太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年07月02日

201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社

201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社

20160219

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


研修所に楯て籠もりブログを書く毎日が続くと、さすがに遠征に出かけたくなります。

とは言ってもスケジュールに追われる毎日で、その準備や下調べなどが全て整わなければ遠征には出かけられません。

さすがに、10日間で2030人規模の神社トレッキングを三つもやるとくたびれ果て、一人っきりで好きな所に思うように行きたいと思うようになり、215日の朝まだきには研修所を飛び出していました。

九州山地の北半分の中心部見たいな所を拠点にしているため、多少の山越えをしさえすれば、延岡だろうが菊池だろうが宇佐だろうが竹田だろうがかなり楽に移動できるのです。

このところ中国地方にばかり足を向けていた事から、今回は南に向かう事にしました。

目的地は宮崎県日南市の油津、「男はつらいよ」(風吹ジュンがマドンナの「男はつらいよ 寅次郎の青春」)の撮影現場でもある吾平津神社です。

古代日向の国(日向、大隅、薩摩)は、霧島、宮崎のインチキ神話が横行する領域である上に、明治維新後に実権を握った島津が、主要な神社をかなりいじっている事から本気で調べようという気にならないのですが、全くインチキとばかりは言えない神社もあるようなのです。

そのいくつかが、高原町の狭野神社であり、日南市油津の吾平神社であり、錦江町の河上神社…なのです。

阿蘇外輪山の東を周り、高千穂から延岡に、そして宮崎市で古田史学の会メンバーのK氏としばらくお話をした後、快晴の空の下、久しぶりに日南海岸を南下しました。

一応は国立公園のため、テトラポッドなどのムカムカするようなコンクリート構造物は漁港の一部を除き放り込まれてはいません(漁港は農水省の利権領域ですから)。

そのうち列島の自然海岸は海洋土木(マリコン)の土建業界によって全てが破壊されてしまうと思っているのですが、思わずセメント業界に影響を持つシャクれた口の方の顔が浮かんできてしまいます。

あこがれの嶋の浦島(延岡市)を除いて宮崎県の海岸には島が少ないのですが、日南海岸の青島を過ぎ、鵜戸神宮の手前に、野島と言う地名があります。

正面には巾着島という名の島ならぬ半島があり、海岸が隆起でもしたのか、野島はどこなのか気になるのですが、ここにアコウの大木が茂る野島神社があります。

目的は吾平神社ですが、道すがら参拝できるのですから見ない手はありません。

亜熱帯性樹木(常緑高木)のアコウの茂る神社というだけでご紹介する価値がある神社ですが、何故かこの神社は浦島太郎を祀る神社とされています。


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文安三年(一四四六)十二月三日、田口久次が創立したその棟札に『白髭大明神の 御堂を造り奉る趣旨は、金輪聖皇・天長地久国土泰平、殊には信心願主田口久次のため、武運長久子孫繁昌・領内安全・五穀豊穣・並びに氏子等の無病自在・寿 命長遠・家内安穏・福責増長・諸人授楽・よろず心中の祈願悉く皆満足せしむるのみ、よって精誠を致し造立奉る』とある。
 また、旧飫肥藩制中は社領三石一斗が寄進されている。明治五年野島神社と改称、天神山にあった大将軍社、竹下にあった年ノ神社、堀切峠にあった三池神社を合祀し、村社に列せられた。

伝説(縁起)
 野島神社には童話に出てくる浦島太郎のそっくりの伝承民話がある。
 それは、天歴三年(九四九)八月に遡のぼる。野島の浦人橘尊俊という者、この浦辺で長い白髪の老人に出会った。その老人が『私は、丹州の者であるが、久しく蓬莢山に住み、たまたまこの浦に来、この絶景を眺め去るに忍びなくなった。ここに私を祀っていただきた(ママ)くなら幸いである。』と言って消え去った。尊俊は村人と相談の上、社を建てて祀ったのがこの社であると言われている。
 また、浦島子伝及び扶桑略記載には、『浦島翁が古里の丹州与謝郡に祀ってあるのを見聞したことはない』とあり、物語の最後が前記伝説と結びつくのである。


