太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月19日

197志々岐(シジキ) @

197志々岐(シジキ) @

20160213

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は2011年に菊池(川流域)地名研究会用に書いていたものを僅かな編集を加え公開するものです。


  志々岐(シジキ)            20111127


熊本県山鹿市に「志々岐」(シジキ)という奇妙な地名があります。

場所は国道3号線が貫通する山鹿市の中心街の西側、菊池川を渡った対岸の奥まった一帯です。

かんぽの宿がその小丘にあることから比較的分りやすいところでしょう。

同地には堂々たる志々岐阿蘇神社もあることから、阿蘇系神社の多い肥後に於いても、まずは、特異な感じをあたえる古集落と言えます。

現地では“シジキ”と呼ばれますが、あまり聴かないものだけに、奇妙な印象をお持ちになる方もあるかもしれません。

山鹿には四十年前から入っていましたが、十年ほど前にこの地名に気付いて「ああ、ここにもシジキ(シシキ)という地名があるんだな・・・」という認識をもった記憶があります。

それは、表記は多少異なるものの、平戸島の最南端に、同様の志々伎(シシキ)という地名があるからです。

この一帯には、志々伎湾、志々伎崎、そして、ランド・マークとも言うべき志々伎山、志々伎神社、志々伎町、大志々伎町、七城命(シチキ)を祀る沖宮がある宮ノ浦などから、まずは、シジキ、シシキ地名の中心地(震源地)と言えるでしょう。

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平戸最南端のランド・マーク志々伎山。HP「玄松子の記憶」から写真を無断借用


この志々伎神社の創建年代は不明ですが、五世紀中頃と伝えられ、長崎県でも最古の神社の一つになります。

上宮(志々伎山頂)、中宮、邊都宮、里宮として伝景行天皇行宮跡、沖津宮(伝十城別王武器庫跡、十城別王御陵墓)です。

祭神を『十城別王(軍神・景行天皇の孫)』とする神社で、佐賀県、長崎県、福岡県にあり、延喜式・式内社とされています。

ここでは、シシキと清音で呼ばれていたという記憶がありますが、一般に九州北西岸一帯では、濁音の清音化現象(サセボとサセホの例)があることを考えると、現地ではシシキと呼ばれるものとして取り扱っています。

一方、山鹿と同様の表記をする志々岐神社が福岡県糸島市(旧志摩町御床)にもあります。

可也山の南にあることから、朝鮮半島からの匂いも感じますが、平戸島の最南端や後述の有明海西岸にも関連するものを見ることから、やはり、海洋民との関係で考えることが必要になりそうです。

姓名としての分布をみると、「志々伎」はありませんが、「志々岐」は全国に2例あり、その一つが福岡市早良区にあることから、これは志摩町との関係が考えられそうです。

さ らに、対馬厳原の尾浦にも志々岐神社がありますが、ここの祭神は五十猛命、素盞鳴命とされています(「玄松子の記憶」による)。対馬とくれば壱岐も考える べきですが、石田町にも志々岐神社があります。以下、小値賀島にも、また、新五島町の太田にも表記が異なるも、志自岐神社があります。

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県別マップル道路地図長崎県より


目を南に転じると、島原半島の南西岸、南串山町(現雲仙市)にも南串山志自岐神社があり、祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・祓戸大神・志自岐七郎左衛門命とされています。

平戸島の志々伎神社、対馬、壱岐の志々岐神社、五島の志々岐神社、志自岐神社、

島原半島旧南串山の志自岐神社、糸島市の志々岐神社・・・と、北九州市から山陰も含め、まだまだあるようで、シシキの神がかなり広範囲に分布していることが分ります。

もちろん、これらを「玄松子の記憶」「神奈備」といったネット上の神社系サイトを駆使し祭神を系統だって調べることはできるのですが、地名研究では現地を踏むことが鉄則であることから、ここでは、確認した範囲に留めます。

このため、ここでは山鹿の「志々岐」地名が、九州北西岸に数多く分布するこれら多くの神社や神名から付されたと思われる地名と関係があるのではないかとしておきます。

このように、現地には他に類例がなく、全く孤立した地名のように見える地名でも、実は他地域との関係を見るべきものがあることから、単に郷土史会や史談会的な視野では本質を掴めない地名もあるという一例と言えるでしょう。

 立ち返りますが、このため、「志々岐」を自然地名として考察し、また、言素論的に解釈することには意味が薄いと考えてしまいます。

もちろん、原則的に言えば、仮にそれによるとしても、この地名、神社名の中心地、震源地と思しき平戸南端で行うべきとまでは言えるかもしれません。

しかし、どうも単純にそうとも言えないように思うのです。それは、どうやら、これが自然地名といったものではないようだからです。さらに探求を進めることにしましょう。

 では、その分布から海洋民によるものとの理解で良いのでしょうか?

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県別マップル道路地図熊本県より


もちろん、志賀島の安曇の一族が信州(安曇野)に入っていることを考えれば、山鹿の一画に志々岐があっても何らおかしくはありません。

詳しくは調べていないため軽々には言えませんが、山鹿市街地の南、山鹿大堰橋と山鹿大橋との間の菊池川河畔に宗方(表向き市杵島姫ほか三女神を奉祭する氏族か)という地名があることも一つの例かも知れません。

また、志々伎神社の祭神に十城別王(日本武尊の皇子)も出てくることから、 

この地名の起源は最低でも朝鮮半島(新羅)までは考える必要がありそうですが、今のところこれ以上は踏み込みません。


多良嶽山岳修験とシシキさん


 と、ここまで話を展開させたところで、目を同じ肥ノ国の領域である有明海の向こう側、佐賀県太良町と長崎県諫早市(旧小長井町)の県境に転じます。

奇妙なことに、この地にはシシキさんという土俗の神が祀られているのです。

詳細は、関係する全文を後段に添付していますので、そちらを読んで頂きます。

出典は平成七年に刊行された佐賀県太良町の「太良町史」です。

そこには、実に驚愕すべき内容が書かれているのです。

皆 さんは、紀元前五世紀、インドのガンジス川流域に一大王国を築いたマガタ王国というものがあったことを聞かれたことがあるでしょうか。前四世紀になるとア レクサンダーの侵入により、この国は滅び、アショカ王、カニシカ王で有名なマウルヤ王朝が成立するのですが、その際、マガタ王国の一族がガンジス川を降 り、さらに東方に逃れ、平戸の志々伎崎にたどり着き仏教を伝えたという話が残されているのです。

