太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年08月02日

211 阿蘇白川水源の白川吉見神社に祀られている神様をご存知ですか? 

211 阿蘇白川水源の白川吉見神社に祀られている神様をご存知ですか? 

20160303

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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白川吉見神社


水の産まれる村白水村が失われ南阿蘇村という無味乾燥な名に変わってどれほど経ったか分かりませんが、今なお、阿蘇最大の観光スポットの一つがこの白川水源です。

個人的には、喧騒を避けその他の隠れた水源を巡るのがシック(チケ)とするのが当方流ですが、ここで関心を寄せるのは当然ながら白川吉見神社です。


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14℃の水が毎分60tも湧き出る白川水源

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白川吉見神社 カーナビ検索 南阿蘇村(旧白川村)白川2040

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最近、同社では撮影が規制されているため(法的にも根拠のないアメリカ流の猿まねですが)、いつも読ませて頂いているHP「神社探訪狛犬見聞録・注連縄の豆知識」から画像を借用させて頂きました。いやな時代になって来ました。深謝!


 さて、熊本市の中心部を貫流する白川は、かつては白水と呼ばれ、ある時代は白水と中国風(中国大陸では民族、従って、時代により、各々、河、水、江…ムル、ゴロ、ダリア…、)に表記されていたと考えられます。

 その痕跡の一つが、白川吉見神社のある村が白水村と呼ばれている事かも知れません。

 台湾の淡水、漢水、弱水…など幾つも拾えます。

 故)百嶋由一郎先生は、この人々が福岡県に移動して来たのが春日市の上、下白水(シロウズ)と言われていました。

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普通はありえませんが、ここでは男女千木が両方使われているようです


多くの観光客のうち、白川吉見神社に参拝され実際にお賽銭までとなる参拝客がどの程度おられるかは分かりませんが、白川吉見神社の名の通り祭神に阿蘇高森の草部吉見神社の彦八重耳の一族、吉見様=所謂、春日大神=鹿島大神がおられます。


白川吉見神社 御祭神 国龍大明神 罔象女命


「熊本県神社誌」でも国龍神・罔象女神とされていますが、この水の神ともされる罔象女神こそ国龍神=草部吉見より遥かに格上の本来の祭神なのです。

故)百嶋先生は、本来の神様が消され、阿蘇が覆い被さろうとしていると表現されていました。

 今回は、ここまでとしますが、この事も含めて神社と水源を訪問されれば、喧騒の観光スポットも楽しく巡れる事になるかも知れません。

 では、知られているようで、良く分からない罔象女(ミヅハノメ)神がどなたであるかをお知らせしておきます。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


大者中の大者同士、トルコ系匈奴の大山祇神(月読命)とヘブライ系白族の大幡主(博多の櫛田神社の主神)の妹との間に生まれたのが神大市姫=罔象女であり、スサノウのお妃にもなられ、次の時代の最も重要な神様、辛国息長大姫大目命=香春岳の主神、山幸彦=ニギハヤヒのお妃になるプリンセス豊受大神=伊勢外宮をお生みになるのです

草部吉見など足元にも及ばないどえらい超大物の女神様なのです。

最後ですが、水の神様と言えば、弁財天様が頭に浮かぶと思います。

これは、宗像三女神の市杵島姫の事なのですが、この外に美具久留御魂ミグクルミタマ神もおられます。こちらも百嶋先生はお分かりだったようで、天御中主命(久留米水天宮)の事と言われていました。

この外にも、天之水分神(アメノミクマリ)= 速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)のお二人の神様 天御中主命おられます。

主に、天御中主命、罔象女、市杵島姫の三人の水の女神様が居られる事になり、中々直ぐには見分けが付かないでしょう。

ミクマリ、ミクバリは水(ミヅ)を「配る」のM音、B音の入れ替わり現象(呉音、漢音)です。ついでながら、ネパールには「クマリ」という女性の神様がおられますが、これは処女神の事で無関係です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:28| Comment(0) | 日記

