太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年06月02日

191 櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた!

191 櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた!

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 櫛稲田姫(クシナダヒメ)と言えば、木花之佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)と並ぶ日本神話の大スター中の大スターですが、このお姫様が“熊本県の菊池市と山鹿市との境界辺りでお生れになっている”などと口にすれば、俄かに目を背けられ話をするのも嫌がられる事になるのは目に浮かんでくるようです。

 そのことを十分に承知した上で、真実を後世に伝えるためにも、敢て、お話しする事に致しました。

 日本版「ダヴィンチ・コード」のような話になりますが、心を静めておつきあいください。

 無視される方はそれで良いでしょうし、多少とも関心をお持ちになる方はご自分でお調べになれば良いでしょう。逆に言えば、これこそが九州王朝の物証の一つであり根幹を支える神話の舞台の実証になるのです。

 ただ、今回はこの神社を公表する事をせず、後世に引き継ぐためにヒントだけを残すに留め、現段階ではカーナビ検索など現地を特定させることは控えておきたいと思います。

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某社正面


 まず、大嘘付きの「古事記」神話から櫛稲田姫を見てみましょう。


クシナダヒメは、日本神話に登場する女神。『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記する。                   …中略…

ヤマタノオロチ退治の説話で登場する。アシナヅチ・テナヅチの8人の娘の中で最後に残った娘。ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)になる。スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。

高 天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出 会った。彼らの話によると、もうじき最後に残った末娘のクシナダヒメも食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、美しいクシナダヒメが愛しく なったスサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテ ラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、クシナダヒメをスサノオに差し出した。          …中略…

ス サノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によって変形させられ、小さな櫛に変えられた。そして櫛としてスサノオの髪に挿しこま れ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。ヤマタノオロチ退治の準備はスサノオの指示で、アシナヅチとテナヅチが行った。クシナダヒメを頭に挿 したスサノオは、見事ヤマタノオロチを退治する。 ヤマタノオロチを退治した後、スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、須賀の地に宮殿を建てた。      …中略…

稲田の神として信仰されており、廣峯神社(兵庫県姫路市)、氷川神社(さいたま市大宮区)、須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)、須我神社(島根県雲南市)、八坂神社(京都市東山区)、櫛田神社(富山県射水市)、櫛田宮(佐賀県神埼市)のほか、各地の氷川神社で祀られている。

多くの神社では、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られている。しかし、茨城県笠間市にある稲田神社は、唯一クシナダヒメを単独で祀っている。

福岡県福岡市にも櫛田神社があるが、ここの祭神は大幡主大神・天照大神・素戔嗚大神である。ただし、元々はクシナダヒメを祀っていたとする説もある。…

「ウィキペディア」(20160128 20:48による


スサノウ、アシナヅチ、テ(タ)ナヅチ、クシナダヒメ、そして、ヤマタノオロチの話を思い出されたことでしょう。もちろん、空恐ろしい話を単独で発見する事 など到底できないのであって、故)百嶋由一郎氏が、ハッキリ話すことを憚り、仄めかす程度に留めていた話を拠り所として、菊池地名研究会の優秀な講演者の 一人であるY氏のアドバイスを受け、今回、新たに付近を調べてみれば、“先生が言われていた神社はここだったんだ”と分かった事から、躊躇いながらもお知 らせすることにしたものです。

まず、瀛氏の金山彦と白族で博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の妹の埴安姫との間に産まれたのが、櫛稲田姫です。

彼女はスサノウのお妃になり、長脛彦とオキツヨソタラシ姫をお産みになりますが、後には豊玉彦=ヤタガラスのお妃となられ鴨玉依姫を産むことになります。そして、その背景には長脛彦の乱があると思われます。

百 嶋神社考古学の凄さは、「高良玉垂宮神秘書」の解析と九州の優秀な宮司などの研究組織(草ケ江神代史研究会以前にも連綿と存在していた…)によって培われ てきた九州の主要な神社の本当の祭神に対する情報の蓄積から、まず、「記」「紀」神話の九割が嘘であるという事(実はこれこそが本当の九州王朝論なのです が)を前提に、徹底したフィールド・ワークを行われていたところにあります。