これは彦山と並び九州の山岳修験の拠点であった多良嶽修験の『太良嶽縁起』や『高来町郷土誌』『小長井町郷土誌』に書かれていることなのですが、さらに、面白いのは、『高来町郷土誌』によると、金泉山の縁起書には次のように書かれているのです。


「温泉山の権現は、高麗から飛来した高来津坐で、高麗王家の4人の姫君であった。この高来津坐は、島原半島温泉山に近い一の宮であり、彼女たちは阿蘇の神と親しくなった。」と伝えているのです(温泉山とは雲仙岳の古名であることが分ります/古川)。

なにやら、山鹿の志々岐地名の起源が見えてきたようでもあります。

さらに、佐賀県側には太良町大字大浦中畑に「シジキさん」と呼ばれる石祠があり、長崎県側には小江小船津に「志自伎ノ本」(シジキノモト)という字があり、「勧請志自岐社」の小祠碑があることを伝えているのです。


列島への仏教伝来について


この話になると、六世紀に百済からもたらされた(聖明王による)ものとの通説が幅を利かせています。

しかし、紀元前四世紀、マガタ王国一族により、直接平戸志々伎崎へと仏教が伝えられたという話は、一般には容易には受け入れられるものではありません。

ところが、それに似た話が福岡近郊にあるのです。福岡、佐賀の県境に雷山がありますが、その北麓にある千如寺に伝わる話です。

ここには、五世紀にインドから渡来した清賀(セイガ)上人による仏教が伝えられたという伝承があるのです。

もう少し分りやすい話としては、福岡市の南区、早良区の南に油山という六〇〇メートルほどの山があるのですが、なぜ、油山と呼ばれたかというと、清賀上人が灯明用の油として、インドから持ち込んだゴマを栽培したからというのです。

これについては、古田史学の会の古賀達也(元事務局長)氏が詳細に書いていますので、参考までにご紹介します。


 『古代に真実を求めて』第一集(一九九六年三月 明石書店)へ

「見失われていた佐賀県清賀上人について 古田武彦講演記録(皇(すめろぎ)は神にし座せば・・・)より


倭国に仏教を伝えたのは誰か「仏教伝来」戊午年伝承の研究

古賀達也

・・・ (3) 仏教伝来「戊午年伝承」の秘密

 わが国において永く通念となっていた仏教伝来の年次は、欽明十三年(五五二)壬申でした。『日本書紀』欽明紀に記された、百済聖明王からの釈迦像や経典の伝播を仏教の初伝と見なす見解です。

  冬十月、百済の聖明王[更の名は聖王]西部姫氏達率怒利斯致契等を遣わし、釈迦佛の金銅像一躰、幡蓋若干、経論若十巻を献る。  (『日本書紀』欽明十三年条)
          ※[ ]内は細注。以下同じ。

  この記事をわが国への「仏教初伝」と見なすもので、古代から近世にいたるまで日本仏教界の主流となった見解です。古くは最澄が『顕戒論』で主張し、空海も 同様の認識を記していたことが『高野雑筆集』に見えます。中世においては日蓮が弟子信徒あての書状に、やはり欽明期の伝来を多数記しています。

  我が日本国、志貴嶋宮御宇天皇、歳戊午に次るとき、百済の王、仏法を奉渡す。聖君の敬崇、今に至りて絶えず。〈弾じて曰く、天皇の即位は元年庚申なり。御 字正しく三十二歳たり。謹んで歳次暦を案ずるに、都て戊午の歳なし。元興の縁起、戊午の歳を取るは巳に実録に乖く。敬崇の言、未だその理を尽さず。沈焼の 事理、すべからく注載すべし。〉  (最澄「顕戒論」・日本思想大系『最澄』所収)

 仏法、百済国より始めて日本朝に届る。是れ梁の武帝の大宝三年、壬申に当たるなり。其の壬申より日本の第三十帝、天国排開広庭天皇の十三年壬申に至るまで、仏入滅の後、一千一百六十二歳を経て、仏法始めて日本に届る。

 (空海「高野雑筆集」『弘法大師空海全集』七巻所収)

 又、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済より一切経・釈迦仏の像をわたす。(日蓮「報恩抄」・『日蓮大聖人御書全集』所収)

  このように仏教史上主流をなした欽明十三年壬申説に対して、近年では『日本書紀』よりも遅れて成立した『元興寺伽藍縁起』や『上宮聖徳法王帝説』に見える 欽明七年戊午(五三八)が定説の位置を占めるようになりました。学校などで「仏教伝来して御参拝(五三八)」という語呂合わせで覚えた、現代の「教科書定 説」です。

…中略…

   しかしこの戊午年説には大きな欠陥が存在することが知られています。

…中略…

 それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。

氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十

三 年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教 文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年 に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初 め」と銘紀されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされ るのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。


  3 糸島郡『雷山縁起』の証言・・・・天竺僧清賀、仏教を伝う

 (1) 仏教先進地、九州の諸伝承(省略)

 (2) 糸島郡『雷山縁起』の証言

  『筑前双書』に「雷山縁起」という文書が収録されています。同縁起の表題には「雷山高祖縁起」とあり、「高祖」の下に「ナシ」と加筆されているところか ら、本来は「雷山縁起」と「高祖縁起」の両方が存在していたようです。その内容は「雷山縁起」「附録」「雷山千如寺法系霊簿」の三つからなり、「雷山縁 起」は雷山にある上宮・中宮・下宮の由来などを記し、「千如律院草創芻 實相」による跋文には允恭天皇四年に縁起が選集され、寶暦九年(一七五九)に再選 録したと記されています。「附録」は允恭以後寶暦九年までの記録等が記されています。「雷山千如寺法系霊簿」には千如寺の歴代の住職の名前が記されてお り、始祖清賀上人以後、のべ百八十七名にも及んでいます。時代にすれば、始祖清賀上人の「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一年庚子示化」から安永八年 (一七七九)まで続いているのです。ちなみに「雷山千如寺法系霊簿」の冒頭頭部分は次のように記されています(旧漢字・異体字を一部改めました)。