2016年08月05日

212 勝沼ワインの里の大善寺 @“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”

212 勝沼ワインの里の大善寺 @“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”

20160307

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

「安楽寺という名の寺が異常に多い」という事が以前から気になっていました。

まず、「安楽寺って何だ?」と言われる方は多いと思います。

簡略化した話をすれば、明治以前は神社を抑え込み、寺で民衆を支配、管理していました。

明治維新はそれを覆すのですが、それが廃仏毀釈であり、太宰府天満宮は安楽寺を母体とするのです。

歴史

安楽寺はその昔、現太宰府天満宮の敷地にあった。もともと安楽寺の 敷地内に天満宮が建立され、神仏混合で安楽寺と天満宮が共存していた。 明治維新の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされる。 講堂、仁王門、本願寺、法華堂などの建物や多くの仏像などは売却あるいは破壊され、安楽寺は廃寺となる。

『筑前國続風土記拾遺』巻之16 御笠郡 ニ 宰府村の項に下記の記載がみられる。

菅原道真が亡くなり、安楽寺が道真菩提寺として再興され、その後彼の名誉回復が行われ天満宮で曲水の宴が開催されるまでの経緯が 端的に記載されている。…中略…

■安樂寺と申すは相傅云、「天智天皇の4629に創造ありし古刹」なりしか、いまは寺塔漸荒廃に及はんとす。 此時安行當寺をも修造して潤餝を添られしかは、年を遂て堂塔伽藍繁栄して西國の名刹とはなりにけり。 同19919勅有て藤原仲平公奉行として紫宸殿を宰府に下し神殿を改め建らる。 寂々たる瓊門108間の廻廊、右近飛梅左近橋あり。 法性坊天台座主贈僧正尊位神前に一念三千の池を構へ三世一念の橋を渡す。 江氏の安樂寺の詩に、門外及廣前往往有ニ三池一其水潔如珠看々高レ涯云、(後略) 社檀の後に千手観音を安置す。 同年造営成就せり。 同239234月改元あり。延喜を改めて延長とす。 同420日菅神を本官右大臣に復し正二位を贈り、昌泰4年正月25日宣旨を焼捨らる。 かくて村上天皇天徳295833日太宰大貳小野好古朝臣當社に曲水の宴を始らる。…

 HPお寺めぐりの友」より


当然ながら、今回、異常に多いとした安楽寺とは太宰府の安楽寺ですが、まさか、あこがれの別所温泉安楽寺(上田市曹洞宗)を始めとして全国の安楽寺の全てが“画竜点晴(晴は別字)を欠く”の故事で知られる中国の安楽寺になぞらえたとも思えない事から、目立たないものの安楽寺と安楽寺という地名の多さには何らか背景があるように思えるのです。

ただ、今から取り上げるのは「安楽寺」の話ではありません。

それ以上に気になるのが九州王朝の最大拠点の一つと考える福岡県久留米市大善寺町の大善寺玉垂宮の「大善寺」という名の寺が宗派を超えて全国に存在しているという奇妙な事実です(天台宗の大善寺も存在する)。

これが、ただの偶然ならば悩む必要は一切ないのですが、まずは調べて見る事にしましょう。

次は大体の傾向を見るためにランダムに拾い出しをしたものです。

大善寺香川県高松市国分寺町真宗大谷派  (元は天台宗)

大善寺 高知県須崎市     高野山真言宗

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 福岡県福津市     浄土宗    (宮地嶽神社に近く付近に勝浦地名あり)

大善寺 山口県萩市      日蓮正宗

大善寺 広島県三原市     浄土宗無題.png

大善寺 岡山県矢掛町     浄土宗

大善寺 島根県益田市     日蓮正宗

大善寺 鳥取県鳥取市     浄土宗

大善寺 兵庫県福崎町     東寺真言宗

大善寺 愛知県江南市     臨済宗

大善寺 愛知県新庄市     浄土宗

大善寺 奈良県五條市     高野山真言宗

大善寺 京都府京都市伏見区  浄土宗

大善寺 三重県津市      浄土真宗 本願寺派

大善寺 静岡県島田市     浄土宗

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 滋賀県新旭町     天台宗    (天台真盛宗の総本山