最低でも戦前まで、百嶋先生の御一族は、熊本県北部でも最有力家系の一つだったようです。

このため、地元の重要な神社仏閣の本当の情報が容易に収集できる立場にあり、そのことが大きな意味を持っていたと思われるのです。

この点の理解がなければ、全く荒唐無稽な話として扱われてしまうことに成りかねないでしょう。

ともあれ、そろそろ本題に戻りましょう。良く、“クシナダヒメの櫛(クシ)は何でしょう?”などと言われる事がありましたが、神話でアシナヅチ、テナヅチの子とされるクシナダヒメは、百嶋最終神代系譜でも父神が白族の金山彦(瀛氏)、母神が博多の櫛田神社の大幡主の娘である埴安姫(白族)とされている事から母親の出身地である櫛田神社の「クシ」である事が容易に想像できそうです。では、「イナダ」とは何でしょうか?

「古事記」では櫛名田比売、「日本書紀」では奇稲田姫とされています。

「古事記」の櫛名田比売は、ただの音韻転化でしかないため、「日本書紀」の奇稲田姫の稲田で良いでしょう。また、「櫛」が「奇」であり、尊い、貴重な…という意味であることも自然に受け入れることができそうです。

この「稲田」が、また、神社探査のキー・ワードになりそうですので頭に入れておいて下さい。

クシナダヒメ(櫛名田比売)に関して、百嶋先生は、凡そこのように話しておられました。

菊池市との市の境に近い“山鹿の清浦 奎吾記念館に近いところにある”秘密の神社の辺りでお生まれになっています。“

“お父さんが金山彦で、お母さんが埴安姫で、旧稲田村の地名はそこしか有りません…。”

“その奥は本当の神武天皇の本当のお妃の吾平津姫(アイラツヒメ)が居られた”
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清浦 奎吾(きようら けいご、1850327日(嘉永3214日) - 1942年(昭和17年)115日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。

貴族院議員、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任した。


清浦 奎吾記念館 カーナビ検索  熊本県山鹿市鹿本町来民1000−2


元々、それだけのヒントを与えただけの話でしたので、当時から思い当たる神社はあるにはありましたが、きっと知らない小さな祠程度のもので、どうせ特定する事など出来ないであろうと思っていたのでした。

そのため、気にはなっていたのですが、正直言ってそれっきりにしていたのでした。

ところが、少しずつでも百嶋先生の言われていたことが分かってくると、ようやく本気で考えてみようと思うようになったのでした。

そこで、講演当時も数日後にその神社と考えられる神社に行ってきたと話しておられた菊池(川流域)地名研究会のY氏にお尋ねすると、さすがに現地に詳しい (というより何でも知っている)彼らしく、「百嶋先生が山鹿で話された神社は…」とはっきりとした口調で話し始められたのでした。

そこで、雪の降る中、一人で神社を訪問すると、先生が話されていたものが全て残されていたのでした。

現段階ではこれ以上の事は申し上げませんが、古代史の重要な舞台は間違いなくこの一帯で起こっていた事が浮き上がって来たのでした。

勿論、はっきりお示ししても良いのですが、百嶋先生の話されている内容を自らの頭で考え、自らの足で探そうとする人だけにその真実が得られるようにしなけれ ば、結論だけが独り歩きし、既存の権威にふんぞり返る神社関係者、文化関係者から排斥され攻撃されてしまう事が火を見るより明らかだからです。

このため、ここでは百嶋先生が把握されていたクシナダヒメの出自、つまり、父、金山彦と母、埴安姫との間に生れ事が推定できるもの、また、その権威=秦の始 皇帝と姻戚関係を結んだ一族のシンボルとしての紋章が残されている事、旧稲田村であった事…などをお知らせするだけとし、後はご自分でお考え頂きたいと思います。

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今回のキー・ワードは、金山彦と埴安姫を祀る摂社があり、極秘中の極秘のモーセの十字剣神紋があり、付近に稲田地名が存在している事、さらには、その先にも アイラツヒメを祀る神社吾平神社があること、何よりも、この神社には極秘の伝承が残されていた様で、百嶋先生も、直接、先々代辺りの宮司からお話を聴かれ ていたのだと思います。

戦前の宰相清浦 奎吾や松野鶴平を生み出し、その後も松野頼三、松野頼久を輩出する山鹿〜菊池に掛けての一帯は、神代から何らかの力が送り込まれているのではないでしょうか?

