太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月25日

ビアヘロ018 北北東に進路を取れ! Q 西舞鶴の謎の古社 雨引神社

ビアヘロ018 北北東に進路を取れ! Q 西舞鶴の謎の古社 雨引神社

201601010

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

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西舞鶴には水銀朱採取者を思わせる女布(ニョウ)という地名がありますが、そこから由良川領域に移動しようと京都丹後鉄道宮舞線に沿って西に向かう道すがら、千石山の麓に雨引神社があることに気付きました。

まず、千石、千束、千塚…八田、八木、八屋…は、物部氏の中でも瀛氏=忌部の匂いのする地名です。

 その山裾にある神社ですから、この、あまり聞かない雨引神社もその系統の神社ではないかとの思いが走ります。

 狭い道を潜り抜け、神社を見つけましたが、由緒書もなく主神が誰かも分かりません。

このような神社を見るには、帰納演繹的に多くの神社の例から判断するしかありません。

 遠来の神社である上に、土地勘がない以上、軽々に判断はできないのですが、まず、「雨引」の「引」は疋、比企、日置(もしかしたら豊前、豊後の大神比義も)…で置き換えではないかとの思いが走ります。

 ただ、以前どこかで雨引神社を見たことがあるとの意識が僅かながら残っていました。

 これについては後で気づいたのですが、確かに宇佐神宮の東隣国東半島の付け根に今に残る中世荘園田渋荘(豊後高田市)の中心部の小崎に静かに鎮座する雨引神社があり訪問していたのでした。ただ、何の表示もなくそれっきりにしていたものでした。まさか、舞鶴でお目に掛かるとは不思議な感覚です。

やはり、訪問した神社のデータ・ベースを作る時期が来ているようです。

 では、長文ですが、地元の研究者による雨引神社の記述をお読みください(強調は当方)。


雨引神社の主な歴史記録 

《雨引神社の概要》雨引神社の揚松明神事

雨引神社は西舞鶴の南部。高野川上流の城屋じょうやに位置する。毎年814日に行われる「揚松明あげだいまつ」の神事で有名な神社である。別名というか、本名というのか地元では「蛇神様じゃがみさんと呼んでいる。

普通は祭神は水分みくまり神とされ、雨乞いしたのが神社のはじまりとも言われるが、実はもっともっととてつもなく古い歴史があると思われる。

森脇宗坡そうはの大蛇退治伝説でも有名である。その退治されたはずの大蛇こそがこの神社の本来の祭神であろうと思われる。

 ここから高野川を三キロばかり遡った上流に「雨引神社奥の院」がある。さらにその奥に伝説の「蛇が池」もある。

《地図》

雨引神社の主な歴史記録 《室尾山観音寺神名帳》正三位雨引明神

《丹後国加佐郡旧語集》天曳明神 六月九日祭。大松明ノ祭、珍鋪祭ニテ年ノ豊凶ヲ試。

《丹哥府志》【天引大明神】(祭六月九日)

《加佐郡誌》 祭神 水分神 『丹後史料叢書五』所収「丹後国式内神社取調書」

日原神社  ○【古事記】天日腹大科度美神  旧印本目原トカキテヒハラト訓ヲツケタリ

【覈】田辺郷朝代町朝代大明神ト称ス【明細】女布村【道】女布村【式考】同上社傳祭神天日腹大科度美神ト云ヘリ【豊】同上七月廿四日)

 (志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

《舞鶴市史》

雨引神社 神社の祭礼で催される神賑のほかに、特殊な神事を伴う場合がある。城屋の雨引神社には、揚松明で名のある卜占神事が特殊神事として継承されてきている。社名は「天曳」(旧語集)「天引」(丹後旧事記)とも表記していた。祭神は社名が象徴するように農耕水利を司る水分神である。この揚松明は「旧語集」に「大松明ノ祭 珍鋪祭ニテ年の豊凶を試」(城屋村の項)すとあり、早くからその名があがっていた。