大善寺 福井県坂井市     真言宗智山派

大善寺 山梨県甲州市     真言宗智山派 (元は天台宗)ぶどう寺として高名

以下省略(青森県を始めとして東日本にもあるようですが…)

大善寺 福岡県久留米市    天台宗

大善寺 大分県宇佐市     曹洞宗    (宇佐神宮の神宮寺で元は天台宗) 公式には弥勒寺


 多くの神社を見続けているのですが、神宮寺と思われるものに限らず多くの大善寺が全国に存在している事にかなり前から気付いていました。

  特に、九州王朝の中枢部と思われる福岡県久留米市大善寺町を起点とし、大分県宇佐市の宇佐八幡宮まで存在していたと推定している九州王朝時代の古代官道の 終点にも、同じく字大善寺があり、大善寺と言う名の曹洞宗の寺が存在していた事を意識して以降(これについては、「ひぼろぎ逍遥」跡宮 093 宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”を参照)、最低でも西日本に広く存在する宗派を超えた大善寺は、日本の仏教宗派が形成される奈良の南都六宗派 三論宗成実宗法相宗倶舎宗華厳宗律宗 以前に既に存在していた可能性があるのではないか?また、九州王朝の国寺が存在し、それが大善寺と呼ばれていたのではないかと考えるようになったのでした。

 勿論、これらの奈良以降、多くの仏教教団が成立して千数百年のこのかた、天台から真言、平安仏教から浄土宗、浄土真宗など鎌倉仏教へ寺が宗旨を替える事は何度もあった訳で、くら替え自体は決して珍しいものではありません。

 ただ、宗旨替えはあったとしても、その寺が、開山以来の代々続いた名前を替える事はあまりなく、最低でも西日本全域に等しく同じ名の寺が国ごとに在った様に見えるのは、奈良仏教以前に半ば国教化された「大善寺」とその末寺があった様に見えるのです。

 これが、安楽寺の異常な多さとどこか通底しているように思えるのですが、今のところは粗い仮説に留まっています。

 そこで、たまたまネット検索で見つけた山梨県甲州市勝沼町勝沼の真言宗大善寺の画像を見ていると、驚く事に三階松の神紋があることに気付いたのでした。


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同寺のHPから         福岡県福津市宮地嶽神社HPから

言うまでも無く、この三階松の神紋も、九州王朝の幻の宮廷舞とも言われる「筑紫舞」が、くぐつによって千数百年の永き亘って秘かに舞われて来たとされる宮地嶽神社の神紋であることは言うまでもありません。

同社は九州王朝の研究に於いても最重要の神社であり、神紋でもあるのです。

故)百嶋由一郎先生からは、第四代懿徳天皇、第七孝霊天皇、第八代孝元天皇の三代を表すものと聴いており、山梨県の真言宗の大善寺が何故この紋章を使用するのか?と、しばし思考停止状態に陥ったほどでした。


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宮地嶽神社HPより


遠方のことからネット上ながら、直ちにこの寺院に関する周辺調査を始めたのですが、良く考えれば甲州の勝沼の「勝」は、現在、宮地嶽神社の祭神とされる神功皇后と藤勝村、藤勝頼(昭和12年「福岡県県勢要覧」では阿部相函、藤高麿、藤助麿)の「勝」と対応し、福津市勝浦の「勝」ではないかとの思いが走ったのでした。




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画像は同寺HPより


真言宗(智山派)大善寺 カーナビ検索 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559

さてこの勝沼の大善寺は、真言宗でも智山派の古刹であり、行基による重要文化財の「葡萄薬師」が置かれている素晴らしい寺院です。これだけでも足を運びたくなる名刹ですね。