では、先に百嶋最終神代系譜をご覧いただきましょう。

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百嶋最終神代系譜(部分)


さて、金山彦の娘(腹違い)で、本当の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であるアイラツ姫(後の名は蒲池姫)も、この一帯にいたことが想像できるのです。

勿論、現在横行している「阿蘇神話」では、速瓶玉命(阿蘇国造)の妃の蒲智比当ス(カマチヒメ)=郡浦神社の主祭神としています。

 この奥に相良(アイラ)観音がありますが、この地も明治の吾平(アイラ)村なのです。

 これらについては、久留米地名研究会のHPから「吾平」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)128130そして、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)082 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”をお読みください。

 なお、この「十字剣」神紋は、現在でも福岡市内の数ケ所に残されていますが、東の方の某(N)神社の奥深くにも隠されています。

 これこそが、金山彦が秦の始皇帝と姻戚関係を持った証拠であり、各所でひた隠しにされているものです。

 神社庁もこの事実は把握していたはずですが、ひた隠しにして教育を疎かにしてしまえば、いつの間にか嘘がまかり通り、それが権威者といった振る舞いに変わり、本当の話をすればあしらわれてしまう事になるのです。

 否定される方否定されて構いませんが、そうであれば、何故、この神社にはこの十字剣神紋があるのかを説明して頂きたいと思うものです。

 この一帯には鎌倉期に宇佐神宮の神威が広がり、天皇などでは全くない贈)応神が幅を利かせ八幡神が覆い被さっています。当然にも、金山彦、埴安姫は境内摂社に秘かに祀られています。

 まあ、大体に於いて正面に出ている大社、縁起式内社の神様は本来の神様でも格式の高い神様でも無い事が大半なのです。

 この神社の宮司家にしても本当は嫌々受け容れ、面従腹背のうちに秘かに本当の神様を残そうとされている事と思うものです。

 皆さんも本当の神社にお賽銭を振る舞われて、下剋上で伸上った成り上がり者の神様(応神など)を無視して頂く様にして頂きたいものです。

 この一帯の東には松尾神社があり、その左隣に松野鶴平氏の生家があります。

 北には相良観音があり(勿論、二世紀の神代にはありませんが)、吾平阿蘇神社があります。


百嶋神代神社考古学神代系譜に関心をお持ちの方は、ケイタイ0906298325424時間対応)までご連絡下さい

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:13| Comment(0) | 日記

2016年06月03日

192 豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮

192 豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 一応、川崎町も添田町も田川郡は豊前の領域ですが、一般的には通常言うところの「筑豊」の方の通りが良いためここでは筑豊で話を進めたいと思います。

筑豊でも川崎町の南隣りと言うか、東隣りの彦山の北麓に添田町があります。

この添田町の懐奥深く、中元寺川の辺に諏訪神社が鎮座しています。

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正直言って田川郡の奥に諏訪神社があるのには驚きました。

肥前、肥後、筑前、筑後では、「お諏訪さん」の呼び名で比較的見掛ける神社ですが、筑豊には存在しないと思っていました。

福津市にかなり大きな諏訪神社があるのは承知していたのですが、彦山の裾野の懐深く、穏やかな地形に囲まれた好地に静かに鎮座する諏訪神社はその存在を知るだけで穏やかな興奮を覚えたものでした。

祭神はと言うと次の四神です。


建御名方  (大国主御二男) とするが、百嶋神社考古学ではそれを認めない

多力雄命            実はスサノウ

片闇邊命                   実は事代主命で重複ではないか?

蛭子命   (事代主命大国主御長男) とするが、これも百嶋神社考古学では認めない

同社縁起にも登場する二人の主神の「兄神」事代主命を祀る恵比寿神社は福岡県下でも300社は超えるでしょうが、建御名方を祀る神社は非常に少なく多分負組なのです。


全国に約25,000社あり、長野県諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。

岡田莊司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。

                  「諏訪神社」ウィキペディア20160206 08:00による


公式見解はともかくとして、百嶋神社考古学の立場からは出雲神話の舞台は現「出雲」ではないのです。

「古代出雲」とは大幡主の一族が展開していた領域の総称であり、九州全域から西日本の海岸部に今は消えた多くの出雲と呼ばれる領域があり、そこには蒲生、鴨、隈…といった地名が付されているのです。