 揚松明の起源については二説あるが、一般に流布されているのは大蛇退治説で あり、他は雨乞い説である。因みに雨乞い説については、明治三十九年の「神社明細書」に天保のころを起源としている。同種の神事は小倉に近年まで継承され ていたほか、京都市左京区花脊広河原地区などでも継承されていて、揚げ松、松上げ、柱松と称して盆の精霊火の一つであるともいわれている(民俗学辞典)。

  同社の社頭を流れる高野川の上流を日浦ヶ谷に入ると、大蛇退治で有名な森脇宗坡(巴)が弘治年間(一五五五−一五五八)に娘の仇を討つために騎乗した馬が 残したと伝承される馬蹄の跡と称するものを、岩の窪みに見ることができる。この岩は影向石と同じであり、神の憑り代で、恐らく雨引神社の原型をなしたもの ではなかったかと考えられる。伝承に従えば、娘を呑んだ大蛇を討ったあと、これを三断にして頭部を肥ったのが城屋の雨引、胴部は野村寺の中ノ森、尾部は高野由里の尾の森の各神社となったといわれる。

 揚松明はこの大蛇の供養、または大蛇の物凄さを象徴したものとされるが、この起源説は揚松明に付会したものと思われる

 一方、雨乞い説は、旱天が続き農民が困窮していたところ「一偉人(中略)辛シテー神池ヲ発見ス 又神ノ告ヲ得テー松明ヲ点シ大ニ神ヲ祭り以テ雨ヲ祈ル 是ヨリ風雨順ニ五穀豊熟ス 村民依テ其神霊ヲ祭リシト云フ」(各神社明細書)とあり、これが起源説となっている。なお雨乞いのために火を焚く習俗は全国各地に見られる。

  大蛇退治と類似の伝承は全国に分布しているが、当市では布敷の池姫神社の創祁、与保呂の日尾神社にまつわる蛇切石の伝承、地理的には二社の中間に位する上 根の船繋岩の伝承などがある。これらの伝承は大蛇(竜)がモチーフになっていて、大蛇の威を鎮めることにより農耕が進捗する様子を伝えている。そして、と もに岩が大きな役割を果たしていることが注目される。

 先の雨引神社の祭神は水分神といい、非人格神の性格が強く、池姫神社は市杵比売命とするが、「旧名千滝雨引神と号之(中略)祭神は竜神」(加佐郡誌)とし、「丹哥府志」(布鋪村の項)にも同様のことを伝えている。この神もまた明治以前には固有の名を持たなかったと考えられる。そして伝承内容はやはり雨水に関係している。

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)


雨引神社 祭神 水分神  (祭 新八月十四日) 同市字城屋

城屋の揚松明で古来より有名なお社様。宮司の話として記された物を見るに起源は有名な大蛇退治(弘治年間1554-1558の由)より数百年も古く水を制する水神を祀ったが後隣村の豪士森脇宗坡の武勇伝が加はった由。また一説には牧野侯の初世(寛文延宝頃か)のころ旱魃の節近郷の農民同社に祈願し大松火の行事を行ったに因るともある。この雨引社の裏山に愛宕社が鎮座(火気極って水気を生ずと云)。ちなみにこの奇祭との神縁を探る鍵ともなるので蛇足ながら附記。

北桑田郡鶴岡村愛宕大祭。

陰 暦七月廿四日村民の斎戒沐浴して?暮から各家炬火を投げあげる。その法は長サ十二、三間ある材木の上端に麻稈オガラを以て大きな茶筌形の火受を造り中に 枯竹・松枝等の燃料を充たし、これを川原の清浄な所に直立し、各自数十の炬火を投げ上げ、炬火が火受けに入れば火炎天に冲する。そうして燃料が尽きれば引 倒し云々、(当庄屋と軌を一にする?)