宮巡〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会より


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野島神社 白髭大明神 

まず、ご祭神は次のとおりです。

浦島太郎を祀る野島神社

御祭神
塩筒大神(塩、造船、生花、料理の神)
猿田大神(商売繁盛、安産、長寿祈願、五穀豊穣、交通安全の神)
住吉三前大神(上筒大神・中筒大神・底筒大神)(漁業の守護神、縁結び、子授けの神)境内由緒書より

野島神社が浦島太郎を祀る神社とすれば、塩筒大神 猿田大神 住吉三前大神 の中に丹後の浦の嶋子=浦島太郎が居られる事になりますが、海の神様である住吉大神にも猿田大神にもそのような話を聞いた事はありません。

普通なら、ここで話はお終りにするのですが、仮に、浦島太郎が五柱の祭神とは別に祀られているのではないとした場合、この神社にはかなり重要な伝承が残されている様に見えるのです。

まず、塩筒大神は浦島太郎の条件を持ち合わせている様に思えるのです。

「海幸山幸神話」は比較的知られていますが、釣り針を失い途方に暮れている山幸にアドバイスをするのが塩筒大神(塩土老翁)ですが、この正(実)体が誰であるかは百嶋翁から聴き及んでいます。

「塩土老翁」とは博多の櫛田神社の大幡主(豊玉彦=ヤタガラスの父)です。

大幡主とは正八幡宮の主祭神であり、大船に多くの大きな幡をたなびかせ渡海し交易を行っていた神様なのです。

出雲だろうが丹後だろうが遠洋航海を行うことができるのです。

さて、前掲の、「天神山にあった大将軍社、竹下にあった年ノ神社、堀切峠にあった三池神社を合祀し、村社に列せられた。」という記述には関係者が出てきます。

百嶋神社考古学に触れた人には分かると思います。

大将軍社は宮崎県では良く見掛ける神社ですが、どうも大幡主の配下であった大国主命を祀る神社であり、年ノ神は文句なく大歳神の事であり、阿蘇の草部吉見こと海幸彦の事です。

また、百嶋神社考古学では中筒男命を第10代贈)崇拝天皇としており、「堀切峠にあった三池神社」(神武僭称崇神は三毛入野命でもあるのです)がそのまま該当しそうです。

これまで当ブログをお読みの方はお分かりのように、猿田彦神は山幸彦=ニギハヤヒですね。

最低でも、塩鎚、海幸、山幸は、大幡主、年ノ神、猿田彦として揃っており、浦島太郎に該当するのは大幡主しかない様に見えるのです。

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野島神社縁起

今回は、たまたま、浦島太郎にスポット・ライトを当てましたが、最近気になっている事に第三代安寧天皇とは誰かという問題があります。


安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5 - 安寧天皇3812月6)は、日本の第3天皇(在位:綏靖天皇337月15 - 安寧天皇3812月6)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫にあたる。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

父は第2綏靖天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では事代主神の娘の五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする。

兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。

妻子は次の通り。

皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)

『日本書紀』本文による。鴨王事代主神の孫)の娘。

ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする。


ウィキペディア(20160219 1430による

お分かりでしょうか?第三代安寧天皇とは、日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」とあり、安寧天皇とは玉手箱を見た人(開けて見た?)の可能性があるのです。

逆に言えば、第3代安寧天皇とは誰かをこの神社が証言している様にも見えるのです。

今のところ、ここまでしか言えませんが、思えば、丹後の浦島太郎を祀る神社を訪れたのは十五年も前になるでしょうか?

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浦嶋神社(宇良神社)京都府伊根町本庄浜191


淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。

別名 宇良神社 浦島大明神 筒川大明神 主祭神 浦嶋子 相殿神 月読命  HP「古代史の情報」より

  百 嶋神社考古学では、鹿児島の田の神様が大幡主+月読命による擬神体を成している事を知っていますが、ここにも、その組合せが認められることから、浦島太 郎=大幡主である事を裏付けている様に見えるのです。実は丹後ではありませんが田の神様は石川県の能登半島一帯にも分布している事を申し添えます。

 百嶋神社考古学勉強会内部では安寧天皇に関しては神沼河耳(草部吉見の父)説があり検討中です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:18| Comment(0) | 日記

2016年07月04日

202 熊本県山鹿市の大宮神社とは何か?

202 熊本県山鹿市の大宮神社とは何か?

