太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月28日

ビアヘロ019 北北東に進路を取れ! R 西舞鶴の朝代神社

ビアヘロ019 北北東に進路を取れ! R 西舞鶴の朝代神社

201601012

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

西舞鶴の笶原神社を見た後、直ぐ隣の朝代神社に向かいました。

ここには、神宮寺だったと考えられる真言宗御室派の円隆寺が境内を連続させています。

境内の規模と言い風格と言い東舞鶴の大森神社と並び、まずは、舞鶴を代表する神社のようです。

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春の網代(アジロ)の置き換えかと思ったところ、正面にお住いのお爺さんにお尋ねしたところ「アッショ」神社だそうで、やはり、現地での確認は必要です。

ただ、複数の聴き取りも必要なので地元のお知り合いにお尋ねしたら「アサシロ」と言われているそうで、当面、保留します。

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「社記」をそのまま読めば、イザナギが単独で祀られている神社になりそうです。

この点、イザナギ、イザナミを祀る多賀神社などとは異なります。

これも、注目するところで、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギとさっさと別れ、博多の櫛田神社の主神である大幡主と一緒になり、ヤタガラス=豊玉彦が生まれている事を知っている訳で、その痕跡とも見たいのです。

それほど珍しいものではないのですが、この社記にも天武朝の「白鳳」元年が出ています。

この「白鳳」自体が近畿大和朝廷の年号ではないもので、通常私年号として貶められていますが、六世紀初頭から連綿と繋がる九州王朝の俗称「九州年号」(513713)なのです。

さて、境内正面にある駐車場に車を止めましたが、直ちに目に飛び込んできたのは「塩釜神社」でした。

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境内社としては少し大き過ぎるこの摂社からは、最良の地に置かれているだけに、元々はこの神様こそが、鎮座されていたのではないかとさえ思わせるものです。

しかも、五七桐の神紋が鮮明で、この神紋を使う神様を奉る有力者こそがこの摂社のご主人なのです。

塩槌翁のことはご存じでしょうが、この神様こそ塩釜神社の本体で、博多の櫛田神社の大幡主なのであり、ヤタガラスのお父上なのです。

元より、初見の神社をどうこうコメントする立場にはありませんので、「丹後の地名地理・歴史資料集」などを軸に勝手に舞鶴一帯の神社を概括させて頂いていますが、どうみても博多と一直線で繋がっている地というイメージを拂拭できません。

「丹後の地名地理・歴史資料集」氏も「こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、…」とされていますが、ここでは一応イザナギを奉斎する神社であることを受入れ、まずは、静かに境内を見せて頂くことにしました。

そもそも、イザナギだけを主神とすること自体が、イザナミを排除したと見るべきで、百嶋神社考古学ではそのイザナミは後に博多の大幡主(正面の境内社塩釜神社の神様)のお妃になっているとしますので、大幡主の勢力を貶め門番扱い=番犬にしたようにさえ見えるのです。

そ もそも、多賀神社(境内社にも同社があるがイザナミは排除されています)にしても、イザナギ、イザナミを祀るのですから、その子はスサノウでしかなく、そ のスサノウが天照大御神に逆らったことから当たり障りの少ないイザナギ、イザナミにしている可能性が高く、この神社でもスサノウは主神の座から滑り落ちて いるのかも知れないのです。

初見ながら、この神社は大幡主系と伊勢神宮の外宮系の神々が本来の神であったものが、かなり古い時代に境内社に落とされていると考えるべきではないかと思います。

蛇足ながら、境内社の工匠神社のタ(テ)オキホオヒの神とはちなみに、タオキホオヒのタ(テ)は「手」であり、天岩戸神話の手力男命の事なのです。

稲荷神社(祭神 保食神)は、山幸彦のお妃であり、伊勢の外宮の豊受大神なのです。

このことはあまりお分かりいただけないのですが、この朝代神社に隣接する円隆寺側にその痕跡らしきものを見出しました。


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縁起担ぎに出世(シュッセ)稲荷と呼ばせているようですが、出世は伊勢(イセ)の置き換えであり、出でるの「イ」であり伊勢神宮外宮の豊受大神が稲荷様であることを暗示しているようです。

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舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西に位置する愛宕山の東麓にある。江戸期田辺城下の総産土社として尊崇され現在に到る。下の挿図を見れば当時とそう大きくは変化がないようである。

朝代大明神(田辺府志より)

「田辺府志」に「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」とあり、日之少宮(伊奘諾尊)を祭神としている。

草創については「加佐郡誌」は、「天武天皇白鳳(私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った」としている。

さてさて、どこの村人が自らの氏神として、こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、そうなっているからとりあえずそのままの引用である。

残 欠になく、式内社でもなく、「室尾山観音寺神名帳」にもなく、「田辺府志」以前の記録にはどうやら見えない社である。あるいは江戸期になってから作られた 偽作っぽいものではなかろうか。当社は代々、玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は吉田家によっていたとされる。その玖津見氏がどこの村の誰ともわから ない。どこかの星から落ちてきたような神主さんで、何で遠く何の関係もない京都の吉田家に任免されねばならないのか。もうぜんぜん村の鎮守ではない。

「朝社登茂書也」と記した「朝代大明神縁起」が伝わる所から推理すれば、朝代はアサヤシロのヤが脱落したもので、アサ神社ということであり、アサとは古くは砂鉄をそう呼び、元々はそうした産鉄系の神社かと思われる。詳しくは「朝代神社と朝禰神社」参照。

元々 は田造にあった神社であったが、何かのきっかけで田辺城下の総産土とまで崇敬されるようになり、その途上で「縁起」もそれらしく書き換えていったものなの ではなかろうか。田舎町には不似合いななかなかの策士殿がござったのであるが、カッコつけすぎでこの地の歴史にあわずかえって破綻が出ているようなところ である。

…中略…

《加佐郡誌》

祭神  伊奘諾命

由緒  天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。

境内神社 天満神社(祭神 菅原道真公) 稲荷神社(祭神 保食神) 松尾神社(祭神 大山咋神)

祇園神社(祭神 素盞鳴尊) 疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神ワズラヒノウス)

多賀神社(祭神 伊奘諾尊) 大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神)

工匠神社(祭神 手置帆負命テオキホオヒ彦狭知命ヒコサシリ)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:57| Comment(0) | 日記