太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月13日

195 肥後で最も重要な神社 “山鹿市千田(旧鹿央町)の聖母宮”

195 肥後で最も重要な神社 “山鹿市千田(旧鹿央町)の聖母宮”

20160210

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


肥後の神社については、関連する神社については書いているものの草部吉見神社を中心に書いてきたことから、“外に取上げるべき神社はないのか?”とお考えの方も多いと思います。

 これは、関心が向かうがままに書いてきたことからそうなっただけのことで、決して神社誌を書いている訳でも、百科全書的に書いている訳でもない事から、偏った編集になっていることは否めないと思います。

 そこで、重要度と言った点から考えて見た場合、まず、ナンバーワンの神社と考えられる神社をご紹介したいと思います。

 もちろん、阿蘇神社でも縁起式内社でも一の宮でもありません。

 我々が重要と考える理由は、奈良平安以前の近畿大和朝廷以前に遡る古い(九州王朝)時代の痕跡を留める高格式の神社となります。この観点から肥後の数社を取上げる事にします。

 ある意味で、“宮地嶽神社に似て…“という表現が直ぐに頭に浮かんできます。

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「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)を持ち出すほどの事はありませんが、同誌によっても千田八幡宮(聖母宮)の御祭神は神功皇后外二神と書かれ、何故か重要なはずの三神が積極的には書かれていません。

 むしろ、摂社の神々の方がしっかりと書かれているのです。

 あえて、穿った見方をすれば、あたかもこの二神は自分たちの奉祭する神ではないとさえ言わんばかりです。

ただ、誤解がないように申し上げておきますが、同社縁起では 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇 とされており、その二神が 應神天皇 仲哀天皇 であることが解ります。

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さて、これまで当ブログを読んで来られた方はお分かりだと思いますが、縁起はどうであれ、反正天皇3446)年の縁起を持つ千田宮にとっては、冒頭に書いた二神は、鎌倉期か南北朝期に覆い被さって来た神々であることは大体想像できるのではないでしょうか。何故ならば、久留米の高良大社から九州の総廟を奪ったのは早くても749年(「高良玉垂宮神秘書」)であり、その権勢が肥後まで及ぶのは相当後の事になるからです。そして、その事は「聖母宮」という社名にも多少は示されている様に思えます。

まず、肥後に来ると八幡宮が減り、阿蘇系の阿蘇神社、歳禰(草部)神社が多くなり、驚くほどの数の菅原神社が存在している事が分かります。

熊本市の藤崎八幡宮を始めとして八幡宮がない訳ではないのですが、北に偏り、目立つところでは、石清水八幡系の玉名市の繁根木八幡宮、玉名市の伊倉の互いに睨みあう伊倉南八幡宮、伊倉北八幡宮、菊池市の久米八幡宮…となります。

それ以上に、北部九州では枚挙にいとまの無い神功皇后伝承が急に存在しなくなり、代わりに景行天皇伝承が目立ってくるのです。

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では、恐れずに境内に踏み入り、誰も言わない結論(推論)に踏み込むことにしましょう。

 この神社は(と言うよりこの神社もですが…)元は(時期はまだ特定できませんが)久留米の高良玉垂大社の高良玉垂命を祀る神社だったと考えられます。

 それを思わせるいくつかの痕跡があるからですが、それを痕跡と理解できるまでには、かなりの経験を積む必要があり、なかなか理解されないでしょう。

 それを確認して頂くには、「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の過去のブログを読んで頂くしかありません。

高良玉垂宮だった痕跡


箇条書きすれば、神殿上部の千木 A神殿上部の神紋 B境内摂社(縁起では末社)の若宮神社の存在 C武内神社が住吉大神と別神扱いにされていること D境内摂社(縁起では末社)の安倍神社の存在(まだ、外にもありますが)でしょう。

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伊 勢神宮ばかりではなく、最近の禰宜の多くは神官養成課程の影響でしょうが、「千木の男女はほとんど意味がない…」といった事を言いますし、そうでないとし ても「これは息子の応神天皇のものだろう…」と言われそうですが、まともに考えれば、五七の桐が高良玉垂命の神紋である(神功皇后は三五の桐)ことを知っ ている者としては、千木との関係から高良玉垂命と神功皇后が祀られていたが、神功皇后を残し二神が外され、仲哀天皇と、あくまでその子とされる応神天皇が 代わりに入れられた。

