太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月26日

199 山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の大国主命

199 山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の大国主命

20160213

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県山鹿市の中心市街地から1キロほど南の小丘に志々岐阿蘇神社があります。

今回、「突然始った肥後での神社トレッキング」において20人規模の参加で神社を見て回りましたが、八島神社、千田聖母宮に続き訪れたのがこの志々岐阿蘇神社でした。

先行する二つのブログを読まれた方はお分かりのように、ここには、志々岐の神(十城別王“軍神・景行天皇の孫”)、スサノウ系祇園神社、建御名方命系諏訪神社(勿論、百嶋神社考古学では認めませんが、通説での大国主の次男)、それに阿蘇系神社が重層的に存在しており、実際には、志々岐の阿蘇神社と言うべきなのがこの神社の本質で、現在、「志々岐」という地名に関連する志々岐の神の痕跡は探れません。

その意味では、阿蘇神社という評価も正しくはなく、その下層に存在しているのは、あくまでも、祇園神社、諏訪神社こそがこの神社の本質ではないかという思いを消せません。

これについては、五年ほど前に故)百嶋由一郎先生をお連れして同社を見た際に、「ここは(表向きは)志々岐に在る阿蘇神社であり、志々岐の神が祀られているのではないようですね…」とお話した事が思い出されます。

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同社参道


志々岐阿蘇神社(熊本県神社誌では「志士岐」) カーナビ検索 熊本県山鹿市志々岐1730


 現在、同社の西側に車道が通り、広い駐車場もある事から実質的な参道はそちらになっています。

 車の乗り合いの車8台によるトレッキングですから当然にも車の集合場所もそちらになりますが、皆さん表参道から参内して頂きました。

 やはり、表参道こそ神社の顔であり、必ず、神社の主張がどこかに残されているものなのです。

 まず、この古風で城塞都市風の志々岐の集落に異様さに気付くことでしょう。

 この場所は、簡単に言えば、巨大古代湖茂賀浦(この湖に於ける水平堆積によって標高450メートルもの高地に山鹿、菊池、植木、合志へと広がる巨大平野が形成されたのです)の出口に当たる最重要集落であり、この鍋田から志々岐に近い辺りで、岩を穿ち(恐らく徐々に)水を落とし巨大平野を造ったのだと考えられるのです。

 そのように考えた時、石を加工できる石工の集団がいたと考えられるのが菊鹿の黒蛭、山鹿の石と並ぶ志々岐の集落であり、事実、石工がいた形跡があるのです。

 それは、先のトレッキング・ポイントの千田の聖母宮の参道に「石工 志々岐 ○○」と刻まれているのを発見したからでした。

 石工の集団こそフリー・メイソンの起源であったあった事まで思いが馳せるのですが、ここでは、志々岐の西1キロに文字通り「石」という集落がある事と併せ、今後、考えを膨らませて見たいと思います。

 山鹿から玉名に掛けて多くの古墳、横穴墓が存在している事は、トンカラリンはともかくも、江田船山古墳やチブサン、オブサン古墳を持ち出すまでもなく、古代から石の加工に長けた人々が居た事は否定しようの無い事実なのです。

 さて、ここにも十基ほどの猿田彦と刻まれた石塔が置かれていました。

 この近辺では、山鹿の大宮神社に50基もの等身大の石塔があるのに次ぐもので、猿田彦が多い肥後でもこの一帯がずば抜けて多い事が分かります。

 百嶋神社考古学では、この猿田彦が草部吉見=海幸彦と対抗した山幸彦=ニギハヤヒであることはこの間何度となく書いてきました。

 まず、ニギハヤヒと言えば、筑豊に展開した25物部の事が頭に浮かぶ方が多いと思います。

 しかし、何やら朝鮮半島からの天神降臨といった見方をされている方が多いように思うのですが、明治の教派神道系物部教団である神理教の開祖であった佐野(巫部)経彦命が菊鹿町の想定ウガヤフキアエズ陵や吾平津姫を調べ、大宮神社の境内地にしばらく前まで神理教山鹿教会が存在した事も、ニギハヤヒの大きな拠点がこの一帯に展開していた事を物語っているのです。

 これについては、久留米地名研究会HPから「吾平」をお読みください。

 玉名から山鹿、菊池に掛けて(つまり菊池川流域)は古代においても非常に重要なエリアであった事が分かるのです。

 そこまでお聴きになった上で、改めて、この神社の本質を考えて頂きたいのです。

 そうです、この神社の実体は、後から覆い被さって来た阿蘇系の神とは関わりなく、境内摂社とされている八坂神社、諏訪神社にあるのです。


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志々岐阿蘇神社の境内摂社「諏訪宮略記」、志々岐神社縁起「ご参拝の皆さまへ」、「熊本県神社誌」にも書かれていますが、同社は天文12年(1543年)に「合志民部大輔 源 鑑峰が阿蘇の神を始めて…」とあります。