又鞍馬の火祭竹伐会式(左義長)

六月二十一日本堂前近江方、観音堂前丹波方として、各一丈許りの青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し、その早きを勝とし、その年の農作物の豊凶を占ふという。

なお与保呂池姫社に関しても同村奥谷の大蛇洪水で巨岩に当り三断し此処に首は留り池姫社に祀られ胴は行永に留まり胴の宮となり尾は大森に至り尾ノ森也と(丹哥府志)

『火祭りの里 城屋』

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)

●境内建物

・雨引神社  棟上・安政六年(一八五九年)九月十一日 改築 大工棟梁 堀田亦左衛門(五良作家)

・境内十一社 多賀神社 今刀比羅神社 兵主神社  熊野神社  大川神社  八幡神社  神宮神社

春日神社  稲荷神社  正勝神社  若宮神社

・嘉永二年(一八四八年)改築 ・昭和五十五年(一九八○年)再建

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これだけでも粗方の見当が付きますが、それは後述するとして、愕いたのは境内に居並ぶ摂社でした。


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この手の神社を考える時は、本来の祭神と新たな支配者となった氏族の奉斎する神との入れ替わり、つまり祭神の入替、合祀を絶えず考えておく必要があります。

特に「大蛇退治伝説」とか「青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し」などとある時には尚更です。

この11社の中に一際大きな二摂社があるのです。左が若宮神社であり、右が大川神社なのです。

大川神社については、既に、297 北北東に進路を取れ! P 西舞鶴の大川神社 として書いていますが、ヘブライ系瀛氏の金山彦であり、それと同等扱いされている若宮神社となると高良皇子としか考えようがないのです。

ただ、この辺りが藤原氏が最も隠したかった日本の古代史の闇の部分であり、通説に尾を振り、通説への精通を持って権威付けする方々には所詮理解できない事かも知れません。

一目見て、若宮神社は久留米高良大社の膝元に鎮座する高良皇子神の若宮、つまり、高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間に生まれた長男 斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇である可能性が非常に高いと思います。

この若宮神社に関しては最近新たに二社を但馬で確認しており、福知山市にも高良神社(京都府福知山市鋳物師601 高良厄除神社)を確認しており舞鶴市にもあっても決しておかしくはないのです。

 ただ、この二社が本来の祭神だったとするとバランスが悪く、もしかしたら、高良玉垂命そのものか、市杵島姫が祀られ一社三殿三神だった可能性はあるのではないでしょうか?

水配神=水分神として良く混同される女神に、@天御中主命=久留米水天宮、A罔象女神(弥都波能売神)=神太市姫=スサノウのお妃、B市杵島姫=弁財天…がありますが、ここではBということで保留しておきたいと思います。

 神殿の垂幕には高良玉垂命の神紋である五七の桐が使われており、現在、尚、神殿に留まることを許された神は摂社との関係から豊受大神と見たいのですが、当面は決め手がありません。今後の課題です。

いずれにせよ、直ぐ南の大江山には大江山の酒呑童子退治の話があり、南(近畿大和朝廷)から侵入した勢力が、この九州系の氏族、特にヘブライ系氏族=鬼を廃した事と連動した話に思えてなりません。

 雨引神社は国東半島の田渋荘、岡山県赤磐市沢原、同県総社市の境内社の他、茨城県桜川市に認められる事から、今後、関連を調べたいと思います。

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「写真旅紀行」田染荘(たしぶのしょう)−国東半島を訪ねて(11より


多少悔しさが残るため、これら11摂社 多賀神社(別れる前のイザナギ、イザナミ) 今刀比羅神社(大国主ではなく大山咋) 兵主神社(大国主)  熊野神社  大川神社(金山彦)  八幡神社(大幡主)  神宮神社(天照大御神=オオヒルメムチ=卑弥呼)  春日神社(阿蘇草部吉見ではなく罔象女神)  稲荷神社(豊受大神)  正勝神社(阿蘇草部吉見)  若宮神社(仁徳天皇) の神々を簡単に解読しておきたいと思います。

どうも摂社の神々を見ても、春日神社と正勝神社が分離されているように、天照を中心として初期九州王朝の臣下が揃い踏みしているように見えますね。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:33| Comment(0) | 日記