   雷山千如寺法系霊簿
始祖法持聖清賀上人         人王十三代成務天皇四十八年来朝
                  應神天皇十一庚子七月十五日示化
清辮上人 仁徳天皇御宇       圓賀上人 仁徳天皇御字
明辮上人 履仲天皇御宇       明遍上人 允恭天皇御宇
遍照上人 安康天皇御宇       圓明上人 雄畧天皇御宇
禅賀上人 雄畧帝代         行賀上人 清寧天皇御宇
覺賀上人 仁賢天皇御宇       圓瑜上人 武烈天皇御宇
圓融上人 繼躰天皇御宇       圓濟上人 同
仁済上人 宣化天皇御宇       恵濟上人 欽明天皇御字
恵観上人 同            恵達上人 敏達天皇御宇
智達上人 用明天皇御宇       恵到上人 推古天皇御宇
到岸上人 同            圓盛上人 同
叡意上人 舒明天皇御宇       叡詮上人 大化年中
敬天上人 斉明天皇御宇       光天上人 天智天皇御字
含曦上人 同            恵観上人 白鳳年中
観淳上人 朱鳥年中常山縁起撰録 行忠上人 文武天皇御字
行恵上人 大宝年中         圓祐 和銅元年二月三日 一字虫喰
(以下、略)

中 でも注目すべきは、清賀上人が来朝したとされる成務天皇四十八年は戌午にあたり、仏教が戊午の年に伝来したとされる伝承に一致することです。ただ成務四十 八年は『日本書紀』紀年によれば西暦七八年となるためそのまま信用できないようです。この点、史料批判が必要です。幸いなことに「雷山千如寺法系霊簿」に は名前の下に年代が記入されており、それにより平均在位年数がわかります。
 比較的年 代 が確定できる三十代行恵上人(大宝年中・七〇一)から七十七代如慶(寛治五年・一〇九一)を定点にして平均在位年を求めると、約八・三年となります。この 数値をもとにして三十代からさかのぼれば初代は西暦四六〇年頃となり、この付近の戊午年は四七八年ですが、初代の清賀上人の在位年数が長いことに注意しな ければなりません。「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一庚子七月十五日示化」と非常識な在位期間ですが、この中の干支に注目し、戊午から庚子までの四十 三年間の在位と考えれば来朝の時期は更に上り、戊午年は四一八年が最も妥当となります。あるいは十四代目の仁清上人が宣化天皇の御宇(五三六〜五三九)と されていることから、この代から十三代さかのぼる初代清賀の来朝を四七八年戊午とするのは無理で、やはり四一八年戊午が妥当となります。この帰結もまた中 小路説と一致するのです。
 ところで、この縁起は従来どのように見られていたのでしょ う か。『糸島郡誌』によれば、元亨年間(一三二一〜一三二四)の小蔵寺文書に聖武天皇の時に聖賀聖人の建立と記されており、こちらを正しいとし、成務と聖武 は音が同じなので問違えたのであろうという見解を載せています。現在ではこの見解に従って、千如寺を天平年間の建立と紹介しているガイドブックが多いよう です。その一例を紹介しましょう。

   大悲王院と雷山神籠石
 前原から南へ8km、 田園地帯をぬけたバスは山あいの道を上り、大悲王院の下で終点となる。大悲王院(真言宗)は千如寺ともいわれ、寺伝では聖武天皇のとき、インドからの渡来 僧清賀上人によって開山されたという。雷山の観音様として信仰を集めている木造千手観音立像(国重文)は、像高4・54mの 木像で、清賀上人作と伝えられているが諸説あり、同寺の清賀上人坐像(国重文)とともに寄木造り、鎌倉時代後期の作と推定されている。そのほか堂内には多 聞・持国の二天像、江戸時代作の二十八部衆も祀られている。また、鎌倉時代以来の多数の大悲王院文書(県文化)を蔵し、千如寺の歴史のみならず、糸島地方 の歴史研究のうえにも貴重な史料となっている。(『新版福岡県の歴史散歩』福岡県高等学校、歴史研究会編・一九八九年)

  しかし、こうした聖武誤記説は成立しません。「雷山千如寺法系霊簿」の存在がそれを否定するのです。同系図には清賀から連綿と江戸時代まで続いており、二 代目以下二十数人を無視して初代清賀だけを天平年間に持ってくることは困難です。また、後代の偽作とすることも採りがたいようです。何故なら欽明期の仏教 伝来という定説を否定するような縁起や系図が後代に偽作されるとは考えにくいからです。その証拠に「附録」は「或問云人王三十代欽明天王時佛法始弘傳〜」 と欽明以前の成務天皇の時代に清賀が来朝した記事の「言いわけ」から始まっているのです。

 或るひと問うて云ふ、人王三十代欽明天王の時、仏法始めて弘伝す。何ぞ夫の皇后(神功皇后)の時に仏法有らんや。
  答ふ、天子の命を以て天下一統に仏法を弘通せしむるは、実に欽明を以て始めと為るなり。彼の漢土後漢第二の主明帝の時、仏法初めて度る。是れ我が朝第十一 の主垂仁帝の時に当たれり。如し古の時、則ち和漢往来し、両つながら交渉を得ば、漢土に既に有るに、何ぞ聖僧等の我が朝に遊化する有るを妨げんや。
 況んや復た清賀上人の如きは、是れ持明仙人にして、石壁も礙ぐること無く、空に騰ること自在、凡情の測度すべからざるものなるをや。(以下、略)(中小路駿逸氏訳・原文は漢文)

「附 録」の筆者、實相の主張は次のようです。欽明期の仏法伝来とされるものは天子の命による「弘通」であり、ずっと昔より日本と中国とは往来があるのだから、 後漢の時代に中国に伝わった仏法が欽明以前に日本に伝わらないはずがない、というのです。筆者には現代の通説よりもこの主張の方がよほど理にかなってお り、ある意味では近畿天皇家一元史観にとらわれない健全な認識を感じとれます。また「附録」では次のようにも記されています。