 外された二神こそ縁起で摂社とされている(青枠)厳島之大神と住吉之大神であろうと考えられるのです。

 これまでにも何度も言ってきましたが、権力の移動=政治情勢の変化により神社も絶えず影響を受け、祭神は何度も隠され、加えられ、入れ替えられてきました。

 ただ、列島の場合は大陸や半島のように土に埋めてしまうとか焼いてしまうことはない事から、排斥された神々は、境内境外を問わず摂社や分社として残されている場合がほとんどなのです。

 このため、日本の神社では境内境外を問わず本殿の外に残されている神々の配置を見れば自ずと本来の神々が誰であったかが見えて来るのです。

 なお、「五七の桐が高良玉垂命の神紋である(神功皇后は三五の桐)ことを知っている」としましたが、


「ひぼろぎ逍遥」055「みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する」

「ひぼろぎ逍遥」153「超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた“みやま市河内の高良玉垂の宮”」


をお読みください。

排斥された高良玉垂命は別名として多用される住吉之大神(底筒男命)であることは疑いないとして(これについては、以下をお読みください)、


「ひぼろぎ逍遥」079「玉名市大浜の外嶋宮は二人の住吉大神を祀るのか?」


排斥されたと思われる二神のうちもう一人の神様はどなたなのでしょうか?

これも、博多の櫛田神社の主神である大幡主(実は、神産巣日神、神皇産霊尊神)であることも、直ぐに分かります。

これについても、過去何本もブログを書いていますが、以下をお読みください。


「ひぼろぎ逍遥」 073「博多の櫛田神社の祭神とは何か?」 

「ひぼろぎ逍遥」  230 「白川伯王家源流の神社初見“飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”」


若宮神社の存在

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次に若宮神社の存在です。

 無理してこじつければ、「若宮とは神功皇后の若宮だろうから応神天皇(ホンダワケ)のことだろう」と考えられる方がおられるでしょうが、ちょっと待って下さい。

応神は本殿に祭り上げられているのではなかったのですか? 仲哀も当てはまりません。

 つまり、高良玉垂命の若宮、つまり、第14代仁徳天皇(オオサザキ=久留米市山川町の高良皇子神社の神社の筆頭 斯礼賀志命)こそが、この若宮に該当するのです。


斯礼賀志ノ命神(シレガシ)朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)渕志ノ命神(フチシ)谿上ノ命神(タニガミ)那男美ノ命神(ナオミ)坂本ノ命神(サカモト)安志奇ノ命神(アシキ)安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


高良玉垂命=第9代開化天皇の御長男斯礼賀志命(実は第14代仁徳天皇)こそ久留米高良大社周辺に数多く分布する若宮神社であり、西日本全域に隠されながらも一部残されている若八幡宮、若宮八幡宮、若宮神社であり、恐らく宇佐八幡宮の仮称中宮若宮神社(オオサザキ=大雀命、大鷦鷯尊)なのです。

 これについても多くを書いていますが、直近の


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)123 宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”


 外をお読みください。

 いずれにせよ、現高良大社の宮司(近々にも引退されるようですが)が七年程前の大祭でお会いした当時、筑後と言わず、“多くの若宮神社があるが、あれは全て高良大社のもの”と直接お聴きしたのが印象的でした。

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図表は「九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」 古賀達也から


武内神社の存在

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境内には丸に三柏紋(実はユダヤのメノラー)の水盤が武内家か

ら寄進されていました武内宿禰のルーツが想像できそうですね


次は武内宿禰を祀る摂社(縁起では末社)の存在ですが、消されるも、尚、痕跡を留める西日本の高良神社、高良玉垂命を境内社は、そのほとんどが高良玉垂皇命を武内宿禰としています。

 これは、近畿大和朝廷の威光を背に受け、九州の片田舎の高良玉垂命如きは神功皇后の従者であり良くて従臣に過ぎない…としたいからに外なりません。

 逆に言えば、それほど、高良玉垂命の存在が大きかった事を物語っているからに外ならないのです。

 八幡宮に武内宿禰宜を祀る武内社が置かれ、同時に住吉大御神が別神として摂社扱いになっている事実こそ、逆に高良玉垂命と武内宿禰とが全くの別人である事を示す証拠ですらあるのです。


安倍神社の存在

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さて、安倍神社の存在についてお話しましょう。

 故)百嶋由一郎先生からお聴きしていた時は、まだ、良く分からなかったのですが、ようやく千田聖母八幡宮が高良玉垂命を祀る神社であったとの確信を持つに至った理由がこの安倍神社の存在です。