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画像は同寺HPより


大善寺説 いまから1270年前元正天皇の養老2(718)に僧行基が西方よりこの甲州市勝沼の地へやってきました。そして甲州市勝沼町勝沼地区と岩崎地区の間を流れる日川に沿って柏尾に至り、たまたま川岸にそびえたつ大岩石の上に静座して祈願を続けたところ、21日目に忽然と薬師如来が霊夢となってこの岩上に現われた。
しかもこの薬師如来の御姿は金色にさん然と輝き、右手にぶどうを持ち、左手に宝印を持つという普通の薬師如来の御姿とは違ったものであった。
そこで行基は早速この霊感に従って、この地に一寺を建立することを思い立ち、付近の山に登りケヤキの大樹を切って薬師如来の御姿を刻んで安置し、奉った。
この寺が柏尾大善寺である。
そして、伝教の法典の党禅鈔第一薬師法十九薬師像の中に「呼迦陀野軌言薬師仏座宝蓮花座、其形金色為相也、左手取宝印置花膝上、右手取葡萄、葡萄諸病忽除之宝薬也」とあり大善寺の葡萄伝説は、この覚禅鈔によるともいわれている。

無題.pngより

 無題.png

ここでこの寺院が如何なる背景を持ったものであるかを考えると、近辺の地名や神社と全国の大善寺との帰納演繹的考察から判断するしか方法がありません。

当然にも、東西ライン上に並ぶ五所神社が気になりますが、まずは、神宮寺としての関係があったと考えられそうです。幸いな事に祭神はネット上に出ていました。



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御祭神 家津日子神 速玉男神 事解男神 箱根大神 伊豆山神 

由緒 不明 (御祭神・由緒ともに「山梨県神社誌」参照)         HP全国熊野神社参詣記による

熊野本宮大社では主祭神を家津美御子大神=スサノオの命としており、家津日子神はスサノウで良いでしょう。

速玉男神 事解男神は分かり易いですが、豊玉彦(ヤタガラス)と金山彦で問題なさそうです。

箱根大神は恐らくコノハナノサクヤヒメ(ニニギと別れた後の)と豊玉彦(ヤタガラス)かで、伊豆山神もアメノオシホミミ=海幸彦=草部吉見のようで、下調べとしてはこれで良いのではないでしょうか。

また、付近には浅間神社があり、コノハナノサクヤ…他が祀られていると考えられます。

近々にも(遅くても冬までには)、遠路ながら訪問して考えを進めたいと思うものです。

最後になりますが、“大善寺は、真言宗でも智山派の古刹であり、行基による重要文化財の「葡萄薬師」が置かれている…。”としましたが、まず、僧行基の活動については、元は九州であったと考えています。

それは、佐賀県佐賀市大和町に淀姫神社がありますが、その神宮寺であったとされる実相院が行基によるものである事を承知していますし、関連の寺である付近の真言宗御室派の健福寺にも以下の伝承が残され、その事を伝える掲示板があるのです。

この点、養老2(718)に僧行基が西方よりこの甲州市勝沼の地へやってきました。」は信憑性がある様に思えます。


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真手山健福寺真言宗御室派

健福寺|さがの歴史・文化お宝帳による

歴史

参道口にある案内板の内容をそのまま記載する。

健福寺

和銅年中712僧行基が元真手山に開創されたといわれ、 当時七堂伽藍が立ち並び真手千坊といわれたと伝承されている。

元亀元年1596大友勢の戦火にあい寺域も次第に荒廃した。 寛永年間1624-1644実相院38世座主尊純が現地に再興した。

寺内にある銅鐘は建久71196鎌倉時代初期の作で大正2820日国宝に指定され、 昭和23829日国の重要文化財に指定されている。

昭和5912月 大和町

最後に智山派についても多少思いつくことがあります。


真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)は、日本における仏教の宗派の一つ。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁1095-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。天正5年(1577)に根来山の能化職となった玄宥1529-1605)が、天正13年(1585)、秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山智積院を、慶長6年(1601)、徳川家康の許可を受け寺領(豊国神社付属寺院の土地建物)を拝受し復興させたことを端緒に創建されることとなった宗派である。