 欽明天皇以前開闢の地(仏教が伝来した地)、本朝に数多なり。那智山の如きは、人王十二代景行天皇の御宇、七人小船に乗りて来たる。六人は本国に帰り、那智山の景を愛でて住し、乃ち如意輪観音を安んず。時の人、称して裸行上人と曰ふ。
 按ずるに、尓の時、未だ僧徒有らず。是れ天竺の沙門、行化の為の故に日本に来たり、袈裟を被て偏へに右肩を袒ぐを以て、日本の人、見て、裸形と、言ひしならん。唯だ雷山のみに非ず、その類多し。(同訳)

  欽明以前の仏教伝来は雷山だけではなく、例えば那智山の裸行上人もインドから景行天皇の時代に来たし、こうした例は日本各地にあるのだと言っているので す。これなどは多元的仏教伝来説とも言うべきものでしょう。こうして見ると江戸時代の人々の方がはるかに自由な歴史観を持っていたようにさえ思われます。 やはり同縁起は、仏教が戊午の年に当地に伝来したという伝承が記された貴重な文書のようです。しかも伝えた僧侶の名前や系図まで残っていたのですから。
 なお付け加えますと、同縁起・法系霊簿(福岡県立図書館所蔵本コピー版による)の余白部分には異筆により次のような書き込みがあります。

 ○「妄加言」(『雷山縁起』阿育上塔縁起第二の上余白部分)
 ○「妄言」(『雷山縁起』 一夜出現伽藍縁起第四の上余白部分)
 ○「右偽妄面皮イカホドアツキヤ 仏ボサツノ照覧ヲ不慴ヤ」(『雷山縁起』跋文余白部分)
 ○「ヒラメニ云ヘシ 大ウソ ヨフモ書ツツケタルヤ(以下五字不明)」(『雷山千如寺如法系霊簿』上余白部分)

  これらの「落書」が示すように、同縁起の内容が読者(時代不明)にとって「妄言」と映っているのです。しかしこの「読者」の判断とは逆に、私には同縁起が 偽作ではなく、誇脹や修飾が加わってはいるものの通説とは異なった古代の真実を伝えている、という心証をこれらの「落書」から感じるのですが、いかがで しょうか。また清賀や雷山千如寺伝承は、『太宰管内志』にも少なからず紹介されています。例えば同書に引用されている「雷山詔書」に次の記事が見えます。

  筑前國雷山千如寺僧等解状稱、當山者、水火雷電神之開山、神功皇后宮之御願也。 (略) 法持上人開發 (略) 建長七年三月十九日 参議忠棟源大納言殿。(『太宰管内志』筑前之三〕

  このように建長七年(一二五五)の事件を記した中に、清賀が神功皇后の勅願により建立したことがふれられており、伝承の存在が鎌倉時代までさかのぼれるこ とがわかるのです。この点、「雷山千如寺法系霊簿」により歴代の住職の名前がわかっているので、他の文献による確認が可能と思います。
  この縁起や系図が九州王朝系の記録であるとすれば、仏教伝来以外の記事も俄然蓋然性を増してきます。たとえば縁起には水城の築造記事もあり、興味がもたれ ます(上宮中宮社壇祭祀縁起第三)。また、天孫降臨の場所として筑紫日向高千穂くしふる峯の細注に、今高祖山と言うは訛りなりとして、古田氏が論証された ように天孫降臨の場所が当地であると記されています(上宮増岐大明神鎮坐縁起第一)。
  考えてみれば、雷山が我が国における仏教伝来の地であったとしても不思議ではありません。邪馬壹国の時代から九州の玄関口であったし、何よりも倭国王墓が ある糸島半島を見下ろせる位置にあり、九州王朝の菩提寺にふさわしい所と言えます。こうしてようやく私たちはわが国に仏教を伝えた僧の人、清賀の存在を確 認することができたのです。(11)

 (3) 油山伝説と清賀

  わが国に仏法をもたらした清賀は地元福岡市や糸島郡では「油山伝説」とともに有名のようです。また、糸島郡には清賀が建立したとされるお寺があります。 『糸島郡誌』によると、先に紹介した雷山千如寺を含め、次の寺院(現存しないものもあります)が清賀建立伝説とされています。所在地は『糸島郡誌』(昭和 二年発行時)に記された地名表記のままとしました。

○雷山千如寺    雷山村雷山 
○浮岳久安寺    福吉村吉井
〇一貴山夷巍寺   一貴山村一貴山
○大用山小蔵寺   長糸村小蔵
○染井山霊鷲寺   怡土村大門 
○鉢伏山金剛寺   今宿村上原
○種寶山楠田寺   加布里村東

 これら七ケ寺は「恰土郡七ケ寺」と呼ばれています。中でも雷山干如寺は七ケ寺の筆頭とされ、現在でも大悲王院文書など貴重な文化財が伝わっています。七ケ寺以外にも次の寺院が清賀建立と記されています。

 ○塔原寺        一貴山村唐原
 ○朝日山遍照院     周船寺村
 ○萬歳山光明寺     北崎村小田
 ○不知火山瑠璃光寺   可也村火山   (以上、『糸島郡誌』による)
 ○東油山正覚寺     福岡市東油山  (『日本寺社大観』による)

  こうした清賀建立の寺院を紹介したのは他でもありません。地元では清賀伝承が今でも息づいていることをわかっていただきたかったからです。それでは次に 「油山伝説」をご紹介しましょう。『糸島郡誌』今宿村「油坂」の項に次のように記されています。(ほぼ同文が『太宰管内誌』に記されていますので、『糸島 郡誌』は『太宰管内誌』から引用したものと思われます。)

