太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年05月10日

ビアヘロ013 北北東に進路を取れ! L 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について

ビアヘロ013 北北東に進路を取れ! L 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について

20160103

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


今回、東北を目指し、越後の彌彦神社を見て山形の手前までは進出したものの、何故か、残り300キロを走り抜ける気力を失い引き返したのは、“余りにも点と点を繋ぐような調査旅行は微妙な変化の連続性を把握できないことから、本来の姿ではない”との思いが、次第に高まって行ったからでした。

 マッカーサーの蛙跳び作戦宜しく、快調に飛んで来てみたものの、あまりにも安直な調査の在り方への嫌悪感が次第に増幅して来たのでしょう。

 次回は、移動は移動として、その周辺をじっくり見て回り、他の地域に色目を使わないと言うやり方を取りたいと考えています。

 それはともかく、最終目的地であった真山神社への思いは消せず、未踏ながら、予習として先行ブログを書くことにしました。

 フィールド・ワーカーが、ネット情報だけを頼りに好い加減な予見を交えた話を書くのは失礼である上に、違法ですらある事は重々承知の上ですが、所詮、その程度のものとして読んで頂く事はあながち悪いものでも無いかも知れません。

その最後の目標としていた神社とは秋田県の男鹿半島の先端中央にある真山神社でした。

一般的には秋田ナマハゲ神社として知られる真山(シンザン)神社です。

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真山神社に伝わる社伝によりますと…。

古事記・日本書紀に記される12代、 景行天皇の御世に、武内宿禰(たけのうちのすくね)が北陸北方地方視察のあと男鹿島に立ち寄った際、男鹿半島の秀峰、湧出山に登ったそうです。そのとき に、武内宿禰が使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、この地に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の二柱を祀ったこ とが始まりだと言われています。

御祭神

<主祭神>瓊瓊杵命(ににぎのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)

<合殿神>天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊受大神(とようけのおおかみ)豊玉毘女神(とよたまひめのみこと)少彦名神(すくなひこなのみこと)大山咋神(おおやまくいのかみ)大名持神(おおなもちのみこと)

塞神三柱神(さえのみはしらのかみ)

※塞神三柱神とは…衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の3柱の総称

同社ホームページから


 「この神社を何故最後の目的地にしていたか…」とお考えになる方も多いと思いますが、理由は到って簡単で、故)百嶋由一郎氏が話されていたからです。

 まず、“この秋田県の真山神社の神様が九州の神様とか阿蘇の神様である”などと言えば、まず、信用されない方が多いと思います。

 正直言って書いている本人も、「どうせ理解して頂く事はできないだろう…」と思いながら書いているのですが、周辺を調べると、やはり百嶋先生がおっしゃっていた事は正しかったのではないか…と考えているところです。

持って回った話を続けましたが、この神社の主神は武甕槌命(塚原卜伝が崇拝した後の春日大神)であり、その実体は、火の国(貶められた表記に変えられた分国以前の肥前、肥後)からの来訪者で崇神天皇の御世に常陸にやって来たとされる建借馬命(タケカシマノミコト)=阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの事であり、東征軍として常陸にやって来る前は、火の国の実力者だったのです。

 以下も、良く読ませて頂いている「神社探訪 狛犬…」です。


この神社は男鹿半島の最高峰・本山(赤神の岳)山頂に鎮座しています。
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 古くから山岳信仰の霊場として栄え、かつては本山山頂は女人禁制の場であり、赤神神社の本殿や薬師堂なども建っていましたが、1952年、航空自衛隊レーダー基地建設のために山頂から遷座されたという事です。
 ここには江戸時代に於ける秋田の有名な紀行家・菅江真澄も文化7(1810)に 訪れ、真澄記に「ここは本山の山頂赤神の嶽。石を積んで囲み、中に薬師如来の堂がある。東には森良山、森山、寒風山が連なり、八郎湖の中から突き出ている ように見える。戸賀の浦、根太島、鼻ケ崎、一の女潟などが良く見える。山陰に多くの鹿がいて、笹原の中を群れて一群で去っていった。」と記しています。
 また本山縁起には、「この赤神神社は、赤神、つまり、中国前漢の孝武帝を祀っており、漢では「火=赤」とされていたために、赤神といわれたのでしょう。またある記録には、景行天皇2年に、赤神が天から降りてきたと書かれています。日本書紀には、景行20年に武内宿禰を北陸道などを平定させるため派遣したと記載されており、後には満願上人が、この山に詣でて12神将を建立しました。12神将とは、薬師如来に従う鬼神、つまり夜叉のことです。延暦3(784)将道が赤神を日光山に勧請しました。貞観2(860)には慈覚大師が赤神山日積寺永禅坊を建立し、武帝飛来の図を描き、御神体としました。また智人上人のドクロから
無題.png4cmほどの薬師像をつくり、瑠璃の箱に入れ、石の宝蔵にしまい、山頂の赤神社に安置しました。」とあります。


