太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月12日

ビアヘロ014 北北東に進路を取れ! M 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

ビアヘロ014 北北東に進路を取れ! M 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

20160105

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


今度の北への調査旅行は、往路こそ下関から姫路東まで山陽自動車道を利用しましたが、往復3200キロのうち大半は一般道走行の1011日の調査旅行になりました。ブログに書いたのは、そのうちの一部でしかなく、全体では60社近くに参拝させて頂いたことになりますが、そのほとんどが初見の神社でした。

山形の手前まで行き、結局は里心がつき足早に戻ってきたのですが、今回はそのなかでも多少毛色の異なる神社をご紹介したいと思います。

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富山市内の一角にある古代には島か岬上の丘陵地と言った雰囲気を持った神通川沿いの所です。

遠くには市街地を越えて北アルプス連峰になるのでしょうか巨大な山の壁とも戸板とも言うべきものが立ちふさがっています。

直ぐに、富山とは戸山の意味ではないか、砺波平野は富山の「ト」と関係があるのではないかなどと軽いイメージが浮かんできますが、ただの通過者が軽々に判断すべきでもないでしょう。

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雪を頂いた大山脈と言うものはそれだけで神々しさを放っています。スケールは異なるでしょうが、中朝国境の白頭山(ペクチェ)や雲南省麗江の玉龍雪山も、きっとそのような神聖性を持っているのでしょう。


さて、今回の神社は私達が通常調査の対象としている神社とは異なるもので、一般的には霊能者やパワー・スポット巡りをされているある種異質な方々の中で有名な神社です。

 この神社は、北を目指していると話したところ、熊本の霊能者グループの某女王陛下から富山を通るなら(当然ですが)この神社に行って下さいと言われ足を延ばしたものでした。

当然ながら神社庁管理下にはないでしょうし、普通の神社とは異なる雰囲気を放っています。

 神社に近づくにつれ、どうもこの神社はその手のものである(決して侮蔑して申し上げているのではありませんので予めお断りさせて頂いておきます)と気付きだんだんと状況が呑み込めてきました。

仮に神社庁管理下にないとしても、それがどれほどの意味があるかと言えば実は何もないのです。

山陰に多い三宝荒神にしても大半はそうですし、神社庁による庇護と圧力妨害とは相殺すれば結局はなにもないのです。

本来信仰とはそのようなものであり、権力に尾を思いっきり振るだけで、恐らく国家、国土、国民への思いも、探究心は元より信仰心の欠片もない役人どもがどうこう言うようなものではないのです。

神社に近づくにつれ、現地には整備された駐車場さえないことに気付きました。

あらかた間違いないという所まで寄せ、付近の方にでも尋ねようと思うと、若い女性の二人組に男性も加わったやはりネット情報を頼りに初めて訪問すると言う三人連れ(どうやら四人連れだったようですが)に遭遇しました。

場所を尋ねると、「私達も同じところに行っているんです」とのお答えでした。

支援学校の裏口と言ったところですから、それほど恵まれたところではないのでしょうが、住宅地の奥まった場所に舗装もされていない同社への参道がありました。

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同社の公式HPと思われるサイトがありますので、「皇祖皇太神宮資料館」と検索されれば同社の由緒を読むことができます。かなり長文ですが、一応、目を通させて頂きました。正直申し上げてお手上げです。

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「竹内文書」の存在は知られており、その手の教団があっても一向に違和感はありません。

当然ながら、関心を向けたのは30行ほど並べられた祭神名でしたが、半分ほどは見当が付くものの、残りは皆目わからない神様が多数並んでおられ、すごすごと撤退せざるを得ませんでした。

ここに行けと命じた?霊能者は「すごいパワーのあるところだ!」と言われたのですが、私にはそれを受け止めるアンテナが全くなくこれまた撤退せざるを得ませんでした。

しかし、帰る途中も何組かのグループが訪問されており、この手の参拝者の多さには何らかの意味があるのではないかとしみじみ考えさせられたのでした。

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祭神名の一部

初代神武、ウガヤフキアエズ、山幸、海幸、ニギハヤヒ、?、イザナギ、?、…ウアマシマジ、カミムスビ、タカミムスビ…と神様のオンパレードです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記