  油坂は大字青木の東北五町長垂山の南糸島早良両郡の境なる小濱より南に転じて山間を越え青木の廣石池の上に至る道なり。昔筑前五所勅願寺の燈油料に住持僧 清賀早良郡油山に居て胡麻を多く作り油を搾りて五寺に送りけり。或時油山の住僧寂恩(忍ーー古賀注)と清賀と油交易の争論を起こしける。太宰府より其由を 聞て数人を遣し押へて油を五寺にも遣はさず太宰府に取らんとせしが、清賀瞋恚を発し長垂山にて油瓶を打破りたり。是に依りて其所を油坂と云ふ。其後油を送 ること長く絶えたりと云ひ傳ふ。(『糸島郡誌』)

  この伝承は大変興味深い内容を含んでいます。まず、清賀の他に寂忍(『太宰管内史』による。『糸島郡誌』に寂恩とあるのは誤植か。)という僧の名前が記さ れていますが、仏法初伝が清賀一人によってなされたのではないことがうかがえます。さらに、おそらく九州王朝の都である太宰府から役人が派遣され、油を持 ち帰ろうとしたので、清賀が法力で油瓶を割ったとありますから、この時代の仏教はまだ国家統制下におかれていないような印象を受けます。そうすると、後代 の国家により保護・統制された国家仏教ではなく、仏教伝来初期に成立した説話伝承ではないかと想像できるのです。少なくとも、勅願寺が表れていながら近畿 天皇家の天皇や官僚名が全く登場しない同説話を、九州王朝内の説話と見なすことは妥当と思われるのです。
  また『雷山縁起』や地元の伝承では、清賀は百済僧ではなくインド(天竺)僧とされています。倭国伝の分析では仏教は百済から伝来したように見えたのです が、清賀が天竺僧とされるのは一見おかしいようにも思えます。しかし百済への仏教伝来が胡僧摩羅難陀とされていることを思いだして下さい。胡僧とあります から、おそらく西域・天竺出身と思われますが、その百済経由で同じく天竺僧清賀が渡来したとすれば、やはり偶然とは思えない一致点と見なせるのではないで しょうか。
 以上、清賀についての地元伝承を紹介しましたが、次に『雷山縁起』の系図に記された僧について検討します。

 (4) 高麗僧恵観

 「雷山千如寺法系霊簿」に二十七代目恵観上人の名前があります。「白鳳年中」とその在位時期が記されていますが、実は他の文献に白鳳年間の人物とされる恵観という僧侶のことが見えるのです。

 ○湯川は多羅菩薩の垂跡にして、恵観凡位顕はし畢んぬ。高麗の人なり。
      
(「諸山縁起」岩波日本思想文学大系『寺社縁起』所収)
 ○天武天王御宇、白鳳十四年甲戌、導師高麗國恵観僧正。
      (『私聚百因縁集・巻八』「役行者之事」)

「諸 山縁起」は鎌倉初期以前の成立とされ、九州年号の「僧聴三年(五三八)」が記されています。『私聚百因縁集』は正嘉元年(一二五七)の成立です。これら二 書に恵観のことが記されているのです。「恵観」という名前の僧侶は歴史上何人かいるようですが、この恵観は「雷山千如寺法系霊簿」、二十七代目の恵観上人 のことのように思われます。とりわけ『私聚百因縁集』の恵観の記事は白鳳十三年と年代が一致するので同一人物の可能性大です。このように「雷山千如寺法系 霊簿」に見える歴代の住職の一人がどうやら実在の人物のようですから、さらに調査すれば他の僧侶の実在性も証明できるかもしれません。今後の重要なテーマ です。

  4 仏教は四一八戊午年に九州に伝来した

  仏教伝来戊午年伝承の探求は、『隋書』イ妥国伝・『筥埼宮記』より伝来の地が北部九州であったこと、また『日本書紀』推古紀・『元興寺伽藍縁起』・『上宮 聖徳法王帝説』よりその年次が四一八年であったことに行き着きました。そしてこの二つの結論の結接点として糸島郡『雷山縁起』の清賀伝承を発見しえたので した。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。わが国仏教界において釈迦に次いで語られるべき恩人、清賀の 恐らくは苦難に満ちた伝教の生涯を知ることはもはや不可能のように思われますが、その名前が歴史学の一隅に置かれることを念じて止みません。
  人間が自らの存在を深く認識した時に、おそらく同時に知ったであろう生老病死の四つの根元的な苦しみを救済する教えとして、釈迦の発した言葉は時と人を得 ながら東流したものと思われます。氷雪の高峻を越え、灼熱の砂漠を横切り、あるいは怒濤の大海を渡り、時に権力の迫害を被り、殉教の徒を出しながら、無名 の民衆に支えられて今日に至った人類の一大精神遺産、仏教。そのわが国への伝来と初伝僧の追求をテーマとした本稿も許された紙幅が尽きました。おそらく、 文体・論証ともに世の研究者・識者の潮弄を浴びることと思いますが、完全な無視の運命にあわねば、この論文にとって望外の幸とするところです。・・・


「山鹿の志々岐」へ続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:30| Comment(0) | 日記

2016年06月23日

198志々岐(シジキ) A

198志々岐(シジキ) A

20160213

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は2011年に菊池(川流域)地名研究会用に書いていたものを僅かな編集を加え公開するものです。  

山鹿の志々岐

20111127

197志々岐(シジキ) @ から続く


これらを持って直ちに山鹿の志々岐に住む人々がアレクサンダーに追われたマガタ王国の末裔であるとか、九州北西岸に盤拠した海人族であるといった短絡はしないつもりですが、平戸の志々伎を中心に展開するシシキ、シジキ地名が起源ではないかとまでは言えるかも知れません。

平戸島の南には海水浴場として知られる根獅子(ネシコ)の浜があり、獅子(シシ)という大きな漁師の集落もあります。

一 つの考え方として、志々伎の伎は、益城は元より、八代以南に数多く分布する、奈良木、久多良木(百済来川)、白木、津奈木、路木、小伏木、横居木、百木、 磐城・・・の木であり(たぶん城塞集落を意味するものでアジア大陸に広く分布するスク地名の転化か? 津古、須久、須古、須子、須木・・・)、シシキのシシこそが地名としての主要部とは言えるかもしれません。言素論を敬遠しつつも、可能性を探る道を始めか ら塞ぐ必要もないでしょう。