現在、真山神社とは呼ばれていますが、この神社は、かつては「赤神社」or「赤神神社」と呼ばれていたようです。

この点に関心を持たれ、故)百嶋由一郎氏も同社宛に手紙を書かれ、その点を確認され、同社から“元は赤神社と呼ばれていたと連絡を頂いています…云々”と話しておられました。

事実、周辺にも赤神神社と呼ばれるものが数社存在しています。

以下は、百嶋先生の音声を文字化したものですが、元菊池(川流域)地名研究会のメンバーだった牛島稔太さんのサイトからの切出しです。


これは阿多で協議が成立した神武ご巡幸の出発点は阿多でしたが、形として残っているのは、鹿児島県川内市甑島です。甑島には鹿島という、鹿島大神(春日神社の神様の名前)、鹿島があります。そこではその神様の名前、大歳の神だから「トシドン」です。この方は、別の名前が「あか」さんだったんです。「まさかあか」又は「はえひあか」、これが、「あか」が残っているのが秋田県男鹿半島の「あか」神社、現在は真山(まやま)神社といっています。


「肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家」 牛島稔太のHPによる


「百嶋神社考古学」では、「神武東征」は贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)によるものでしかなく、神武の遠征はあったが、神武ご巡幸と呼ばれ、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)による日向からの東征は存在しなかったとします

そ の随行者として、若き日の草部吉見=大歳神=トシドン=正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、『紀』の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、『先 旧事』の正哉吾勝々速日天押穂耳尊(マサカツアカツ…豊前の赤村のアカも…)=アカ神が存在し、実際に男鹿半島まで遠征している可能性を否定できないので す。

さらに言えば、鹿児島県のいちき串木野、薩摩川内、阿久根…の沖に浮かぶ甑島には鹿島町(下甑島)があり、武甕槌命=鹿島大神が祀られています。

また、同地にも弧状列島を北上したとされるナマハゲ文化(仮面来訪神)が存在し、「トシドン」と呼ばれていました。草部吉見神の北上とこの赤神社、赤神神社のナマハゲと通底していることに故百嶋由一郎氏は気づかれたのだろうと思うのです。

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民俗学、民族学の世界ではこの仮面来訪神のルーツを遠く赤道辺りまで辿りうるものとします。

ただ、誰一人知らない者のない秋田ナマハゲを草部吉見神=ヒコヤイミミなどと考える事は、トンデモ説、荒唐無稽な話として顔を背けられそうですが、最低でもこの男鹿半島一帯には金ケ崎温泉、金崎、弁天崎、赤神神社、二田神社…といった九州の地名が直ぐに拾えます。

このニ田神社は、新潟県柏崎市の二田物部神社の二田であり、そのルーツも筑豊の物部25部族、筑前は鞍手郡二田郷の二田物部の移動(展開)にあるでしょう。

ま た、金崎、金ケ崎温泉の金ケ崎も福井県敦賀市の気比神社正面の朝倉氏の居城であった金ケ崎城の金ケ崎であり、筑前は宗像大社正面の鐘ケ岬、鐘崎漁港の福岡 県宗像市鐘崎の地名移動であり、弁天崎の弁財天様もこれまで何度も書いてきた宗像大社の市杵島姫であり、草部吉見系耳族、宗像大社(本当の祭神は大国主 命)を信奉する海人族が組織だって進出している事が認められるのです。

勿論、そのベクトルは対馬海流に乗った南から北であり、西から東であろうことは言うまでもないでしょう。

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赤神神社について男鹿半島の本山、真山に祭られている赤神は古くから「漢の武帝」であるとされています。これは、江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」にあり、ほとんど通説になっているものです。

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「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。故に蝙蝠を以って使者となす。時に景行十年冬十月のことなり。天皇、武内宿禰をつかわして北陸道を巡視せしむ。宿禰、此の嶋に至り、神異を見てこれを奏せり。ここにおいて朝廷皇女をして行かしめ、これを祭る。号して赤神という。皇女はすなわち赤神明神という(後略)」(原漢文)また、菅江真澄翁の『牡鹿の嶋風』では「赤神山大権現縁起」という名称で、さらに鈴木重孝翁が著した『絹篩』でも「伝記」としてほとんど同じような内容で記述されています。