20160219

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

この神社も「突然始った肥後での神社トレッキング」で巡った神社です。

当初、この神社を対象にしてはいなかったのですが、志々岐阿蘇神社において参加者の中から「猿田彦の石塔をこれほど多く見たのは初めて…」との声が上がった事から、解散間際ながら急遽訪問する事にしたものです。

志々岐阿蘇神社の猿田彦の石塔は10基ほどですが、大宮神社には等身大以上も含む50基もの石塔があるのです。

まあそれはともかく、大宮神社と呼ばれる神社が山鹿市の中心部にあります。

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御祭神第十二代景行天皇、合殿:阿蘇十二神
 祭礼日:8月16日・例祭(燈籠祭)、1115日・秋季大祭(七五三祭)
 境内社:西宮・八坂神社(祇園社)・八幡宮、甲斐神社、猿田彦大神、金刀比羅宮、管原神社、生目神社、宮地嶽神社、出雲宮、高住神社、地主神社
 由緒:第12代景行天皇が筑紫御巡幸の折、玉名から阿蘇へ向わせられた途中山鹿にお着きになり杉山(現社地)に行宮を営ませられ附近の賊を御平定になられたという。その後行宮の跡地に天皇を奉祀したのがこの大宮神社である。大宮と称するのもこれに由来している。
 第71代後三条天皇の延久41115日菊池則隆公が阿蘇十二神を勧請し山鹿中村の田地36町歩を寄進した。毎年初卯の日から17日間山鹿南島の卯の日河原で祭典があり神幸式には菊池氏が奉幣の使を立てて供奉させまた流鏑馬等も行われていたが天正年間より戦乱のため廃絶した。
 天文6年天災のため焼失。永禄12年山鹿城主山鹿彦次郎重安が再建。明暦3年野火のため焼失。万治2年細川綱利公が再建。宝暦5年大風のため倒壊。同6年細川重賢公が再建。
 昭和1857日 県社に昇格。

ここでは、景行天皇にかかわる伝承とか、後で覆い被さって来た阿蘇系神社といったものは、全てこの神社の本質ではないものと考えます。

九州王朝論者の目から見たとき、大宮神社が何であるかについては、摂社を見ればある程度の見当が着く様です。

と、言うのは、参拝殿や神殿でも正面の神紋は二枚鷹の羽紋なのですが、端に打たれた神紋は五七の桐だからです。

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良く見ると神殿の千木は縦切りで立派な五七の桐の神紋が打たれています

どう見てもただの贈)景行天皇を祀る神社でも、八幡宮でも、阿蘇系神社(菊池初代則隆が阿蘇神社を勧請)でも無い事は明らかです。

千田聖母宮と同様に、古代には(最低でも750年以前までは)高良玉垂命を祀る九州王朝の神宮だったと考えるべきではないかと思うのです。

そこで境内社を見て見ましょう。九州王朝の臣下を含む一族の揃い踏みといった状況です。

この境内社群を「熊本県神社誌」との付き合わせを行っているところですが、この境内社群が実際には誰を祀ってあるかについては大体の推定を試みて見ました。

西宮        ?

八坂神社(祇園社) スサノウ

八幡宮       正八幡=博多櫛田神社の大幡主 これが応神天皇には見えません

甲斐神社      ?

猿田彦大神     山幸彦=ニギハヤヒ(初期の本拠地の一つが山鹿だったのではないか…)

金刀比羅宮     通説では大国主命となりますが、百嶋神社考古学では大山咋とします

管原神社      道真

生目神社      贈)垂仁天皇

宮地嶽神社     ワカヤマトネコヒコ=後の高良玉垂命と神功皇后を祀る

出雲宮       大国主命

高住神社      ?

