日記

2016年10月03日

242 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く @ “庄原市西城町木山神社(爾比都売神社)”

242 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く @ “庄原市西城町木山神社(爾比都売神社)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160501

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「安芸太田から邑南町へ中国山地の奥深く」として13本(実質15本)のリポートを書きましたが、粗方書き終わると直ぐに熊本人工地震に襲われ、その後も、連続して引き起こされた余震、本震にも関わらず、運よくほとんど被害が出ない幸運に感謝しながらも、多少は熊本のメンバーへの支援などを行っていました。しかし、広島、島根の県境領域に続いて、岡山、鳥取の県境領域に於ける物部系神社の調査への思いを抑える事が出来ずに、424日には再び研修所を出発していたのでした。

今回も山口県の小郡ICから中国自動車道に入り、夜9時には広島県三次市付近のパーキング・エリアで車中泊となり朝8時には庄原ICを降りていました(高速料金3200円)。

逸る気持ちを抑えながら早くも庄原市から北の備後落合方面の中国山地の奥深く車を進めていました。

今回の調査行で始めに遭遇した神社が木山神社 爾比都売神社でした。


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祭神 埴山毘売神・金山毘古神・大山祇神

元は久代のニヒツ山(権現山)に鎮座していた。この山は古代の丹生山すなわち朱砂を産出する山であり、最初は爾比都売神の単独祭祀であつたが、後代、修験に護持されて丹生高野の両所明神と祭神が変化し、この地の朱砂の産出が絶えると、創祀以來の爾比都売が忘却されて、高野明神だけが高野権現の形でこゝに留まつていた、その高野明神もやがては修験の衰頽と運命を共にした。

文化年中(1804−17)約30Km西の西城町に再興された。

HP「延喜式神社の調査」による

御祭神 『塙山毘売神(はにやまひめのかみ)』

相殿神 『金山毘古神(やなやまひこのかみ)』『大山祇神』…中略…

摂末社 『善覚神社』(御祭神、倉稲魂神〔うがのみたまのかみ〕、保食神〔うけもちのかみ〕)

由緒  『創立年代不詳。延喜式内社。『芸藩通志』に「今西城町にて此を祭る。延喜式内神名、備後國奴可郡1座、爾比都賣神社とあり。されば此社は当郡の名神なるに、世変によりて久しく廃し、其社地さへも知れずなりぬ。久代村高野権現山をにひつ山とも称するよしなれば、昔、此山に鎮座ありしやとおもはるれど、外に跡もあらず(中略)されば、郡内の祠官等も式内の社久しく廃せしを嘆き、初西城町厳島神社において仮に此神を勧請せしが、又別に社を建て郡の総社とあがめ、此を祭らん事を祠官等同じく議して藩府に請ひ、遂に新に地を卜して社を造営することとはなりぬ。』と、その廃絶、再興の事情を記している。安政5年(1858年)社殿再建。現在の社地は、往古の社地とされる高野権現山の西30キロに当り、奴可郡の中央に位置し、江戸期には砂鉄採取を多くの住民が生業となしており、西城はタタラ製鉄の中心地として栄えていたことにより、当地の守護神としてこの神社を再興したものと思われる。明治6年、郷社に列格、昭和11年に本殿再建、拝殿葺替。』

HP「堀江知行の神社紹介ブログ」による

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熊本で木山地名と木山神社に遭遇したことがありましたが、あまり馴染みのない神社です。同地を始めとして、岡山県真庭市から島根県雲南市など五、六社程度確認できます。

恐らくスサノウを祀っているはずですが、この西城町の木山神社が爾比都売神社の摂社摂末社 『善覚神社』(御祭神、倉稲魂神〔うがのみたまのかみ〕、保食神〔うけもちのかみ〕)に対応しているかについては不明です。

倉稲魂神、保食神は同一神ともされますが、スサノウとも無関係ではなく、便宜上、倉稲魂神、保食神で代行される場合もあるようです。なお、木山とはスサノウの半島からの植林の話にも思えます。

神社の南の大冨山も富の長脛彦(スサノウと櫛稲田姫との間に産まれた)を思わせ、これだけでも、スサノウを感じていました。


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一方の爾比都売神社ですが、恐らく、この神社がスサノウ系信仰圏の上に覆いかぶさってきた神社であり、この神社の本質を表しているものと思われます。

爾比都売神社とは九州では丹生都比賣神社とされる一連の神社群であり、丹生都姫を祭神とします。

当方の把握する範囲では、長崎県との県境に近い佐賀県の嬉野市の不動山地区から中心部を通り、東の同市塩田町の中心部を抜ける線上に5社ほどの丹生神社、丹生都姫神社を確認していますが、有明海を越え、熊本県から大分県に掛けて延びる構造線上にこの神社が並び、四国、和歌山へと延びているのです。

この丹生都姫こそがこの神社の祭神と言えそうです。

問題はその丹生都姫が誰なのかですが、この神社によって鮮明に見えて来るのです。祭神は埴山毘売神・金山毘古神・大山祇神とされています。そうです。埴山毘売神とは埴安姫の事で、白族の博多の櫛田神社の主神の大幡主の妹なのです。同時に瀛氏の金山彦のお妃となり、後に越智族の大山祇神のお妃ともなった埴安姫こそこの神社の主神なのです。

