太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月06日

伊倉030 天子宮は誰を祀るか? 030  “筑前では消された天子宮の痕跡”

伊倉030 天子宮は誰を祀るか? 030  “筑前では消された天子宮の痕跡”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


筑前、筑後には天子宮はない。唯一の例外が、古田武彦氏が指摘された雷山の十六天子神社なのだ。と考えていました。

ところが、ネット検索を繰り返していると、まず、筑後市の水田天満宮の境内にある末社として「坂本社天子社」(これはピリオッドがなかっただけでしたが)という奇妙なものがあることを知り直ちに現地を確認したところ、謂れはないものの天子神社という名の祠があることを発見したのです。

このため、筑前、筑後にもまだあるのではないかと考え始め、本腰を入れて探し始めたのです。

毎晩地図を睨み、インター・ネットで様々な検索を試しました。すると、それほどの苦労もなく天子宮らしきもの、また、その可能性がありそうなものを見つけ出したのです。

 とりあえずそのいくつかをご紹介しましょう。

筑前で最初に検索に掛かってきたものが、旧名称で松の木天子宮という福岡市西区周船寺の神社でした。その後、雷山の十六天神の末社、分社と思えるものが西区、早良区、前原市などにあり、この中にも天子宮とかつて呼ばれたものがあることがだんだん分かってきたのです。

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伊倉029 天子宮は誰を祀るか? 029  “天子宮分布図とデータ・ベース”

伊倉029 天子宮は誰を祀るか? 029  “天子宮分布図とデータ・ベース”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、遠方の岡山県矢掛町小田の武荅(ムトウ)天子宮、京都市五條の五條天使神社、愛知県刈谷市の天子(アマコ)神社・・・外について調査をお願いしています。調査の方法、内容についてはお任せしていますが、古田史学の会の会員であれば、どのようなことが重要であるかは、皆さんお分かりになっているので安心です。

せっかくの全国性を利用しない手はないわけで、ここでは基礎調査を行なっている段階です。もちろん、天子宮の可能性があるのではないかと考えているのですが、雷山の雷神社や麓の十六天神社(天子宮との額がある)以外にはないと考えていた福岡県にも、天子宮の痕跡のようなものを、数社、発見しました。周船寺の松の木天子宮(旧名)、太宰府の宝満山の竈神社の付近にある天子社、筑後市の水田天満宮の境内にある末社の天子神社といったものです。

さらに、千葉県の我孫子市に天子山という山があり、そこに天子社がある(あった)という情報が同市の資料に搭載されているようです。

東京古田会、多元的古代関東などのメンバーの方で調査して頂ければと考えています。

まず、こういったものの正確な分布図、祭神、合祀神といったものについてデータ・ベースを作成することが必要になるでしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:15| Comment(0) | 日記

伊倉028 天子宮は誰を祀るか? 028  “京都五條の天使宮は天子宮か?”

伊倉028 天子宮は誰を祀るか? 028  “京都五條の天使宮は天子宮か?”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


京 都市の五條に天使(テンシ)神社があります。こちらも遠方のために単独での調査はなかなかできません。古田史学の会には神様の専門家と言われる会の至宝、 神様の神様=西村秀巳様がおられます。当然ながら事務局に西村氏を指名して調査をお願いしました。こちらも数日にしてメールによる初期的調査報告を頂きま した。さすがは全国組織です。
 その第一信をご紹介しましょう。当然ながら西村氏らしい内容です。
  