旧桂川町の「出雲」もその一つなのです。

さらに言えば大国主が国譲りをしたのは九州であり、国譲りの結果その移動した国が現「出雲」であり、言わば大和朝廷により造られたテーマ・パークが現「出雲」なのです。

まず、百嶋神社考古学では建御名方命も蛭子=事代主命も大国主命の子としません。それどころか二人は兄弟ですらありません。

しかし、「古事記」では国譲りに抵抗し最後は諏訪から出ない事を条件に許されたのが建御名方命であり、だからこそ武田信玄も軍神として崇めたのであり、島津も鹿児島に多くの南方神社を崇ったのです。

一方、事代主(蛭子)は帰順派として国譲りを早々に受け容れた事から、福岡、北九州に300社も社を持っているのです。

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立派な文章で書かれた同社縁起

歴史の証人としての諏訪神社

「当 神社ハ、大和時代前期ヨリ古事記ニ散見セル豊前、豊後、筑前ノ水分中元司川(早瀬川)彦山川流域ノ開拓神トシテ大国主命ニ従ヒテ瀬成大神ト合計リテ治水、 農耕開発・国土経営ニ当タラレタ出雲系氏族ノ氏神ト崇メラレ延命長寿、子供達ノ守神祖霊鎮守ノ御社、郷人々ヨリ御諏訪様・諏訪大明神ト称サレ」…

と、「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を記録しています。

当方が主張する宗像大社祭神=大国主命とも符合します。

では、祭神の片闇邊命(カタクラベ)は一体誰なのか見当が尽きませんでしたが、神社考古学研究班のU女史によると、事代主命の別名だろうとの事でした。

片 縄、片島、「片○地名」は全て事代主関係との話を百嶋先生からお聴きしていますので、まず、間違いないでしょう。同社の神社縁起はこの点が分からずに、事 代主を受容した時期(江戸時代)に誤って重複記載したものと思います。なお、別社名の「両神社」の意味は主要二神によるもので良いでしょう。

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最後に、同社の鳥居の神額に改竄の跡を見つけました。

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同社鳥居神額

明治の神仏分離令の名残か?

明治の「明」を消したのが吉田神道の神仏分離政策でした。

神仏混淆(神仏習合)の痕跡を消すため陰刻を埋めてありますが、現在までそれが解る様に埋めたとも言えそうで抵抗(抗議)の意味かも知れません。 ここの神仏分離は当然にも彦山山岳修験であることは言うまでもありません。 これは、参拝殿に彦山の大きな絵馬が置かれている事でも容易に想像が着きます。

勿論、明神(ミョウジン)や権現(コンゲン)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号ですね。

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建御名方命と事代主命とが大国主命の配下としても親子でも兄弟でもないことが解りますね

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記

2016年06月06日

193 突然始った熊本県での百嶋神社考古学トレッキング!

193 突然始った熊本県での百嶋神社考古学トレッキング!

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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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※画像クリックで拡大表示されます
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以下は久留米地名研究会を中心にした関連団体の1月〜2月のスケジュールです。

この他にも久留米大学公開講座(九州王朝論)の年間2030セッションや提携団体 菊水史談会の九州王朝論者による大規模講演会が年間34セッションが加わる事から、毎週どこかで何かをやっているという状態になっています。

 このため、休会にしたいという誘惑に駆られるのですが、なんとかやり通しているというのが実態です。

  このような、作業より研究者だけを集めてシンポジウムをやってその内容をそのままユーチューブに公開するとか、研究会には全国的にも有名な講演者が多数お られる事から、直接、インタヴューしてその会話をそのままオンエアするとかいった作業に重点を移す方が重要ではないかと思うところですが、そうした独りよ がりで一方方向の発信だけの(言い放なしの地上波)にする方がよほど効率的ではないかとも考えるこの頃です。

 しかし、百人や多くて数百人の読者しか持たない会報、機関紙を苦労して発行するのはあまりにも馬鹿げていると思うものです。

 ともあれ、地名研究会のインターネット放送局化は無視できない課題です。

 当面、久留米地名研究会のHPを軸にメンバーや協力者によるブログの連携を強化する事を続けますが、多くの聴衆を交え、研究者が現場で集まり議論し、情報を交換し、その情報を共有化するという作業から得られる知見は決して無視できない重要な要素です。

