太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月23日

198志々岐(シジキ) A

198志々岐(シジキ) A

20160213

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は2011年に菊池(川流域)地名研究会用に書いていたものを僅かな編集を加え公開するものです。  

山鹿の志々岐

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197志々岐(シジキ) @ から続く


これらを持って直ちに山鹿の志々岐に住む人々がアレクサンダーに追われたマガタ王国の末裔であるとか、九州北西岸に盤拠した海人族であるといった短絡はしないつもりですが、平戸の志々伎を中心に展開するシシキ、シジキ地名が起源ではないかとまでは言えるかも知れません。

平戸島の南には海水浴場として知られる根獅子(ネシコ)の浜があり、獅子(シシ)という大きな漁師の集落もあります。

一 つの考え方として、志々伎の伎は、益城は元より、八代以南に数多く分布する、奈良木、久多良木(百済来川)、白木、津奈木、路木、小伏木、横居木、百木、 磐城・・・の木であり(たぶん城塞集落を意味するものでアジア大陸に広く分布するスク地名の転化か? 津古、須久、須古、須子、須木・・・)、シシキのシシこそが地名としての主要部とは言えるかもしれません。言素論を敬遠しつつも、可能性を探る道を始めか ら塞ぐ必要もないでしょう。

「日 本書紀」敏達紀に登場する百済の達卒「日羅」の話を持ち出すまでもなく、久多良木、白木などが半島との関係で論じられるとすれば、平戸の西南端は、対馬海 流がすぐ沖を流れており、九州から半島、大陸への最短ルートと考えられることから、シシキの神を奉じる氏族が、山鹿から、対岸の、多良岳山麓、南串山、平 戸、五島、糸島半島、壱岐、対馬に展開していたことが推定でき、その東端に山鹿があったのではないかとまでは言えるようです。

ただ、これが山岳修験の勢力なのか、海人族なのか、それこそアレクサンダーに追われた古々代の渡来系氏族だったのかについては今後の課題とします。

もちろん、学会通説は一笑に付すでしょうが、一般的に英彦山や求菩提山などの山岳修験を形成した人々は、山陰山陽の製鉄氏族に連なるとも言われ、天狗や鬼にも擬され、長身で鼻が高く(カギ鼻)、渡来系統の人々であったと言われています。 

ハッティシェリの製鉄民とも言われたヒッタイトやフェブライ人の末裔などとさえ言われ、三千年前あたりから、相当、古い時代にステップ・ロードを伝い、或いは海伝いに列島に入っていたと言う論者も後を絶ちません。

では、多くのシシキ、シジキ地名の発信源が平戸の志々伎崎としても、では、シシキ、シジキとは何かは、なお、分りません。

ここでは、もう一つの可能性として、「太良町誌」から


マ ガタ王の飛来伝説は、彼が国王そのものであったかどうか真偽のほどはともかくとして、マガタ国の人々の一団が、ある日、どこかの港から、新天地を求めてベ ンガル湾に逃れ、ビルマの沿岸づたいにマレー半島を南下し、やがて、黒潮にのって平戸島南方の志々伎岬に到着したのだと仮定すれば、そこには限りない伝記 的空想(ロマンス)がひろがる。

「シジキ」・・・・・・この耳なれない言葉も、彼らがもちこんだ遠い異国の古代語であったと仮定すれば、なおさらのことである。


を引用し本稿を閉めることにしますが、最後に面白い資料を紹介します。


“糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する条例(平成2211日)条例第167号”というものがありますが、下水道事業の地域指定を行なう際の一覧表にマガタ、マガタ下という字があることに気付きました。

雷 山千如寺があるのは旧前原市(現糸島市)ですから、清賀上人がマガタ国からの渡来僧であったとすると、同市にマガタ、マガタシタという字名があってもおか しくはないはずです。想像を逞しくすれば、唐人町地名と同様の古代の居留地であった可能性があるのではないかと考えています。