 そのためには、まず、安倍氏が何者であるかを理解する必要があります。

 これについても当方のブログで触れてありますが、分かり易いものがありますので以下をお読み下さい。


大彦命(おほひこ=大毘古命)

安倍氏族の始祖は大彦命、古事記では大毘古命とされるが、8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、11代「垂仁天皇」の祖父という王朝内でも屈指の貴種だとされる。


『古事記』孝元天皇

大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクル=孝元天皇は、穂積の臣等の祖先、内色許男 (ウツシコオ) 命の妹の内色許売(ウツシコメ) 命を娶り、最初に大毘古(オホビコ) 命。次に少名日子建猪心(スクナヒコタケイゴコロ) 命。次に若倭根子日子大毘々(ワカヤマトネコヒコオホビビ=開化天皇) 命を生んだ。また、内色許男命の娘の伊迦賀色許売(イカガシコメ) 命を娶り、生んだ子は比古布都押之信(ヒコフツオシノマコト) 命。また、河内の青玉(アオタマ)の娘、名前は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ) を娶り、生んだ子は建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ) 命。天皇の子は合わせて五柱。若倭根子日子大毘々の命が天下を治めた。

大毘古命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケ)は阿倍の臣等の祖。次の比古伊那許士別命(ヒコイナコシワケ)は膳の臣の祖である。

また、木の国の造の祖先、宇豆比古(ウヅヒコ)の妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶り、生んだ子は建内宿禰(タケウチノスクネ) 宿禰の子は合わせて九人(男七人、女二人)。

『日本書紀』孝元天皇

欝色謎命 (ウチシコメノミコト)を立てて皇后とした。皇后は二柱の男子と一柱の女子を産んだ。一人目の男子を大彦 (オオヒコ) 命という。二人目の男子を稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒビノスメラノミコト)という。三人目は女子で倭迹迹媛 (ヤマトトトヒメ) 命。

(異伝としてさらにもう一子、少彦男心 (スクナヒコオココロ) 命がいたと記載されている)

また妃の伊香色謎命が彦太忍信(ヒコフトオシマコト)命を産んだ。また同じく妃の河内青玉繋の女の埴安媛 (ハニヤスヒメ)が埴安彦(ハニヤスヒコ)命を産んだ。長子である大彦(オホヒコ)命は、阿部臣、膳(カシワデ)臣、阿閉(アヘ)臣、狭狭城山(ササキノヤマ=近江の安土一帯)君、筑紫 (ツクシ) 国造、越(コシ) 国造、伊賀臣ら、全部で七つの氏族の始祖である。…中略…

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皇別氏族の安倍氏が高良玉垂命=第9代開化天皇の実兄(実は腹違いの兄)である大彦の流れである事はお分かりになると思います。

実は、数代前の宮地嶽神社の宮司家は安部(現櫛田神社)であり、百嶋先生も「宮地嶽神社は開化天皇の一族が代々宮司を務めておられた」と話しておられました。

 また、この一族が「崇神紀」の四道将軍と関係があり、東北の安倍氏(安倍の宗任、貞任)の一族となり、十三湊の安東一族に繋がり、松浦水軍にも繋がっていると言われているのです。

 これらの点から、千田聖母八幡宮に安倍神社が置かれている事自体が、本来は高良玉垂命を祀る神社であった名残であり、その事が分かるとしたのでした。

 ここで重要なのは、境内摂社の祭神が宮地嶽神社の祭神で神功皇后の一族と解釈されている藤 高麿、藤 助麿のお一人がこの境内摂社の祭神とされていることです。


最後に


境内には諏訪神社が置かれています。言うまでもなく国譲りに反対した大国主命の次男とされていますが、百嶋神社考古学ではそれを否定します。

 ただ、この方が九州に居た事は間違いないと考えるようになりました。

 では、仲哀天皇、応神天皇が宇佐神宮の権威を渋々受け容れたとして、本来の祭神を復元してみましょう。

 高良玉垂命=開化天皇(住吉之大神)、大幡主(厳島之大神)、神功皇后or仁徳天皇(若宮神社)

 これが、一社三殿三神の標準的高良玉垂宮だったのではないでしょうか?


孝元天皇、開化天皇周辺の関係が分かり難いと思いますので、通常公開しない、「百嶋由一郎(金神)神代系譜」の一部をご覧いただきましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:01| Comment(0) | 日記