太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年09月15日

236 福岡県鞍手郡に高木大神の娘を単独で祀る神社があった “小竹町絹干神社”

236 福岡県鞍手郡に高木大神の娘を単独で祀る神社があった “小竹町絹干神社”

20160407

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新潟県の柏崎刈羽といえば、知らぬ人のない東京電力柏崎刈羽原発の地ですが、そこから北東方向に45キロほどの所に、あまり知られてはいない旧延喜式内社(越後國三嶋郡)の二田物部神社(明治の村社、大正の県社)があります。

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カーナビ検索新潟県柏崎市西山町二田602


多 少とも調べれば、この西山町こそ故)田中角栄首相の出身地であったことまで分かるのですが、それはさておき、二田物部神社の「二田物部」と言えば、「先代 旧事本記」に言う「二田造 和泉郡二田(曽彌神社境内二田物部神)大阪府泉大津市 天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。二田物部 和泉郡二田(前掲)二田物部神社 新潟県刈羽郡」……敬愛する「神奈備」による。のように、彼等こそ天下の物部25部族の筆頭に掲げられる中心的戦闘集団だったのです。

御祭神 二田天物部命  配祀 物部稚櫻命 健御名方命宇摩志摩治命 『神名帳考證』『越後野志』

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この柏崎刈羽の二田物部神社についても、さすがはHP「神 奈備」氏、きちんと把握されているのですが、今回、改めて訪問しこの神社の神紋を実見したところ、徳川の三つ葵の垂幕ばかりかその少し前の形式を留める 「尻合わせ三つ葵」という珍しい神紋が打たれていたのです。ここは徳川の天領であったこともあり、徳川三つ葵の垂幕があるのは当然としても、この尻合わせ 三つ葵も初期の松平、本多氏が使っていた家紋なのです。特に本多忠勝の家伝では、“もと加茂社の神官であった”といわれ十分に繋がりがあるのです。さて、 ここから多少の思考の冒険をお許し頂きたいのですが、福岡県鞍手郡小竹町に新多(ニイタ)があります。通常、物部研究ではこの小竹こそ二田物部の地とされ ていますが、今も、この新多の正面中央から飯塚市境に掛けて、陸上自衛隊の小竹駐屯地が存在しているのです。つまり、この筑豊の中央部から新(ニイ)潟二 田(ニイタ)に展開した一派があり、戦国時代の最終勝利者としての三河武士団=物部=武士=モノノフが登場したのではないかとの思いが馳せるのです。さ て、航空自衛隊築城基地は、福岡県築上郡 築上町西八田‎にあり、シンデンバルと呼ばれていますが、宮崎県のそれは富町にあり、ニュウタバルと呼ばれていますね。この地には「新」を持って「ニュウ」とヨーロッパ的な発音をする人々がいたようにも思うのです。恐らく、新田義貞の「ニッタ」も可愛山陵のある新田神社の「ニッタ」も…全く関係なしとはしないのです。八田ヤタガラスで八咫鏡のヤタ?久留米大学公開講座(特別枠)九州王朝論では321日にも内倉、福永W講演が予定されています。詳細は後日HPなどで案内します。  


以上は、スケジュール表と併せ、8つの提携研究会内で配布している久留米地名研究会グループの広報チラシの一部です。

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これについては、ひぼろぎ逍遥 295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した として公開予定であり、その際には、さらに詳しく読んで頂くことにしています。

勿 論、これは一つの仮説として提出したものでしかありませんが、簡略化して言えば、古代のある時期、筑豊の物部氏の多くが日本海側に大量に展開、進出してい る一つの例として、福岡県鞍手郡小竹町から徳川氏の先祖となった人々が新潟県の柏崎市に進出しているのではないかとしたものです。

この興味深い仮説の検証のためにこの鞍手郡一帯の神社を調べていた際に、古代ではなく「記紀」神代に登場する高御産巣日神(タカミムスビノカミ)=高木大神の娘を単独で祀る神社に遭遇したことから、ご紹介したいと思います。