本 日、五條天神に行って来ました。主祭神は少彦名命です。ところが、宮司さんのお話では、応仁の乱から幕末の戦乱に至るまで数多くの戦火に見舞われ、古文書 の類は一切残っていないとのことでした。結果、記紀の記述を基に考えるしかないとのこと。そこで神社はこう考えています。少彦名命は高天原から葦原の中国 に使わされた、天使であった、と。だから、天使宮なのだ、と。「天子」と「天使」は音は同じですが意味合いは全く違います。「天子」はどこにいてもトップ ですが、「天使」はその使わされた地方にとっても、2でしかありえないのです。では、九州、特に 熊本に乱立する天子宮ははたしてもともと「天子」なのか「天使」なのでしょうか?「天子」が文字通り九州王朝の「天子」ならば、最大限は継体元年(517 年)から白村江敗戦の(663年)間の146年間。在位が10年程度と仮定しても「天子」は14〜5人それにしては九州の「天子宮」は多すぎるのではない でしょうか?「天使宮」であれば数に制限はありません。さてさて、このメールはそんなことを言いたいのではないのです。少彦名命はホントに「スクナヒコナ ノミコト」と読んでいいのか、ということです。古事記では「少名毘古那神【自毘下三字以音】」と記述されます。ところが【自毘下三字以音】ということはそ の前の「少名」は音で読んではならないということです。日本書紀では最初の「少」は「遇可美少男焉。〈少男。此云烏等孤。〉陽神不悦。曰。吾是男子。理當 先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是二神却更相遇。是行也陽神先唱曰。憙哉。遇可美少女。焉〈少女。此云烏等刀B〉」ここでは「少」は 「弟」もしくは「乙」の意です。次に、「又生海神等。號少童命。」これは通常「わたつみ」と読まれています。これは日本書紀に「少童。此云和多都美.」と 明示されているからですが、西村的にはこの「和多都美」は「和哥都美」ではないかと思っています。と、いいますのも、そうでなければ「往時吾兒有八箇少 女。毎年爲八岐大蛇所呑。今此少童且臨被呑。」と、ここでクシナダヒメが「わたつみ」と呼ばれている理由が全く不明だからです。ところが「わかつみ」と呼 べばこれは歳若い女神ということになります。その次が「少宮矣。〈少宮。此云倭柯美野。〉」です。ここでは「少」は完全に「わか」です。では仮に「少彦」 を「ワカヒコ」と読んでみましょう。驚くほどの類似性に「天稚彦」があります。少彦は高天原から葦原の中国に行き大国主の事跡を助けるのですが、天稚彦も じつは同様なのです。天稚彦と少彦名が同一人物であるかどうかは別にして、彼らの違いは同一事件を葦原中国側から見たのか高天原側から見たのかの差に違い ありません。さてさて、これをどう見るのか?今日はここまでです。


話は前後しますが、八月二十二日、西村秀巳様から署名論文が送られてきました。こちらについても全文掲載させて頂きます。

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古川清久氏の情報により、京都に五條天使宮なる神社があることを、京都府下に30数年居住していながら初めて知った。

 所在は、京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351-2、阪急烏丸駅から南西へ徒歩数分である。通常は五條天神社とも言われているが、これは同境内に九州から勧請したとみられる筑紫天満宮を祀っているからのようだ。

祭神は大巳(ママ)貴 命・少彦名命・天照皇大神とあったが、宮司さんにお話を伺うと、主祭神は少彦名であるとのこと。但し、応仁の乱から幕末までの度重なる戦火によって、古文 書の類は亡失し一切残っていないらしい。天使宮の名称の謂れを問うと、少彦名は天からの使いであるから、とのお答えが返ってきた。つまるところ、少彦名は 高天原から葦原中国に派遣され、大己貴命の国造りに協力したため、少彦名を天使と称するということだ。例えば、古来中国では皇帝から勅命により地方に派遣 された司政官を天使と呼んだが、その謂いである。こうして見ると、現在古川氏お調べ中の「天子宮」とはニュアンスが違うようである。

試みに、手持ちの辞書(漢語林)を引いてみると、

【天子】@天命を受けて、天に代わって天下を治める者の称。天帝の子の意。皇帝の尊称、また自称。A天皇。

【天使】@天の使い。天帝の使者。ァ日月。ィ流星。ゥ火星。A天子の使者。B天のしわざ。人欲を離れた自然の心。Cキリスト教で、上帝の意を奉じて人間界につかわされるという使者。