「日 本書紀」敏達紀に登場する百済の達卒「日羅」の話を持ち出すまでもなく、久多良木、白木などが半島との関係で論じられるとすれば、平戸の西南端は、対馬海 流がすぐ沖を流れており、九州から半島、大陸への最短ルートと考えられることから、シシキの神を奉じる氏族が、山鹿から、対岸の、多良岳山麓、南串山、平 戸、五島、糸島半島、壱岐、対馬に展開していたことが推定でき、その東端に山鹿があったのではないかとまでは言えるようです。

ただ、これが山岳修験の勢力なのか、海人族なのか、それこそアレクサンダーに追われた古々代の渡来系氏族だったのかについては今後の課題とします。

もちろん、学会通説は一笑に付すでしょうが、一般的に英彦山や求菩提山などの山岳修験を形成した人々は、山陰山陽の製鉄氏族に連なるとも言われ、天狗や鬼にも擬され、長身で鼻が高く(カギ鼻)、渡来系統の人々であったと言われています。 

ハッティシェリの製鉄民とも言われたヒッタイトやフェブライ人の末裔などとさえ言われ、三千年前あたりから、相当、古い時代にステップ・ロードを伝い、或いは海伝いに列島に入っていたと言う論者も後を絶ちません。

では、多くのシシキ、シジキ地名の発信源が平戸の志々伎崎としても、では、シシキ、シジキとは何かは、なお、分りません。

ここでは、もう一つの可能性として、「太良町誌」から


マ ガタ王の飛来伝説は、彼が国王そのものであったかどうか真偽のほどはともかくとして、マガタ国の人々の一団が、ある日、どこかの港から、新天地を求めてベ ンガル湾に逃れ、ビルマの沿岸づたいにマレー半島を南下し、やがて、黒潮にのって平戸島南方の志々伎岬に到着したのだと仮定すれば、そこには限りない伝記 的空想(ロマンス)がひろがる。

「シジキ」・・・・・・この耳なれない言葉も、彼らがもちこんだ遠い異国の古代語であったと仮定すれば、なおさらのことである。


を引用し本稿を閉めることにしますが、最後に面白い資料を紹介します。


“糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する条例(平成2211日)条例第167号”というものがありますが、下水道事業の地域指定を行なう際の一覧表にマガタ、マガタ下という字があることに気付きました。

雷 山千如寺があるのは旧前原市(現糸島市)ですから、清賀上人がマガタ国からの渡来僧であったとすると、同市にマガタ、マガタシタという字名があってもおか しくはないはずです。想像を逞しくすれば、唐人町地名と同様の古代の居留地であった可能性があるのではないかと考えています。


糸 島市高田、高田一丁目、高田二丁目、高田三丁目、高田四丁目、高田五丁目、池田、板持、板持一丁目、板持二丁目、志登、潤、潤一丁目、潤二丁目、潤三丁 目、潤四丁目、波多江、波多江駅北一丁目、波多江駅北二丁目、波多江駅北三丁目、波多江駅北四丁目、波多江駅南一丁目、波多江駅南二丁目、浦志、浦志一丁 目、浦志二丁目、浦志三丁目、泊、油比、新田、前原、前原中央一丁目、前原中央二丁目、前原中央三丁目、前原西一丁目、前原西二丁目、前原西三丁目、前原 西四丁目、前原西五丁目、前原北一丁目、前原北二丁目、前原北三丁目、前原北四丁目、前原東一丁目、前原東二丁目、前原東三丁目、前原南一丁目、前原南二 丁目、前原駅南一丁目、前原駅南二丁目、前原駅南三丁目、荻浦、大浦、南風台一丁目、南風台二丁目、南風台三丁目、南風台四丁目、南風台五丁目、南風台六 丁目、南風台七丁目、南風台八丁目、美咲が丘一丁目、美咲が丘二丁目、美咲が丘三丁目、美咲が丘四丁目、糸島市東字東ノ前、ヒガシ・堀池ノ前・太田・越木 縄手・板桧・宝道上・中村・川園・東笠掛・西笠掛・佛田・向野・深町・唐ノ町・寺島・中川原・楠田寺・マガタシタ・五反田・原中・野添・鶴ケ崎・富崎・早良牟田・牛水・下田の一部・郷路ケ浦の一部・楠田寺ノ前の一部・マガタの 一部・野間の一部・石川原の一部・石町の一部・三ヶ口の一部・童子ヶ浦の一部、糸島市神在、岩本、千早新田、加布里、糸島市高上字開坂・野間・糸島市香力 字夏目・天神前・城園・折久保、糸島市八島、蔵持、有田、有田中央一丁目、有田中央二丁目、糸島市富字越当・染田・向坂・寺田・坂元・外河原・内河原、前 田・三角・胝無田・浅黄ケ浦・山崎の一部・井ノ浦の一部・長浦の一部・長尾の一部、糸島市多久、篠原、篠原西一丁目、篠原西二丁目、篠原西三丁目、篠原東 一丁目、篠原東二丁目、篠原東三丁目、井原(作出・鹿我子を除く。)、三雲、曽根、井田、高来寺、大門及び糸島市高祖字御田・京田・高砂町・中縄手・大河原・金口・御輿・汐井川・前田・榎町・屋敷・浦の一部・松本の一部

                                 地域指定の字一覧表の一部


な お、現地はJR筑前前原駅南二キロの西九州自動車前原ランプ西側、県道12号線との立体交差点付近ですが、真方という交差点があり、付近にも真方バス停、 真方公民館があります。通常、真方と表記されていますが、法務局の字の表記は“マガタ”と書かれ、大字東字マガタとなっているのです。

この地は雷山千如寺への登山道に近い平坦地で古代においては潮が入る絶好の地であったことが容易に想像できる場所です。

志々岐神社

さて、肝要の志々岐神社です

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志々岐の集落も急斜面にこしらえられた城塞都市の趣がありますが、この神社の威容はなかなかのものです。