 自身、月間30本近くのブログを書くためにも、多くのメンバーからのアドバイスが非常に役立っているという事実は否定できないのです。

 そうした中、熊本の二人の霊能者を中心とするグループに、肥後でも最も重要な神社二社を案内すると提案したところ、多くても車12台、数名(5名以内)と考えていた神社トレッキングが、月曜日にも拘らず一気に拡大し、車8〜台20〜人規模に拡大してしまった(シマッタ?)のです。

 言うまでもなく、古代史でも神代史においても少しは真面目に検討している九州王朝論者にしても、肥後、肥前を重視している方は非常に少なく、ましてや、広義の日向(薩摩、大隅、日向)に至ってはほとんど無視してしまっている様な印象を拭う事ができません。

 そうした中、このような集まりから肥後の神社の深層を探る研究サークルができ研究団体ができれば非常に強力な武器が手に入る事になる訳です。

 スケジュールを見ても、13031日に掛けて二つのセッションにより筑豊で15社程度を見て回っています。

 おまけに、その報告会を兼ね221日には、blog「ひもろぎ逍遥」の彩杉るな女史と田川市の高級料亭「あをぎり」で神社のお話をすることになっているのです。


5回豊の国古代史研究会 参加費 コーヒー付き1500

2016221日曜日 13:301630

田川市新町21-28 料亭 あをぎり 0947-42-1251

@  「豊の国『新春三社詣りトレッキング』の神々」

久留米地名研究会神社考古学研究班 古川 清久

blog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」管理者

A  「神功皇后を支えた遠賀水軍」

Blog「ひもろぎ逍遥」管理人 綾杉 るな


 当日は、百人が入られる会場を使いますので、彩杉女史のアナウンス効果で参加者が6080人に拡大したとしても駐車場も含め、収容能力にはが心配がありません。

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その休養のために少人数でのんびりと神社を調べたかったのですが、とんでもない展開になってしまったのです。

ただ、それに向けたパワー・ポイント(160シート)をようやく仕上げた時だった事から、急に降って湧いたトレッキングをお受けする気になったのでした。

 図らずも自然発生的に出現したグループが今後どのように化けて行くか、継続、中断、一回きりも含め、まずは興味深々といったところです。


今回の熊本での神社トレッキングは以下の4社です。これほどおいでになるとわかっていれば、もう少し訪問する神社を増やしても良かったのですが、今後の展開を待ちましょう。


@  千田聖母八幡宮(山鹿市鹿央町千田) 重要過ぎるので本当の祭神については口頭で…。

A  加茂別雷神社(熊本市植木町豊田字宗像859高速道植木インターから国道3号線山鹿方面へ1km半豊田交差点より東400m

B  志々岐阿蘇神社(山鹿市志々岐1730

C  □□□□□(山鹿市来民) 重要過ぎるので社名については書かない方が良いでしょう。


 もし、この神社探訪会が常設化されれば、百嶋神社考古学勉強会(20名規模)、太宰府地名研究会(トレッキング)、豊の国古代史研究会に加え、肥後を中心に神社を学ぶ新たな団体が出来ることになりそうです。

 ただ、多少は気になる事もあります。

 あくまでも一般論ですが、概して霊能者、霊感を持つ方というのは、途中の下調べ、聴き取り調査、研究書を飛び越え、直ぐに結論が見えて来るところから、一緒に動いても研究にはならないという部分があることです。

 直感、霊感…が先行し結果が見える事から、フィールド・ワークを重ねてようやく見えて来る知見、経験による機能演繹的結論を得ようと努力している者の研究心とは懸け離れた思考が働くことです。

  従って、そのような方々の呼び掛けによって集まってこられた方も、素直に他人の言説、結論を受け容れられる方が多いのではないかと思う事から、我々のよう に、何でも他人の言う事を疑って掛り、自分で調べないと信用できない!といった感性とは全く異なり、どちらかと言えば、そのような素直な方は研究者には向 かない様に思うからです。

 まあ、失敗すれば止めれば良いだけのことで、多くの人間の目に耳による(今回に関しては心もですか?)神社のトレッキングは、別の知見が得られるかもしれないのです。

 頭は絶えず柔軟に固定した考えは持たない様に心がけたいと思うものです。

 訪問した神社については以後のブログでお知らせします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:33| Comment(0) | 日記