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恐らく、これ以前が八坂神社、諏訪神社だったのだと考えられるのです。

ただ、ここで話は終わらないのです。

それが、境内の八坂神社と諏訪神社の最奥部に祀られているのが大国主命だったのです。

実は、「熊本県神社誌」にはこの大国主命は書かれていません。

 これが後世の信仰圏によるものなのか、古代まで遡ることができるものなのかが現在の課題であり、これが解明できなければ九州王朝、九州王朝前史も解明する事ができないのです。

 まず、出雲神話のスターである大国主命が、何故、肥後に祀られているのかとお疑いになる向きがあると思います。

 実は、それこそが「古事記」神話の狙いだったのではないかと考え始めたのですが、まず、福岡県の旧夜須町(現三輪町)には立派な大己貴神社があることはご存じだと思います。

 それに留まらず、熊本市の西部、北区(西里硯川町)にも川東大己貴神社があり、大汝牟遅(オオナムチ神社が鹿児島県日置市吹上町中原(鹿児島市内にも一社)にも、それどころか、宗像大社の周辺にも幟を上げた大国主神社(福岡県岡垣町手野)があり、当ブログをお読みの方はご存知の通り、宗像大社の本当の祭神は大国主命だと何度も書いてきたのでした。

 大阪にだってあるんだから…「そんなこともあるだろう」と言われる方はあるでしょうが、それでは、日向国の一の宮「都農神社」の主神が何故大国主命とされているのかをご説明願いたいのです。

 ここにこそ、古代史の最大の謎が存在しているはずなのです。

 どうも、この志々岐神社の周辺には、八坂神社、諏訪神社以前の信仰圏が隠されている様に見えるのです。

つまり、仮に国譲りをさせられたのがオオナムチだったとしても、譲らされた国(葦原中国)が実際にはどこだったのかが全く分からないのです。

大国主が国譲りの代りに神の御殿のように立派な住居を求めたことから、それを承諾した天照大御神は出雲大社を建ててそこへ移した…とするのですが、それが譲った国(葦原中国)だったのではなく、移された場所でしかなかったのではないかと言う事に漸く気付いたからでした。

尤も、「神代史」を全く架空として退ける学者風の方々には、“利権構造に胡坐をかいておられれば良い”とだけ申上げておきたいと思います。

その後、百嶋先生の説が多少とも理解できるようになるに従い、宗像大社の本来の祭神が大国主命だった事が分かってきたのです。

これについては、太宰府地名研究会の伊藤正子女史が、大伴坂上郎女の歌から、八世紀初頭まで宗像大社には「おおなむち すくなひこなの かみこそは」が祀られていた事を教えてくれたのでした(以下当時のパワーポイントから)。


大伴坂上郎女の歌


名児山の位置(福岡県宗像郡津屋崎町勝浦と玄海町田島との間の山・通称ナチゴ山165m)

冬十一月大伴坂上郎女が帥家を発ち道に上がりて筑前國宗形郡名兒山を超えるとき作れる歌一首


大汝 小彦名能 神社者 名著始鶏目

名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 千重之一重裳 奈具佐米七國


おおなむち すくなひこなの かみこそは なづけそめけめ なのみを なごやまとおいて あがこふる ちえのひとえも なぐさめなくに


同じく坂上郎女京に向かう海路に濱貝を見て作る歌一首

 

吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而将去 戀忘貝

わがせこに こふればくるし いとまあらば ひりひてゆかむ こひわすれがひ


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。


この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。


大国主命のお妃が、宗像三女神の二人、市杵島姫(スセリ姫)、また、田心姫(豊玉姫)であった事が分かってくると、どのように考えても、大国主命が譲った国(葦原中国)が出雲だったとは考えられなくなったのでした。

そもそも、日向の一宮都農神社の主祭神がなぜ大国主命なのかを考えれば切っ掛けになるかも知れませんね。

鹿児島県に南方神社(建御名方)が異常に多い理由も分かってくるかも知れません。

さらに言えば、どの時代まで遡れるかは分からないのですが、飯塚市桂川町に出雲という交差点があり、出雲地区が存在している事。

宗像市から背後地の宮若市を始め筑豊全域の神社に濃厚な大国主を祀る民間風習が残されている事を知るからでした。

これらは端緒でしかなく、今後とも探求を続けたいと考えていますが、嘘で固めた「古事記」神話で安心し吹聴され続ける誤った神代史には、どのように考えても九州王朝の痕跡を消し去ろうとし続けたという意図が透けて見えてきたのでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:09| Comment(0) | 日記