太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年04月02日

181 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)@ “阿波の山上集落に末貞の高良神社を探る”

181 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)@ “阿波の山上集落に末貞の高良神社を探る

20151112

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


児島坂出ルートで香川に入り国道32号線で南に向かうと、高校野球で名を馳せた徳島県の池田高校で有名な旧池田町(現三好市)があり、さらに進むと祖谷渓、大歩危、小歩危の景勝地の手前で吉野川が90度の大屈曲を見せ非常に印象に残る谷深い一角に入り込んで行きます。

既に、手前の香川から徳島に峠を越える辺りから山が剣峻で谷底は陽がささず、農地が限られることから山上集落が目立ちますが、旧池田町の中心部から5キロも進むと三好市山城町に着きます。

この土地も吉野川に銅山川が合流する険しい場所で街並みは崖下の狭い土地に犇めき合っています。

その川筋の一角から車一台がようやく通る急峻な坂道を数キロ上り続けると、引地地区に入ります。

ただ、ようやく到着したかと思うとそれは早とちりで、更に標高の上がる1キロも進んだところに14戸ほどの末貞集落があるのです。

ようやく探し当てたこの集落の一角に高良神社がひっそりと鎮座していたのでした。

現地を確認しても、はっきり高良神社と書かれた鳥居と石板があるだけで神名も祭神も解りません。

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地元の方が集まっておられましたので、しばらくお話をお聴きしましたが、おじいさんから「神主は賢見神社の宮司が来ている」といった話が聴けただけで、何も詳しい話はお聴きできませんでした。

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この堅見神社というのも同社の公式サイトでも「犬神憑きを落とす日本随一の神社」というふれ込みの非常に気になる神社なのですが、それはともかく、この山上集落はお世辞にも住み良い土地とは思えない事からこの高良神社を奉祭する集落の成立の起源が気になり続けています。

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結局、高良神社も引地地区全体の神社ではなく、この末貞地区だけの神社ということだけが確認できたのでした。

なお、賢見神社は、山を降った三好市山城町寺野112にある神社です。

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集落から谷底を望む(上)山上から遠い山上集落を望む(下)

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話としてはこれだけですが、どのように考えても好んで住み着く場所ではない事から、戦乱、逃亡、政変により移動を強制された結果の集落と見たいのですが、それで良いかは自信がありません。

ご老人も話されていましたが、僅かな田畑を耕して生きてきた方々により祀られていたもののようです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:43| Comment(0) | 日記

2016年04月04日

182 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)A “阿波の山上集落に佐連の高良神社を探る”

182 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)A “阿波の山上集落に佐連の高良神社を探る

20151113

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次に向かったのも、同じ三好市山城町の佐連(サレ)字カシヤ谷348 にあるとされる高良神社です。

何とか末貞の高良神社を確認できたことから再び谷底まで降り、国道192号線を西に進んで愛媛県境に近い大月、大谷、佐連、茂地という谷間のどんずまり集落を目指すことにしました。

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上佐連下佐連集落の中間に高良神社が在る


この集落に入るには一キロほど下流で橋を渡り、狭い道を見当つけながら走るしかありません。

何度か道を間違えたと思いながらも、実は正しい道を走っていた様で、いつしか下佐連集落を離れ上佐連集落に入りそうだなと思える中間点に突如、無名の神社が現れました。

 しかし、それを確認するにもどこにも人はおられません。

 こう言うところでは、高齢の方を叩き起こしお尋ねするのも気が引けるため、出ている人に尋ねるしかないからです。

 結局、隣の大谷集落で畑の手入れをされていた方に出会って確認ができましたが、ほぼ、限界集落としか言いようのないところです。

 では、社殿を見て頂きましょう。

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次の写真は、佐連に入る前に通過した隣部落の写真ですが、この一帯がどのような所かお分かり頂けると思います。

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誰が祀られているのか、何人の神が祀られているのかも分かりません。

 元々、今回の調査はネット上の 検索で調べた高良大社の分祀マイマップの高良大社の分祀高良大社の分祀」- Googleを元に抽出したものです。

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 隣の集落の方の話ぶりから、上佐連、下佐連の集落だけで祀る神社である事だけは間違いないようです。