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志々岐神社縁起


縁起を読む限り、健磐龍命が主神とされており志々岐の神は祀られてはいません。

つまり、表面的には志々岐の地にある阿蘇神社であることが分ります。

このような場合、通常はこの地名を持ち込んだ人々(恐らく海洋民、海人族)が本来、奉祭する祀る神があったはずであり、その上に阿蘇系神社が覆い被さってきたと考えるべきです。

仮に、そうだとしても、本来、この地の民が奉祭する神があったはずであり決して粗末にはされていないはずです。

事実、スサノウの八坂神社、タケミナカタの諏訪神社が、ほぼ、同等に扱われています。

 もしも、志々岐の民が根絶やしにされていたとすれば、地名そのものが消えてしまっていると考えるからです。

ただ、今のところ、「十城別王」が祀られている痕跡はないようです。

しかし、志々岐に住んでいた人々が祀っていた本来の神が、境内社としてどこかにあるはずと探しますと、「大国主命」が祭られていました。

今のところ、これが志々岐の地に残された古層の神ではないかとしておきたいと思います。

出雲神話において国譲りをした神がなぜこのような地にあるのかと思われるかも知れませんが、神話は古代の権力闘争の暗部を現在に伝える物で、その背後には、多くの隠された史実があるものです。

最 低でも植木町に近い熊本市硯川町には堂々たる川東大己貴神社がありますし(大国主命=オオナムチを祭る神社は吹上浜、北部九州にも散見されます)、スサノ ウの弟とされる大歳命を祀る大歳神社など出雲系神社が宇土の馬門を始めとして数多く認められることもあり、試見(仮説)ながら本来の出雲神話の舞台は九州 だったと考えています。

もちろん、九州の植民国家たる出雲に於いても戦いはあったはずですが。

事 実、志々岐神社の縁起にも国譲りの際に唯一反抗し、最終的に信州諏訪から出ないことを条件に許されたとされる大国主命の二男建御名方命が祀られており、そ の手助けをしたはずの海人族が志賀島の安曇族であったことを考えると、同系統と思われる志々岐の海人が大国主命と建御名方命を祀ることはリアルなのです。

菊池でも講演された百嶋由一郎氏の説に従えば、宗像神社の本来の祭神は三女神ではなく大国主命であったとされていることから、興味は尽きません。

最後に、小さなことにふれておきます。

十城別王についてですが、現在なお、伊豆、平戸・・・など土肥という海岸地名が数多く拾えますが、この

土肥の漁港と十城が音通していることから、古代の水軍の長官別(ワケ)王ではなかったかと想像しています。

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大国主の横に一宮の神額が置かれていましたが、まさか、かつてはこれが一宮だったという訳ではないでしょうね(これについては後に志々岐の一の宮の意味と分かりました)。裏には大国様が置かれていました。


しかし、大国主命とスサノウが対等に、しかも諏訪に逃げたはずのタケミナカタまで祀られていると言うのも、変わった景色ではあります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:17| Comment(0) | 日記

2016年06月26日

199 山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の大国主命

199 山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の大国主命

20160213

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県山鹿市の中心市街地から1キロほど南の小丘に志々岐阿蘇神社があります。

今回、「突然始った肥後での神社トレッキング」において20人規模の参加で神社を見て回りましたが、八島神社、千田聖母宮に続き訪れたのがこの志々岐阿蘇神社でした。

先行する二つのブログを読まれた方はお分かりのように、ここには、志々岐の神(十城別王“軍神・景行天皇の孫”)、スサノウ系祇園神社、建御名方命系諏訪神社(勿論、百嶋神社考古学では認めませんが、通説での大国主の次男)、それに阿蘇系神社が重層的に存在しており、実際には、志々岐の阿蘇神社と言うべきなのがこの神社の本質で、現在、「志々岐」という地名に関連する志々岐の神の痕跡は探れません。

その意味では、阿蘇神社という評価も正しくはなく、その下層に存在しているのは、あくまでも、祇園神社、諏訪神社こそがこの神社の本質ではないかという思いを消せません。

これについては、五年ほど前に故)百嶋由一郎先生をお連れして同社を見た際に、「ここは(表向きは)志々岐に在る阿蘇神社であり、志々岐の神が祀られているのではないようですね…」とお話した事が思い出されます。

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同社参道


志々岐阿蘇神社(熊本県神社誌では「志士岐」) カーナビ検索 熊本県山鹿市志々岐1730


 現在、同社の西側に車道が通り、広い駐車場もある事から実質的な参道はそちらになっています。

 車の乗り合いの車8台によるトレッキングですから当然にも車の集合場所もそちらになりますが、皆さん表参道から参内して頂きました。

 やはり、表参道こそ神社の顔であり、必ず、神社の主張がどこかに残されているものなのです。

 まず、この古風で城塞都市風の志々岐の集落に異様さに気付くことでしょう。

 この場所は、簡単に言えば、巨大古代湖茂賀浦(この湖に於ける水平堆積によって標高450メートルもの高地に山鹿、菊池、植木、合志へと広がる巨大平野が形成されたのです)の出口に当たる最重要集落であり、この鍋田から志々岐に近い辺りで、岩を穿ち(恐らく徐々に)水を落とし巨大平野を造ったのだと考えられるのです。

 そのように考えた時、石を加工できる石工の集団がいたと考えられるのが菊鹿の黒蛭、山鹿の石と並ぶ志々岐の集落であり、事実、石工がいた形跡があるのです。

 それは、先のトレッキング・ポイントの千田の聖母宮の参道に「石工 志々岐 ○○」と刻まれているのを発見したからでした。

 石工の集団こそフリー・メイソンの起源であったあった事まで思いが馳せるのですが、ここでは、志々岐の西1キロに文字通り「石」という集落がある事と併せ、今後、考えを膨らませて見たいと思います。

 山鹿から玉名に掛けて多くの古墳、横穴墓が存在している事は、トンカラリンはともかくも、江田船山古墳やチブサン、オブサン古墳を持ち出すまでもなく、古代から石の加工に長けた人々が居た事は否定しようの無い事実なのです。