と、あった。やはり、「天子」と「天使」の違いは上位者であるところの「天」が仮想か実在かの差であるようだ。ところが、九州に多い「天子宮」の祭神の多くは少彦名であるという。これはどういうことであろうか?どうやら古川氏の調査を待つほかはないようである。

さ て、少彦名について若干考えてみたい。先述したように少彦名は高天原から葦原中国に使わされ大己貴命の国造りに協力し、常世の国へ去った。ここで日本書紀 (神代紀第八段一書第六)はこう語る。『最悪くして、教養に順はず』と。この少彦名とほぼ同様の行動をとった神がもう一人いる。天稚彦である。天稚彦も高 天原から大己貴命のもとに派遣され、その娘を娶って後、裏切者として処刑される。これはもともと同じ説話であったのではあるまいか。ただ、語り手のベクト ルが正反対だけなのではないだろうか。すなわち、少彦名の場合は葦原中国側から協力者として好意的に描かれ、天稚彦の場合は高天原側からは裏切者として悪 意を持って語られた、とは考えられないか。しかも、両者の名前の類似性が気になるところである。古事記では少名毘古那、日本書紀では少彦名というこの神は 通常「スクナヒコナ」と読まれているが、実はそのどちらにも「少」を「スク」或いは「スクナ」と読む指示がない。勿論古事記では「少」の用例は「小さい」 という意味が多いのだが、日本書紀に於いてはむしろ「若い」の用例の方が多いのである。『少宮、此をば倭柯美野と云ふ』を代表として。とすれば、少彦名は 「ワカヒコナ」と読むことも可能なように思えるのだ。勿論、この二人を同一人物であると強弁するつもりは毛頭ない。ただ、その関連性は大いに気になるとこ ろではある。

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伊倉027 天子宮は誰を祀るか? 027  “筑前、筑後において消された天子宮、天子社の痕跡”

伊倉027 天子宮は誰を祀るか? 027 “筑前、筑後において消された天子宮、天子社の痕跡”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


西区周船寺の松の木天子社、筑後市水田天満宮と天子宮の可能性があるものが名称からだけですが確認できました。このことによって、福岡県内には見当たらないとしていた天子宮が存在している(存在していた)ことがはっきりしてきたようです。

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さて、古田武彦氏は二〇〇一年に出された『古代史の十字路』万葉批判“第八章雷山の絶唱”において、柿本朝臣人麻呂の万葉歌


大君は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷の上に盧(いほ)らせるかも

(巻第三、雑歌、二三五)


皇(おほきみ)は神にし座(ま)せば真木の立つ荒山中に海を成すかも

(巻三・二四一)

「海を成すかも」(原文:海成可聞)については福永晋三(現越境の会)、伸子夫妻が海鳴りと訓まれたことは著名です。


この舞台が福岡県と佐賀県の境界をなす雷山であり、この神社が九州王朝の皇(スメロギ)を祀るものであるとされました。仮に正しいとしても、直ちにそれが現在調査中の天子宮であるとは言えませんが、九州王朝と関係があるものであることは間違いがないと思われます。

この雷神社については、筑後市の水田天満宮と九州王朝の(筑後遷都)第二の都と考えられている久留米市三潴(水沼)の間に雷山神社が二社、大雷神社が一社あることをお知らせしておきます。

ここで気になるのがこの雷山の麓、前原市山北の十六天神社です。この神社は看板こそ天神社とされてはいるのですが、「天子宮」という額が社殿に掛けられているのです。これも筑前、筑後領域で消された天子宮の痕跡と考えているのですが、今後とも背景調査が必要になります。

  この十六天神社についても西区太郎丸(十六天神社)、前原市多久(十六天神託神社/これは十六天神、託=多久神社なのでしょうね/託杜神社)に同様の神社 があることを確認しておきたいと思います。また、西区の十六(じゅうろく)町も気になるところです。当然、条里制や寿老人天の置き換えもありえますので注 意が必要でしょう。