ウィキペディア(20160207 02:30による

浄土教も取り込んだ高野聖(ひじり)で知られる真言宗中興の祖 興教大師覚鑁(カクバン)の出身地は、九州でも高良大社のある久留米市の有明海を挟んだ対岸の佐賀県鹿島市の七浦地区なのです。

覚鑁は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡号興教大師。肥前国藤津庄生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏思想を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した。

ウィキペディア(20160207 02:30による

これらの事が、五所大神社の祭神五柱のうちにスサノウ、豊玉彦が、また、金山彦、コノハナノサクヤと熊野系〜瀛氏の神が四柱も祀られ、根来寺〜高野山と九州の匂いがしてくる理由に思えるのです。

 残りのアメノオシホミミは彦山山岳修験を体現していることから和歌山の智山派とも通底しています。

 ここから先は、眉に唾してお聴き頂きたいのですが、武田信玄は新羅三郎を祖としていますし、この地が武田氏滅亡の最後の舞台となった事や、その武田勝頼が三階松を通じて宮地嶽神社(祭神のお一人は藤 勝頼)とも繋がりが感じられると言うのも興味深い話です。


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百嶋由一郎最終神代系譜

現地を踏むことなくこのような予断を行うのは本道ではありませんが、事前調査のための下調べノートとしてお許しを願いたいと思います。

 と、ここまで書いて、九州王朝論者の間では仏教の伝来は通説と異なり百年以上遡る事が常識になっているため触れていませんでしたが、


公伝年代をめぐる諸説

日本への仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として5525382あることが知られており、現在では 538 年 が有力とされている。ただ冒頭のとおり、これ以前より渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、さらにその後も何度かに渡って仏教を通じた公 的な交流はあったと見て、公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいる。以下では、政治的公的に「公伝」が行われた年次確定の文献による考察の代 表的なものを挙げるが、いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたことは疑いないと思われる。

ウィキペディア (20160307 20:45)による


勿論、701年(実質白江戦後?)滅亡の九州王朝にとって、通説の仏教伝来(6世紀半ば〜)であっても一向に差支えはなく、その滅亡までの間に全国に多くの大善寺が建立されている可能姓はあるのであって問題はないのですが、あまり知られてはいないものの、九州にはさらに古いインド僧による仏教の伝来の話があるのです。

 それが、福岡県と佐賀県の県境を成す脊振山系の北の中腹に現在も鎮座する雷山千如寺の伝承です。


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大悲王院の公式サイトには「当サイトの写真、記事、その他全ての内容の無断転載を禁じます。」とありますので、画質は落としてあります。

また、「無断転載を禁じます。」とありますので、古田史学の会の公式サイト「新古代学の扉」から古賀達也氏による次の論文をお読みください。


倭国に仏教を伝えたのは誰か 「仏教伝来」戊午年伝承の研究 古賀達也


まず、九州では彦山の開山が通説を二十年遡ります。以下…。


英 彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(一二一三年)頃の成立と見られています。同書のこの記 事は当山の開基を九州年号の教到年(五三一〜五三五)としているのです。また同書写本の末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(五 三一)の開山とあります。また、元禄七年(一六九四)に成立した『彦山縁起』や寛保二年(一七四二)の『豊鐘善鳴録』によれば、彦山霊山寺の開基は継体天 皇二十五年(五三一)北魏僧善正によるとあります。