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では、百嶋由一郎最終神代系譜で確認して下さい。百嶋神代系譜が如何に正確かがお分かりになったのではないでしょうか?同時に、この神社は非常に正確に古代の最も重要な神々を伝えているのです。

ただ、その基層にはスサノウの影も見えるのです。

入、乳、新、丹生…と多くの表記が認められますが、この西城町を国道183号線で北上し備後落合から鳥取県に入ると、賀茂神社がある日野町がありますが、その中心地にも「根雨」(ネウ)という地名が拾えます。これも丹生(金を造る際に必要な水銀化合物)に関係する地名なのです。

また、賀茂神社も爾比都売の甥であるヤタガラス(豊玉彦)を祀る白族の神社なのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記

2016年10月06日

243 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く A “庄原市東城町天照真良建雄神社”

243 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く A “庄原市東城町天照真良建雄神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160501

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 広島県庄原市西城町の木山神社(爾比都売神社)を見せて頂き、次に向かったのはJR芸備線の備後落合方面でした。途中には、ヒバゴンで有名になった?比婆山駅もあります。そのまま進めば島根県に入ってしまいますので、東に向きを変え、東城町方面に進み、岡山県の新見、真庭へと向かう事にしました。

 比婆山駅を過ぎると右手に「八鳥」と言う地名があります。

ヤタガラス、鳥子、服部、ハッティシェリさえも頭に浮かんでくるのですが、それだけではただの思い付きでしかなく、そこで行き止まりになってしまいます。

 次に、見せて頂いたのは、JR小奴可(オヌカ)駅から多少山中に入った天照真良建雄神社でした。


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まず、小奴可という地名ですが、地名研究の立場からはこの様な3文字の地名は713年の所謂好字令以前のものであり、この集落が非常に古くから開発された土地であることを物語っています。

 そのような土地だからこそ、天照真良建雄神社といった仰々しい(ある種凄まじい)社名も残っているのです。


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広島県神社誌には搭載されているようですが、手元にないため祭神が不明です。

ネット上には、インドの神との話が出て来ますが、天台修験の領域のためない話ではありません。


『日本三代実録』貞観三年(861)十月二十日条に、備後国正六位上の大神神、天照真良建雄神に並びに従五位下を授く。という神階昇叙記事があり、これらの神は『延喜式』神名式へ登録されていないことから「式外社」、また国史に名が見えることから「国史現(見)在社」とも呼ばれ、この国史現在社は備後国内に五社が知られているが(神田神、大蔵神、大神神、天照真良建雄神、隠嶋神)、

上の記事中の「天照真良建雄神」を「あまてらすますらたけをのかみ(天に照り輝く、雄々しく猛々しい男神)」と読み、これを素戔嗚尊の別名として当社に比定する説がある。

小童は京の祇園社が社領としたほどの地であることから、*当時、小童には中央に知られるほど武塔神・素戔嗚尊に対する強い信仰があり、当然それを祭る有力な社があった*神祇官が管理しない式外社にもかかわらず中央にその名が知られていたことから、過去その祭神に神階が授与されていた可能性は高い*よって備後国史現在社五社のうちの一社が小童の社となり、それに該当しそうなのは天照真良建雄神ということになるか。ただし両者を直接結びつける物証はなく、もしこれを「あまてらすまらたけをのかみ」と読んだ場合は、 記紀や『先代旧事本紀』にみえる鍛冶師の祖神「天津麻良(あまつまら)」に美称を重ねた形とも思われ、「真金吹く」吉備の国は古代より製鉄が盛んだったことから、いずれかの鍛冶集団の守護神であったとも考えられる。

その場合、世羅郡にも「カナクロ谷製鉄遺跡」があり(世羅郡世羅町黒渕)、これは67世紀の製鉄炉跡とみられているので、天照真良建雄神が鍛冶神であったとしても世羅郡内に祀られていた可能性がある。

須佐神社や、南の亀甲山に鎮座する武塔神社の境内には末社「金神社」があって、これはかつて製鉄が行われていた名残とも思われる・・・ と、神名ひとつでは材料が少なすぎて何とでも言えてしまう。確定には有力な物証が必要。「備後国内神名帳」でも発見されればいいんだけれど・・・国内神名帳は法会において国内の神々を勧請する時に用いられることがあり、その国内で有力であった寺院に保管されていることがある。どっかの寺にでも残っていないものか。(*「天照」の称について・・・現在、「アマテラス」といえば伊勢の神宮に祀られる神様をさす
332-3 が、もともとは「天に照り輝かれる」という「天上の存在に対する美称」であって、固有名詞ではない。『日本書紀』には、「日神(ひのかみ)」の御名を「大日孁貴(おほひるめのむち)」とし、別名として「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」としていることからもわかる。『万葉集』にも、「あまでらす 神の御代より 安の河 中に隔てて・・・」という歌があるが(4125)、この「あまでらす」は「アマテラスオホミカミ」のことではなく「(天上の)神」の枕詞として用いられている。「天照大神」とは、「天に照り輝かれる大いなる神」という、至って貴い存在を呼ぶのに固有名詞ではなく普通名詞をもってあらわした形。目上の存在を呼ぶときに本名ではなく「先生」「社長」「ショチョォ!」のように肩書きで呼ぶ、という感じか。また、記紀が編纂された頃には日神としてだけでなく農業神・武神・皇祖神など様々な神徳・属性を付与されており、「大日孁貴」という、意味が「日の女神」に限定された固有名詞では、それらを包括するには充分ではなくなっていたこともある)