  さらに、直感でしかありませんが、前原市新田と二丈町波呂の天降天神社も天子宮の可能性があるのではないかと思っています(古賀市周辺にも二社)。根拠は 極めて薄弱です。熊本県人吉市周辺の天子地名の集積する中に天降、天下という地名が散見されることや鹿児島県の霧島温泉郷から隼人町に流れ下る天降(あも り)川に太宰府天満宮の別称である安楽温泉郷があることです。天子を降ろされた、もしくは天子が逃げ降ったとされた蔑称のようにも思えますが気になるとこ ろです。当然ながら、その改名は占領してきた唐軍か大和朝廷の軍か、自主規制なのかも知れません。

 松の木天子社、筑後市水田天満宮境内末社の天子神社、十六天神(鞍手町にも一社)、天降天社(古賀市、福津市外にも数社)・・・これらの中にいくつかの天子宮が生き残っているということまでは言えるのではないでしょうか。

少なくとも筑前、筑後の領域、九州王朝のハート・ランドにおいて、一旦は消されたものの、完全には消し去る事ができなかったということまではいえるでしょう。まずは、何らかの形で復活した天子宮の最期の姿を復元していることになるのかも知れません。

  また、現在、筑後については小郡市在住の会員荒川恒昭氏と私で、筑前領域の前原方面から太宰府市宝満山竃神社周辺にあるとされる天子社については、福岡市 在住の会員である秀嶋哲夫氏に調査をお願いしています。このような全国調査は大学の学者にもなかなかできないことではないでしょうか。


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伊倉026 天子宮は誰を祀るか?026 “福岡市西区周船寺の伊覩(イカン)神社は天子宮か”

伊倉026 天子宮は誰を祀るか?026 “福岡市西区周船寺の伊覩(イカン)神社は天子宮か”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


JR筑肥線といえば、玄海灘沿いに博多から唐津に向かう単線ですが、福岡市西区に周船寺駅があります。この海側に伊覩神社があります。


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西区のネット上に出てくる資料(福岡市の作成でしょう)によると、


伊覩(イカン)神社

も とは主船司神社といいます。創建の時期は不明です。江戸時代前期の神社名は、松の木天子社で、その後松ノ木天神となり、伊覩神社となったといわれます。周 船寺という地名は、一説によると、奈良時代太宰府政庁の時代に船を司る役所(主船司)があったことに由来するといわれています。


とあります。

 もちろん、主船司神社が松ノ木天子社と名を変えた時期が分かる訳ではありませんが、恐らく天子社が天神と名称を変えたという記録があったのでしょう。してみると、予想されたことではありますが、多くの天神社の中にも天子社が埋もれている可能性が出てきたのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:05| Comment(0) | 日記

伊倉025 天子宮は誰を祀るか? 025 

伊倉025 天子宮は誰を祀るか? 025  “福岡県筑後市水田天満宮の天子神社”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県筑後市といえば、九州王朝論の展開により新たに想定されている久留米市南部、三潴の皇都(筑後遷都説)/“大王は神にし座せば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ”(『万葉集』)に接続する隣市ですが、太宰府天満宮に並ぶと称せられる水田天満宮があることで九州王朝論者の間ではかなり知られているところです。

もちろん、水田という地名のとおり、この地は広く平らな農地が広がる穀倉地帯です。そして、その中心にこの神社があるのです。ここは太宰府天満宮の荘園があったところですが、同社の由緒書きにもそのように書かれています。


御祭神 菅原道真公 由緒沿革

鎌 倉時代の嘉禄二年(一二二六年)に菅原長者大蔵卿為長朝臣が後堀川天皇の勅命により建立し、明治維新までは後堀川天皇勅願所の提灯が御本殿の左右に灯され ました。・・・中略・・・水田天満宮は、大宰府天満宮と御縁深く、菅原道真公の御霊魂を祀り、太宰府天満宮の重要な荘園「水田の荘」の守護神でありまし た。・・・中略・・・水田天満宮は太宰府天満宮に次ぐ九州二大天満宮として人々の信仰は極めて篤く、その伝統を守り続けています。