糸 島市高田、高田一丁目、高田二丁目、高田三丁目、高田四丁目、高田五丁目、池田、板持、板持一丁目、板持二丁目、志登、潤、潤一丁目、潤二丁目、潤三丁 目、潤四丁目、波多江、波多江駅北一丁目、波多江駅北二丁目、波多江駅北三丁目、波多江駅北四丁目、波多江駅南一丁目、波多江駅南二丁目、浦志、浦志一丁 目、浦志二丁目、浦志三丁目、泊、油比、新田、前原、前原中央一丁目、前原中央二丁目、前原中央三丁目、前原西一丁目、前原西二丁目、前原西三丁目、前原 西四丁目、前原西五丁目、前原北一丁目、前原北二丁目、前原北三丁目、前原北四丁目、前原東一丁目、前原東二丁目、前原東三丁目、前原南一丁目、前原南二 丁目、前原駅南一丁目、前原駅南二丁目、前原駅南三丁目、荻浦、大浦、南風台一丁目、南風台二丁目、南風台三丁目、南風台四丁目、南風台五丁目、南風台六 丁目、南風台七丁目、南風台八丁目、美咲が丘一丁目、美咲が丘二丁目、美咲が丘三丁目、美咲が丘四丁目、糸島市東字東ノ前、ヒガシ・堀池ノ前・太田・越木 縄手・板桧・宝道上・中村・川園・東笠掛・西笠掛・佛田・向野・深町・唐ノ町・寺島・中川原・楠田寺・マガタシタ・五反田・原中・野添・鶴ケ崎・富崎・早良牟田・牛水・下田の一部・郷路ケ浦の一部・楠田寺ノ前の一部・マガタの 一部・野間の一部・石川原の一部・石町の一部・三ヶ口の一部・童子ヶ浦の一部、糸島市神在、岩本、千早新田、加布里、糸島市高上字開坂・野間・糸島市香力 字夏目・天神前・城園・折久保、糸島市八島、蔵持、有田、有田中央一丁目、有田中央二丁目、糸島市富字越当・染田・向坂・寺田・坂元・外河原・内河原、前 田・三角・胝無田・浅黄ケ浦・山崎の一部・井ノ浦の一部・長浦の一部・長尾の一部、糸島市多久、篠原、篠原西一丁目、篠原西二丁目、篠原西三丁目、篠原東 一丁目、篠原東二丁目、篠原東三丁目、井原(作出・鹿我子を除く。)、三雲、曽根、井田、高来寺、大門及び糸島市高祖字御田・京田・高砂町・中縄手・大河原・金口・御輿・汐井川・前田・榎町・屋敷・浦の一部・松本の一部

                                 地域指定の字一覧表の一部


な お、現地はJR筑前前原駅南二キロの西九州自動車前原ランプ西側、県道12号線との立体交差点付近ですが、真方という交差点があり、付近にも真方バス停、 真方公民館があります。通常、真方と表記されていますが、法務局の字の表記は“マガタ”と書かれ、大字東字マガタとなっているのです。

この地は雷山千如寺への登山道に近い平坦地で古代においては潮が入る絶好の地であったことが容易に想像できる場所です。

志々岐神社

さて、肝要の志々岐神社です

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志々岐の集落も急斜面にこしらえられた城塞都市の趣がありますが、この神社の威容はなかなかのものです。

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志々岐神社縁起


縁起を読む限り、健磐龍命が主神とされており志々岐の神は祀られてはいません。

つまり、表面的には志々岐の地にある阿蘇神社であることが分ります。

このような場合、通常はこの地名を持ち込んだ人々(恐らく海洋民、海人族)が本来、奉祭する祀る神があったはずであり、その上に阿蘇系神社が覆い被さってきたと考えるべきです。

仮に、そうだとしても、本来、この地の民が奉祭する神があったはずであり決して粗末にはされていないはずです。

事実、スサノウの八坂神社、タケミナカタの諏訪神社が、ほぼ、同等に扱われています。

 もしも、志々岐の民が根絶やしにされていたとすれば、地名そのものが消えてしまっていると考えるからです。

ただ、今のところ、「十城別王」が祀られている痕跡はないようです。

しかし、志々岐に住んでいた人々が祀っていた本来の神が、境内社としてどこかにあるはずと探しますと、「大国主命」が祭られていました。

今のところ、これが志々岐の地に残された古層の神ではないかとしておきたいと思います。

出雲神話において国譲りをした神がなぜこのような地にあるのかと思われるかも知れませんが、神話は古代の権力闘争の暗部を現在に伝える物で、その背後には、多くの隠された史実があるものです。

最 低でも植木町に近い熊本市硯川町には堂々たる川東大己貴神社がありますし(大国主命=オオナムチを祭る神社は吹上浜、北部九州にも散見されます)、スサノ ウの弟とされる大歳命を祀る大歳神社など出雲系神社が宇土の馬門を始めとして数多く認められることもあり、試見(仮説)ながら本来の出雲神話の舞台は九州 だったと考えています。

もちろん、九州の植民国家たる出雲に於いても戦いはあったはずですが。

事 実、志々岐神社の縁起にも国譲りの際に唯一反抗し、最終的に信州諏訪から出ないことを条件に許されたとされる大国主命の二男建御名方命が祀られており、そ の手助けをしたはずの海人族が志賀島の安曇族であったことを考えると、同系統と思われる志々岐の海人が大国主命と建御名方命を祀ることはリアルなのです。

菊池でも講演された百嶋由一郎氏の説に従えば、宗像神社の本来の祭神は三女神ではなく大国主命であったとされていることから、興味は尽きません。

最後に、小さなことにふれておきます。

十城別王についてですが、現在なお、伊豆、平戸・・・など土肥という海岸地名が数多く拾えますが、この

土肥の漁港と十城が音通していることから、古代の水軍の長官別(ワケ)王ではなかったかと想像しています。

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大国主の横に一宮の神額が置かれていましたが、まさか、かつてはこれが一宮だったという訳ではないでしょうね(これについては後に志々岐の一の宮の意味と分かりました)。裏には大国様が置かれていました。


しかし、大国主命とスサノウが対等に、しかも諏訪に逃げたはずのタケミナカタまで祀られていると言うのも、変わった景色ではあります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:17| Comment(0) | 日記