地主神社      金山彦

一番重要と思われるのが、最後の地主神で、一応、金山彦を当てています。

それは、この境内社群に最重要人物である金山彦が見当たらない事と、金山彦がこの地に居たという確信があるからですが、それについては先行する ひぼろぎ逍遥(跡宮)191 櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! をお読み頂きたいと思います。

今回はここで中断し、再考の上で別稿として書くこととします。

まだ、不確定の所が多く、考えが纏まっていないまま書き始めたからですが、何故、肥後には異常なほどに猿田彦を祀る信仰圏が広がっているのかというテーマと関連します。

この問題の根底には物部氏のルーツが九州中央部の諫早〜島原〜玉名〜山鹿の一帯だったのではないかという話が絡んでくるのです。

 猿田彦を山幸彦、ニギハヤヒとし、草部吉見を海幸彦とするのは百嶋神社考古学の大きな特徴ですが、

 境内背後地に置かれた50基もの猿田彦の石塔は、この地が景行天皇の信仰圏だったとは凡そ考えられなく、本当の実力者が誰だったのかを伝えるほどの迫力を持っています。それは、数年前まで小倉南区を拠点とする教派神道系の神理教の山鹿教会が存在したことでも分かります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:50| Comment(0) | 日記

2016年07月07日

203 神武天皇の本当のお妃を祀る神社 “宮崎県日南市油津の吾平津神社”

203 神武天皇の本当のお妃を祀る神社 “宮崎県日南市油津の吾平津神社”

20160220

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

何度も繰り返しますが、古代の日向国(薩摩、大隅、日向)の領域ではこれまであまり本気で神社を調べようという気になりませんでした。

勿論、繰り返し足を踏み入れては入るのですが、どうせ宮崎、鹿児島のインチキ神話の国の事から祭神をいじっているはずで、これを真顔では調べる気にならなかったからです。

もっとも、欠史8代を論じる事自体が愚か者扱いされているのですから、こちらも注意を払いながら取り組まざるを得ないのです。

まず、欠史8代(神武を加えれば9代)に関しては記述も少なく、畿内には事績の痕跡も全く辿れない事からこんなものは架空であるとしたのが実情なのです。

その事自体、神代〜古代の舞台が片田舎の畿内ではなく九州でしかなかった事の証明なのです。

但し、宮崎インチキ神話の土地とは言いながらも全てがインチキと考えるのではなく、中には宝石のような伝承、伝承地、痕跡が凍結されている可能性もあるのです。

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神武天皇の本当のお妃と言う時、「百嶋神社考古学」の立場からはかなり複雑な話をしなければならなくなります。

まずは、代表的な理解をお読みいただこうと思います。

 ここで重要な事は、高良玉垂命(実は第9代開化天皇)の臣下でしかなかった第10代とされた贈)崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト」を僭称し初代神武天皇を装ったという問題が存在しています。

 このため、初代神武のお妃は紛れも無いアイラツヒメ(阿多小椅君の妹)なのですが、「記」「紀」で皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)としているものも、実は 贈)崇神のお妃(百嶋神代系譜参照)なのであり、このことについては百嶋由一郎最終神代系譜などを精査して下さい。

神武天皇

古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)。

…(中略)…

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘1792470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは318543年、ホオリは637892年、ウガヤフキアエズは836042年の治世とされ、計は1792477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。

東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

…(中略)…

妃         吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹

    • 手研耳命(たぎしみみのみこと)
    • 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ)

皇后        媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女、のち手研耳命の妻

    • 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命)
    • 神八井耳命(かむやいみみのみこと) - 多朝臣阿蘇国造科野国造火国造等の祖
    • 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇

ウィキペディア(20160220 0800による

崇神天皇

  • 御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
  • 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』 
  • 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 常陸国風土記

…(中略)…

皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命孝元天皇の皇子)女


ウィキペディア(20160220 1017による


既に、神武天皇の本当のお妃とは「アイラツヒメ」と刷り込まれていますが、熊本県山鹿市菊鹿町相良(旧吾平村)にも痕跡があり、これについては「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)128「吾平」@〜Bをお読みください。

元は「乙姫大明神」といい、明治14年に「吾平津神社」と改名されたものです。

地元では今も「乙姫神社」と呼ばれています。正面には石造りの「乙姫橋」があります。

吾平津神社はその名が示すように吾平津姫を祀るものですが、一緒に天照皇大神、武甕槌命、天児屋根命、木花咲耶姫、経津主命、倉稲魂命を併せて祀っています。

吾平津姫は神武天皇がまだ日向に居た頃の妃でこの油津の出生であったとされています。

油津にも阿多という地名があるのですが、阿多の名が示すように、薩摩の吹上浜の阿多と考えられそうです。

さらに驚く事は、吾平津姫は神武東征には同行せず、油津の地に残って東征の成功と道中の安全を祈ったと伝えられているのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:45| Comment(0) | 日記