境内末社

恋木神社、靖国神社、日吉神社、玉垂命神社、稲荷神社、今宮社、今尾社、若宮社藤太夫社、菅公御子社、坂本社天子社、八十御霊社、広門社、荒人社、八幡神社、素盞鳴神社、月読神社、屋須田神社、下宮御旅所


(恋木神社以下の□の表示は古川が付したものです。この五社は改めて九州王朝との関係を思わせますね。)


インターネット上には“”がなく坂本社天子社と 出ていました。付近には坂本地名がないため何の事だか全く理解できずに現地を確認しに行ったのですが、やはり坂本社と天子社は別のものでした。宮司のお話 によると「坂本社は静岡県から持ち込まれた大山祇神社である」とのことでした。また、予想していたとおりですが「天子社については一切分からない」ようで す。この分からないということも一つの情報なのです。

また、由緒沿革では天子社とありますが、社殿裏の祠には天子神社、祭神天子神とあります。そろそろ、天子宮、天子社、天子神社の呼称の差も何か法則性があるのではないかと意識し始めているところです。

水田天満宮 カーナビ検索福岡県筑後市水田56 пF0942-53-8625


  追記 境内摂社の 坂本社については宮司にお尋ねしても意味が分からないとされていましたが、久留米市山川町の皇子神社の摂社坂本社であることが、現在では良く分かります。20160325

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ここでは、今まで筑前と筑後では確認できないと考えていた天子宮が存在していたことを報告しておきます(二〇〇七年八月二六日午前)。

仮 に天子宮が九州王朝の天子を祀るものとして、その中心地である筑前、筑後の領域に存在しないことこそが逆の証明とも言えそうです。ではその存在を消し去っ たのは白村江の敗戦後の唐占領軍なのか、その後の大和朝廷なのか、一切手がかりがないため、未だに何も分かりません。しかし、何事についても完全に消し去 る事は不可能なのであり、やはり、何らかの形で継承されてきたのであることが想像できるのです。

私 には筑後川北岸の北野天満宮も重要に思えるだけに、「九州二大天満宮」との表現はそれだけで九州王朝の二都制(太宰府、久留米)と絡み極めてリアルに思え るのですがどうでしょうか。なお、九州王朝の二都制、筑後遷都については古田史学の会のホーム・ページ「新古代学の扉」をご覧下さい。

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伊倉024 天子宮は誰を祀るか? 024  “愛知の天子(アマコ)神社は天子宮か?”

伊倉024 天子宮は誰を祀るか? 024  “愛知の天子(アマコ)神社は天子宮か?”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


愛 知県刈谷市に天子(アマコ)神社があります。さすがに遠方のために単独での調査はなかなかできません。そこで、古田史学の会の事務局に相談したところ、古 田史学の会(東海)に協力を要請して頂いたようです。二日後にはメールによる初期的調査報告を頂きました。さすがは全国組織と感心したものです。
 まず、その概略をご紹介しましょう。  

刈谷市の天子神社は「あまこ」と呼ばれています。

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以下は東海の会の林俊彦氏から事務局長の古賀達也氏へのメールです。