 さて、ここにも十基ほどの猿田彦と刻まれた石塔が置かれていました。

 この近辺では、山鹿の大宮神社に50基もの等身大の石塔があるのに次ぐもので、猿田彦が多い肥後でもこの一帯がずば抜けて多い事が分かります。

 百嶋神社考古学では、この猿田彦が草部吉見=海幸彦と対抗した山幸彦=ニギハヤヒであることはこの間何度となく書いてきました。

 まず、ニギハヤヒと言えば、筑豊に展開した25物部の事が頭に浮かぶ方が多いと思います。

 しかし、何やら朝鮮半島からの天神降臨といった見方をされている方が多いように思うのですが、明治の教派神道系物部教団である神理教の開祖であった佐野(巫部)経彦命が菊鹿町の想定ウガヤフキアエズ陵や吾平津姫を調べ、大宮神社の境内地にしばらく前まで神理教山鹿教会が存在した事も、ニギハヤヒの大きな拠点がこの一帯に展開していた事を物語っているのです。

 これについては、久留米地名研究会HPから「吾平」をお読みください。

 玉名から山鹿、菊池に掛けて(つまり菊池川流域)は古代においても非常に重要なエリアであった事が分かるのです。

 そこまでお聴きになった上で、改めて、この神社の本質を考えて頂きたいのです。

 そうです、この神社の実体は、後から覆い被さって来た阿蘇系の神とは関わりなく、境内摂社とされている八坂神社、諏訪神社にあるのです。


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志々岐阿蘇神社の境内摂社「諏訪宮略記」、志々岐神社縁起「ご参拝の皆さまへ」、「熊本県神社誌」にも書かれていますが、同社は天文12年(1543年)に「合志民部大輔 源 鑑峰が阿蘇の神を始めて…」とあります。


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恐らく、これ以前が八坂神社、諏訪神社だったのだと考えられるのです。

ただ、ここで話は終わらないのです。

それが、境内の八坂神社と諏訪神社の最奥部に祀られているのが大国主命だったのです。

実は、「熊本県神社誌」にはこの大国主命は書かれていません。

 これが後世の信仰圏によるものなのか、古代まで遡ることができるものなのかが現在の課題であり、これが解明できなければ九州王朝、九州王朝前史も解明する事ができないのです。

 まず、出雲神話のスターである大国主命が、何故、肥後に祀られているのかとお疑いになる向きがあると思います。

 実は、それこそが「古事記」神話の狙いだったのではないかと考え始めたのですが、まず、福岡県の旧夜須町(現三輪町)には立派な大己貴神社があることはご存じだと思います。

 それに留まらず、熊本市の西部、北区(西里硯川町)にも川東大己貴神社があり、大汝牟遅(オオナムチ神社が鹿児島県日置市吹上町中原(鹿児島市内にも一社)にも、それどころか、宗像大社の周辺にも幟を上げた大国主神社(福岡県岡垣町手野)があり、当ブログをお読みの方はご存知の通り、宗像大社の本当の祭神は大国主命だと何度も書いてきたのでした。

 大阪にだってあるんだから…「そんなこともあるだろう」と言われる方はあるでしょうが、それでは、日向国の一の宮「都農神社」の主神が何故大国主命とされているのかをご説明願いたいのです。

 ここにこそ、古代史の最大の謎が存在しているはずなのです。

 どうも、この志々岐神社の周辺には、八坂神社、諏訪神社以前の信仰圏が隠されている様に見えるのです。

つまり、仮に国譲りをさせられたのがオオナムチだったとしても、譲らされた国(葦原中国)が実際にはどこだったのかが全く分からないのです。

大国主が国譲りの代りに神の御殿のように立派な住居を求めたことから、それを承諾した天照大御神は出雲大社を建ててそこへ移した…とするのですが、それが譲った国(葦原中国)だったのではなく、移された場所でしかなかったのではないかと言う事に漸く気付いたからでした。

尤も、「神代史」を全く架空として退ける学者風の方々には、“利権構造に胡坐をかいておられれば良い”とだけ申上げておきたいと思います。

その後、百嶋先生の説が多少とも理解できるようになるに従い、宗像大社の本来の祭神が大国主命だった事が分かってきたのです。

これについては、太宰府地名研究会の伊藤正子女史が、大伴坂上郎女の歌から、八世紀初頭まで宗像大社には「おおなむち すくなひこなの かみこそは」が祀られていた事を教えてくれたのでした(以下当時のパワーポイントから)。


大伴坂上郎女の歌


名児山の位置(福岡県宗像郡津屋崎町勝浦と玄海町田島との間の山・通称ナチゴ山165m)

冬十一月大伴坂上郎女が帥家を発ち道に上がりて筑前國宗形郡名兒山を超えるとき作れる歌一首


大汝 小彦名能 神社者 名著始鶏目

名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 千重之一重裳 奈具佐米七國


おおなむち すくなひこなの かみこそは なづけそめけめ なのみを なごやまとおいて あがこふる ちえのひとえも なぐさめなくに


同じく坂上郎女京に向かう海路に濱貝を見て作る歌一首

 

吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而将去 戀忘貝

わがせこに こふればくるし いとまあらば ひりひてゆかむ こひわすれがひ


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。


この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。


大国主命のお妃が、宗像三女神の二人、市杵島姫(スセリ姫)、また、田心姫(豊玉姫)であった事が分かってくると、どのように考えても、大国主命が譲った国(葦原中国)が出雲だったとは考えられなくなったのでした。

そもそも、日向の一宮都農神社の主祭神がなぜ大国主命なのかを考えれば切っ掛けになるかも知れませんね。

鹿児島県に南方神社(建御名方)が異常に多い理由も分かってくるかも知れません。

さらに言えば、どの時代まで遡れるかは分からないのですが、飯塚市桂川町に出雲という交差点があり、出雲地区が存在している事。

宗像市から背後地の宮若市を始め筑豊全域の神社に濃厚な大国主を祀る民間風習が残されている事を知るからでした。

これらは端緒でしかなく、今後とも探求を続けたいと考えていますが、嘘で固めた「古事記」神話で安心し吹聴され続ける誤った神代史には、どのように考えても九州王朝の痕跡を消し去ろうとし続けたという意図が透けて見えてきたのでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:09| Comment(0) | 日記