…中略…


4.仏教は四一八戊午年に九州に伝来した

  仏教伝来戊午年伝承の探求は、『隋書』イ妥国伝・『筥埼宮記』より伝来の地が北部九州であったこと、また『日本書紀』推古紀・『元興寺伽藍縁起』・『上宮 聖徳法王帝説』よりその年次が四一八年であったことに行き着きました。そしてこの二つの結論の結接点として糸島郡『雷山縁起』の清賀伝承を発見しえたので した。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。わが国仏教界において釈迦に次いで語られるべき恩人、清賀の 恐らくは苦難に満ちた伝教の生涯を知ることはもはや不可能のように思われますが、その名前が歴史学の一隅に置かれることを念じて止みません。
  人間が自らの存在を深く認識した時に、おそらく同時に知ったであろう生老病死の四つの根元的な苦しみを救済する教えとして、釈迦の発した言葉は時と人を得 ながら東流したものと思われます。氷雪の高峻を越え、灼熱の砂漠を横切り、あるいは怒濤の大海を渡り、時に権力の迫害を被り、殉教の徒を出しながら、無名 の民衆に支えられて今日に至った人類の一大精神遺産、仏教。そのわが国への伝来と初伝僧の追求をテーマとした本稿も許された紙幅が尽きました。おそらく、 文体・論証ともに世の研究者・識者の潮弄を浴びることと思いますが、完全な無視の運命にあわねば、この論文にとって望外の幸とするところです。

関心をお持ちの方は全文をお読み下さい。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:43| Comment(0) | 日記

2016年08月09日

213 勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

213 勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

20160308

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png大善寺 北海道中川郡美深   浄土宗

大善寺 北海道室蘭市     曹洞宗

大善寺 青森県北津軽郡板柳町 浄土宗

大善寺なし    岩手県

大善寺なし    秋田県

大善寺なし    宮城県

大善寺 山形県酒田市     真言宗醍醐派

大善寺地名のみ  福島県郡山市田村町大善寺

大善寺なし    茨城県

大善寺なし    千葉県

大善寺 神奈川県横浜市    浄土宗

大善寺 神奈川県横浜市都筑区南山田

大善寺 神奈川県横須賀市   金峯山不動院大善寺

大善寺なし    埼玉県  

大善寺なし    茨城県

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 栃木県矢板市     浄土宗

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 静岡県島田市     浄土宗

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 山梨県甲州市     真言宗智山派 (元は天台宗)ぶどう寺として高名

大善寺 愛知県江南市     臨済宗

大善寺 愛知県新庄市     浄土宗

大善寺地名のみ  愛知県一宮市千秋町浅野羽根大善寺(字)

大善寺 新潟県新発田市    浄土宗

大善寺なし    石川県

大善寺なし    富山県

大善寺なし    長野県

大善寺なし    岐阜県

大善寺 福井県坂井市     真言宗智山派

大善寺 三重県津市      浄土真宗本願寺派

大善寺 滋賀県新旭町     天台宗    (天台真盛宗の総本山

大善寺なし          和歌山県

大善寺 奈良県五條市     高野山真言宗

大善寺 京都府京都市伏見区  浄土宗

大善寺大阪市天王寺区生玉寺町5-2 

大阪府 大阪市天王寺区城南寺町8-26

大善寺 兵庫県福崎町     東寺真言宗

大善寺香川県高松市国分寺町真宗大谷派  (元は天台宗)

大善寺なし          愛媛県

大善寺なし          徳島県

大善寺 高知県須崎市     高野山真言宗

大善寺 鳥取県鳥取市     浄土宗

大善寺 島根県益田市     日蓮正宗

大善寺 岡山県矢掛町     浄土宗

大善寺 広島県三原市     浄土宗

大善寺 山口県萩市      日蓮正宗

大善寺 福岡県福津市     浄土宗    (宮地嶽神社に近く付近に勝浦地名あり)

大善寺 福岡県久留米市    天台宗

大善寺 大分県宇佐市     曹洞宗    (宇佐神宮の神宮寺で元は天台宗) 公式には弥勒寺

大興善寺 佐賀県基山町    天台宗別格本山大興善寺(肥前、肥後に一寺?)

大善寺なし          鹿児島県(旧日向国)  

大善寺なし          宮崎県(旧日向国)

ご覧のとおり、全国に3040の大善寺(北海道の2寺を含む)及び大善寺地名が存在することが分かります。

では、これをどのように考えるべきでしょうか?