とりあえず現地に行ってみました。神主さんや地元の人には会えませんでした。「由緒書」は以下のとおりです。

鎮座地=刈谷市小山町六丁目七拾壱番地
神社名=天子神社(あまこじんじゃ)
祭神=少彦名命(すくなひこなのみこと)大国主命と兄弟相和して国土経営にあたられ、才知・健康・産業を守られる神で 特に医療・温泉・醸造・農業方面の信仰を司る。
由緒=後奈良天皇天文二十一年八月十五日(昭和五十六年より四百三十年前)に伊勢国住人小山太郎・加藤藤麿等と共に来住し先ず正殿を創立、 爾来当地の氏神として奉齋し天子大明神と崇める。是れ小山村の総鎮守にして 初め小山は小池村と称したが神徳日に盛んにして小山太郎の子孫二宮氏繁栄し  小池を改め小山と称した。国内神明帳所載の小山天神は当社である 明治維新の際天子をテンシと音読し 誤って八幡宮と改められ後再び訂正された 明治五年 村社に列せられ 同四十年神祇幣帛料供進神社に指定せられ 昭和二十一年制度改訂により神社本庁に所属。
境内末社=稲荷社・山神社
祭祀=九月末日曜日 例大祭 十二月九日新嘗祭、一月一日新年祭、三月九日祈念祭、毎月九日月次祭
境内面積=八百四十六坪
氏子戸数=二、二二三戸(明治六年二五一戸)
その他=当社の境内は愛知県指定の文化財にして刈谷西部の縄文遺跡である。また社前の椋は鎮座記念の伝えある刈谷市文化財である。 以上
 神社の創立はたてまえとしては天文21年(1552)で戦国時代末期でしかありませんが、境内内外は縄文時代後期の代表的遺跡が広がっており興味深いところです。
9月9日が東海の会の例会ですので、呼びかけてみます。私自身も関心を持ちましたので、もっと調べてみます。

古田史学の会・東海 林 俊彦

いずれ、東海の会から調査結果が送られてくることでしょう。果報は寝て待てですね。


天子神社 カーナビ検索 愛知県刈谷市小山町6丁目71天子神社

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伊倉023 天子宮は誰を祀るか? 023 “岡山の武苔(ムトウ)神社は天子宮か?”

伊倉023 天子宮は誰を祀るか? 023“岡山の武苔(ムトウ)神社は天子宮か?”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


イ ンターネット検索という便利なものが登場し、知識や情報というものが広範に共有されてしまった結果、もはや、それを唯一独占してきた大学の支配的学派や学 閥というものが、第一義的には権威も意味も失ってしまいました。学問や科学としては、その爆発的に膨大する情報を加工できる創造性、独創性こそが問われる 時代になったように思います。このような時代にこそ、古田史学は実に切れる鋭利なメスと言えるのであり、また、そのようにあらねばならないと考えていま す。

それはさておき、東北の天子はひとまず置くものの、ネットに掛かってきた愛知県刈谷市小山町の天子(アマコ)神社と岡山県小田郡矢掛町小田の武荅神社(ムトウジンジャ)=通称名 武荅天子宮(ムトウテンシグウ)は気になります。

武 苔天子宮については、「祭神はスサノウを祀り、従来は武荅天子宮と呼んでいたが、明治六年武荅神社と改称した。」と、されているようですので、この方面の 古田史学の会会員で調査して頂ける方、また、当方のホーム・ページ(旧「有明海・諫早湾干拓リポート」現「アンビエンテ」)の読者で情報をお持ちの方は、09062983254までご連絡下さい。ここでは、愛知県と岡山県に天子宮の可能性のあるものが在るということだけに留めておきます。いずれ、岡山までは現地踏査に行くつもりです。

 直接で面食らわれたようですが、兵庫県在住の永井正範氏に同社の調査をお願いしています。

 署名論文を頂けるかも知れません。


武苔神社 カーナビ検索岡山県小田郡矢掛町小田5634

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伊倉022 天子宮は誰を祀るか? 022  “佐賀県鹿島市七浦の天子神社”

伊倉022 天子宮は誰を祀るか? 022 “佐賀県鹿島市七浦の天子神社”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


長 崎本線を佐賀から長崎に向けて下ると、有明海沿いに肥前鹿島、肥前浜、肥前七浦、肥前飯田、肥前多良(太良町)・・・と、肥前を頭に付けた駅が連続します が、この肥前七浦駅の奥に音成(オトナリ、オトナシ)という奇妙な名の集落があります。今回はこの音成の天子神社の話です。