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掘河天皇が寛治2年(1088年)新多区の上日鼻に勧請され、至徳元年(1384年)社地を同区一井ヶ浦に遷宮された。祭神は、機織姫命、同区の氏神様として信仰を集めている。大正9年(1920年)神殿と拝殿が改築された。

小竹町のHPより


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同社縁起


「機織姫命は御産日神(たかむすひのかみ)の御子(みこ)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の妃(きさき)で、古来から織女神(おりめがみ)として崇(あが)められています。」

では、御産日神の御子で天忍穂耳命のお妃とはどなたの事でしょうか。

故)百嶋由一郎氏が亡くなられる数カ月前に作成された最終神代系譜(通称みたらし団子)です。

 高木大神には天孫ニニギ(過剰格上げの呼称と言われていましたが)を含め三人の御子が書き留められています。

 ご覧になればお分かりの通り、長女の豊秋ツ姫は博多の櫛田神社の大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)のお妃になられていますので、阿蘇の草部吉見神社の主神である天忍穂耳(贈でしかない孝昭天皇これも格上げの格上げと言われていましたが)のお妃となった次女の栲機千々姫こそ絹干神社の主神である機織姫命であることがお分かりになると思います。

 いつもながら、故)百嶋由一郎氏の神代系譜には敬服します。

このように神様には多くの名が使われており、政略結婚が横行していた神代(と言っても2600年も前ではなく二世紀の話なのですが…)には、結婚〜離婚の連続で直ぐに前夫、前妻を配慮して神名を改めるのが普通だったと百嶋先生は話されていました。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


さて、天忍穂耳命のお妃の栲機千々姫が主神となると、この小竹には実際にこのお姫様が住んでいた可能性、リアリティをさえ感じてしまうのです。

 何故ならば、皆さん良くご存知の山岳修験の彦山と言えば、主神をこの天忍穂耳命とするからであり、付近には「勝野」という地域があり、この正勝吾勝の勝が付されている集落に思えるからです。

 まさか、勝野に草部吉見が新多に機織姫が実際に住んでいたのではないかとまで思ってしまうのです。

と、言うのも、栲機千々比売神を祭神とする神社自体が極端に少ない(下記の三社か?)上に主神として祀る神社に至っては当方が把握している限り、ここにしか存在しないからです。


機物神社             大阪府交野市倉冶一丁目17

椿大神社(猿田彦大本宮)     三重県鈴鹿市山本町1871

 高木神社             福岡県田川郡大任町大字大行事成光2310


英彦山神宮(ひこやまじんぐう)は、福岡県田川郡添田町にある神社。近代社格では官幣中社、現在は神社本庁の別表神社。通称彦山権現。日本有数の修験道の霊場として栄えた。御祭神の別名を取り、忍骨命神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。正哉吾哉勝速日天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)を主祭神とし、伊佐奈伎尊(イザナギ)・伊佐奈美尊(イザナミ)を配祀する。

HP「神話と古事記」による


アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する。『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、『日本書紀』では正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

『古事記』では、アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリニニギをもうけた。

ウィキペディア(20160408 130


アメノホアカリニニギをもうけた(これは古事記神話の捏造の部分ですね…言うまでもないことですが)。


では、境内をご覧いただきましょう。

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最低でもこの絹干神社を奉祭する集落には高木大神系の末裔と考えられる人々が実際に住んでいた可能性が非常に高く、その一族から別れた方々が新潟県柏崎市の二田に移動したように思えるのです。

 こちらは、次女の系統ですから残った可能性も十分にありますが、夫の天之忍穂耳命(その一族か)もこの地から東へと進出した(この地は古代遠賀湾の湾奥地であることは一目ですから)進出拠点だった事が見えて来るのです。

石川県を中心に地名も含め小竹(オタケ)神社が散見されます。今後の課題にします…。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記