赤神神社HPから


と、ここまで書いてきましたが、これはただの事前調査に過ぎません。

「この前漢の孝武皇帝の祠なり」…も興味深いですね。再度調査旅行を思い立ちたいと考えています。

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2016年05月12日

ビアヘロ014 北北東に進路を取れ! M 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

ビアヘロ014 北北東に進路を取れ! M 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

20160105

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


今度の北への調査旅行は、往路こそ下関から姫路東まで山陽自動車道を利用しましたが、往復3200キロのうち大半は一般道走行の1011日の調査旅行になりました。ブログに書いたのは、そのうちの一部でしかなく、全体では60社近くに参拝させて頂いたことになりますが、そのほとんどが初見の神社でした。

山形の手前まで行き、結局は里心がつき足早に戻ってきたのですが、今回はそのなかでも多少毛色の異なる神社をご紹介したいと思います。

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富山市内の一角にある古代には島か岬上の丘陵地と言った雰囲気を持った神通川沿いの所です。

遠くには市街地を越えて北アルプス連峰になるのでしょうか巨大な山の壁とも戸板とも言うべきものが立ちふさがっています。

直ぐに、富山とは戸山の意味ではないか、砺波平野は富山の「ト」と関係があるのではないかなどと軽いイメージが浮かんできますが、ただの通過者が軽々に判断すべきでもないでしょう。

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雪を頂いた大山脈と言うものはそれだけで神々しさを放っています。スケールは異なるでしょうが、中朝国境の白頭山(ペクチェ)や雲南省麗江の玉龍雪山も、きっとそのような神聖性を持っているのでしょう。


さて、今回の神社は私達が通常調査の対象としている神社とは異なるもので、一般的には霊能者やパワー・スポット巡りをされているある種異質な方々の中で有名な神社です。

 この神社は、北を目指していると話したところ、熊本の霊能者グループの某女王陛下から富山を通るなら(当然ですが)この神社に行って下さいと言われ足を延ばしたものでした。

当然ながら神社庁管理下にはないでしょうし、普通の神社とは異なる雰囲気を放っています。

 神社に近づくにつれ、どうもこの神社はその手のものである(決して侮蔑して申し上げているのではありませんので予めお断りさせて頂いておきます)と気付きだんだんと状況が呑み込めてきました。

仮に神社庁管理下にないとしても、それがどれほどの意味があるかと言えば実は何もないのです。

山陰に多い三宝荒神にしても大半はそうですし、神社庁による庇護と圧力妨害とは相殺すれば結局はなにもないのです。

本来信仰とはそのようなものであり、権力に尾を思いっきり振るだけで、恐らく国家、国土、国民への思いも、探究心は元より信仰心の欠片もない役人どもがどうこう言うようなものではないのです。

神社に近づくにつれ、現地には整備された駐車場さえないことに気付きました。

あらかた間違いないという所まで寄せ、付近の方にでも尋ねようと思うと、若い女性の二人組に男性も加わったやはりネット情報を頼りに初めて訪問すると言う三人連れ(どうやら四人連れだったようですが)に遭遇しました。

場所を尋ねると、「私達も同じところに行っているんです」とのお答えでした。

支援学校の裏口と言ったところですから、それほど恵まれたところではないのでしょうが、住宅地の奥まった場所に舗装もされていない同社への参道がありました。

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同社の公式HPと思われるサイトがありますので、「皇祖皇太神宮資料館」と検索されれば同社の由緒を読むことができます。かなり長文ですが、一応、目を通させて頂きました。正直申し上げてお手上げです。

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「竹内文書」の存在は知られており、その手の教団があっても一向に違和感はありません。

当然ながら、関心を向けたのは30行ほど並べられた祭神名でしたが、半分ほどは見当が付くものの、残りは皆目わからない神様が多数並んでおられ、すごすごと撤退せざるを得ませんでした。

ここに行けと命じた?霊能者は「すごいパワーのあるところだ!」と言われたのですが、私にはそれを受け止めるアンテナが全くなくこれまた撤退せざるを得ませんでした。

しかし、帰る途中も何組かのグループが訪問されており、この手の参拝者の多さには何らかの意味があるのではないかとしみじみ考えさせられたのでした。

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祭神名の一部

初代神武、ウガヤフキアエズ、山幸、海幸、ニギハヤヒ、?、イザナギ、?、…ウアマシマジ、カミムスビ、タカミムスビ…と神様のオンパレードです。

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2016年05月14日

ビアヘロ015 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

ビアヘロ015 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

20160105

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

  

新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。


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立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…

無題.pngに助っ人を頼みたいと思います。以下。



無題.png徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

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徳 川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。 ………
・写真:上賀茂神社の紋-二葉葵

無題.png葵 紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本 多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。
………
・家紋:立ち葵紋
  同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称してお り、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあるこ とでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳 川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に 婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代に は、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

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「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:49| Comment(0) | 日記