まず、佐賀県の有明海側では鹿島市一帯まで来ると浦地名が目立ち始めます。

そ れ以前の港、例えば、旧有明町(現白石町)の廻里津や川津(白石町)などは、干拓が進んだために内陸に埋もれています。いずれにせよ、浦地名は鹿島市と旧 塩田町、旧有明町(現白石町)との境界の深浦、浅浦辺りから始まるのです(西浦、谷浦、提ノ浦など武雄市周辺にも多くの浦地名も内陸部に埋まっています が)。

鹿 島市を海沿いに南下すれば、南舟津から母ケ浦(ホウガウラ)、七浦、嘉瀬ノ浦、竜宿浦(ヤノウラ)、飯田浦、江福、伊福(太良町)と多くの浦地形と浦地名 が認められますが、その全てが戦国期辺りからの篭(コモリ)干拓を経て、長崎本線の建設(昭和十年前後)に伴う小干拓(長崎本線の鉄道路を事実上の干拓堤 防としたその内側の耕地化)によって、指先を広げた指先のような地形が消え、河童の水掻きのような地形になっているのです。

難しく表現すれば、


多良岳裾野の放射状谷は浸食谷であるが、「佐賀県地質図」によると、殆んど沖積層の記号で描いてあるが、それは、雨水や河川の浸食作用による浸食谷か形成された後、地質年代でいう沖積層(一万年前〜至現在)に土・砂礫の埋積が行なわれたからである。

『ふるさと七浦誌』七浦学校同窓会発行


と、なります。

こ の天子神社がある音成地区もそうした一つになりそうです。今は周りが水田に変わっていますが、かつては入江に突き出した岬であり、その先端に天子宮があっ たはずです。現在でもその一の鳥居があるように、恐らく、古代においては船で先端に着けていたのでしょう。それを物語るかのように岬の裾には今でも海食崖 の痕跡があります。

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とりあえず、郷土史などの資料を見てみましょう。

祭神 瓊々杵尊

合祀 大山祇神 武甕槌神 経津主神 菅原道真

   天平年間(七二九〜七四八)に日向の国高千穂の大神を分祀したと伝えられ、昔は日出岡神社と称し相当な大社で、七浦中(西葉浦、母ケ浦、塩屋浦、宮道浦、音成浦、嘉瀬浦、龍宿浦の七浦)の鎮守社であった。祭日には郷中の者がその前日から参詣して奉仕した。・・・

鹿島市誌資料編第六集『鹿島の神社と寺院』


村社     天子神社

祭神

大山祗命

瓊々杵尊   武甕搥命  菅原道真  

       經津主命

『佐賀縣県神社誌要』 洋学堂(大正十五年印刷を平成七年に復刻したもの)


三の鳥居には「昭和十二年奉献皇紀二千六百年」と、ありましたが、前述したように、この一、二年前に長崎本線が開通していますので、鉄路の建設が事実上の干拓堤防の建設に当りますからそれに併せたもののようにも思います。

ここには三本の鳥居がありますが、船着場だったと思われる一の鳥居(一の鳥居とは社殿の一番外側の鳥居です)から石段を登ると岬の突端に社殿があります。二の鳥居は山王神社とされていますが、一、三の鳥居には「天子神社」と書かれています。

 一方、この天子神社は浮流(フリュウ、フウリュウ)と呼ばれる舞が廻れることでも有名なところです。万葉集(16)「ここに前(さき)の采女(うねめ)あり、−浮流の娘子(おとめ)なり」・・・(広辞苑)

この浮流と九州王朝の関係については古賀達也氏も言及されていますが、これも宮廷舞の可能性が十分にありそうですね。

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伊倉021 天子宮は誰を祀るか? 021010“道君首名による統治の背景”

伊倉021 天子宮は誰を祀るか? 021   “道君首名による統治の背景”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、伊倉として天子宮について書いてきましたが、今回は一休みして軽い話をしましょう。