 社殿にも境内にも高良を示すものは一切ありませんでした。

ただ、この集落に外に神社が無い事から高良神社と判断しただけですが、間違いはないでしょう。

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大月地区の案内板ですから高良神社が書かれていないのは当然ですが、同地区には大山祗神社があり、なるほどと思います。

百嶋神社考古学では、大山祗命は月読命と同一人物で、トルコ系匈奴、従って、大国主命もトルコ系匈奴とヘブライ系瀛氏の金山彦の娘である埴安姫との間に産まれたハーフになります。

このため、大山祗命を単独で祀る一族は、トルコ系匈奴の色合いが強く保持された人々に思えるのですが、再訪する機会があれば、同社も訪問してみたいと思います。

 地名とはばかにならないもので、大月地区とは月読命の「月」を取り込でいることが良く分かります。

 最後になりますが、社殿脇で少し心惹かれるものを見ました。

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恐らくユリ根と思いますが、この石で潰して澱粉をとり、神殿にお供えするシトギを作るもののように思いました。

きれいな水は直ぐ傍に流れていますし、後は和タオル(日本手拭い)でもあればできるため、このような古い風習が残っているのかも知れません。

 まだ、社殿の掃除をしたり、お供えをされる方がおられるだけ良いのですが、あと十年もすればこの神社を守る人はいなくなることでしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:19| Comment(0) | 日記

2016年04月06日

183 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)B “徳島市内 応神町 古川 の高良神社” 

183 四国の高良神社調査(徳島‐高知編)B “徳島市内 応神町 古川 の高良神社” 

20151113

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 次に向かったのは夕闇迫る徳島市内の高良神社でした。

徳島市応神町古川字高良63という住所から、直ぐに吉野川の氾濫原、従って、低地の川筋の一角にある水害常襲地であった事が分かります。

 「古川」という地名は絶えず河道が変わるような平地の残留河川(三日月湖を含む)や旧河川を意味する地名だからです。

 ラッシュ・アワーに近く車も多くなっていますが、現地はほどなく見つかりました。

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下を流れるのが吉野川です

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夕闇迫る高良神社正面  カーナビ検索徳島市応神町古川字高良63


百嶋神社考古学では、伊予(愛媛)は、大山祗命、阿波(徳島)、熊野(和歌山)は博多の櫛田神社の大幡主の領域と聴いています。

 その大幡主の後裔とも言える橘一族の一角だからこそ、畿内に近い徳島の中心部に幟を揚げた高良神社が残ったのだと思います。

 山陰の調査は今後も必要ですが、四国全域に亘る神社調査を行う必要があると思うようになってきました。山陰、山陽、播磨、但馬の調査は続きますが、四国に入る事が多くなって行くような予感がします。

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神殿を見ると祭神が書かれていました。

 配神を見ると、高良の神が中心である事は明らかです。

社殿を一通り見た後で夕闇の中で花壇の手入れをされていた戦後生まれのご婦人にお尋ねしたところ、水害に会い易い場所であることから社殿も皆流された事があったとお聴きしました。

 その後再建されたそうで、「その際付近の神社をまとめて合祀したそうですが、あくまでも、ここは高良神社です…」と強調されていたのが印象的でした。

 祭神の並べ方ですが、系統が異なる神が順不同(例えば東から西へと)に並べられているように見えます。

始めは平等に並べたものの、あくまでもこの地は高良のものと文字を大きく彫り直したように見えるのが面白いですね。

確かに、この中では高良の神が筆頭格ではあるはずなのです。

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社殿には「丸に尻併せ三つ葵」が見えました。何らかの手掛かりになれば良いのですが無理でしょう。

 言うまでも無くこの神紋は徳川の本多、松平…が使っていたもので、徳川葵の原形とされているものです。徳川も物部の末裔で、葵をシンボルとする加茂神社の系統の一族なのです。

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5〜6月の間に行われる公開講座の予定のご案内をさせていただきます。
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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:14| Comment(0) | 日記