 これほど多岐に亘り宗派を超える大善寺が存在するという事は、最低でも、天台、真言の平安仏教以前に、「大善寺」という寺号が好んで付されたとしか言いようがなく、それを中国の“画竜点晴(晴は別字)を欠く”安楽寺の様に一種の流行といった話でもなさそうで、奈良仏教の南都六宗派に大善寺の痕跡が無い以上、消されたものの、それ以前に遡る、つまり、近畿大和朝廷の国分寺、国分尼寺に先行する大善寺が全国に存在したのではないかと思えるのです。


「国分寺」 ウィキペディア(20160312 10:30による


国分寺(こくぶんじ)は、741天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。

正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。


続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)214日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立のが出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国東大寺法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。

なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた[2]。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており[3]、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。


三階松の通底

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(奥の院の宮地嶽古墳に三階松の紋が。)
宮地嶽神社(5)福岡県福津市宮地嶽神社内 奥の宮不動神社(1)
地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m−どうやって持つのよ?
http://lunabura.exblog.jp/14559788/

その古墳の大きさは日本で第2位。出土した金銅製の頭椎の太刀は3m以上。
それらの副葬品が何故か古墳の外から出土したという謎があったのですが、
古墳か開口してから、修験者によって、丁寧に外に出されたのが分かりました。
出土が伏せられたのは治安維持法などの抵触を恐れての事だったようです。
宮地嶽古墳
副葬品が外にあったのは何故?出土状況が明らかに
http://lunabura.exblog.jp/16668863/

古墳の羨道を照らす提灯は三階松紋。
被葬者については神社側は磐井の君の一族として祭祀しています。
(通説の宗像徳善ではない。)
これと同じ構造で小規模な手光波切不動古墳が近くにあり、
最近金銅製馬具が出土したので発掘調査中です。
古墳内は祠があったので、やはり副葬品を横にどけていた可能性もあります。
昔はこの手光波切不動古墳を先に参拝してから
宮地嶽不動古墳に参拝するのが順だったという光さんの証言があります。
発掘前に撮った写真を次に載せています。
手光波切不動古墳 てびか・なみきり・ふどう福岡県福津市手光
ここからも金銅製の馬具が出土した
http://lunabura.exblog.jp/17700982/

この二つの古墳は地元の竹内家が祀り続けたそうです。
この近辺の丘陵地帯は古墳の大密集地帯で、蛇行鉄器が出土しています。
謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの
http://lunabura.exblog.jp/15011135/


高良下宮社の三階松

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(拝殿を見上げると三階松が)
高良下宮社(1)久留米市御井町 ここも御祭神に異伝あり
http://lunabura.exblog.jp/16198176/

高良下宮社(2)暗号に満ちた社殿 崩落し始めた屋根を守ってください
http://lunabura.exblog.jp/16206942/

祭神が変化していますが、竹内宿禰の名前もあります。   「ひもろぎ逍遥」綾杉るな による


 212 勝沼ワインの里の大善寺 @ において、宮地嶽神社の神紋である三階松の紋章が、何故、勝沼の大善寺にあるのかを考えて来たのですが、久留米の高良大社の下宮にも三階松の神紋があることを思い出しました。

 これについても、「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史が書かれていましたので引用させて頂きましたが、これで、そもそも「大善寺」の名称の震源地と考えられる久留米の大善寺玉垂宮の神宮寺大善寺との切られた繋がりが復元した様に思えます。

 この事を理解して頂くには、また一稿を必要とします。ただ、百嶋先生からは、「三階松」の神紋とは4懿徳、第7代孝霊、第8代孝元天皇の意味と聴いています。

 簡単に言えば、初代神武天皇から第9代開化天皇=高良玉垂命、第14代仁徳天皇(開化と神功皇后との間に生まれた長男)までの流れの中で、初代神武と仁徳を併せ、この6代の天皇だけが九州王朝の皇統を意味しており、他の天皇(孝昭、孝安…)は全てその臣下でしかなかったものを、後の藤原が自らの出自(阿蘇氏)の格上げのために偽装したのが「古事記」「日本書紀」…なのです。

 これについては、いずれ書くことにします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:56| Comment(0) | 日記