私は将棋連盟の某支部の末席を汚していますので、九州、山口で行なわれる将棋のタイトル戦の大盤解説会にはほとんど出かけています。

当然ながら夏は王位戦になりますが、今年の王位戦第四局は福岡県筑紫野市の二日市温泉「大丸別荘」で行なわれました。結果は角替り腰掛銀の先手番を持った深浦康市八段が羽生王位に勝ち、王位奪取まであと一勝としました。

最高一日九湯、自宅の風呂で一湯、年間二百湯という温泉好きの私のことですから、ここの名湯を無視できるはずもありません。当然ながら解説会の合間を利用して源泉掛け流しの名泉「次田の湯」に二度、三度と入った訳です。

将 棋の観戦記でも温泉のガイド・ブックでもありませんので、浴場に向かう途中、立会の田丸八段とすれ違ったこととか、この浴場の造りの素晴らしさや泉質の良 さを書く事は致しませんが、風呂場の入口に掲げられていたこの湯の由来に『梁塵秘抄』を引用したものがあり妙に面白かったので紹介することにしました。

この温泉が歴史として登場するのは奈良時代まで遡ります。ただし二日市温泉という呼称は昭和二十五年からのものであり、古くは武蔵温泉、薬師温泉などと呼ばれ、奈良、平安期には次田温泉(スイタの湯)と呼ばれていたのです。

カメラを持っていった訳では有りませんので、不正確かも知れませんが、『梁塵秘抄』を引用して書かれた次田の湯への入湯の優先順位について再現します。


“次田の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺四には四王寺五侍六せんふ七九八丈九{丈十には国府の武蔵寺”


一 は太宰府の高官、二は丁つまり観世音寺の僧侶、三に安楽寺(太宰府天満宮)の僧侶、四に四王寺、五、六に太宰府の武士、料理人・・・七、八は意味不明、九 に太宰帥警護の武士、十に武蔵寺の僧侶ということになるようです。恐らく平安末期のざれ歌の類と思いますので、この順位が七世紀末から八世紀まで遡れるか どうかまでは分かりません。

一方、太宰帥であった大伴旅人の書いた歌(『万葉集』の詞書)に次田の湯の事が出ていますので、彼が二日市温泉を知らなかったはずはありません。


りょうじんひしょう【梁塵秘抄】

平安後期の今様(いまよう)歌謡集。撰者は後白河法皇。成立年代不詳。歌謡集・口伝集各10巻があったとされるが,・・・(中略)・・・平安末期の庶民感覚が生き生きと表現されており,文学史・音楽史のみならず風俗・思想史上にも重要な資料である。

(マイペディア)

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椿花山 成就院武蔵寺天台宗 カーナビ検索 福岡県筑紫野市武蔵621


さて、私たち九州王朝を考える者にとっても、太宰府に最も近い二日市温泉には多少は関心を向けても良いのではないでしょうか。

 安楽寺は太宰府天満宮以前、神仏混交期の名称ですので、単純に九州王朝と関係付けて考えてしまいますが、やはり重要なのは観世音寺であり、その事が『梁塵秘抄』においても確認できるように思います。

 大伴旅人は太宰帥であった時期(728730)があることはもとより、七二〇年には征隼人持節大将軍として薩摩、大隈に征討に向かっていますので、その前後、この「次田の湯」に入ったことは、まず間違いがないでしょう。

律令時代に入ると、一帯は御笠郡とされ、大野、次田、御笠、長丘の四郷となります。

 白村江の戦、敗戦後の唐軍による占領、九州王朝の消滅・・・という激動期にも二日市温泉には豊な湯が沸いていたのです。

 根拠はありませんが、二日市温泉はその開湯を四世紀から五、六世紀ぐらいまで遡ることができるかも知れませんので、倭の五王も柿本人麻呂も、そして、もしかしたら卑弥呼もこの湯に入ったのかも知れないのです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:44| Comment(0) | 日記