HP「にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん」による


非常に参考になる先行ブログをお読みいただきましたが、まだ、腑に落ちません、このように顔の見えない神社は数多くありますが、なんらかの痕跡はあるものです。

 境内摂社には、エビス、大黒のセットが置かれていることから、天台修験が覆い被さって来る以前の配神は、恐らく大国主命が…、また、皆さんお気づきになっていないようですが、境内摂社の祠の神名(木)札に「鷺大明神」があり、なお、鳥居にも「鷺大明神」と読める神額があることから、ある時代にはこの鷺大明神こそが祭神であったものと考えられます。

 では、この「鷺大明神」とは誰のことでしょうか?

 当久留米地名研究会のお膝元、久留米水天宮の付近にある久留米市大石町の天照御祖神社の表面上の祭神こそ、この鷺大明神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの命なのです。鷺大明神と書かれているのがお分かりになりますか(画像は見やすくするために多少加工しています)?

詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)108「伊勢天照御祖神社 “久留米の佐岐神社は誰を祀るのか?”」をお読みください。一応、その一部を以下に掲載しておきます。


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伊勢神社、皇大神宮、大神宮といったものや天照大御神を祀る神社が以外と少ない事は確かで、佐賀市の伊勢神社、福岡県小郡市の御勢大霊石神社、伊勢山神社、福岡県久山町の伊野皇大神宮…と数えるほどしかありません。

ところが筑豊に入ると、天照神社なるものは、大抵、ニギハヤヒを祀るものであり、天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)という物部の神が祀られているのです(恐らく久山町の伊野皇大神宮も、伊野という地名から考えても本当はニギハヤヒを祀っているはずです)。

ここで、少し結論を急ぎます、もし誤っていたら、将来、訂正を入れる事とし、思考錯誤を繰り返しながらも少しでも真実に近づくには作業仮説を提出する事を恐れてはならないのです。

仮説@ 佐岐神社とは、今は天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を祀るもので、元はそのお妃である豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメを祀るものだったが、その夫である山幸彦と入れ替わったもので、外観としては千木がそのまま元の姿を留めているもの。

仮説A 佐岐神社とは、今も豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメ豊受大神を祀るものであるが、その夫である天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を表に出しているもの。

 少しニュアンスが異なりますが、ほとんど変わりません。それは「佐岐」の語幹がどちらの物かが見当が付かないからです。

 ただ、百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)に山幸彦の別称として、大伊乃伎神と書かれているものがあることから、佐岐と伎が音通しているように感じるものの、豊受大神にはその様な別称を見ないからというだけのことです。

 107 香春神社 “アメノウズメノミコトを主神として祀る神社である事をご存じですか?” において、も、豊受大神の前夫、後夫が海幸彦、山幸彦であることは述べましたが、男神、女神についての混乱が、伊勢神宮ばかりでなく伊勢系神社に認められる事から、後の蘇我物部抗争とも絡んで、山幸彦を表に出せなかった時期もある上に、神格としては遥かに高いアメノウズメが本来の神ではないかと思うものです。

 従って佐岐神社が本来であったが、物部全盛期に伊勢天照御祖神社(山幸彦が本体)が跳梁跋扈したものの、その後、物部氏が表に出せなくなった結果、本来の佐岐神社に戻ったものかも知れないのです。

 少なくとも伊勢の名に踊らされ天照大御神が祀られているとするのは誤りだろうと思うものです。

 ただ、明治期は伊勢神宮の天照大御神なる女性神が祀られていたと装っていた可能性はあるのですが…。


いずれにせよ、先行する、スサノウ、大国主命信仰の上に物部のニギハヤヒ奉祭が成立し、室町から戦国期の神仏習合による牛頭天皇への復帰と併せ、仏教系混合神を受入れたのがこの神社の性格ではないかと考えているところです。

 なお、この地区を下り、東城町の中心部に向かう途中の右手に朝倉山があり持丸地名が拾えます。

また、この一帯には、木瓜紋を倉に付す家もあり、福岡県の現朝倉市と対応します(持丸もあります)。

 恐らく、千数百年以前と思いますが、古い時代にこの地区には九州からの移住、開拓、植民、逃亡?…が行われたものと思います。

 少なくとも、地名はその事を物語っています。このように僅かな痕跡から多少の解析は出来るのです。


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こちらは、グーグルマップで福岡県朝倉市持丸を出したものです。大己貴神社(大国主命)もあります。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記